粕谷栄市『遠い川』(6)(思潮社、2010年10月30日発行)
「死」は、今回の詩集に何度も登場する。しかしその「死」は「生」と断絶した死ではなく、連続した死である。
「砂丘」。
この詩では、「遠い川れで「一人」という存在が登場したのに、また「独り」にもどっている。これは、かなり不思議なことである。特に、この白髪の老人は、次の部分を読むと、既に死んでいる。「遠い川」をわたっている。そこでは、人は「独り」ではなく「一人」であるはずだ。
だが、白髪の老人、「彼」は「独り」ではない。踊っているのは「独り」だが、それを見る「人(私)」がいる。「独り」は「私」によって見られることで「独り」でありながら「一人」になる。なぜなら、もう「一人」、私がいるのだから。
ここに「連続」がある。
いや、何人ひとがいても「独り」ということがある--ということが立つかもしれない。しかし、その彼を見ることができるものが「親しい」間からであるとき、それは「独り」ではなく、どうしたって「一人」だろう。そこには「見られるひと」「見るひと」という「二人」が存在する。
「二人」とは「一人」と「一人」の「連続」によって成り立つ。
「二人」が存在するとき、「一人」と「一人」の「連続」は「間」としてとらえることができる。なにかしらの違いがあるから「連続」するのであって、まったく同一なら「連続」ではなく「合致」になってしまう。あるいは「重複」、あるいは「一体」になってしまう。
この「間」が、何だか不思議なのである。「間」のなかで、何かが動く。「時間」が変な具合に動くのである。
ここから、私の論理(?)はずいぶん飛躍するのだが……。
いま、「独りの彼」を「私」が見る。そのとき彼は「独り」ではなく「一人」になるのだが、「そのとき」の「とき」とは何なのか。
死んでしまった「彼」を見る「とき」、死んでしまったと彼の「とき」と、「彼」をみつめる「私」」の「とき」。もし、「とき」を人間のように数えるとしたら、それは「独り」、それとも「一人」?
死んでしまった彼の「とき」は、その時点で終わっている。どこともつながらない。「独り」である。そういう「とき」を「過去」と呼ぶべきなのかもしれない。ほんとうの意味での「過去」。「いま」とは無関係な、孤立した「とき」。
けれど、もし、その死んでしまった彼の「生きているとき」を「いま」「ここ」に見るとき、「彼のとき」はどうなるか。「孤立」しない。死んではいない。死んだ姿として「いま」「ここ」にあるのではない。「独り」が見られることで「一人」になり、生き返る。「生きている」。動いている。
「彼」を思い出すとき--思い描き、その姿を見るとき、そのとき「生きている」のは「彼」だけではなく、「とき」もまた「生きている」。「とき」が生きて、動きはじめる。「とき」が動けば、「いま」がかわっていく。
そういう「間」があるのだ。そういう「いま」がかわっていく、不思議な動きが粕谷の詩にはある。
そういう「間」が「夢」なのだ。不思議な動きが「夢」なのだ。「間」はある意味では「魔」なのだ。「魔」は「日常を超えてやってくる」ものなのだ。
「彼」が生きている、動いている、踊っているのではなく、「とき」が生きて、動いているである。そしてそれこそ「いま」起きていること、「いま」を動かしていることなのである。
それは「私のとき」と「彼のとき」がつながるとき、そのつながりのなかに「いま」そのものとして動きはじめる。「彼のとき」と「私のとき」が一緒になって、「いま」が動きはじめる。
「独りのとき」は、動かない。「いま」ではない。
いつでも「いま」だけがある。「独り」ではない「とき」と「とき」が結びついて「いま」となって動く。
「独り」とつながることで「特別な時間」が動きだす。それを粕谷は「夢」と書いているが、それは「夢」ではなく、現実である。唯一の「現実」である。
「自分がそこにいる限り、それが終わることはないのである。」それは自分がそこにいるかぎり、常に「過去」(独りの時間)は「いま」につながり動く。どんな時間も「いま」になる。「いま」は「一人」の時間である。それは「終わることはない」。
なぜなら。
それは「自分(私)」が「いま」を動かしているだけではなく、「彼」もまた「いま」を 動かしているからである。「いま」は彼によって動かされている。それは「いま」と連続した「死」によって、世界が動いているということである。
「自分がそこにいる限り、それが終わることはないのである。」というのは、「彼の踊りが続いている限り、自分がここいなければならない、いや、ここに存在させられてしまう、こうやって生かされてしまう。」というのに等しいのである。
死は、いまを動かす命そのものである。
「死」は、今回の詩集に何度も登場する。しかしその「死」は「生」と断絶した死ではなく、連続した死である。
「砂丘」。
静かな朝、紺碧の天の下で、白髪の老人が踊っている
のをみるのは、いいものだ。それも、誰もいない砂丘で、
ひそかに、ただ独り、踊っているのを見るのは。
この詩では、「遠い川れで「一人」という存在が登場したのに、また「独り」にもどっている。これは、かなり不思議なことである。特に、この白髪の老人は、次の部分を読むと、既に死んでいる。「遠い川」をわたっている。そこでは、人は「独り」ではなく「一人」であるはずだ。
既に、この世を去って久しいはずの彼が、そこでそう
しているのを見ることのできる者は、限られている。生
涯のどこかで、彼と会い、親しく、ことばを交わしたこ
とのある者である。
だが、白髪の老人、「彼」は「独り」ではない。踊っているのは「独り」だが、それを見る「人(私)」がいる。「独り」は「私」によって見られることで「独り」でありながら「一人」になる。なぜなら、もう「一人」、私がいるのだから。
ここに「連続」がある。
いや、何人ひとがいても「独り」ということがある--ということが立つかもしれない。しかし、その彼を見ることができるものが「親しい」間からであるとき、それは「独り」ではなく、どうしたって「一人」だろう。そこには「見られるひと」「見るひと」という「二人」が存在する。
「二人」とは「一人」と「一人」の「連続」によって成り立つ。
「二人」が存在するとき、「一人」と「一人」の「連続」は「間」としてとらえることができる。なにかしらの違いがあるから「連続」するのであって、まったく同一なら「連続」ではなく「合致」になってしまう。あるいは「重複」、あるいは「一体」になってしまう。
この「間」が、何だか不思議なのである。「間」のなかで、何かが動く。「時間」が変な具合に動くのである。
ここから、私の論理(?)はずいぶん飛躍するのだが……。
いま、「独りの彼」を「私」が見る。そのとき彼は「独り」ではなく「一人」になるのだが、「そのとき」の「とき」とは何なのか。
死んでしまった「彼」を見る「とき」、死んでしまったと彼の「とき」と、「彼」をみつめる「私」」の「とき」。もし、「とき」を人間のように数えるとしたら、それは「独り」、それとも「一人」?
死んでしまった彼の「とき」は、その時点で終わっている。どこともつながらない。「独り」である。そういう「とき」を「過去」と呼ぶべきなのかもしれない。ほんとうの意味での「過去」。「いま」とは無関係な、孤立した「とき」。
けれど、もし、その死んでしまった彼の「生きているとき」を「いま」「ここ」に見るとき、「彼のとき」はどうなるか。「孤立」しない。死んではいない。死んだ姿として「いま」「ここ」にあるのではない。「独り」が見られることで「一人」になり、生き返る。「生きている」。動いている。
「彼」を思い出すとき--思い描き、その姿を見るとき、そのとき「生きている」のは「彼」だけではなく、「とき」もまた「生きている」。「とき」が生きて、動きはじめる。「とき」が動けば、「いま」がかわっていく。
そういう「間」があるのだ。そういう「いま」がかわっていく、不思議な動きが粕谷の詩にはある。
そういう「間」が「夢」なのだ。不思議な動きが「夢」なのだ。「間」はある意味では「魔」なのだ。「魔」は「日常を超えてやってくる」ものなのだ。
「彼」が生きている、動いている、踊っているのではなく、「とき」が生きて、動いているである。そしてそれこそ「いま」起きていること、「いま」を動かしていることなのである。
それは「私のとき」と「彼のとき」がつながるとき、そのつながりのなかに「いま」そのものとして動きはじめる。「彼のとき」と「私のとき」が一緒になって、「いま」が動きはじめる。
「独りのとき」は、動かない。「いま」ではない。
いつでも「いま」だけがある。「独り」ではない「とき」と「とき」が結びついて「いま」となって動く。
その後、歳月を経て、思いがけなく、その彼を見るこ
とがあるのだ。つまり、人々が夢と呼ぶ、日常を超えて
やってくる、特別の時間のなかでのことである。
「独り」とつながることで「特別な時間」が動きだす。それを粕谷は「夢」と書いているが、それは「夢」ではなく、現実である。唯一の「現実」である。
紺碧の天の下で、老人は、片手を反らせ、月見草の花
を額に翳して、いつまでも、踊りをつづけている。自分
がそこにいる限り、それが終わることはないのである。
「自分がそこにいる限り、それが終わることはないのである。」それは自分がそこにいるかぎり、常に「過去」(独りの時間)は「いま」につながり動く。どんな時間も「いま」になる。「いま」は「一人」の時間である。それは「終わることはない」。
なぜなら。
それは「自分(私)」が「いま」を動かしているだけではなく、「彼」もまた「いま」を 動かしているからである。「いま」は彼によって動かされている。それは「いま」と連続した「死」によって、世界が動いているということである。
「自分がそこにいる限り、それが終わることはないのである。」というのは、「彼の踊りが続いている限り、自分がここいなければならない、いや、ここに存在させられてしまう、こうやって生かされてしまう。」というのに等しいのである。
死は、いまを動かす命そのものである。
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