詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(153 )

2010-11-12 22:14:31 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(153 )

 「失われたとき」のつづき。

 西脇のことばは人を(読者を--私を)騙す。

盆地の山々は
もう失われた庭の苦悩だ
失う希望もない
失う空間も時間もない
永遠のうら側を越えて
違つた太陽系の海へ
洗礼に行くのだ
菖蒲が咲いて水銀に
むらさきの影をなげている
牛はみなよい記憶力がある
四重の未来がもう過去になつた
三角形の一辺は他の二辺より大きく
見える季節を祝うのだ

 「三角形の一辺は他の二辺より大きく」ということは、ありえない。数学の事実に反する。そんなふうに「見える」ということは何かが間違っていて、この詩の「意味」としては、そういう「間違い」を祝うということが書かれているのだが……。
 実際に読んでいて、その「意味」を意識するだろうか。
 たとえば、「菖蒲が咲いて水銀に/むらさきの影をなげている」というのは、紫色の菖蒲が水面に映っているという美しい光景を描いている。あ、美しいなあと感じる。風景が美しいと同時に、その風景を「水銀」(の水面)ということばとともに描き出すことばの運動も美しいと感じる。--それを「真実」と感じて、美しいと感じるのだ。
 次の「牛はみなよい記憶力がある/四重の未来がもう過去になつた」というのは牛に胃袋が四つあって、反芻しながら咀嚼しているということを踏まえているのだな、あ、牛の食べたものは角四つの胃袋のなかを、過去へいったり未来へいったりするように、動き回るのだな--おもしろい表現だなあ。そんなふうに未来や過去を動き回るということのなかにも、人間の意識の「真実」があるなあ、とも感じる。
 西脇のことばの書いている「意味」に、知らず知らず共感している。そんな「共感」のあとに、「三角形の一辺は他の二辺より大きく/見える」。まさか、嘘が書いてあると思いもしない。だいたい、「三角形の一辺は他の二辺より……」という定義は常識的過ぎて「意味」として意識しない。ことばが、その「リズム」が肉体になってしまっている。いちいち、その「意味」を歌か疑うようなことはしない。
 そして、騙される。
 西脇は、読者を(私を)騙すのに、とても有効にリズムを使っている。
 西脇のことばを絵画的ではなく「音楽的」と感じるのは、こういうことろがあるからだ。リズムは「意味」を忘れさせる。「意味」を検討することを忘れさせ、一気にことばを動かしていく。音が「肉体」になじんでしまい、音そのものとして動いていくのだ。

永遠はかなしい煙突のように
リッチモンドのキューのパゴーダ
のようにポプラの樹のように
向うの小山の影より高く
立つている--
舟をこぐ男の腰の悲しい
まがりに
薄明のバラの香りに
渡しをまつ男のほそいズボン
のうす明りに
塔の幻影がラセンのように
くねくねと水にうつる時に
ハンの樹の下側がたにしのように
うつる魔術家の帽子に
牛の乳房が写る水に
あひるの黄色いくらばしのうら
がうつるこのエナメルのなめらかな

 「のように」「……に」の繰り返し。さらには「うつる」という音の繰り返し。そのリズムがすべての「もの」を飲み込んで動いている。なぜ、そんな動きに? そこにある「意味」は? ああ、そんなものなどないのだ。「意味」を捨て去って、つまりナンセンスにリズムが駆け抜ける。その無意味の軽快が詩なのだ。




ペイタリアン西脇順三郎
伊藤 勲
小沢書店

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ナボコフ『賜物』(10)

2010-11-12 11:05:06 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(10)

  ところがそのときボールはひとりで
  震える闇の中に飛び出して
  部屋を横切り、まっしぐら
  難攻不落の長椅子の下に。

 「震える」という形容があまり気に入らないのは、なぜだろう。
                                 (18ページ)

 私はこの部分に震えてしまう。深い深い快感に酔ってしまう。自分の書いたことばが「気に入らない」。そう感じている作家を想像するとき、何かしら言い知れぬ快感が襲ってくる。あ、そうなのだ、どんな作家も自分で書きながら、書いたことばが気に入らないということがあるのだ。そう思うとき、不思議な「共感」のようなものが満ちてくるのだ。ナボコフは、そしてそう書いたあと「なぜだろう」とことばを追加している。追い打ちをかけている。これが、また、私にはうれしい。気に入らないこと--その原因をさぐっていく。考える。その逸脱が興奮を誘う。
 なぜか。
 作家が自分の書いたことばが気に入らないなら、それはさっさと消してしまうか書き直せばいいだけの話である。ところがナボコフはそれを消さない(消させない)、書き直さない(書き直させない)。そして、ストーリー(?)とは無関係に、「考え」の方にことばを逸脱させていく。そのとき、ことばにできることは、もしかしたら「逸脱する」ということではないか、という思いが私を襲ってくる。
 私は「逸脱」が好きなのだ。ことばが本来追いかけなければならない何か(テーマ)を知っていながら、そこからどうしても逸脱してしまう。その逸脱の中にこそ、ほんとうに書きたい何かがあるように感じるのだ。目的をもって、テーマに向かっていくことばは、ある意味では、そのテーマに縛られている。テーマに従属している。そのテーマから逸脱した瞬間にこそ、隠れていた無意識が動きだす。そう感じる。あ、いま、無意識が動きだした--その不思議な動きに、なぜか引きこまれてしまうのだ。

 けれど。
 次の部分を読むと、私は興醒めする。翻訳の問題なのだが、「日本語」になっていない。

 それともここでは突然、登場人物たちのサイズに目がすっかり慣れてしまっているというのに(だからこそ人形劇が終わったとき観客が最初に味わうのは、「自分はなんて大きくなってしまったんだろう!」という感覚なのだ)、一瞬その中に人形遣いの巨人のような手がぬっと現れた、ということなのだろうか。

 かっこのなかのことばは、説明文を挿入したものだろう。そういう部分は省略しても文章が通じなくてはいけないはずである。ところが、それを省略してみると、なんのことかわからなくなる。

それともここでは突然、登場人物たちのサイズに目がすっかり慣れてしまっているというのに、一瞬その中に人形遣いの巨人のような手がぬっと現れた、ということなのだろうか。

 突然「人形遣い」ということばが出てきて、比喩が比喩として成立しなくなる。ロシア語の原文を読んでいないのにこういう批判をするのは変かもしれないが、訳がおかしいのだ。訳し方が変なのだ。
 前後の文から考えると……。

 「震える」という形容詞があまり気に入らないのは、なぜだろう。「震える」ということばが、人形劇を見ていたとき、ふいに人形を動かしている手を見てしまったような感じ、人形を支配している手を見てしまったときに感じる違和感に通じるものをもっているからだ。「震える」ということばだけが、ボタンやボール(詩のなかの登場人物--いわばそれは人形劇の登場人物)の「大きさ」ではなく、それを動かしている「人間」(人形遣い)の手の大きさに似ているからだ。人形劇が終わったとき観客は「自分はなんて大きくなってしまったんだろう!」と最初に感じるが、その、自分が大きくなってしまったという感じに通じるものが「震える」ということばのなかにあるからだ、ということをナボコフは書こうとしている。
 ことばのもっていることば自身のサイズ--それについて書こうとしている。
 「震える」は「震える」なのだが、それはうまくいえない「震える」なのだ。たのことばとバランスを欠いている「震える」なのだ。いまは「震える」としかいえないけれど、そしてそれは「震える」には違いないのだけれど、もっと別な形で、書かれなければならない「震える」なのだ。人形劇の人形のサイズにして書かなければならないことばなのである。
 わかっているのに、そう書けないもどかしさ。
 それをナボコフはここで書こうとしている。
 そして、この感覚を訳文は捕らえきっているとは思えないのだけれど、それはたぶん「だからこそ……なのだ」という構文と、その文章の挿入のしかたに問題があるのだと思う。特に「だからこそ……なのだ」という構文に問題があるのだと思う。それはきのう読んだ部分の「陣取っていたのに」の「……のに」という構文とも通い合う。
 ナボコフの書いている「理由(原因?)」というか、ものごとの因果関係を説明することばは、きっと「日本語」に合わないのだ。たしかに文法的には、そこにつかわれていることばは「理由」や「原因」を導くことばなのだろうけれど、その「理由」や「原因」のとらえ方は常識とは違うのだ。
 人間には人間の因果関係がある。ものにはものの因果関係がある。人形劇には人形劇の因果関係がある。ものの因果関係に人間の因果関係をまぜてしまってはだめなのだ。人形劇の運動(因果関係)に人間の運動(因果関係--操作している手順)をまぜてはいけないのだ。そういうものが混じったとき、ナボコフは「気に入らない」と感じているのに、訳文は、それを混ぜてしまっている。
 私には、そう感じられる。
 だから、せっかくの、美しい美しい美しい文章、

「震える」という形容があまり気に入らないのは、なぜだろう。

 が、まったく目立たなくなる。段落のはじめに書かれているのに、存在感をなくしてしまう。--ああ、悔しいなあ、と感じるのだ。もっと違う訳があるはずなのに、ナボコフが日本人ならもっと違う訳になるはずなのに、と思ってしまうのだ。



ニコライ・ゴーゴリ (平凡社ライブラリー)
ウラジーミル ナボコフ
平凡社
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原利代子『ラッキーガール』

2010-11-12 00:00:00 | 詩集
原利代子『ラッキーガール』(思潮社、2010年10月25日発行)

 原利代子『ラッキーガール』には、いくつか死について書かれた詩がある。「ひとつの心」はそのうちの一篇である。

三時出棺
しーんと手を合わせ その上に頭をたれ
わたしたちはひとつの心になっていました
長いクラクションを鳴らすと ワゴン車は厳かに動き始めました

そのあと わたしは無人販売の小屋へみかんを買いにいきました
そこのみかんは甘酸っぱくて美味しいのです
胸の中には死への感動がありました
ひとつの心がありました

 「ひとつの心」。このことばは、この作品のなかで微妙に「ずれ」を抱え込んでいる。「わたしたちはひとつの心になっていました」という1行では、葬儀に参列したひとたちが死者の冥福を祈るという「ひとつ心」に「なりました」。それぞれが「心」をもっているのだけれど、その所有権(?)をいったん放棄して(?)、全員で「こころ」をあわせて冥福を祈った。そこには複数から「ひとつ」へ向かう動きがある。
 最終連は、その「心」とは少し違う。冥福を祈るという行為のなかで「ひとつ」になった「心」はいったん自分自身(わたし=原)に戻ってしまう。そして「他人」の「心」と共有していない「心」にしたがってみかんを買いに行く。(この最終連のほかにも、原は「ひとつの心」ではなく「ひとりの心=原の心」というものを書いている。ユニクロへ行ったり、歯医者へ行ったりという行動を書いている。)
 そのあと、ふと「ひとつの心」を思い出している。みんなといっしょに祈った「ひとつの心」が、いま、原の「ひとりの心」のなかにまだ残っていると知る。
 ひとりひとりが「心=ひとりの心」をもっているが、それとは別に他者といっしょにもつ「ひとつの心」というものがある。
 はらは、その「ひとりの心」と「ひとつの心」の接触を詩に書いているのだ。「ひとりの心」が他者と触れ合うことで「ひとつの心」を知り、もういちど「ひとりの心」に帰ってくるとき、「ひとり」であることが「ひとり」を超える。「わたし」を超えたものになる--そういうことを書こうとしているのだと思う。そこに原の「肉体」と「思想」がある。
 「トライアングル」「黄龍の蟹」という感動的な作品があるが、「ひとり」と「ひとつ」の違いを説明するのにちょっと面倒なので、説明しやすい「カステラ」を引用する。

ポルトガルへ一緒に行ってくれないかってその人は言った
なぜポルトガルなのって聞いたら
カステラのふる里だからって言うの
お酒のみのくせにカステラなんてと言うと
君だってカステラが好きなんだろって
でもあたしはお酒ばかり飲んでる人とは
どこへも行かないわって言ったら
「そうか」って笑った

 ここでは「ひとりの心」が「ひとりの心」のままである。「その人の心」があり「あたしの心」がある。「ふたり心」は「ふたつの心」であり、一緒に話をしていても違うことを思っている。ポルトガルへいっしょに行きたいと思う心と、一緒に行かないと思う心。「一緒」というのは、ここでは残酷に「ふたり」を「ふたつの心」に分かつ条件である。
 「一緒」というのは「ひとつの心」にとって重要なことなのである。「ひとつの心」ではみんなが「一緒」に冥福を祈った。「一緒ょ」だから「ひとつの心」になれた。ひとりで買い物に行ったときは、「ひとつの心」ではなく「ひとりの心」で行ったのだ。

 「ひとりひとりの心」、そこに「一緒」ではないものがあるから、ひとりはもうひとりを、つまり「他者」を思うことができる。 

元気なうちに一緒に行ってあげればよかったのかしら ポルトガル?
病院で上を向いたまま寝ているその人を見てそう思ったの
きれいな白髪が光っていて
あたしは思わず手を差し伸べ 撫でてあげた
気持ちよさそうに目を瞑ったままその人は言った
「いつかポルトガルに行ったら ロカ岬の意思を拾ってきておくれ」
やっぱりそこに行きたかったんだ
--ここに地尽き 海始まる
と カモンエスのうたったロカ岬に立ちたかったんだ
カステラなんて言って あたしの気を引いたりして--
それより早く元気になって一緒に行きましょうって言ったら
「それがいいね」
って またいつものように笑った

あなたの骨がお墓に入るとき
約束どおり お骨の一番上にロカ岬の白い石を置いてあげた
あなたの白髪のように光っていたわ
ポルトガルへ一緒に行ってくれないって
声が聞こえたような気がして
今度はあたしが
「それはすてきね」って
あなたのように ほんのり笑いながら言ったのよ

 いま、ここにあるのは「あたし=原」の「ひとりの心」である。「あなたの心」は存在しない。けれど、そのいま、ここに、「一緒に」存在しないはずの「あなたの心」と「わあたしの心」が「ひとつ」になっている。その「ひとつ」というできごとのなかに、「あなた」が帰って来て、いま、「あたし」は「あなた」と「一緒」にいて、「それはすてきね」と返事をしている。
 この「ひとつの心」が、これからの「あたし」の「ひとりの心」の支えになる。



ラッキーガール
原 利代子
思潮社
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