詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粕谷栄市『遠い川』(6)

2010-11-21 23:59:59 | 詩集
粕谷栄市『遠い川』(6)(思潮社、2010年10月30日発行)

 「死」は、今回の詩集に何度も登場する。しかしその「死」は「生」と断絶した死ではなく、連続した死である。
 「砂丘」。

 静かな朝、紺碧の天の下で、白髪の老人が踊っている
のをみるのは、いいものだ。それも、誰もいない砂丘で、
ひそかに、ただ独り、踊っているのを見るのは。

 この詩では、「遠い川れで「一人」という存在が登場したのに、また「独り」にもどっている。これは、かなり不思議なことである。特に、この白髪の老人は、次の部分を読むと、既に死んでいる。「遠い川」をわたっている。そこでは、人は「独り」ではなく「一人」であるはずだ。

 既に、この世を去って久しいはずの彼が、そこでそう
しているのを見ることのできる者は、限られている。生
涯のどこかで、彼と会い、親しく、ことばを交わしたこ
とのある者である。

 だが、白髪の老人、「彼」は「独り」ではない。踊っているのは「独り」だが、それを見る「人(私)」がいる。「独り」は「私」によって見られることで「独り」でありながら「一人」になる。なぜなら、もう「一人」、私がいるのだから。
 ここに「連続」がある。
 いや、何人ひとがいても「独り」ということがある--ということが立つかもしれない。しかし、その彼を見ることができるものが「親しい」間からであるとき、それは「独り」ではなく、どうしたって「一人」だろう。そこには「見られるひと」「見るひと」という「二人」が存在する。
 「二人」とは「一人」と「一人」の「連続」によって成り立つ。
 「二人」が存在するとき、「一人」と「一人」の「連続」は「間」としてとらえることができる。なにかしらの違いがあるから「連続」するのであって、まったく同一なら「連続」ではなく「合致」になってしまう。あるいは「重複」、あるいは「一体」になってしまう。
 この「間」が、何だか不思議なのである。「間」のなかで、何かが動く。「時間」が変な具合に動くのである。
 ここから、私の論理(?)はずいぶん飛躍するのだが……。

 いま、「独りの彼」を「私」が見る。そのとき彼は「独り」ではなく「一人」になるのだが、「そのとき」の「とき」とは何なのか。
 死んでしまった「彼」を見る「とき」、死んでしまったと彼の「とき」と、「彼」をみつめる「私」」の「とき」。もし、「とき」を人間のように数えるとしたら、それは「独り」、それとも「一人」?
 死んでしまった彼の「とき」は、その時点で終わっている。どこともつながらない。「独り」である。そういう「とき」を「過去」と呼ぶべきなのかもしれない。ほんとうの意味での「過去」。「いま」とは無関係な、孤立した「とき」。
 けれど、もし、その死んでしまった彼の「生きているとき」を「いま」「ここ」に見るとき、「彼のとき」はどうなるか。「孤立」しない。死んではいない。死んだ姿として「いま」「ここ」にあるのではない。「独り」が見られることで「一人」になり、生き返る。「生きている」。動いている。
 「彼」を思い出すとき--思い描き、その姿を見るとき、そのとき「生きている」のは「彼」だけではなく、「とき」もまた「生きている」。「とき」が生きて、動きはじめる。「とき」が動けば、「いま」がかわっていく。
 そういう「間」があるのだ。そういう「いま」がかわっていく、不思議な動きが粕谷の詩にはある。
 そういう「間」が「夢」なのだ。不思議な動きが「夢」なのだ。「間」はある意味では「魔」なのだ。「魔」は「日常を超えてやってくる」ものなのだ。

 「彼」が生きている、動いている、踊っているのではなく、「とき」が生きて、動いているである。そしてそれこそ「いま」起きていること、「いま」を動かしていることなのである。
 それは「私のとき」と「彼のとき」がつながるとき、そのつながりのなかに「いま」そのものとして動きはじめる。「彼のとき」と「私のとき」が一緒になって、「いま」が動きはじめる。
 「独りのとき」は、動かない。「いま」ではない。

 いつでも「いま」だけがある。「独り」ではない「とき」と「とき」が結びついて「いま」となって動く。

 その後、歳月を経て、思いがけなく、その彼を見るこ
とがあるのだ。つまり、人々が夢と呼ぶ、日常を超えて
やってくる、特別の時間のなかでのことである。

 「独り」とつながることで「特別な時間」が動きだす。それを粕谷は「夢」と書いているが、それは「夢」ではなく、現実である。唯一の「現実」である。

 紺碧の天の下で、老人は、片手を反らせ、月見草の花
を額に翳して、いつまでも、踊りをつづけている。自分
がそこにいる限り、それが終わることはないのである。

 「自分がそこにいる限り、それが終わることはないのである。」それは自分がそこにいるかぎり、常に「過去」(独りの時間)は「いま」につながり動く。どんな時間も「いま」になる。「いま」は「一人」の時間である。それは「終わることはない」。
 なぜなら。
 それは「自分(私)」が「いま」を動かしているだけではなく、「彼」もまた「いま」を 動かしているからである。「いま」は彼によって動かされている。それは「いま」と連続した「死」によって、世界が動いているということである。
 「自分がそこにいる限り、それが終わることはないのである。」というのは、「彼の踊りが続いている限り、自分がここいなければならない、いや、ここに存在させられてしまう、こうやって生かされてしまう。」というのに等しいのである。

 死は、いまを動かす命そのものである。


悪霊―詩集
粕谷 栄市
思潮社


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ナボコフ『賜物』(18)

2010-11-21 15:32:01 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(18)

 ナボコフの小説では人間が物語(ストーリー、時間)を動かすのと同様に(いや、それ以上に)、「もの」がことばを動かしていく。
 29ページから30ページにかけて。「思い出」「記憶」の不思議さ(思い出は蝋細工のようになり、どうしてイコンの智天使は顔の周りを覆う飾り枠が黒ずんでいくにしたかって帰って美しくなるのだろう)を書いたあと、ステレオスコープをのぞきこむときの恐怖が語られ、そして、

この光学的な遊びの後で見る夢に、ぼくはシャーマンの呪術の話以上に苦しめられたものだった。この装置はアメリカ人のローソンという歯医者の待合室に置いてあった。彼と同棲する女性はマダム・デュキャンという怪鳥ハルピュイア(がみがみばあさん)で、ローソン医院特性の血のように赤い口腔洗浄液(エリキシル)のガラス小瓶に囲まれてデスクに向かい、唇を噛みしめ髪を掻きむしりながら、ぼくとターニャの予約をどこに入れたものか決めかねてかりかりしていたが、とうとう、力をこめてきいきい音を立てながら、末尾にインクの染みがついた侯爵夫人(プランセス)トゥマノフと彼の頭にインクの染みがついたムッシュー・ダンザスの間に、唾を吐き散らすようにボテルペンを押し込んだ。

 スレオスコープという一般的な「もの」が、歯科医院にあった具体的な「もの」にかわり、その「もの」を起点にして、歯科医院でのできごとが語られはじめる。
 このとき話者は基本的には「ぼく」であるけれど、それは「ステレオスコープ」というものが「ぼく」に語らせる物語である。ステレオスコープという装置が登場した後、「ぼく」が語るのは、異様に歪み、誇張された世界である。予約ノートに書かれているのは「文字」に過ぎないはずなのに、私たちは「文字」以上のものを見てしまう。ステレオスコープに映し出された歪んだ世界を見てしまう。侯爵夫人トゥマノフとムッシュー・ダンザスの間に挟まれて、恐怖におののきながら治療を待っている「ぼく」を見てしまう。また、「ぼく」をはさむ夫人とムッシューを見てしまう。
 「文字」が「文字」であることをやめて動きだす。--これは、すべて「ステレオスコープ」という「もの」が物語を動かしているからである。

 あることば、ある意識が、何かにぶつかり、それを起点にして別な方向へ動いていく--ということを「意識の流れ」という具合にいうことができるかもしれないが、そういうときの「意識」とは人間の「頭」のなかにある抽象的なものではなく、常に、「頭」の外にある「具体的なもの」である。意識ではなく、「もの」が流動していく。まるで洪水の川を流れる巨大な樹、家、ピアノ、車のように、「もの」が輪郭を持ったままというか、ふつうに存在しているときは持たなかった輪郭(強烈な印象)をもって流れていく。
 「もの」はさらに「もの」とぶつかり、激しい音を立て、また別な方向へ動いていく。その動きを、ナボコフは、なんといえばいいのだろうか、「もの」の数、「もの」の量で圧倒して、「方向転換」を感じさせない。


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魅惑者
ウラジーミル ナボコフ
河出書房新社
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「谷川俊太郎 詩と朗読と音楽--武満徹をうたう」

2010-11-21 00:22:18 | その他(音楽、小説etc)
「谷川俊太郎 詩と朗読と音楽--武満徹をうたう」(2010年11月20日、福岡市・都久志会館)

詩朗読 谷川俊太郎 ピアノ 谷川賢作 ギター 鈴木大介 フルート 岩佐和弘 ギター&ヴォーカル 小室等

 「谷川俊太郎 詩と朗読と音楽--武満徹をうたう」は音楽のふたつの面を楽しむことができる催しだった。
 プログラムは2部構成。1部は「エア」「フェリオス」「海へ」など武満の、いわゆる「現代音楽」の紹介。2部は、「死んだ男の残したものは」など歌詞つきのポピュラーソング。1部では、枠をこわしてどこまでも広がっていく音楽の力、2部ではいっしょにいる空間を親和力のある世界に変えていく力を感じた。

 1部。「海へ」は私は非常に好きな曲である。
 「海へ」というタイトルであるが、私はこの曲を聴くといつも「波」を思う。波が岸へ押し寄せてくる。そのうねり。波--水が盛り上がり、水が崩れる。フルートの音の動きに、私は水の盛り上がり、内部から高まってくる力のようなもの感じる。ギターの音の輝きには、盛り上がった水が高みからくずれるときにできる水の「腹」の部分の暗いきらめきを感じる。いま、私は水がくずれる--と書いたのだが、このくずれるは表面的に見た水の動きかもしれない。くずれるのではなく、盛り上がろうとする力に拮抗するように、それを引き止めようとする力があって、その綱引きの過程で、波が盛り上がり、くずれるということが起きるのかもしれない。そのどうすることもできない緊張感--どうすることもできない、というのは、水自身の意思ではどうすることもできない、という意味である。もし、水に意思というものがあると仮定してのことだけれど。
 そのどうすることもできない何かを感じたと思った瞬間、音が一瞬、消える。私は、フルートの音を聞いているのかな? それとも、ギターの音を聞いているのかな?わからなくなるのである。実際に演奏されているのはフルートであり、ギターなのだが、そこには演奏されていない「楽器」があるのかもしれない。
 そして、その「演奏されていない楽器」は、演奏開場(ホール)を破壊してしまう。演奏会で音楽を聴いているという感じを叩きこわしてしまう。実際にフルートの音を聞き、ギターの音を聞いているにもかかわらず、私は別な場所にいる。ホールからほうりだされて、何だかわけのわからないことを考えてしまっている。
 最初に「枠をこわしてどこまでも広がっていく音楽の力」と書いたのは、そういうことである。演奏会の開場にいることも、実際にフルートの音を聞いていることも、ギターの音を聞いていることも、実感ではなくなる。
 谷川俊太郎は、「音楽は過去を持たない、ただ、いまを未来へ運んでいくだけだ」というような意味合いの詩を朗読したが、そのことばを思い出すとき、たしかにそうなのだけれど、未来へ動くという動きのなかに、過去を超越した世界とつながる何かを感じる、とでもいえばいいのだろうか。谷川のことばがあったから、私は、たぶんそう感じるのだが、フルートもギターもそれぞれの「音」とは別の「音」、固有の音を超越した音とつながって、そのいま、ここにない「音」を未来へ届けようとして動いていると感じる。フルートとギターの音を「いま」と言い直し、聴衆を「未来」と言いなおせば、谷川の言ったことばにもどることができるかもしれない。

 「音楽」は「いま」「ここ」にある「音」で語りながら、「いま」「ここ」にない「音」を伝えようとしている。あるいは、それを生み出そうとしている。
 そうすると、それは詩と同じものになるのかな?
 詩は、「いま」「ここ」にあることばで語りながら、「いま」「ここ」にない何かを伝えようとする。生み出そうとする。
 「いま」「ここ」にないもののために、「いま」「ここ」にあるものが動く。「いま」「ここ」を破壊しながら。
 「いま」「ここ」にない何か--それをたとえば「沈黙の音」とか、「宇宙との一体感」と言いなおせば、武満の音楽、谷川の詩を語るときの「標準語」になるのかもしれない。
 武満と谷川は、そういう「はるかな」場でつながっているのかもしれない。その「はるかな」場と、私たち聴衆(読者)は直接対面する。そのとき、私たちは武満とも谷川ともつながっていない。武満を超越して動く音楽、谷川を超越して動く詩、そういうものと「孤独」のままつながる。「私」というものが完全に「孤独」になる。そういう震えるような怖さと快感(?)につつまれる。

 2部は、1部でこわしてしまった演奏開場(ホール)を、きちんと取り戻す。音楽は、そしてその音楽と音楽のあいまに語られる語りは、この開場に来た観客を親密にさせる。1部の音楽では、私は「孤独」になり、その「孤独」をとおして、誰でもない何かとつながってしまうが、2部では違う。
 ここにいる人はみんな同じ音楽を聞いている。そして、その音楽にかかわる人はみんな自分と同じ。演奏の順番を間違えたり、冗談を言ったり、お祝いに何かをあげたり、怒ったり。そして、音楽は、そういうつながりをなめらかにする潤滑剤のような感じである。ギターとピアノの音は拮抗しない。「海へ」のフルートとギターの音のように、何かここにない「音」をめぐって動くということはない。「いま」「ここ」にある「音」にこの「音」を組み合わせると、ほら、あったかい。ほら、悲しい。ほら、楽しい。そんなふうに感情がなじみやすくなる。誰もがみんな「生きている」という感じになる。
 2部では武満と谷川の家族ぐるみのつきあいが何度か語られた。小室等との家族的なつきあいも語られた。「家族」が何度も話題になったが、2部は、いわば「家族」になるための音楽なのだ。音の違った楽器でも(音が違った楽器だからこそ)、違ったものが出会って、距離をうまいぐあいに保って動くと、そこに親密な空間ができる。そういうことを教えてくれる。
 私は音痴だし、音楽に触れる機会もほとんどなく、小室等というアーチストを「出発の歌」くらいしか知らなくて、その「出発の歌」も上条恒彦の声で覚えているので、どんな声をしているか、わからなかった。今回聞くのがはじめての「声」といっていいのだけれど、やわらかくて「家族」をつつみこむという感じにぴったりだった。だからこそ、2部を聞きながら「家族」ということを思ったのかもしれない。

 (実は、谷川さんの写真を撮らせにもらいに楽屋へ行ったとき、谷川さんが小室さんを紹介してくれた。「小室です」と小室さんは言うのだけれど、私はプログラムで事前に小室等さんが出ることを知っていたのに、かなりとまどってしまった。私のことなど小室さんは知るはずがないから、どうあいさつしていいかもわからなかった。白髪にもびっくりしてしまった。そのために、とっても変なことを言ってしまった。ごめんなさい。そんな具合だったのだ、2部が終わったあとで、あ、しまった、小室さんの写真も撮らせてもらえばよかった、サインももらえばよかったなあと思った。--というわけで、強引に楽屋に押しかけて行ったのに、とった写真は谷川俊太郎さんと谷川賢作さんのみ。許可をとって掲載していますが、転載はしないでください。)


カトレーンII~武満徹:室内楽曲集
オムニバス(クラシック)
BMG JAPAN
はだか―谷川俊太郎詩集
谷川 俊太郎
筑摩書房

ここから風が~ディスク・ヒストリー’71-’92
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