誰も書かなかった西脇順三郎(153 )
「失われたとき」のつづき。
西脇のことばは人を(読者を--私を)騙す。
「三角形の一辺は他の二辺より大きく」ということは、ありえない。数学の事実に反する。そんなふうに「見える」ということは何かが間違っていて、この詩の「意味」としては、そういう「間違い」を祝うということが書かれているのだが……。
実際に読んでいて、その「意味」を意識するだろうか。
たとえば、「菖蒲が咲いて水銀に/むらさきの影をなげている」というのは、紫色の菖蒲が水面に映っているという美しい光景を描いている。あ、美しいなあと感じる。風景が美しいと同時に、その風景を「水銀」(の水面)ということばとともに描き出すことばの運動も美しいと感じる。--それを「真実」と感じて、美しいと感じるのだ。
次の「牛はみなよい記憶力がある/四重の未来がもう過去になつた」というのは牛に胃袋が四つあって、反芻しながら咀嚼しているということを踏まえているのだな、あ、牛の食べたものは角四つの胃袋のなかを、過去へいったり未来へいったりするように、動き回るのだな--おもしろい表現だなあ。そんなふうに未来や過去を動き回るということのなかにも、人間の意識の「真実」があるなあ、とも感じる。
西脇のことばの書いている「意味」に、知らず知らず共感している。そんな「共感」のあとに、「三角形の一辺は他の二辺より大きく/見える」。まさか、嘘が書いてあると思いもしない。だいたい、「三角形の一辺は他の二辺より……」という定義は常識的過ぎて「意味」として意識しない。ことばが、その「リズム」が肉体になってしまっている。いちいち、その「意味」を歌か疑うようなことはしない。
そして、騙される。
西脇は、読者を(私を)騙すのに、とても有効にリズムを使っている。
西脇のことばを絵画的ではなく「音楽的」と感じるのは、こういうことろがあるからだ。リズムは「意味」を忘れさせる。「意味」を検討することを忘れさせ、一気にことばを動かしていく。音が「肉体」になじんでしまい、音そのものとして動いていくのだ。
「のように」「……に」の繰り返し。さらには「うつる」という音の繰り返し。そのリズムがすべての「もの」を飲み込んで動いている。なぜ、そんな動きに? そこにある「意味」は? ああ、そんなものなどないのだ。「意味」を捨て去って、つまりナンセンスにリズムが駆け抜ける。その無意味の軽快が詩なのだ。
「失われたとき」のつづき。
西脇のことばは人を(読者を--私を)騙す。
盆地の山々は
もう失われた庭の苦悩だ
失う希望もない
失う空間も時間もない
永遠のうら側を越えて
違つた太陽系の海へ
洗礼に行くのだ
菖蒲が咲いて水銀に
むらさきの影をなげている
牛はみなよい記憶力がある
四重の未来がもう過去になつた
三角形の一辺は他の二辺より大きく
見える季節を祝うのだ
「三角形の一辺は他の二辺より大きく」ということは、ありえない。数学の事実に反する。そんなふうに「見える」ということは何かが間違っていて、この詩の「意味」としては、そういう「間違い」を祝うということが書かれているのだが……。
実際に読んでいて、その「意味」を意識するだろうか。
たとえば、「菖蒲が咲いて水銀に/むらさきの影をなげている」というのは、紫色の菖蒲が水面に映っているという美しい光景を描いている。あ、美しいなあと感じる。風景が美しいと同時に、その風景を「水銀」(の水面)ということばとともに描き出すことばの運動も美しいと感じる。--それを「真実」と感じて、美しいと感じるのだ。
次の「牛はみなよい記憶力がある/四重の未来がもう過去になつた」というのは牛に胃袋が四つあって、反芻しながら咀嚼しているということを踏まえているのだな、あ、牛の食べたものは角四つの胃袋のなかを、過去へいったり未来へいったりするように、動き回るのだな--おもしろい表現だなあ。そんなふうに未来や過去を動き回るということのなかにも、人間の意識の「真実」があるなあ、とも感じる。
西脇のことばの書いている「意味」に、知らず知らず共感している。そんな「共感」のあとに、「三角形の一辺は他の二辺より大きく/見える」。まさか、嘘が書いてあると思いもしない。だいたい、「三角形の一辺は他の二辺より……」という定義は常識的過ぎて「意味」として意識しない。ことばが、その「リズム」が肉体になってしまっている。いちいち、その「意味」を歌か疑うようなことはしない。
そして、騙される。
西脇は、読者を(私を)騙すのに、とても有効にリズムを使っている。
西脇のことばを絵画的ではなく「音楽的」と感じるのは、こういうことろがあるからだ。リズムは「意味」を忘れさせる。「意味」を検討することを忘れさせ、一気にことばを動かしていく。音が「肉体」になじんでしまい、音そのものとして動いていくのだ。
永遠はかなしい煙突のように
リッチモンドのキューのパゴーダ
のようにポプラの樹のように
向うの小山の影より高く
立つている--
舟をこぐ男の腰の悲しい
まがりに
薄明のバラの香りに
渡しをまつ男のほそいズボン
のうす明りに
塔の幻影がラセンのように
くねくねと水にうつる時に
ハンの樹の下側がたにしのように
うつる魔術家の帽子に
牛の乳房が写る水に
あひるの黄色いくらばしのうら
がうつるこのエナメルのなめらかな
「のように」「……に」の繰り返し。さらには「うつる」という音の繰り返し。そのリズムがすべての「もの」を飲み込んで動いている。なぜ、そんな動きに? そこにある「意味」は? ああ、そんなものなどないのだ。「意味」を捨て去って、つまりナンセンスにリズムが駆け抜ける。その無意味の軽快が詩なのだ。
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