詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高貝弘也『露地の花』(3)

2010-11-30 23:59:59 | 詩集
高貝弘也『露地の花』(3)(思潮社、2010年10月31日発行)

 高貝の詩の音楽について考えるとき、私はときどき眩暈のようなものを感じる。音楽とは耳(聴覚)の世界だと思うけれど、高貝の音楽には聴覚のほかに視覚の音楽があると思うのだ。
 「露地の花」の最後の部分。

寥(さみ)しくて、まなうらが滲(にじ)みでている
--裸の幼女が走るよ!

それはとても露骨な露地裏で

 さ「み」しくて、にじ「み」でて、さみ「し」くて、に「じ」みでて、は「し」る、「は」だかの、「は」しる、「ろ」こつな、「ろ」じうらで、というのは音そのものの交錯する音楽だが、

「寥」しくて、まなうらが「滲」みでている

 この2文字の漢字の「形」(特に最後の5画の部分)、それから私の引用ではわかりづらいのだが、2文字の漢字にふられた「ルビ」のバランス--それが網膜の奥で不思議に重なる。
 「露」骨な、「露」地裏になると、かさなり過ぎてうるさい感じがするが、「寥」「滲」はほんとうに微妙だ。あ、どこかで見た感じがある--と記憶がくすぐられる。
 それは「和音」ではなく「和形」とでもいうべき音楽である。形のハーモニーである。
 高貝の詩には、どうしてこんなに古くさい漢字(失礼!)ばかり出てくるのだろう、どうしてルビをふらないと読めないような漢字ばかり出てくるのだろうと思うときもあるが、それはみな「視覚」の音楽のために選ばれているのである。
 複雑な画数の漢字と小さなルビが奏でる視覚のいらだつような音楽--私は昨年眼の手術をした関係もあって、それをいらいらと感じる。つまり、明確には識別できないために神経がいらだつのだが、それが単にいらだつのではなく、詩全体のなかで不思議な間隔(リズム)であらわれては消えていくので、特に音楽を感じるのだ。単に形が重なるだけではなく、不思議なリズムをともなっているからである。
 この視覚のリズムは、漢字、ルビというよりも、詩全体のテーマかもしれない。
 高貝の詩は多くの場合、短い行数の「連」で構成される。その「連」、そして1行1行は、それぞれに「意味」を持っているかもしれないが、意味以上に視覚のバランスによって動かされているとしか思えない。
 簡単に言ってしまうと、「見た目」である。「見た目」で1行が構成され、1連が形作られる。ふいにあらわれる句読点も、感嘆符やダッシュ(長い棒)、かっこなどの記号も意味ではなく視覚のリズム、視覚の呼吸に働きによるものだ。句読点にも記号にも「音」などない。「耳」を刺激はしない。それは「眼」を刺激するだけである。

 高貝は「耳」をつかってことばを動かすだけではない。「眼」もつかってことばを動かす。いや、もっと積極的に、高貝は「視覚」でことばを動かす。高貝の音楽は「視覚の音楽」である、と言った方がいいかもしれない。
 
 「視覚の音楽」という点から見ていくと、「境川」の次の部分は非常におもしろい。

生まれたての、光  橋の上(うえ)
花 開き。たがいに、耳寄せ(よせ)

 この2行のそれぞれの末尾。(うえ)(よせ)。これは何だろう。「上」を(うえ)と、「寄せ」を(よせ)と読めないひとは高貝の詩の読者にはいないだろう。(この詩には、「指切りの後で(あとで)」ということばもある。)
 これは「意味」などない。
 ここではひらがなの形、それが並ぶのを見るときの「視覚」を刺激するためのものなのだ。この行を読む時(黙読する時、のことだが)、視覚が(うえ)(よせ)に触れる時、一瞬、聴覚が遠ざかる。それは視覚が前面に出てくることによる錯覚かもしれないけれど--何か肉体のなかで聴覚と視覚がすれ違い、いままで存在しなかった感覚が呼び覚まされる。
 そういう存在しなかった感覚を揺り動かすために、視覚を積極的につかうのが高貝の詩なのである。
 そして詩は、そういういままで動いていなかった感覚のなかにあるのだ。



 今月のベスト3。
1 粕谷栄市『遠い 川』(思潮社)
2 高貝弘也『露地の花』(思潮社)
3 和田まさ子『わたしの好きな日』(思潮社)

縁の実の歌
高貝 弘也
思潮社


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ナボコフ『賜物』(25)

2010-11-30 11:16:47 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(25)

果たして書評家は実際に詩のすべてを理解し、そこには悪名高い「絵画性」の他にもなお特別な意味というものがあって(理性の彼方に隠れた心が新たに発展した音楽とともに帰ってくるということだ)、それだけが詩を人の世に出すことになる、ということを理解したのだろうか。
                                 (47ページ)

 このことばはナボコフの「音楽」に対する意識を明確に語っている。この作品の詩の部分は、たとえば直前に書かれている詩をみると、

磁器の蜂の巣が青、緑、
赤の蜜を蓄えている。
最初はまず鉛筆の線から
ざらざらと庭が形づくられる。
白樺の木、離れのバルコニー--
すべては陽光の斑点の中。ぼくは筆先を
絵の具に浸し、ぐるっと回して
オレンジがかった黄色でたっぷりくるもう。
                              (46-47ページ)

 色が次々に出てくる。はっきりした名詞で存在が書かれ、いかにも絵画的な詩である。そうであることを認めて、ナボコフはなおここで「音楽」について語っている。そのことばの音楽そのものについては、訳文を読むのとロシア語の原文を読むのでは違うだろうが、「ざらざらと庭が形づくられる。」や「ぐるっと回して」「たっぷりくるもう。」ということばのなかに何か刺激的な音楽が隠れているのかもしれない。「ざらざら」は視覚でも(絵画でも)伝えられるが、日本語の場合、触覚に属する。視覚から触覚への移行があり、その移行を聴覚がとらえる「ざらざら」という音が後押しする。そういうことがロシア語でもおこなわれているのかもしれない。 
 私は詩も小説も音読はしないが、音読はしなくても、発声器官や聴覚は無意識的に動く。そのときたしかに音楽というもの(音というもの)の効果は大きい。音楽的ではないことばを読むのは、とてもつらい。
 音の中に「隠れた心」があるというナボコフの指摘は、とてもうれしい。


ロリータ
ウラジーミル ナボコフ
新潮社

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