詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

エリア・カザン監督「エデンの東」(★★★★)

2010-11-08 12:59:41 | 午前十時の映画祭

監督 エリア・カザン 出演 ジェームズ・ディーン、ジュリー・ハリス、レイモンド・マッセイ

 この映画では役者だけではなくカメラも演技をする。ジェームズ・ディーンと双子の兄、父との夕食。テーブルをはさんで「聖書」を読む。そのときカメラは水平ではない。傾いている。これはジェームズ・ディーンと父との関係が不安定であることを象徴している。その象徴表現に「もの」、あるいは「音楽」をつかうのではなく、カメラが自ら不安定な位置をとる。カメラ自身の演技である。カメラが不安と不和を語る。ジェームズ・ディーンの姿勢、そして父の姿勢が不自然に傾いているが、それは彼ら自身の体の傾き以上にカメラが傾いているからである。この不自然さを伝えるために、カメラはテーブルの水平面を斜めに映し出す。広いスクリーンに傾いたテーブルが、落ち着かない父子のこころを語るように、ぐらぐら揺れる。
 ラストシーンでは、このカメラが安定する。卒中で倒れた父。そのそばで語りかけるジェームズ・ディーン。力を振り絞って父が何か語る。ジェームズ・ディーンは体を乗り出させ、耳を父の口元に近づける。そのときジェームズ・ディーンの体は傾いている。けれど、とても落ち着いている。安定感がある。彼自身のこころが決まっていて(安定していて)、それに合わせるようにカメラが水平にどっしり構えているからである。
 カメラ自身の演技が対照的な形でスクリーンに定着している。
 しかし、なぜ、こんな演技をカメラにさせたのだろうか。役者、ジェームズ・ディーンの演技に不安があったのだろうか。愛をもとめて揺れるこころ――ジェームズ・ディーンの陰りのある顔、その目は十分に不安を具体化しているように見えるが。もしかすると、美貌が不安を表現するには不似合いと、監督が判断したのかもしれない。そのままでは、観客はだれもストーリーや役者の演技を見ない。ただジェームズ・ディーンの顔を見るだけだと。
 けれど、カメラがどんなに演技をしようと、やはり観客はジェームズ・ディーンの顔しか見ないだろう。その、悲しみと喜びが一瞬のうちに入れ替わる顔の輝きしか見ないだろう。繊細な顔を流れる涙を見つめるだけだろう。
 他の役者達はそんな役どころである。しかし、ある時代、一瞬の生きたジェームズ・ディーンとともにスクリーンに存在したということは、他の役者にとって悪いことではないだろう。
 カメラの演技について書きすぎて書き忘れそうになったが、自然の描写がどっしりしていて、そのカメラの位置に感動した。(昔見た時は気がつかなかった。)ジェームズ・ディーンが氷を落とすシーンや、列車から溶けた氷の水がなだれ落ちるシーンなど、あ、いいなあと思った。

 


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ナボコフ『賜物』(6)

2010-11-08 11:38:02 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(6)

 彼は店に向かってさらに歩きだしたが、たったいま目にしたものが--同じような性質の喜びをもたらしてくれたからなのか、それともだしぬけに彼を襲って(干草置き場で子供が梁からしなやかな闇に落ちるときのように)揺さぶったからなのか--もうこの数日間、何を考えてもその暗い底にひそんでいて、ほんのちょっとした刺激を受けただけで浮かび上がって彼を虜(とりこ)にしてしまう、あの愉快な何かを解き放ったのだ--ぼくの詩集が出たんだ。

 「それとも」。この短いことばの不思議さ。
 「それとも」によって、ナボコフの想像力は自由になる。いま書いたばかりのことと正反対のことを書くことができる。
 そして、この「正反対」が、ナボコフのこの小説の場合、地の文ではなく、かっこに入って書かれている。子供のときの思い出。それは、いまの、この現実の時間からもかけ離れている。
 本来、「それとも」は同じ次元での逆の立場(正反対)でなければ、文意をなさないはずである。たとえば、彼は喜んでいる。「それとも」悲しんでいる。(あるいは怒っている。)--というふうにつかうのが普通である。そういう「正反対」を併記するとき、「それとも」がくっきりと浮かび上がる。しかし、ナボコフはそういう「文法」にとらわれない。もっと自由に、なんとでも結びつける。
 しかし、「なんとでも」とは書いてみたが、それは「なんとでも」ではない。
 よくよく読むと、ナボコフがここで書いている「それとも」は正反対ではない。逆説ではない。むしろ、共通していることがらである。「それとも」には似つかわしくない不思議な状況である。「正反対」というよりも、いま書いたことをより深く掘り下げたことがらである。別の次元へまで掘り下げている。「同じ性質の喜び」を「もたらしてくれた」のか、それとも「同じ性質の喜び」が彼を「揺さぶった」からなのか。「もたらす」と「ゆさぶった」--それは、ほんとうに「それとも」で結びつけることばなのだろうか。
 「それとも」よりも「さらに」の方がふさわしいかもしれない。
 「同じ性質の喜び」をもたらし、さらに「同じ性質のよろこび」で彼を揺さぶる。この場合、「同じ性質」は実は「同じ」というより「より強い」「より根源的な」というべきだろう。ある性質の喜びをもたらし、「さらに」、その喜びよりも「より根源的な」喜びが彼を揺さぶった。
 そして、この「より根源的」はあまりにも個人的過ぎるので、「さらに」という連続性のあることばよりも、断絶(飛躍)が目立つ「それとも」が選ばれているという印象がある。
 それにしても、このかっこのなかの子供時代の「喜び」のなんとうい不思議な甘さ。苦しさ。墜落と、それを受け止める温かさ。「子供時代」特有の、人間の「根源」にふれるような喜び。闇に落ちていく、そしてその闇は温かい。--明るい天上にのぼるのではなく、暗い、温かい闇に落ちる。ああ、そのなんともいえない矛盾。
 どこかに、そういう無意識が照らしだす「矛盾」があって、それゆえに「それとも」が選ばれているともいえる。
 ナボコフの魔術は華麗なことばだけではなく、「それとも」というようなだれでもがつかうありふれたことばのなかにこそ、強烈に根を張っているのかもしれない。





青白い炎 (ちくま文庫)
ウラジーミル ナボコフ
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青木栄瞳『一千一夜物語』

2010-11-08 00:00:00 | 詩集
青木栄瞳『一千一夜物語』(思潮社、2010年09月30日発行)

 青木栄瞳はとても「頭」がいい人なのだろう。『一千一夜物語』の、「(大玉LL)ひらけ、春キャベツ!」には青木の特徴がとてもよくでている。(と、思う。--「頭」のいいひとの作品に対する感想書くときは、きっと、この「と、思う」ということばを書き足しておくことが重要になる、と思う。この「と、思う」は念押し。)
 というわけで、これから書くことは、あくまで私が「思った」こと。

【ひらけ、ごま】
--(大玉LL9)ひらけ、春キャベツ!
--あなたの“脳力”葉日本で何番目?
  (のべ四十万人が受験した脳検定が帰って来た!)
  (一位は何県? 都道府県別成績ランキング)WEBニュース

(HH)ひらけ、春キャベツ!
HH・HH・HH・HH・HH
HH・HH・HH・HH・HH
HH・HH・HH・HH・HH

 繰り返される「HH」は何だろう。最初の「H」は「ひらけ」の頭文字、次の「H」は「春キャベツ」の頭文字ということになるのか。
 「ひらけ、春キャベツ!」はアラビアンナイトの「ひらけ、ごま」から思いついたことばなのだろうが、その「ひらけ、春キャベツ!」を同じことばではなく「HH」と略語(?)にしてしまって繰り返すというのは、どういうことだろうか。「HH」と「ひらけ、春キャベツ!」は「意味」は同じだろうが、それを繰り返すときの「肉体」の反応は同じというわけにはいかない。実際に「声」に出せばその違いが明確だが、黙読の場合に「肉体」の反応がまったく違う。
 「ひらけ、春キャベツ!」のとき、私は黙読の場合でも「喉」が反応する。けれど「HH」の場合、「喉」は反応しないし、「耳」も反応しない。そのかわり、「目」が反応し、見たものがことばを通り越して「意味」として「頭」に入ってくる。
 「ひらけ、春キャベツ!」は呪文のことばだであり、そこには「意味」はない。しかし、何かに命じて、それを開けさせる、それを開けたいという「思い(祈り?)」がある。一方、「HH」はまず「意味」である。「意味」であり、「概念」である。「HH」は繰り返すとき、そこには「ことば」は存在しない。ただ「概念」だけが存在する。
 青木は、「HH」を繰り返すとき、「ことば」を動かしていない。肉体(喉や耳)を動かしていない。「概念」を動かしている。
 青木にとって、詩とは、「ことば」の運動ではなく、きっと「概念」の運動なのだ。「概念」を動かすこと、日常は動かない「概念」の運動を描くことが青木にとっての詩なのである。

 別な言い方で補足しよう。
 「HH」は「ことば」ではなく、「ことば」を「記号」としている。「記号」は「ことば」から余分なものを省いた「概念」である。「ひらけ、春キャベツ!」というとき、その「呪文」を口にするとき、「喉」が動く。そして、ある一定の「時間」がかかる。どんなに早口で言ってみても一秒はかかる。ところが「HH」の場合、まずそれを口にすることはない。口にしなくても「意味」がわかる。見ただけでわかる。一秒とかからない。そして、恐ろしいことに、「HH」そのものが一秒かからないだけではなく、それが何回繰り返されようと一秒かからない。「ひらけ、春キャベツ!」ということばがもし1ページに全部を埋めていたとしたら、それを読むのに(声にするのに)何秒(何分)かかるだろう。「HH」は声にしないから1ページだろうが、本1冊だろうが一秒とかからない。本一冊の場合、もし、そこに「HH」に「HK」が一個まぎれていたとしたら?というようなことは、いまの場合無意味な脱線である。だれも「HH」を一文字一文字追って読みはしないからである。「ひらけ、春キャベツ!」も声に出さず「目」だけで読めば何ページにわたっていても一秒で読めるではないか--そう考えることはできる。
 だが、それは「考え」であって、実際に「読む」ということは、それとは別問題である。
 読む。ことばを「声」に出して「肉体」をくぐらせるというのは「時間」をかけることなのだ。「時間」をかけると、人間には変なことが起きる。「ひらけ、春キャベツ!」には「意味」はないのだが、そこに「意味」を感じたりする。「意味」といっても「正しい意味」ではなく、声に出す人が勝手につくりあげた無意味なものだが。そして、それは多々繰り返すということだけのなかに生まれてくる何かである。どんなわからないことばでも繰り返しているとなんとなくわかったような気持ちになる。外国語を例にとればいいが、ああ、こういうとき、こういってしまうのだな、ということがわかる。「See you again!」と友達に言われて、「いつ? どこで?」と問い返すようなひとはいない。「肉体」が繰り返し聞き、また言うことで生まれてくる何かがある。
 記号、略語の場合、こういう繰り返しが生み出す「意味」というものはない。あくまでも最初に「意味」がある。そして、その「意味」は変わることがない。「意味」がかわらないのが、記号、略語の運動である。
 ことばは違うのだ。ことばは繰り返している内に「意味」が違ってしまう。ことばは状況によっても「意味」を変えてしまう。
 そして、変わってくことが、ことばが抱え込んでいるものが変わっていくことが、実は詩である。ことばの「意味」が変わるというのは、別なことばで言えば、その「ことば」を発した人が、ことばを言うことで別人になる、生まれ変わるということでもある。
 ところが、記号、略語は「意味」を変えない。したがって、そのことばは何度繰り返されても、それを書いたひとそのものに働きかけ、ひとそのものを変えてしまうということはない。
 「概念」の運動は、ある意味で「人間」の運動ではないのだ。「頭」のなかだけでおきる、瞬間的な運動なのだ。「頭」だってかわっていく、というかもしれない。たしかに変わるだろう。しかし、その「変わる」は運動の領域であって、「概念」の質ではない。「意味」ではない。もし「概念」の「意味」そのものが変わるのだとしたら、繰り返される「HH」の場合、それは、どの瞬間? 「HH」だけを見ているとき、それはわからない。けっしてわからない。

 慣れないことを書いていると、だんだん何を書いているのかわからなくなる。

 青木は「ことば」を書いているが、書くことで「意味」がかわっていく、つまり青木自身が生まれ変わるということはない。「ひらけ、春キャベツ!」を「HH」と書く瞬間、そこにこそ青木の変化、生まれ変わりがある。
 「ひらけ、春キャベツ!」を絶対に他の意味にはしない、という「決意」のようなもの、「頭」が下した断定が「HH」なのである。変わらない決意、変えない決意が青木なのだ。
 「意味」を変えず、ただ「意味」を加速させる。「概念」の加速が青木にとっての詩なのである。

 「意味」の抽出、「概念」の抽出--青木は、詩を、そんなふうに考えているのかもしれない。「意味」の固定、「概念」の固定、というふうに言うこともできるかもしれない。

 私は、こういう運動に対して「違う」と言いたい。私の欲望は、それは詩ではない、と言いたがっている。
 ことばを破壊すること、ことばの「意味」が成り立たない一瞬をつくりだすこと。そこにこそ、詩があると感じている。
 「ひらけ、春キャベツ!」ということばは「ひらけ、ごま」よりも私には楽しい音に聞こえる。「ひらけ、キャベツ」よりも「ひらけ、春キャベツ」の方がいま風(?)で音が楽しいとも感じる。けれど、それが「HH」という記号にとじこめられ、「概念」になってしまうと、私は楽しいとは感じない。「HH」がどれだけ繰り返されても、何も変わらない活字がそこにあるだけだ。
 「ひらけ、春キャベツ!」を「HH」に転換する瞬間こそ詩である、と青木は言うかもしれない。余分なものを排除し、ただ「HH」という記号にする瞬間の「概念」の暴力--そこに詩がある、と。
 「概念の暴力」と考えれば考えられないことはないし、それはそれで美しいもの、魅力のあるものだけれど……。
 でも、「ひらけ、春キャベツ!」が「HH」、「予防接種はお済みでしょうか?」が「YS」、「素肌が自慢」が「SZ」--こんな単純な「頭文字」の法則が概念の暴力? それはむしろ、「概念」の衰退であるように思える。
 青木のことばには、詩のもっている「暴力」がない、とさえ感じてしまう。

 あ、また、最初に書こうとしていたこととは違ったことを書いてしまった。書くというのは、私には、こんなふうに何かどんどん「間違い」を積み重ねて行くことだが、青木はこういうことをしないだろうなあ。
 最初から最後まで、全部「頭」で整理して、きちんと図式化できるんだろうなあ。

 ことばを書くこと、ことばを言うこと--それはもともと暴力的なものを含んでいる。「ひらけ、ごま」にしろ、「ひらけ、春キャベツ!」にしろ、むちゃくちゃでしょ? しまっているドア(と面倒だから言ってしまう)に対して「ひらけ」と言うなら「ひらけ、ドア」でいいはずである。それをわざわざ「ごま」とか「春キャベツ!」と言い換える必要はない。そんなことばの不経済なつかい方をしない方がいいだろう。けれど、そういう「不経済」をすることで、そのドアを開ける権利を独占するという「暴力」が、実はそこにひそんでいる。
 ある仲間うちだけで通じる「ことば」をつかうというのは一番簡単なことばの「暴力」だが、うーん、こんなことを書くと、「HH」というのはそういう一種の暴力であると青木から反論されるかなあ。よくわからないなあ。「頭」で考えると、まあ、そういう「論理」も成り立つは成り立つのだけれど……。

 書いていることが、ますますわからなくなる。だから「頭」の詩はいやだなあ、とひとりごと。ついでに(最後に?)、もうひとつ、ひとりごと。

(NMY)眠れ良い子よ、白い卵よ!                (31ページ)

 これは、なぜ? 何と何の頭文字? 眠れ(N)良い子よ(Y)、白い(S)卵よ!なら、NYSなんだけれど……。
 やっぱり「頭」のいい人の考えることにはついていけない。この突然の「頭文字法則の変化」が青木の「暴力」? だとしたら、いやだなあ。





エイメ姫の一千一夜物語
青木 栄瞳
思潮社

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