詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粕谷栄市『遠い川』(3)

2010-11-18 23:59:59 | 詩集
粕谷栄市『遠い川』(3)(思潮社、2010年10月30日発行)

 「いま」という「時」のなかにあらゆる「時間」が見える--と昨日書いた。そういう「いま」は、いわば「夢」のようなものである。「夢」のなかにもあらゆる時間が一斉に雪崩込んでくる。時間の流れを無視して、過去と未来がみさかいなしに動いている。
 そんなことを考えながら、「秋の花」を読んだ。そして、読みながら、昨日考えたことが昨日考えたことなのか、それとも「秋の花」を読んだために、そう思ったのかわからなくなった。「秋の花」を読みながら感想を書こうとしているのだが、私のことばは何か昨日へもどろうとしている--忠実に(?)「秋の花」を読むのではなく、昨日の方へ昨日の方へと「誤読」を誘うのだ。

 静かな秋の日、遠い昔、別れた女に逢いに行った。風
の便りに、この世を去ったと聞いていたが、思いがけな
く、死ぬ前に、一度、顔が見たと言ってきたからだ。

 死んだと思っていた女が、死ぬ前に会いたいと言ってきた。そういうことは現実にあるかもしれない。しかし、私はこの書き出しの「死ぬ前に」を、女はこれから死んでいくので、今のうちに会いたいと言ってきた、という「正しい」読み方をしなかった。できなかった。「誤読」した。女は死んでいる。その死んでいる女が、「死ぬ前に、一度、顔が見たい」と言ってきた--つまり、過去の時間へ来いと粕谷を誘っていると読んでしまったのだ。「遠い昔に別れた女」に会いに行ったのではない。女と会うために、「遠い昔」へ行ったのだ。
 そういうことは常識的な「時間」の考え方からすると絶対にありえないことだが、粕谷の「時間」は常識の時間とは違う。「いま」のなかにはあらゆる時間があるのだから、粕谷の行動は常識の時間とは無関係なのだ。遠い場所へ行くのと同じように、遠い昔へ行くことができるのだ。「いま」のなかに「過去」があるのだから。「夢」のなかに「過去」があるように。「夢」の中では「いま」も「過去」も「未来」もみさかいがないように、交じり合って存在するのだから。「いま」とは「夢」なのである。

 永いこと、音信不通で過ごしてきたのだ。逢ったとこ
ろで、何があるわけでもないが、急に、懐かしく、逢い
たくなった。自分も、もう先のない老人だ。
 それができたのは、たぶん、それが夢のなかのことだ
ったからだろう。初めて訪れる町なのに、萩の花の咲く、
彼女の家への細い小径を、私は知っていたから。

 そして、実際、ここには「夢」ということばが出てくる。「それができたのは、たぶん、それが夢のなかのことだったからだろう。」しかし、これは、なんともいえず不思議なことばである。
 「それができた」の「それ」は、別れた女に会いに行くことである。「それが夢のなかのこと」の「それ」も、別れた女に会いに行くことである。そうするとますます、別れた女が「いま」生きているのではなく、過去に死んでいて、夢の中で過去の女に会いに行くという私の最初の「直感的誤読」が「誤読」ではなくなる。「夢」のなかだから「時間」はでたらめに動く。「初めて」はけっして「初めて」とはかぎらない。「初めて訪れる町なのに、萩の花の咲く、彼女の家への細い小径を、私は知っていたから」というのは、初めてではないからだ。「初めて」は間違いだからだ。粕谷は「遠い昔」何度もその道を歩いて彼女に会いに行ったのだ。「夢」のなかだから、その最初の体験を、「初めて」と呼んでいるだけなのだ。初めて彼女の家へ行ったときの強烈な思い出が、「夢」のなかのできごとを「初めて」にしてしまう。
 粕谷は「遠い町」(たぶん)に住む別れた女に会いに行ったのではなく、別れた女に会いに「遠い昔」へ行ったのだ。こういうことは「現実」にはできない。けれど「夢」のなかでは、そういうことは簡単にできる。時間旅行は誰にでもできる。
 けれど、粕谷はこれを「夢」とは言わない。「夢のなかのことだったからだろう」とは書いているが、これは「逆説」の一種である。もし、そこに書かれていることが「夢」なら、思ってもしようがない「思い」が詩の後半に出てくるからである。大切な思い、「いま」それを書いておかなければならない「思い」が後半に出てくるからである。それは「夢のなか」で動くことばではなく、「いま」粕谷の「肉体」とともに、「ここ」にあるものとして動いている。

 私にできることと言えば、黙って、そこに坐っている
ことだけだった。二人、並んで坐って、広い湖とそのほ
とりで、風に吹かれる萩の花を見ているだけだった。
(彼女は、本当に私の昔の彼女だったのだすうか。)
 この世で、人間は、さまざまな時間を過ごすが、こう
して、遥かな日々、睦み合って暮らした女と過ごす、自
分だけの淋しい花のようなひとときもある。
 二人は、いつまでも、そうして坐っていた。日が暮れ、
あたりが暗くなって、遠い夢のなかで、二人が見えなく
なるまで、そうしていた。

 「夢」のなかで粕谷は「遠い昔に見た夢」に出会う。「遠い夢のなかで」と粕谷は書いているが、それは遠い「昔の」夢のなかで、なのである。「昔」(過去)と「いま」は区別がないから、粕谷は「遠い夢のなかで」と書くのである。その「遠い昔の夢」のなかで、ふたりは、黙って萩の花をみつめる「未来」を夢見たのだ。
 「夢」には「過去」と「未来」が入り交じり、自在に動く。そういう「夢」を見ることができる「いま」という時間だけがこの世には存在する。「過去」も「未来」もなく、ただ「いま」だけがある。

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鄙唄
粕谷 栄市
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ナボコフ『賜物』(15)

2010-11-18 11:17:15 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(15)

チクタクと時を刻む音は、一センチごとに横縞の入った巻尺のように、ぼくの不眠の夜を果てしなく測り続けた。
                                 (26ページ)

 この「巻尺」の比喩はとても興味深い。時間をナボコフは線のように考えている。そしてその時間は「一センチ」ずつ測れるようなものである。「一センチ」という単位があきらかにしているように、それは「空間」的なものである。
 「空間」のように広がりをもち、そのなかを均一に動いていくものなのだ。
 それは、引用した文章の直前に書かれている「詩」のなかにも出てくる。家中の時計を調節にやって来た老人は……。

そして椅子の上に立って待つ
壁の時計が完全に正午を全部
吐き出すまで。そうして、無事に
気持ちのいい仕事をやり終え
音もなく椅子を元の場所に戻すと
時計は微かにうなりながら時を刻む

 「時」は均一に「刻」まれ、積み重なって「時間」になる。こんな考えを持つのは、ナボコフが(この小説の主人公が)、過ぎ去った時間(過去)をまるで一センチずつ刻んだ枡目のなかに「思い出」を均一に持っているからなのだ。
 ナボコフの描写はとても細密だが、その細密さはこの時間感覚と同じなのだ。時間が一センチずつ時を刻むのにあわせるようにして、ナボコフは一センチずつ思い出を再現する。一センチという単位はけっして狂うことがない。いや、多少の乱れはあるかもしれない。けれど、その乱れを時計屋の職人のようにときどきネジをまいて調子をあわせる。つねに調整しつづけるのである。





ナボコフのドン・キホーテ講義
ウラジーミル ナボコフ
晶文社

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金原まさ子句集『遊戯の家』

2010-11-18 00:00:00 | その他(音楽、小説etc)
金原まさ子句集『遊戯の家』(金雀枝舎、2010年10月12日発行)

 私は俳句をまったく知らない。リズムとして五・七・五でできていることや季語が必要なこと、芭蕉や蕪村が有名ということくらいは知っているが、それくらいである。どんなひとがいま俳句を書いているかまったく知らない。金原まさ子という人もはじめて聞く人だ。
 読みはじめてすぐ、そのリズムがとても新しいと感じた。

春暁の母たち乳をふるまうよ

 巻頭の一句である。若い人なんだろうなあ。私はどんな作品も声に出して読むことはないが、「母たち乳を」の「たちちち」というた行の音の動きに、いままで聞いたことのない音を感じた。「ははたち」というのも意識しないと発音できない音である。「はは」の後ろの「は」が意識しないと「わ」にくずれそうになる。それをふんばって「は」と発音したあと「た」と明るい音「あ」の母音が受け(「はは・た」と3連続で「あ」の音がある)、そのあと「ちちち」とつづく。破裂音と「い」の同じ組み合わせ。それから「ふるまうよ」と一転してなめらかな音になる。「しゅんぎょうの」から読み返すと、漢語・濁音の強い音から始まり、音が三度(あるいは四度?)変化していることに気がつく。こんな激しい変化は若い人しか書けない、と思った。
 ところが金原は九十九歳である。帯に「九十九歳の不良少女」と書いてある。「十九歳」の誤植だろうと思ったが、1911年生まれと「略歴」に書いてあるから、きっとそうなんだろう。私は2010-1911=99が最初計算できずに、こっちの方も誤植に違いないと思ったのだった。
 ことばは年齢は無関係である、というのは「頭」では理解できても、実際に、こんなふうにして、そのことばに触れると驚いてしまう。「ことばと年齢は無関係」ということを、私は「頭」でしか把握していないのだ。「肉体」にしきれていないのだ、と反省した。

 脱線してしまったが、ともかく、この句集は「音」がおもしろい。

真空に入り揚雲雀こなごな

 気に入ったものに○をつけながら句集を読んだが、最初に○をつけたのが、これである。「こなごな」という音が乾いていて気持ちがいい。この乾いた感じが「真空」とぴったり合う。音は「五・八・四」と変則なのだが、最後の字足らずの、飛び散った感じも「こなごな」に合っていて、新鮮な感じがする。
 何度も書いて申し訳ない感じがするが、どうみても十九歳の、つまり学校で宿題が出たので仕方なしに俳句をこしらえてみたが、こんな感じになってしまった、という雰囲気がある。そして、いま書いたように、悪くいえば「こんな感じになってしまった」なのだが、非常に印象に残る。これ、失敗作? それとも斬新な傑作? 私は俳句の門外漢だから、そういう「判定(?)」はせず、ただ、あ、この音の動き、おもしろいじゃないか。みんなもっとこういう感じで俳句を作れば楽しくなるのに、と思うのである。

丸善を椿が出たり入ったり

 赤い椿だね--と私は勝手に思ったが、春になって強烈な赤が丸善の自動扉(と勝手に想像する)を行き来する。かかえているは、やっぱり十九歳の不良少女である。(私は、ずーっと十九歳と思い込んでいて、感想を書こうとしてふと帯をみたら「九十九歳」とあって、びっくりしたのだった。)突っ張った感じの不良少女には赤がよく似合う。そして、その赤が、なんの不安をかかえてか丸善を出たり入ったりする。その動きが美しい。また、「出たり入ったり」の音も新鮮である。「入ったり」は5音なのかもしれないが、促音の関係で私の実感(肉体感覚)では4音と半拍。そして、それは「丸善を」も同じ。「ん」があるので4音と半拍。「つばき」という音は重たいので「中七」がもったりするのだけれど、それをサンドイッチのように4音半が挟んで軽快になる。この軽いのだか重いのだか、揺れるリズムも十九歳の不良少女にぴったりだなあ、と私は感じてしまうのである。(きっと中年男の妄想がまじっているね、この感想には。)

 はっ、と思ったのは次の句である。

細螺(きしゃご)になった水やりを忘れてから

 リズムが何か違う。その直前に「日本タンポポ引金に指がとどかない」は十九歳だが、「細螺」の句は何かが違う。「細螺」ということばの影響もあるかもしれないが「水やりを忘れてから」が若者のことば、リズムとは明らかに違う。「水をやり忘れてから」なら十九歳だが「水やりを」は十九歳は言わないだろう。(これはあくまで私の語感だけれど。)「細螺になった」の「なった」は、もしかすると「わざと」選んだ口語なのかもしれない、と急に思ったのだ。
 「わざと」というのは、西脇が詩とは「わざと」書くものである、というときにつかう「わざと」なのだけれど。
 金原にはことばを無意識につかうという感覚はないのだ。俳句はあくまで意識的につくるものなのだ。そのことを意識していると、私は「細螺」で感じた。そして、この意識化は若い人じゃないなあと直感した。十九歳という感じを、あ、修正しなければいけない、と思ったのだ。

階下(した)にひとり二階にふたり牡丹雪

 この句で、この人はベテランだとわかった。そして、略歴を見て、え、何歳? 2010-1911って、いくつ? わからない。直感として数字が入ってこない。そのあと、帯を見て、九十九歳? 間違えていない? と思い、念のため計算して九十九歳であることを確かめた。確かめたが、こんどは十九歳以上に、その年齢にびっくりしてしまう。
 俳句をどう読んでいいのかわからなくなる。
 あ、もう、年齢は忘れよう--と、それからようやく思ったのだ。
 この句、階下→二階、ひとり→ふたりと自然に視線が上を向いていく。その視線の先に(家の中からは見えないのだけれど)、屋根があり、しずかに牡丹雪が降っている。降り積もっている。視線が下から上へ向かうのとは逆に、雪は上から下へ降ってくるのだけれど、それがちょうど屋根で出会う。そのときの牡丹雪のやわらかさ。あたたかさ。自然でいいなあ、と思う。
 
 落ち着いて(?)読み返すと、以下の句がいつまでも強くこころに残る。

焼却炉よりさめのかたちが立ち上がる
            (「さめ」は原文は、魚偏に養う。「ふか」かもしれない)

 愛しい人が亡くなった。その火葬場での印象だろう。さめの生命力。命の、すさまじい力が、まさに「立ち上がる」という感じになるのだと思う。

かわたれや見るなの部屋の燕子花
寝てからも守宮の足のよく見える

 ガラスまでとはりついている守宮。ひらがなの「も」の字になっている。孤独な感じ、孤独が通い合う感じが、「足」と具体的に書かれていて、しんみりと感じる。

うすやみがそっくり夕顔に入りゆくよ
凝っとしているとノギクは熱を持つ
象色の象のかなしみ月下のZOO
もぎたてを食べると木苺はにがい
すれちがうときフムと花虻牛虻は

 「五七五」を踏み外すとき、そこに不思議な「未生」のリズムが動く。それは、熟練の成果なのだろうけれど、あ、やっぱり若い美しさ、十九歳の不良少女の純粋さなのだと思うことにしよう。


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コメント (2)
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