和田まさ子『わたしの好きな日』(2)(思潮社、2010年10月25日発行)
和田まさ子『わたしの好きな日』については、書かない、「金魚」については書かない--ときのう書いたのだけれど、やっぱり書かずにはいられない。
ことばにはいろいろなことばがある。ここでは、和田は、金魚と水の対話を引き出している。金魚と水なので、それはつた子さんの発するような「声」にはなっていないが、やはり対話に違いないと私は感じるのだ。
金魚は体をくねらす。それにあわせて水が体をくねらす。あるいは、そんなふうに思うのは金魚の勘違いで、ほんとうは水が体をくねらしていて、その動きに金魚が反応しているかもしれない。--そんなことは書いてないのだが、書いていないことを考えるのが私は好きなので、まあ、そんなことまで考えてしまった。
それにしても。
「水が薄い糊のようにねっとり/体にひっついてくる」。
まず、この「ひっついてくる」の「くる」がなんともいえずに、いい。「ひっつく」のを感じるよりも、もっと進んで(?)いる。水に粘着力がある--というよりも、つまり、「ひっつく」というのは水の属性であるというよりも、水の意思のように感じられる。ひっついて「くる」のである。向こうから、やってくる。そのやってくることのなかに「ことば」がある。「ひっつく」だけではなく、ひっついて「くる」ことによって、そのひっつくということが「ことば」なのだとわかる。
そして、それを金魚であるわたしは皮膚感覚として感じているだけではなく「見ている」。「くる」のだからその「くる」距離が見えるのである。
そして、それが「くる」ものだから、いま、ここにこうして金魚であることを、その「くる」もののせいにすることもできる。いいわけである。水がひっついて「くる」から金魚になって生きるしかない。人間なのに金魚のふりをするなんて自堕落(?)、怠け者(?)かなあ。でも、それは水がひっついて「くる」から。水の中では人間はおぼれてしまう。だから金魚になって生きるしかないのだ。
そんな「いいわけ」がことばにならないまま、そこに存在している。
そして、この「いいわけ」と、「くねくねっ」と「ねっとり」がよくなじんでいるなあ。
でも、なぜ、「ひっつく」という触覚(皮膚感覚)を書いているのに、視覚をそこに感じたのかなあ。
「薄い」ということばが視覚を刺激するのかな?
その前の「オレンジ色と白でバランスが/とってもよかった」の色の感じが視覚を刺激し、その印象が「肉体」のなかに残っているので、薄く溶かれた糊の濃密感が見える気がするのだろうか。それがうごめいて、ひっついて「くる」のが見えるのだろうか。
「ことば」のかわりに、ここでは感覚が互いに何かを語り合っている。「聴覚」だけが「ことば」を聞くのではない。ことばはあらゆる感覚のなかにある。
「もの」が語り合うとき、そのことばは「肉体」を刺激し、「肉体」のなかに不思議なものを残す。そこでは感覚が分化していない。未分化のまま動くのである。その動きがことばなのだ。
そして、こういう未分化な状態を生きることを、和田は「遊ぶ」と定義している。
あ、いいなあ。
遊びなんだ。未分化の矛盾、混沌にどっぷりつかり、何にでもなる。「わたし」は「金魚」になった、と書いているけれど、先に書いたように「水」になっているのかもしれない。和田は金魚でありながら、水でもある。というのは、もちろん「間違い」なのだけれど、「誤読」なのだけれど、私は、そう読みたいのだ。
この金魚と水の一体感と同じように、「わたし」と「つた子」さんの関係もとてもおもしろい。つた子さんは、金魚が人間であることを知っている。金魚である「わたし」はつた子さんがかつて「金魚」だったことを知っている。だから、ことばが通じるのかもしれない。というか……。ことばを発すること、ことばを聞くことで、そこに「一体感」があらためて浮かび上がってくる。ことばは「糊」のように、人と人をつないでしまう。そして、そのことばはきっと「糊」のように二人の「間」をねっとりとひっつかせる。人間にもどってしまったつた子さんに、金魚であることをあれこれいわれなくないなあ。でも、金魚を卒業してしまうと、金魚に対してなにかいいたくなるというのもわからないでもないなあ。ことばにならないことばが動きはじめるなあ。
あ、ほんとうは、こんなことを書きたくなかったなあ。もっと違うことを書きたかったんだけれどなあ。きっと和田のとんでもない才能、その天才を私もどこかに隠しておきたい、自分だけで夜中にこっそり覗き見する状態にしておきたいという気持ちがあるのかもしれない。
みんなに教えたい。でもみんなに知られたくない。矛盾しているけれど、これがほんとうのことろなんだろうなあ。だから、できるだけあいまいに書いてしまうのだ。

和田まさ子『わたしの好きな日』については、書かない、「金魚」については書かない--ときのう書いたのだけれど、やっぱり書かずにはいられない。
昨日から
藻の夢を見ると思っていたら
今日
わたしは金魚になっていた
同居のつた子さんも
一緒に金魚になったのだが
つた子さんは
「わたしはもうこのへんであがるよ」
といって
にんげんに戻った
そのあとも
わたしは金魚のままだった
金魚のわたしの体は
オレンジ色と白とでバランスが
とってもよかったし
尾ひれが大きくて
ひらりひらりと水中を泳ぐと
水の中で揺れるのが楽しい
ときときくねくねっと体を動かすと
それにつれて尾びれもくねっと揺れる
そのとき水が薄い糊のようにねっとりと
体にひっついてくる
そうやって遊んでいると
「そこの金魚 もうあがったら」
と、つた子さん
わたしはもっと泳いでいたいのだ
ことばにはいろいろなことばがある。ここでは、和田は、金魚と水の対話を引き出している。金魚と水なので、それはつた子さんの発するような「声」にはなっていないが、やはり対話に違いないと私は感じるのだ。
金魚は体をくねらす。それにあわせて水が体をくねらす。あるいは、そんなふうに思うのは金魚の勘違いで、ほんとうは水が体をくねらしていて、その動きに金魚が反応しているかもしれない。--そんなことは書いてないのだが、書いていないことを考えるのが私は好きなので、まあ、そんなことまで考えてしまった。
それにしても。
「水が薄い糊のようにねっとり/体にひっついてくる」。
まず、この「ひっついてくる」の「くる」がなんともいえずに、いい。「ひっつく」のを感じるよりも、もっと進んで(?)いる。水に粘着力がある--というよりも、つまり、「ひっつく」というのは水の属性であるというよりも、水の意思のように感じられる。ひっついて「くる」のである。向こうから、やってくる。そのやってくることのなかに「ことば」がある。「ひっつく」だけではなく、ひっついて「くる」ことによって、そのひっつくということが「ことば」なのだとわかる。
そして、それを金魚であるわたしは皮膚感覚として感じているだけではなく「見ている」。「くる」のだからその「くる」距離が見えるのである。
そして、それが「くる」ものだから、いま、ここにこうして金魚であることを、その「くる」もののせいにすることもできる。いいわけである。水がひっついて「くる」から金魚になって生きるしかない。人間なのに金魚のふりをするなんて自堕落(?)、怠け者(?)かなあ。でも、それは水がひっついて「くる」から。水の中では人間はおぼれてしまう。だから金魚になって生きるしかないのだ。
そんな「いいわけ」がことばにならないまま、そこに存在している。
そして、この「いいわけ」と、「くねくねっ」と「ねっとり」がよくなじんでいるなあ。
でも、なぜ、「ひっつく」という触覚(皮膚感覚)を書いているのに、視覚をそこに感じたのかなあ。
「薄い」ということばが視覚を刺激するのかな?
その前の「オレンジ色と白でバランスが/とってもよかった」の色の感じが視覚を刺激し、その印象が「肉体」のなかに残っているので、薄く溶かれた糊の濃密感が見える気がするのだろうか。それがうごめいて、ひっついて「くる」のが見えるのだろうか。
「ことば」のかわりに、ここでは感覚が互いに何かを語り合っている。「聴覚」だけが「ことば」を聞くのではない。ことばはあらゆる感覚のなかにある。
「もの」が語り合うとき、そのことばは「肉体」を刺激し、「肉体」のなかに不思議なものを残す。そこでは感覚が分化していない。未分化のまま動くのである。その動きがことばなのだ。
そして、こういう未分化な状態を生きることを、和田は「遊ぶ」と定義している。
あ、いいなあ。
遊びなんだ。未分化の矛盾、混沌にどっぷりつかり、何にでもなる。「わたし」は「金魚」になった、と書いているけれど、先に書いたように「水」になっているのかもしれない。和田は金魚でありながら、水でもある。というのは、もちろん「間違い」なのだけれど、「誤読」なのだけれど、私は、そう読みたいのだ。
この金魚と水の一体感と同じように、「わたし」と「つた子」さんの関係もとてもおもしろい。つた子さんは、金魚が人間であることを知っている。金魚である「わたし」はつた子さんがかつて「金魚」だったことを知っている。だから、ことばが通じるのかもしれない。というか……。ことばを発すること、ことばを聞くことで、そこに「一体感」があらためて浮かび上がってくる。ことばは「糊」のように、人と人をつないでしまう。そして、そのことばはきっと「糊」のように二人の「間」をねっとりとひっつかせる。人間にもどってしまったつた子さんに、金魚であることをあれこれいわれなくないなあ。でも、金魚を卒業してしまうと、金魚に対してなにかいいたくなるというのもわからないでもないなあ。ことばにならないことばが動きはじめるなあ。
あ、ほんとうは、こんなことを書きたくなかったなあ。もっと違うことを書きたかったんだけれどなあ。きっと和田のとんでもない才能、その天才を私もどこかに隠しておきたい、自分だけで夜中にこっそり覗き見する状態にしておきたいという気持ちがあるのかもしれない。
みんなに教えたい。でもみんなに知られたくない。矛盾しているけれど、これがほんとうのことろなんだろうなあ。だから、できるだけあいまいに書いてしまうのだ。
