詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(151 )

2010-11-02 11:41:11 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 「失われたとき」のつづき。

 西脇の詩には、割り算のようなところもある。割り算という比喩が適当かどうかわからないが、えっ、そういうことばの動きがあったのか、とびっくりしてしまう。

動かないものは現在だけだ
現在がなければ過去も未来もない
過去と未来は方向の差だ
秋が終わるところも始まるところも
夏だ秋から夏に逆にまわしてみる
それは永遠の絶対の廻転だ

 詩は「意味」ではない。「意味」ではないが、そのことばのなかで何が語られているかが気になるときがある。
 ふつう、季節は春→夏→秋→冬と動いていく。そして、「現在」を「秋」と仮定すれば、「秋」は「夏」が終わり、「冬」が始まるまでのあいだということになる。「秋」は「夏」のおわりから「冬」のはじめに向かって動いていく。
 ところが、西脇はその「現在」という時間は動かない、という。そして、「秋が終わるところも始まるところも/夏だ」という。
 なぜ?
 時間を春→夏→秋→冬と動いていくと仮定すると西脇の書いていることは奇妙なことがらになるが、時間の動きがもしそうではないと仮定したら? 「現在」は過去から未来へ向かって動いていく一直線の流れのなかにあって、その流れに沿って動いているのではないと仮定したら?
 でも、どんなふうに仮定したら?
 時間は、過去へも未来へも自在に動いていく。「現在」自体は動かない。「意識」が「過去」の方へ、あるいは「未来」の方へ動いていく、「過去」や「未来」を「現在」と結びつけてそこに「時間」というもの(錯覚?)を描き出すのだとしたら?
 「未来」へ向かう時間のなかでは夏の終わり→秋はじまりになり、「過去」へ向かう時間のなかでは、秋の終わり→夏のはじまりになる。
 このことを西脇は「秋から夏へ逆にまわしてみる」と書いている。
 とても論理的である。どこにも「間違い」はない。そして、そこに「間違い」がないということに、私はびっくりする。「永遠の絶対の廻転」と西脇は定義しているが、その論理は「間違いがない=絶対」であり、またそうあることで「永遠」でもある。

 あ。

 としか、いいようがないのだが。
 と書きながらも、「あ」以上のことを書きたいと私は思っているのだが……。

 私は、あらゆる「詩」は「間違い」にある、と感じている。詩にかぎらず、芸術のすべては間違いである。そして、その間違えることにこそ、真実があると思っている。ある「現実」がある。誰にでも「現実」がある。それをそのままでは納得できない。納得するために、人間は「現実」を加工してしまう。「間違い」をくわえることで、自分が納得できるものにする。その加工の仕方(わざとする何か)、そこに詩があると考えている。
 でも、西脇の論理には「間違い」がない。あまりにも正確で、絶対的である。
 これはなぜ? どうして?
 「間違い」がないのは「頭」の世界だからである。「頭」のなかで論理が完結するからである。

 あ。

 西脇は「頭」で「現実」を叩き割って、そこに「絶対的に間違っていない論理=永遠の絶対」を流し込む。そのとき、「現実」は解体し、孤立してしまう。
 その瞬間に、詩が輝く。
 そういう運動が西脇のことばにある。
 これを私は「割り算」と呼ぶ。これは「現実を叩き割る」の「割る」にひっかけただじゃれのようなものであるけれど……。

 困ったことに--といっても、私だけにとっての困ったことなのだが、私は「頭」で書かれたことばのなかには「思想」はない、「思想」は「肉体」にしかない、と考えている。
 もし私の考えをそのままあてはめると、西脇の「永遠の絶対」を考える「頭」によって、現実を叩き割ることで生まれてくる作品は、詩ではない、ということになる。
 そういう詩ではない作品を、私が、詩ではないと書きながら、それでも大好き、というのは矛盾になる。
 なにが、どこで間違っている? どこを、どう踏み外している? そういう疑問が私を困らせることになる。私は困ってしまう。

 と、書きながら、実は、困ってはいない。

秋から夏に逆にまわしてみる

 これは、西脇の「論理」の「絶対性」の基本になる運動だが、この「逆にまわしてみる」が間違いである。西脇がこの詩で犯している「間違い」である。
 時間を秋から夏へ逆にまわしてみる--というようなことを人間はしなくていい。そんなことをしなくても「自然」(宇宙)はかってに動いて行って、季節をつくっている。逆にまわしてみる必要性は、宇宙には、ない。
 それを必要としたのは西脇だけである。宇宙をねじ曲げてみる、逆廻転させてみる、というのは西脇の「欲望」のしわざである。この「欲望」はどこからきているか。それは何でも考えてしまう「頭」から生まれているのだが、こんなでたらめ(?)をやってしまうのは、その「頭」がすでに「頭」ではなくなっているからだ。
 余分なことをしてしまう。つまり「間違い」の方向へはみ出す、逸脱する。そういうことをしてしまうとき、「頭」はすでに「頭」ではなく、「肉体」になっている。「肉体」のたとえば視覚と嗅覚がとけあったり、視覚と触覚がとけあうように、「頭」が「肉体」の何か(その何かを私は特定できないけれど)と溶け合って、不思議な具合にずれていくのだ。
 こういう「頭」を私は「肉体化した頭(肉・頭)」と呼ぶ。
 西脇は「頭」でことばを動かしているのではない。「肉・頭」でことばを動かしている。だから、そこから始まることばは、一見「間違いがない」ようにみえて、「大間違い」。そして「大間違い」であるがゆえに、「間違える」という真実に触れる。つまり、詩とぶつかりあうのだ。

 西脇のことばが「頭」ではなく「肉・頭」のことばであるということは、引用した先の2行、

秋が終わるところも始まるところも
夏だ秋から夏に逆にまわしてみる

 に具体的に書かれている。「秋が終わるところも始まるところも」は算数で言えば問題の部分「1+1=」まで。そして次の「夏だ」は答え。ところが、その答えは「2」ではなく、たとえば「0」なのだ。もちろん「1+1=1」ではない。だから、その「答え」を西脇は強引に言いなおす。「問題が間違っている。正しい問題は1-1なのだ」と。--これは、「逆にまわしてみる」ということから、私がかってに考えた「算数」だが、……。
 この「算数」は便宜上のもの。私は、実はもっと違う感じの算数を「肌」で感じている。西脇の算数は「1+1=2」ではない、「1-1=0」でもない。「1×1=1、1×0=0、0÷1=0」の世界である。常に「0(ゼロ)」を含んでいる。
 これは、まあ、私の直感のようなものが、そう言っているだけで、ほんとうにそうなのかどうか、説明のしようがないことなのだけれど。
 そして、このゼロの存在が、ゼロという存在を「頭」ではなく「肉体」として動かすことができる西脇の「肉・頭」が、あらゆることばを詩にしてしまう。
 西脇は、ことばを動かしてきて、ことばが煮詰まると、一気にゼロをぶつけてしまう。「旅人かへらず」の「ああかけすが鳴いてやかましい」のように、突然、それまでの行から飛躍する。

あなたの手紙に長い間返事を
しなかつたことを恥しく思うしかも
このみすぼらしい手紙を書くことも
うちの庭でとれた薄荷を少し
この封筒の中へ入れておきます





雑談の夜明け (講談社学術文庫)
西脇 順三郎
講談社

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青木はるみ「秋の話法」ほか

2010-11-02 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
青木はるみ「秋の話法」ほか(「13Fから」10、2010年10月28日発行)

 青木はるみは、かなり不思議な「気持ち悪さ」を持った詩人である。「肉体」と「頭」の関係が、私には気持ち悪いのである。
 「秋の話法」という詩。

膝に来る猫は内臓の手ざわりがする
と 女がいった
(ぐにゃり)
鋭い瞳をごらんなさいよ もっと
精神性の高いものなの猫は
と 別の女がいった

物質系のエネルギーのうち
系全体としての位置エネルギー および
運動エネルギーを除いた残余
辞書の 内部エネルギーの項を読んで私は
(ぐにゃり)

ついでに思い出したが
内部環境とは体液のことを指すらしい
きょう私は左手を包帯で巻いている
うつくしい生徒のF君は
はるみさんは痛いのかな と つぶやいた
すると
ススキの穂のように形骸(けいがい)化したはずの 私の
消化呼吸系 泌尿生殖系 内分泌系を
いちどきに秋雨前線が通過したのだ

 「猫は内臓の手ざわりがする」「ぐにゃり」は、実際に肉体が世界と接触したときに、肉体の内部(これを私は「肉体」と呼んでいる)で動くことばである。そこではいつでも「間違い」がまじりこむ。「歪み」がまじりこむ。「ぐにゃり」と書かれていることばは、あるひとにとっては「くにゃり」かもしれない。別のひとには「へにゃり」かもしれない。そういう差異は小さいとも言えるし、大きいとも言える。ようするに「基準」がない。それしかない。
 他方、「物質系エネルギー」「位置エネルギー」は、肉体が接触することのできない世界であり、「頭」が世界を理解するためにつくりだした仮説である。そういう仮説は人間の肉体とは離れた場で、人間の肉体とは離れた「もの」の運動のなかで実証される。物理である。物理というときの「理」は「頭」と同じことである。
 「精神」というのは、いくらか、この物理に似ている。「頭」の「仮説」である。「精神」は「人間」に属するものだろうけれど、人間から離れることもできる。「神」を考えるといちばんわかりやすいだろう。そして、この「精神」には妙なことに「基準」がある。「精神性の高いものなの」ということばが出てくるが、そこには「高い」「低い」というよな判断が働く。つまり「基準」がある。この「基準」に異論があるのは、物理の世界でさまざまな「単位」があるのと同じである。
 青木は、この三つを、ごっちゃにして受け入れる。「考える」というよりも、私には、どうも、「受け入れる」という感じがする。つまり、全部を「肉体」のしてしまおうとする強引さがある。
 その結果として、2連目の

(ぐにゃり)

 ということが起きる。(ぐにゃり)そのものになる。
 そのとき、「頭」とか「精神」はどうなっているかというと、どうにもならない。そのまま、併存している。変化(変形)せずに、そのまま、青木の「肉体」とともにある。
 青木のことばのなかから、この不思議な併存をあらわすことばを探し出すならば、それは、

ついでに思い出したのだが

の、「ついでに」である。「頭」と「精神」は「肉体」の「ついでに」そこに存在するのである。特別の理由があってそこに存在するのではなく、「肉体」があるから「ついでに」そこにあり、そういう状態を青木は当然と思っている。
 おばさんが(青木の詩を読むと、私は、どうしても「おばさん」を思い出すのだ。それは、一種差別的な意味での「おばさん」なのだが……)、ケーキを食べながら、「ついでに」まんじゅうも食べ、さらについでに酒だってのんでしまうという感じの「ついでに」に似ている。どうせ胃袋のなかでいっしょになるのだから「ついでに」食べて、のんで、何が悪い? いや、悪くはありませんけどねえ……。
 そして、この「ついでに」をまた別のことばで言えば、

いちどきに秋雨前線が通過したのだ

 の「いちどきに」なのである。
 そうなのだ。
 青木は、「おばさん」が「ついでに」と言ってしまうことを、即座に、彼女自身で「いちどきに」と言いなおすことで、青木の世界を正当化(?)してしまう。
 「肉体」が存在するとき、「ついでに」「頭」「精神」があるのではありません。「肉体」が存在するとき、その瞬間に「いちどきに」、「頭」と「精神」も存在する。それは「ばらばら」ではなく、それを「受けれ入れる」青木という存在によって、そこに集まっている。独立していても、青木によって、そこに集められているのである。
 ずーっと?
 いや、青木は、ずーっととは言わない。「いちどきに秋雨前線が通過したのだ」という行の「通過」がいちばん適切なことばだろう。
 「肉体」「頭」「精神」が、ある瞬間に、この世界を「通過」する。その瞬間を、青木はつかみとる。そしてそれをたとえば「秋雨前線」という「比喩」にしてしまう。
 この最後の比喩は気持ちがいいけれど、それまでの「ついでに」と「いちどきに」の関係が、私には「気持ち悪い」。手ごわい。あ、一度も会ったことがなくてよかった、と思ってしまうのだ。(失礼)



 猪谷美知子「もう戻る術はないのに」。活けいてた水仙が枯れたのでゴミ箱に捨てたときのことを書いている。

水仙はゴミ箱からはみ出しそうなくらいに
丈の長い花である
蓋を開けると
枯れた花と先が黄色くなった葉が
斜めになって散乱している

しかし
枯れたときの花びらは生ゴミの水分を吸ってか
先ほどよりも柔らかくなっていた

 あ、ここがおもしろいなあ。「枯れたときの花びらは生ゴミの水分を吸ってか」は「か」という疑問(仮定)が明らかにするように、猪谷が想像したことである。いわば、「頭」の世界である。次の「先ほどよりも柔らかくなっていた」も実際に手で触れて「柔らかさ」を確認したわけではないだろう。想像したこと、「頭」の世界のことだろう。
 ただし、この想像、「頭」の世界は、「頭」で完結する「頭」ではない。
 「柔らかくなったいた」を猪谷は、どうやって知ったのか。「眼」でみて、その様子から触覚の体験をさかのぼり、「柔らかさ」をつかみとっている。花が「水分を吸う」というのも「頭」の世界だけではなく、実際に花を活けて、水が減るのを見てきた経験をくぐりぬけている。そこには書かれていないが「眼」という「肉体」がしっかりと存在している。
 ここに書かれている「頭」(想像)は、私のことばで言えば「肉体となった頭」(肉頭、あるいは肉・頭)である。「肉体となった頭」の特徴は、その世界では感覚が融合することである。この詩では、肉眼(視覚)と手(触覚)が融合して「柔らかく」をつかみ取っている。
 こういうことば(こういう行)を、私は「思想」と呼んでいる。

 海北康「森の牝鹿」の書き出しもおもしろい。

お前は最初
その舌に
霧雨と濡れた森の
苔と大地の匂いを
私に与えてくれた

 海北は鹿の舌の匂いを直接嗅いで確かめたわけではないだろう。見て、その色や動きから、いま、そこには存在しない「におい」を感じたのである。視覚と嗅覚が融合している。こういうときの想像力は「頭」と違って、そこでは完結しない。どうしても、その先へ動いていくしかない。だから、詩は、そのあと、延々と動いていく。ことばがつづく。



青木はるみ詩集 (現代詩文庫)
青木 はるみ
思潮社


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