詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ナボコフ『賜物』(4)

2010-11-06 11:21:22 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(4)

いつか暇なときにでも--と彼は考えた--三、四種類の店が交替して現れる順序を研究して、その順序には独自の構成上の法則があるという推測が正しいことを検証したら、面白いだろう。つまり一番頻繁に現れる組み合わせを見つければ、当の町の平均的リズムが導き出せるのではないか。
                                 (10ページ)

 リズムを何に見つけるか。リズムとはもともと「音」の概念だと思う。ところがナボコフは「音」ではなく、店の「配置」、つまり空間のなかに感じている。それは「絵画的」といえるかもしれない。「絵画」のなかにあらわれる一定の色、形--それはたしかにリズムを呼び覚ます。
 この小説の主人公は、それを「絵画」(色、形)ではなく、類似の「もの」(ここでは商店の種類)のなかに見つけ出そうとしている。
 このリズム感覚はとても興味深い。
 ナボコフの感覚が、音は音として独立してあるのではなく、色も色として独立してあるのではない。音にも色にも何かが共通している。「共通感覚」というものがある。--というだけではなく、それを人の「暮らし」、「町全体」のあり方というような非常に雑多なもののなかにまで押し広げ、把握しようとしている。(いや、すでに把握しているのかもしれない。)
 ナボコフの文体は、さまざまな対象を飲み込んで、飲み込むたびに自在さを増して広がっていくが、それは多くのものを飲み込むほど、強靱になっていく。きっと「リズム」が強くなっていくのだろう。
 最初はぼんやりしていたリズムが、互いに呼びあいながら、見えなかったリズムを補強し、存在感を増してくる。

例えば、煙草屋、薬局、八百屋、といった具合に。タンネンベルク通りでこの三つはばらばらで、それぞれが別の角にあったが、ひょっとしたら、ここではリズムの群づくりはまだ始まっていないのだろう将来、対位法に従って、店たちが次第に(天守が破産したり、引っ越したりするにつれて)集まってくるかもしれない。
                                 (10ページ)

 ナボコフがいま書いていること--それはナボコフがここで書いていることばを借用して言い換えれば、この小説のリズムづくりはまた始まっていないのだろう。これから始まる。ナボコフ独特の対位法にしたがって、ことばが集まり、リズムになっていくに違いない。ことばがことばを呼び寄せ、群れをつる。そこからリズムが生まれてくる。それは小説が進むに従って聞こえてくるリズムだ。



ナボコフ短篇全集〈1〉
ウラジーミル ナボコフ
作品社


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杉本徹「花/エイデュリア」、海埜今日子「《見えない香水》」

2010-11-06 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
杉本徹「花/エイデュリア」、海埜今日子「《見えない香水》」(「エウメニデスⅡ」38、2010年10月31日発行)

 杉本徹「花/エイデュリア」は郷愁を呼び起こす繊細さがある。知らないことなのに、知っていることのような感じを呼び覚ます。

歩道橋から真紅の花を見た。もう、西への遭難について(あなたは)何ひとつ語ろうとしないのだった。襟を片方だけ立てると、空は謎のまま、どの方位にも均衡を保ち、遠い埋立地に雨という異語を降らせるのだった。

 (あなた)とかっこでくくられた主語が、「わたし」との距離を浮かび上がらせる。たとえいっしょにいたとしても遠い。この離れてあることが郷愁なのかもしれない。そして、(あなた)とかっこでくくるという意識の中に繊細さがあるのかもしれない。かっこでくくられていようといまいと、あなたであることにかわりがない。そして、そのあなたは声に出してしまえばかっこを失う。繊細さの根拠が半分消えてしまう。--あ、杉本は「書く」ということ、「書きことば」のなかで繊細さを生き延びらせるのである。
 書かれることで浮かび上がる繊細な「距離」。杉本は、それをていねいに積み重ねる。「歩道橋」は車道から浮いている。中空にある。歩道橋と車道とのあいだに「距離」がある。「西へ」の「へ」もあいまいな「距離」を指し示す。「距離」は明示されないのだ。ただ方向として「距離」が浮かび上がる。その不安定さは「歩道橋」の不安定さとつながっている。「歩道橋」から呼び覚まされたものともいえる。「片方」もまたあいまいな方向の一種である。もうひとつの「片方」とは違う、ただそれだけのことによって「片方」であることが明示される。その中途半端な感じは「どの方位」「均衡」ということばのなかでさらにあいまいになる。「距離」が均衡であるとき、それは「どこ(どの方位)」ともつながらない。「どこ」とも均衡につながるがゆえに、どこともつながらない。ここで「距離」は「あなた」のようにかっこに入れられ(距離)になってしまう。そしてかっこに入れられた(距離)には「遠い」という漠然とした感じがとてもよく似合う。「遠い」「埋立地」(それは何も存在しない漠然とした土地である)。その「遠さ」が書くことで「異語」というさらに遠いものを呼び寄せる。だが、ほんとうに遠い? これはわからない。ことばは書かれることで、いま、ここにある。そのことばがここに「ある」という「近さ」がことばの「意味」の「遠さ」と不思議な「均衡」をとるのだ。       杉本は「書く」ということをとおして不思議な「距離」を描き出し、その「距離」ゆえの郷愁を浮かび上がらせる。
 --その繊細さに触れると、一か所わからない部分がある。「空は謎のまま」。ことばが粗いように感じる。あいまいな「距離」、その「空白感」、宙ぶらりんの感じが「空間」そのものである「空」をよびよせるのかも知れないが、それが「謎」であるかぎり、杉本の「肉体」とは無関係なのではないだろうか。どうも「肉体」になじんでいないことばという印象が残る。

くずれるまで眼を閉じていたい、地球も、麺麭(パン)も、……いいえ聴いていたい

 「眼を閉じていたい」は視覚の拒絶である。「聴いていたい」は聴覚の覚醒である。視覚と聴覚が、いま、杉本の「肉体」のなかで交錯し、ひとつになる。
 同じように、(あなた)の「距離」で「歩道橋」「西」「襟の片方」「どの方位」「均衡」「雨」「異語」が交錯し、出会い、「ひとつ」になる。「空」はそこには不思議な感じで入っていけない。「謎のまま」ということばがきっと邪魔しているのだ。
 杉本には杉本の、「謎のまま」ということばを書いた理由があるのだろうけれど、私にはその「謎のまま」だけが、どうにも違和感があってしっくりこない。私の「肉体」になじまない、ということなのだが、そのことをなぜか杉本の「肉体」にことばがなじんでいないからではないか--と、私はいわば責任転嫁するのである。

花を縛る黒いリボンが、ゆるやかに風景に垂れていって、その駒送りの端々にわたしの、いつか散り敷いた雨滴の繭の残像を、かさねあわせる。それ、……それらの点の果てのなさに、ひとひらの、と呼びかけるにはあまりに残酷過ぎる。斜光とともに歌が、降りてゆく、やがて声なき声を巻き戻すために日蔭の星は黙約のように眠るのだと、階段で知る。

 ことばを書く--それは、ことばを「かさねあわせる」ことに通じる。かさねあわせるのだけれど、そこには「距離」が残る。この「距離」を「肉体」に取り戻すのが杉本の詩であると私は思う。
 そして、その運動が「郷愁」に満ちて、とても静かであるのは、そういうことばの「かさねあわせ」が「知る」ことだからである。
 この文の冒頭に「知らないことなのに、知っていることのような感じを呼び覚ます。」と書いたが、あ、そうなのか、杉本は常に「知る」ことへ向けてことばを書いていて、その「知る」ということの欲望と悲しみがことばのなかに見え隠れするので、私は無意識の内に「知る」ということばを書いたのかもしれない。

 「知る」というのは不思議なことがらだ。「知る」というとき、「わたし」と「対象」のあいだには、明確な「距離」がある。その「距離」を測れる「定規」(単位)がある。ある一定の「単位(定規)」で「対象」を描写し終わったとき(その全体を測定し終わったとき)、それが「知る」ということになるのだと思う。「知る」ということが、そういう「定規」の積み重ねでつくりだされる「距離」の総数によって成り立つものだとすると、あ、そこにはやはり郷愁があるなあ。入り込む余地があるなあ。描写が正確になればなるほど、それは「わたし」とは「定規(単位)」は分離していく。対象は「定規(単位)」の連続性(距離)のなかで完結してしまい、「わたし」がそこに入り込む余地はなくなる。「わたし」が入り込めば、それは不正確な「距離」の積み重ねになってしまう。
 「知る」とは一方で「分離」なのだ。
 「あなた」が(あなた)とかっこに入った瞬間--そのときから、「わたし」は「あなた」を「知っている」。つまり、「わたし」の測定基準のなかで完結している。
 杉本が書いているのは「知の悲しみ」(知の抒情、知の郷愁)である。



 海埜今日子「《見えない香水》」には「知(知る)」とは違うものが生きている。

どこかで香水壜がなりひびいていた
わたしたちはがったいし
たゆたうかおりをひらいたのだ
なんというまなざし
なんてこえにだしてよかったの?

ふるいしぶきをあるひうけとり
しずんだ かれんな はなのように
じゅくじゅくとはっこうし
つまり れんきんじゅつさ
ひらいたみみに
ほとばしるぜっちょうです

 「かおり」「まなざし」「こえ」「みみ」。それは「肉体」によって「ひとつ」になる。「ひとつ」であるけれど、それは「知」ではない。「ぜっちょう」ということばが象徴的だが、それは「にくたい」を燃焼させてしまうなにかである。「知」のように結晶しない。「ぜっちょう」のなかで崩壊するのだ。

しぶきはきっとみえなくなる
わたしにかわっていったようにね
ぶすぶすと もえるように のまれてゆく
ざんこくなほどぜっきょうです
もっとそばにいればよかった
まさぐりあっては ひとりをみあげる
だれもが香水壜をほとばしっていた
としたらもっとたいせつになれるだろう
だからなんどもつむるんだ
うるんだめのおくがひからびていた
くちはべつのことにつかうんです

 香水の香りだけではなく、ありゆるものが「わたしにかわっていった」--という「肉体」を体験した後、あるいは体験することで「肉体」は「ぜっちょう」に達し、「ぜっきょう」しながら「肉体」を失い、もういちど「肉体」にもどる。たとえば「うるんだめ」でありながら「おくがひからびていた(め)」に。そして「くち」もいままでとは違うことのためにつかう、つかわなければならない。

どんなことばがまぶたをふるえる?

 ありえない「文法」、ありえない表現が美しく輝くのは、こういう「肉体」の崩壊と誕生の同時発生のあとである。

たにんのにおいに はなしがしたい

 こんな欲望が切実にせまってくるのは、やはり「肉体」の崩壊と誕生の同時発生のあとである。あるいは、その瞬間である。
 ここには「知」はない。
 ほら、「学校文法」という「定規」では、この2行の海埜のことばは説明できないでしょ? 「意味」にならないでしょ? 杉本のことばは、どれが主語、どれが述語、どれが目的語といえるけれど、海埜のことばにはいえない。「知」以前、「未分化」のことばのうごめきが海埜の詩である。





ステーション・エデン
杉本 徹
思潮社
詩集 セボネキコウ
海埜 今日子
砂子屋書房

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