「失われたとき」のつづき。
西脇の詩には、割り算のようなところもある。割り算という比喩が適当かどうかわからないが、えっ、そういうことばの動きがあったのか、とびっくりしてしまう。
詩は「意味」ではない。「意味」ではないが、そのことばのなかで何が語られているかが気になるときがある。
ふつう、季節は春→夏→秋→冬と動いていく。そして、「現在」を「秋」と仮定すれば、「秋」は「夏」が終わり、「冬」が始まるまでのあいだということになる。「秋」は「夏」のおわりから「冬」のはじめに向かって動いていく。
ところが、西脇はその「現在」という時間は動かない、という。そして、「秋が終わるところも始まるところも/夏だ」という。
なぜ?
時間を春→夏→秋→冬と動いていくと仮定すると西脇の書いていることは奇妙なことがらになるが、時間の動きがもしそうではないと仮定したら? 「現在」は過去から未来へ向かって動いていく一直線の流れのなかにあって、その流れに沿って動いているのではないと仮定したら?
でも、どんなふうに仮定したら?
時間は、過去へも未来へも自在に動いていく。「現在」自体は動かない。「意識」が「過去」の方へ、あるいは「未来」の方へ動いていく、「過去」や「未来」を「現在」と結びつけてそこに「時間」というもの(錯覚?)を描き出すのだとしたら?
「未来」へ向かう時間のなかでは夏の終わり→秋はじまりになり、「過去」へ向かう時間のなかでは、秋の終わり→夏のはじまりになる。
このことを西脇は「秋から夏へ逆にまわしてみる」と書いている。
とても論理的である。どこにも「間違い」はない。そして、そこに「間違い」がないということに、私はびっくりする。「永遠の絶対の廻転」と西脇は定義しているが、その論理は「間違いがない=絶対」であり、またそうあることで「永遠」でもある。
あ。
としか、いいようがないのだが。
と書きながらも、「あ」以上のことを書きたいと私は思っているのだが……。
私は、あらゆる「詩」は「間違い」にある、と感じている。詩にかぎらず、芸術のすべては間違いである。そして、その間違えることにこそ、真実があると思っている。ある「現実」がある。誰にでも「現実」がある。それをそのままでは納得できない。納得するために、人間は「現実」を加工してしまう。「間違い」をくわえることで、自分が納得できるものにする。その加工の仕方(わざとする何か)、そこに詩があると考えている。
でも、西脇の論理には「間違い」がない。あまりにも正確で、絶対的である。
これはなぜ? どうして?
「間違い」がないのは「頭」の世界だからである。「頭」のなかで論理が完結するからである。
あ。
西脇は「頭」で「現実」を叩き割って、そこに「絶対的に間違っていない論理=永遠の絶対」を流し込む。そのとき、「現実」は解体し、孤立してしまう。
その瞬間に、詩が輝く。
そういう運動が西脇のことばにある。
これを私は「割り算」と呼ぶ。これは「現実を叩き割る」の「割る」にひっかけただじゃれのようなものであるけれど……。
困ったことに--といっても、私だけにとっての困ったことなのだが、私は「頭」で書かれたことばのなかには「思想」はない、「思想」は「肉体」にしかない、と考えている。
もし私の考えをそのままあてはめると、西脇の「永遠の絶対」を考える「頭」によって、現実を叩き割ることで生まれてくる作品は、詩ではない、ということになる。
そういう詩ではない作品を、私が、詩ではないと書きながら、それでも大好き、というのは矛盾になる。
なにが、どこで間違っている? どこを、どう踏み外している? そういう疑問が私を困らせることになる。私は困ってしまう。
と、書きながら、実は、困ってはいない。
これは、西脇の「論理」の「絶対性」の基本になる運動だが、この「逆にまわしてみる」が間違いである。西脇がこの詩で犯している「間違い」である。
時間を秋から夏へ逆にまわしてみる--というようなことを人間はしなくていい。そんなことをしなくても「自然」(宇宙)はかってに動いて行って、季節をつくっている。逆にまわしてみる必要性は、宇宙には、ない。
それを必要としたのは西脇だけである。宇宙をねじ曲げてみる、逆廻転させてみる、というのは西脇の「欲望」のしわざである。この「欲望」はどこからきているか。それは何でも考えてしまう「頭」から生まれているのだが、こんなでたらめ(?)をやってしまうのは、その「頭」がすでに「頭」ではなくなっているからだ。
余分なことをしてしまう。つまり「間違い」の方向へはみ出す、逸脱する。そういうことをしてしまうとき、「頭」はすでに「頭」ではなく、「肉体」になっている。「肉体」のたとえば視覚と嗅覚がとけあったり、視覚と触覚がとけあうように、「頭」が「肉体」の何か(その何かを私は特定できないけれど)と溶け合って、不思議な具合にずれていくのだ。
こういう「頭」を私は「肉体化した頭(肉・頭)」と呼ぶ。
西脇は「頭」でことばを動かしているのではない。「肉・頭」でことばを動かしている。だから、そこから始まることばは、一見「間違いがない」ようにみえて、「大間違い」。そして「大間違い」であるがゆえに、「間違える」という真実に触れる。つまり、詩とぶつかりあうのだ。
西脇のことばが「頭」ではなく「肉・頭」のことばであるということは、引用した先の2行、
に具体的に書かれている。「秋が終わるところも始まるところも」は算数で言えば問題の部分「1+1=」まで。そして次の「夏だ」は答え。ところが、その答えは「2」ではなく、たとえば「0」なのだ。もちろん「1+1=1」ではない。だから、その「答え」を西脇は強引に言いなおす。「問題が間違っている。正しい問題は1-1なのだ」と。--これは、「逆にまわしてみる」ということから、私がかってに考えた「算数」だが、……。
この「算数」は便宜上のもの。私は、実はもっと違う感じの算数を「肌」で感じている。西脇の算数は「1+1=2」ではない、「1-1=0」でもない。「1×1=1、1×0=0、0÷1=0」の世界である。常に「0(ゼロ)」を含んでいる。
これは、まあ、私の直感のようなものが、そう言っているだけで、ほんとうにそうなのかどうか、説明のしようがないことなのだけれど。
そして、このゼロの存在が、ゼロという存在を「頭」ではなく「肉体」として動かすことができる西脇の「肉・頭」が、あらゆることばを詩にしてしまう。
西脇は、ことばを動かしてきて、ことばが煮詰まると、一気にゼロをぶつけてしまう。「旅人かへらず」の「ああかけすが鳴いてやかましい」のように、突然、それまでの行から飛躍する。

西脇の詩には、割り算のようなところもある。割り算という比喩が適当かどうかわからないが、えっ、そういうことばの動きがあったのか、とびっくりしてしまう。
動かないものは現在だけだ
現在がなければ過去も未来もない
過去と未来は方向の差だ
秋が終わるところも始まるところも
夏だ秋から夏に逆にまわしてみる
それは永遠の絶対の廻転だ
詩は「意味」ではない。「意味」ではないが、そのことばのなかで何が語られているかが気になるときがある。
ふつう、季節は春→夏→秋→冬と動いていく。そして、「現在」を「秋」と仮定すれば、「秋」は「夏」が終わり、「冬」が始まるまでのあいだということになる。「秋」は「夏」のおわりから「冬」のはじめに向かって動いていく。
ところが、西脇はその「現在」という時間は動かない、という。そして、「秋が終わるところも始まるところも/夏だ」という。
なぜ?
時間を春→夏→秋→冬と動いていくと仮定すると西脇の書いていることは奇妙なことがらになるが、時間の動きがもしそうではないと仮定したら? 「現在」は過去から未来へ向かって動いていく一直線の流れのなかにあって、その流れに沿って動いているのではないと仮定したら?
でも、どんなふうに仮定したら?
時間は、過去へも未来へも自在に動いていく。「現在」自体は動かない。「意識」が「過去」の方へ、あるいは「未来」の方へ動いていく、「過去」や「未来」を「現在」と結びつけてそこに「時間」というもの(錯覚?)を描き出すのだとしたら?
「未来」へ向かう時間のなかでは夏の終わり→秋はじまりになり、「過去」へ向かう時間のなかでは、秋の終わり→夏のはじまりになる。
このことを西脇は「秋から夏へ逆にまわしてみる」と書いている。
とても論理的である。どこにも「間違い」はない。そして、そこに「間違い」がないということに、私はびっくりする。「永遠の絶対の廻転」と西脇は定義しているが、その論理は「間違いがない=絶対」であり、またそうあることで「永遠」でもある。
あ。
としか、いいようがないのだが。
と書きながらも、「あ」以上のことを書きたいと私は思っているのだが……。
私は、あらゆる「詩」は「間違い」にある、と感じている。詩にかぎらず、芸術のすべては間違いである。そして、その間違えることにこそ、真実があると思っている。ある「現実」がある。誰にでも「現実」がある。それをそのままでは納得できない。納得するために、人間は「現実」を加工してしまう。「間違い」をくわえることで、自分が納得できるものにする。その加工の仕方(わざとする何か)、そこに詩があると考えている。
でも、西脇の論理には「間違い」がない。あまりにも正確で、絶対的である。
これはなぜ? どうして?
「間違い」がないのは「頭」の世界だからである。「頭」のなかで論理が完結するからである。
あ。
西脇は「頭」で「現実」を叩き割って、そこに「絶対的に間違っていない論理=永遠の絶対」を流し込む。そのとき、「現実」は解体し、孤立してしまう。
その瞬間に、詩が輝く。
そういう運動が西脇のことばにある。
これを私は「割り算」と呼ぶ。これは「現実を叩き割る」の「割る」にひっかけただじゃれのようなものであるけれど……。
困ったことに--といっても、私だけにとっての困ったことなのだが、私は「頭」で書かれたことばのなかには「思想」はない、「思想」は「肉体」にしかない、と考えている。
もし私の考えをそのままあてはめると、西脇の「永遠の絶対」を考える「頭」によって、現実を叩き割ることで生まれてくる作品は、詩ではない、ということになる。
そういう詩ではない作品を、私が、詩ではないと書きながら、それでも大好き、というのは矛盾になる。
なにが、どこで間違っている? どこを、どう踏み外している? そういう疑問が私を困らせることになる。私は困ってしまう。
と、書きながら、実は、困ってはいない。
秋から夏に逆にまわしてみる
これは、西脇の「論理」の「絶対性」の基本になる運動だが、この「逆にまわしてみる」が間違いである。西脇がこの詩で犯している「間違い」である。
時間を秋から夏へ逆にまわしてみる--というようなことを人間はしなくていい。そんなことをしなくても「自然」(宇宙)はかってに動いて行って、季節をつくっている。逆にまわしてみる必要性は、宇宙には、ない。
それを必要としたのは西脇だけである。宇宙をねじ曲げてみる、逆廻転させてみる、というのは西脇の「欲望」のしわざである。この「欲望」はどこからきているか。それは何でも考えてしまう「頭」から生まれているのだが、こんなでたらめ(?)をやってしまうのは、その「頭」がすでに「頭」ではなくなっているからだ。
余分なことをしてしまう。つまり「間違い」の方向へはみ出す、逸脱する。そういうことをしてしまうとき、「頭」はすでに「頭」ではなく、「肉体」になっている。「肉体」のたとえば視覚と嗅覚がとけあったり、視覚と触覚がとけあうように、「頭」が「肉体」の何か(その何かを私は特定できないけれど)と溶け合って、不思議な具合にずれていくのだ。
こういう「頭」を私は「肉体化した頭(肉・頭)」と呼ぶ。
西脇は「頭」でことばを動かしているのではない。「肉・頭」でことばを動かしている。だから、そこから始まることばは、一見「間違いがない」ようにみえて、「大間違い」。そして「大間違い」であるがゆえに、「間違える」という真実に触れる。つまり、詩とぶつかりあうのだ。
西脇のことばが「頭」ではなく「肉・頭」のことばであるということは、引用した先の2行、
秋が終わるところも始まるところも
夏だ秋から夏に逆にまわしてみる
に具体的に書かれている。「秋が終わるところも始まるところも」は算数で言えば問題の部分「1+1=」まで。そして次の「夏だ」は答え。ところが、その答えは「2」ではなく、たとえば「0」なのだ。もちろん「1+1=1」ではない。だから、その「答え」を西脇は強引に言いなおす。「問題が間違っている。正しい問題は1-1なのだ」と。--これは、「逆にまわしてみる」ということから、私がかってに考えた「算数」だが、……。
この「算数」は便宜上のもの。私は、実はもっと違う感じの算数を「肌」で感じている。西脇の算数は「1+1=2」ではない、「1-1=0」でもない。「1×1=1、1×0=0、0÷1=0」の世界である。常に「0(ゼロ)」を含んでいる。
これは、まあ、私の直感のようなものが、そう言っているだけで、ほんとうにそうなのかどうか、説明のしようがないことなのだけれど。
そして、このゼロの存在が、ゼロという存在を「頭」ではなく「肉体」として動かすことができる西脇の「肉・頭」が、あらゆることばを詩にしてしまう。
西脇は、ことばを動かしてきて、ことばが煮詰まると、一気にゼロをぶつけてしまう。「旅人かへらず」の「ああかけすが鳴いてやかましい」のように、突然、それまでの行から飛躍する。
あなたの手紙に長い間返事を
しなかつたことを恥しく思うしかも
このみすぼらしい手紙を書くことも
うちの庭でとれた薄荷を少し
この封筒の中へ入れておきます
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西脇 順三郎 | |
講談社 |
