青木栄瞳『一千一夜物語』(思潮社、2010年09月30日発行)
青木栄瞳はとても「頭」がいい人なのだろう。『一千一夜物語』の、「(大玉LL)ひらけ、春キャベツ!」には青木の特徴がとてもよくでている。(と、思う。--「頭」のいいひとの作品に対する感想書くときは、きっと、この「と、思う」ということばを書き足しておくことが重要になる、と思う。この「と、思う」は念押し。)
というわけで、これから書くことは、あくまで私が「思った」こと。
【ひらけ、ごま】
--(大玉LL9)ひらけ、春キャベツ!
--あなたの“脳力”葉日本で何番目?
(のべ四十万人が受験した脳検定が帰って来た!)
(一位は何県? 都道府県別成績ランキング)WEBニュース
(HH)ひらけ、春キャベツ!
HH・HH・HH・HH・HH
HH・HH・HH・HH・HH
HH・HH・HH・HH・HH
繰り返される「HH」は何だろう。最初の「H」は「ひらけ」の頭文字、次の「H」は「春キャベツ」の頭文字ということになるのか。
「ひらけ、春キャベツ!」はアラビアンナイトの「ひらけ、ごま」から思いついたことばなのだろうが、その「ひらけ、春キャベツ!」を同じことばではなく「HH」と略語(?)にしてしまって繰り返すというのは、どういうことだろうか。「HH」と「ひらけ、春キャベツ!」は「意味」は同じだろうが、それを繰り返すときの「肉体」の反応は同じというわけにはいかない。実際に「声」に出せばその違いが明確だが、黙読の場合に「肉体」の反応がまったく違う。
「ひらけ、春キャベツ!」のとき、私は黙読の場合でも「喉」が反応する。けれど「HH」の場合、「喉」は反応しないし、「耳」も反応しない。そのかわり、「目」が反応し、見たものがことばを通り越して「意味」として「頭」に入ってくる。
「ひらけ、春キャベツ!」は呪文のことばだであり、そこには「意味」はない。しかし、何かに命じて、それを開けさせる、それを開けたいという「思い(祈り?)」がある。一方、「HH」はまず「意味」である。「意味」であり、「概念」である。「HH」は繰り返すとき、そこには「ことば」は存在しない。ただ「概念」だけが存在する。
青木は、「HH」を繰り返すとき、「ことば」を動かしていない。肉体(喉や耳)を動かしていない。「概念」を動かしている。
青木にとって、詩とは、「ことば」の運動ではなく、きっと「概念」の運動なのだ。「概念」を動かすこと、日常は動かない「概念」の運動を描くことが青木にとっての詩なのである。
別な言い方で補足しよう。
「HH」は「ことば」ではなく、「ことば」を「記号」としている。「記号」は「ことば」から余分なものを省いた「概念」である。「ひらけ、春キャベツ!」というとき、その「呪文」を口にするとき、「喉」が動く。そして、ある一定の「時間」がかかる。どんなに早口で言ってみても一秒はかかる。ところが「HH」の場合、まずそれを口にすることはない。口にしなくても「意味」がわかる。見ただけでわかる。一秒とかからない。そして、恐ろしいことに、「HH」そのものが一秒かからないだけではなく、それが何回繰り返されようと一秒かからない。「ひらけ、春キャベツ!」ということばがもし1ページに全部を埋めていたとしたら、それを読むのに(声にするのに)何秒(何分)かかるだろう。「HH」は声にしないから1ページだろうが、本1冊だろうが一秒とかからない。本一冊の場合、もし、そこに「HH」に「HK」が一個まぎれていたとしたら?というようなことは、いまの場合無意味な脱線である。だれも「HH」を一文字一文字追って読みはしないからである。「ひらけ、春キャベツ!」も声に出さず「目」だけで読めば何ページにわたっていても一秒で読めるではないか--そう考えることはできる。
だが、それは「考え」であって、実際に「読む」ということは、それとは別問題である。
読む。ことばを「声」に出して「肉体」をくぐらせるというのは「時間」をかけることなのだ。「時間」をかけると、人間には変なことが起きる。「ひらけ、春キャベツ!」には「意味」はないのだが、そこに「意味」を感じたりする。「意味」といっても「正しい意味」ではなく、声に出す人が勝手につくりあげた無意味なものだが。そして、それは多々繰り返すということだけのなかに生まれてくる何かである。どんなわからないことばでも繰り返しているとなんとなくわかったような気持ちになる。外国語を例にとればいいが、ああ、こういうとき、こういってしまうのだな、ということがわかる。「See you again!」と友達に言われて、「いつ? どこで?」と問い返すようなひとはいない。「肉体」が繰り返し聞き、また言うことで生まれてくる何かがある。
記号、略語の場合、こういう繰り返しが生み出す「意味」というものはない。あくまでも最初に「意味」がある。そして、その「意味」は変わることがない。「意味」がかわらないのが、記号、略語の運動である。
ことばは違うのだ。ことばは繰り返している内に「意味」が違ってしまう。ことばは状況によっても「意味」を変えてしまう。
そして、変わってくことが、ことばが抱え込んでいるものが変わっていくことが、実は詩である。ことばの「意味」が変わるというのは、別なことばで言えば、その「ことば」を発した人が、ことばを言うことで別人になる、生まれ変わるということでもある。
ところが、記号、略語は「意味」を変えない。したがって、そのことばは何度繰り返されても、それを書いたひとそのものに働きかけ、ひとそのものを変えてしまうということはない。
「概念」の運動は、ある意味で「人間」の運動ではないのだ。「頭」のなかだけでおきる、瞬間的な運動なのだ。「頭」だってかわっていく、というかもしれない。たしかに変わるだろう。しかし、その「変わる」は運動の領域であって、「概念」の質ではない。「意味」ではない。もし「概念」の「意味」そのものが変わるのだとしたら、繰り返される「HH」の場合、それは、どの瞬間? 「HH」だけを見ているとき、それはわからない。けっしてわからない。
慣れないことを書いていると、だんだん何を書いているのかわからなくなる。
青木は「ことば」を書いているが、書くことで「意味」がかわっていく、つまり青木自身が生まれ変わるということはない。「ひらけ、春キャベツ!」を「HH」と書く瞬間、そこにこそ青木の変化、生まれ変わりがある。
「ひらけ、春キャベツ!」を絶対に他の意味にはしない、という「決意」のようなもの、「頭」が下した断定が「HH」なのである。変わらない決意、変えない決意が青木なのだ。
「意味」を変えず、ただ「意味」を加速させる。「概念」の加速が青木にとっての詩なのである。
「意味」の抽出、「概念」の抽出--青木は、詩を、そんなふうに考えているのかもしれない。「意味」の固定、「概念」の固定、というふうに言うこともできるかもしれない。
私は、こういう運動に対して「違う」と言いたい。私の欲望は、それは詩ではない、と言いたがっている。
ことばを破壊すること、ことばの「意味」が成り立たない一瞬をつくりだすこと。そこにこそ、詩があると感じている。
「ひらけ、春キャベツ!」ということばは「ひらけ、ごま」よりも私には楽しい音に聞こえる。「ひらけ、キャベツ」よりも「ひらけ、春キャベツ」の方がいま風(?)で音が楽しいとも感じる。けれど、それが「HH」という記号にとじこめられ、「概念」になってしまうと、私は楽しいとは感じない。「HH」がどれだけ繰り返されても、何も変わらない活字がそこにあるだけだ。
「ひらけ、春キャベツ!」を「HH」に転換する瞬間こそ詩である、と青木は言うかもしれない。余分なものを排除し、ただ「HH」という記号にする瞬間の「概念」の暴力--そこに詩がある、と。
「概念の暴力」と考えれば考えられないことはないし、それはそれで美しいもの、魅力のあるものだけれど……。
でも、「ひらけ、春キャベツ!」が「HH」、「予防接種はお済みでしょうか?」が「YS」、「素肌が自慢」が「SZ」--こんな単純な「頭文字」の法則が概念の暴力? それはむしろ、「概念」の衰退であるように思える。
青木のことばには、詩のもっている「暴力」がない、とさえ感じてしまう。
あ、また、最初に書こうとしていたこととは違ったことを書いてしまった。書くというのは、私には、こんなふうに何かどんどん「間違い」を積み重ねて行くことだが、青木はこういうことをしないだろうなあ。
最初から最後まで、全部「頭」で整理して、きちんと図式化できるんだろうなあ。
ことばを書くこと、ことばを言うこと--それはもともと暴力的なものを含んでいる。「ひらけ、ごま」にしろ、「ひらけ、春キャベツ!」にしろ、むちゃくちゃでしょ? しまっているドア(と面倒だから言ってしまう)に対して「ひらけ」と言うなら「ひらけ、ドア」でいいはずである。それをわざわざ「ごま」とか「春キャベツ!」と言い換える必要はない。そんなことばの不経済なつかい方をしない方がいいだろう。けれど、そういう「不経済」をすることで、そのドアを開ける権利を独占するという「暴力」が、実はそこにひそんでいる。
ある仲間うちだけで通じる「ことば」をつかうというのは一番簡単なことばの「暴力」だが、うーん、こんなことを書くと、「HH」というのはそういう一種の暴力であると青木から反論されるかなあ。よくわからないなあ。「頭」で考えると、まあ、そういう「論理」も成り立つは成り立つのだけれど……。
書いていることが、ますますわからなくなる。だから「頭」の詩はいやだなあ、とひとりごと。ついでに(最後に?)、もうひとつ、ひとりごと。
(NMY)眠れ良い子よ、白い卵よ! (31ページ)
これは、なぜ? 何と何の頭文字? 眠れ(N)良い子よ(Y)、白い(S)卵よ!なら、NYSなんだけれど……。
やっぱり「頭」のいい人の考えることにはついていけない。この突然の「頭文字法則の変化」が青木の「暴力」? だとしたら、いやだなあ。