詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高貝弘也『露地の花』(2)

2010-11-29 23:59:59 | 詩集
高貝弘也『露地の花』(2)(思潮社、2010年10月31日発行)

 粕谷栄市の『遠い 川』には「死」がたくさん出てくる。けれど、それは「死」を通り越している。「死」なのだけど、けっして死なない。「死」へ行ってしまうことはない。逆に「死」は「生」の方へ越境してくる。「生」から「死」へではなく、「死」から「生」へと越境する「時間」がある。「死」は生まれ、そして「生きる」のである。
 だから「死」は「幸福」なのだ。
 高貝弘也のことばは、どうだろうか。粕谷のことばとは逆の動きに見える。年齢的には、粕谷の方が高貝よりはるかに高齢である(はずである。--私は、粕谷にも高貝にも会ったことはないので、はっきりとはわからないが……。)それでも、不謹慎な言い方になるけれど、その若いはずの高貝の方が「死」に近い。「死」に近づいていくことばである。
 ただし、そのときの「死」とは、生が生をまっとうした先にある「死」ではなく、なにやら「生」が生まれる前の、つまり「未生」の「死」という感じがする。

あの露地へ、ひとがたが だしぬけに呼ばれて。
密かに川明かり かすれている
お襁褓(おしめ)が泣いている。柳川の水汲場(くみず)、
それは女間者貝(メカンジャ)の殻の 傍らで
過ぎし日の、夏草の霊(ひ)よ さようなら
泣けば手向(たむ)けの、みずの火よ
さようなら

 ここに書かれていることが具体的に何なのか、私にはさっぱりわからない。何が書かれているかさっぱりわからないのに、断片的に、ことばにひかれてしまう。「ひとがたが だしぬけに呼ばれて。」と中途半端な響きのまま終わることばは、どこへでもつづいていく。つながっていく。「呼ばれて。」ととぎれているのに、どこへでもつながっている。その「つながり」にそのまま飲み込まれていくような感じである。
 そして、この「どこへでも」は、けれど、絶対に生をまっとうした先の「死」ではない、という印象がある。直感的に、私は、そう思う。

ひそ「か」に「か」わあ「か」り 「か」すれている

 この「か」の繰り返しによる不思議な音楽。それは、前へ進んでゆくというより、どこかへ引き返していく。そして、その引き返すという運動の方向性だけをみると、粕谷の「死」から「生」への逆行に似てはいるのだが、「かすれている」ということばが象徴的なように、それは何からしらエネルギーの衰弱につながるものである。粕谷の「死」が「生」へと逆行してきて、そこでいきいきと動くのに対して、高貝のことばは逆行することで徐々に弱まっていく。弱々しくなっていく。無力になっていく。
 めんどうくさい(?)のは、そんなふうに無力になるのに、それは「ゼロ」にはならないという点である。無力になり、ゼロに近づけば近づくほど、あ、そういう遠いところから高貝のことばはやってきていたのだ。いま、高貝のことばは、そのことばが生まれてきたはるかなはるかな遠くへ帰っていくのだという印象が強くなる。
 高貝のことばは、「いま」「ここ」を切り開いて、「いま」「ここ」ではない時と場へとは炸裂しない。逆なのだ。「いま」「ここ」に開いているものを、静かに閉じて、フィルムを逆回しにするようにして、「いま」「ここ」以前へと帰るのである。
 その「時」と「場」はどこか。

お襁褓(おしめ)が泣いている。柳川の水汲場(くみず)、
それは女間者貝(メカンジャ)の殻の 傍らで

 「柳川」ということばのせいだろうか。「くみず」「めかんじゃ」という音のせいだろうか。私は白秋を思い出すのだ。先日読んだ部分では、なんとなく朔太郎を思い出した。きょうは白秋を思い出している。高貝のことば、そのリズム、そのメロディー(というのだろうか、音の変化の組み合わせ方)は、高貝のことばが生まれる以前から存在したことばへと帰っていく。
 なつかしいなつかしい「未生」のゆりかご。「おしめ」が登場するから、赤ん坊や、赤ん坊以前を思うのだろうか。
 
過ぎし日の、夏草の霊(ひ)よ さようなら
泣けば手向(たむ)けの、みずの火よ
さようなら

 「霊」(高貝は旧字体をつかっているが、私は新字体で引用している)を「ひ」と読ませるということを私は高貝のこの詩で始めて知った。「霊」には「たましい」とか「神」というような意味合いがあり、それは「あきらかなもの」である。その「あきらか」と「火」が呼応して「ひ」になるのかもしれない。「日」は「太陽」であり、そこにも「あきらか」なものがある。
 「霊」を「ひ」と読ませるとき、「霊」が「れい」になる前の「未生」の「ことばの場」が、ふいに見える。そのふいに見える「場」へ高貝のことばはかえっていく。朔太郎も白秋も通り越して、さらには古今集も万葉も通り越して、ことば以前へ帰っていくのかもしれない。
 かすかに、弱まりながら「ゼロ」を通り越して、どこかへ帰っていく。
 限りなく弱まり(というのは表面的な印象であるが)、「ゼロ」に近づくのは、「未生」へ帰るには「存在」であってはいけないからなのだろう。「未生」とは存在以前である。そういう「場」へ帰るにはできるかぎり小さくならなければならないのだ。
 きっと素粒子の振動(波)になって、高貝のことばは、ことば以前へ帰る。
 高貝の書いているは、そのための素粒子の波動そのものなのである。
 そんな過激なことばにおいては、「みずの火」(水の火)というような、実際にはありえないようなことばが瞬間的に炸裂する。炸裂して「見ずの火」(見なかったけれど絶対的にあきらかなもの」を、どこにもない場に刻印する。それは「水子」のように、実際には存在しないのに、存在してしまう何かでもあり、その存在は一度存在してしまうと、それが存在しなくなってからも、刻印として残る。
 
 そのときの刻印が「詩」である。


子葉声韻
高貝 弘也
思潮社

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ナボコフ『賜物』(24)

2010-11-29 22:44:17 | ナボコフ・賜物
 この小説に書かれている詩に対する「批評」がおもしろい。

これらはもちろん小品には違いないが、並外れた繊細な名人芸によって作られた細密画のようで、髪の毛一本一本まではっきり見えるほどである。とはいうものの、それは過度に厳格な筆によってすべてが丹念に描き込まれているからではなく、この著者には芸術上の契約がすべての条項にわたって著者によって遵守されることを保証する誠実で信頼できる才能が備わっており、どんなに些細な特徴でさえもそこにあるかのように、読者は知らず知らずのうちに思いこまされるからなのだ。
                               (44-45ページ)

 ナボコフのナボコフ自身によるナボコフのための批評である。ナボコフは厳格な細密描写を否定している。厳格な細密描写が作品にリアリティーを与えるのではなく、文学のリアリティーは「芸術上の契約」を「遵守」することで成立する。それは、文学のことばは、文学のことばの運動を遵守することによって成立するというのに等しい。
 ナボコフは、そのことばの運動を「古典」によって支えているのだ。ナボコフのことばはすべて「古典」なのだ。どんなに新しいことをしても、そこにはかならず「古典」が引用されているのだ。
 ナボコフは古典に精通し、あらゆる文学に精通しているのだ。
 先の文につづくプーシキンの詩に関する言及(45ページ)は、その「証拠」である。


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松井久子監督「レオニー」(★★★★)

2010-11-29 11:52:21 | 映画

監督 松井久子 出演 エミリー・モーティマー、中村獅童、原田美枝子、竹下景子

 松井久子監督の映画を見るのは、これが初めてである。「ユキエ」「折り梅」は見ていない。見ていないことを、とても残念に思った。再上映されるだろうか。再上映されるなら、ぜひ、見てみたい。
 映像と人間描写に品がある。その品は、クリント・イーストウッドに近い。描きたいことはたくさんあるだろうけれど、深追いしない。映像に触れて観客のこころが動く。その瞬間、映像はもうおわる。ひとつひとつのシーンがとても簡潔なのである。映像の意味を、そこに動いている人間の行動の意味を押しつけない。
 イサム・ノグチの母親の生涯を描いている。そこには信じられないような苦労があったはずである。誰にもいえないような哀しみがあったはずである。日本語も話せないのに、日本にやってきた女性。男女差別が根強い時代。それだけでたいへんなことだと思うが、その苦労、哀しみを押し売りしない。声高に苦労や、哀しみを主張しない。
 映画は苦労や哀しみのかわりに、芸術にかける女性の強い意思を描く。「いま」「ここ」にしばられず、どこでもないところへ行こうとする純粋な思いをストレートに描く。
 いや、レオニーは、「いま」「ここ」に縛られずに、どこでもないところへ行こうとするのではなく、自分の知らないもの(芸術の美しさ)にふれた瞬間、その美しい世界へ一気に行ってしまう才能をもった人間なのである。その一瞬の飛躍を、この映画は次々に描いている。
 最初にヨネ・ノグチと会って、詩の話をする。ヨネ・ノグチの書いた詩を読みながら、レオニーのなかで、ヨネ・ノグチを超えたことばがふっと動く。ヨネ・ノグチのことばを、一段高みへと引き上げる。それが、実に自然だ。苦労してことばを動かすのではなく、彼女の肉体のなかでことばが自然に生まれてくる。それをそのまま声にする--そういう感じである。まるでヨネ・ノグチが詩人であるというよりも、レオニーの方が詩人であり、レオニーはヨネ・ノグチに出会うことで瞬間的に詩人になってしまった、という感じである。
 レオニーは絶対的な他者と出会った瞬間に彼女自身を超えてしまうのだ。彼女の限界がなくなるのだ。日本にきて、英語を教える。英語を教えるという名目で、ヨネ・ノグチの知人たちに会う。そのたびにレオニーは人間性の幅を広げていく。
 それは相手が教養人(あるいは芸術家)の場合だけとは限らない。家で雇っている「お手伝いさん」の場合も同じである。具体的には描かれていないが、レオニーにそういう不思議な人間性の広がりがあるから、ひとはレオニーを支えるのだ。お手伝いさんは、レオニーに小言(?)を言いながらも、レオニーが娘を産むとき、きちんと産婆をつとめる。そういうところに、レオニーの魅力が静かに描かれている。
 この人間が自分を超える瞬間、他人に対してこころを開き、他人の思想に身をゆだねることで生まれ変わるという「生き方」は、イサムにも引き継がれている。それは、彼が、家を建てる大工に鉋のかけ方を習うシーンにさりげなく描かれている。自己主張するのではなく、他人に任せる。それは大工の「木にあわせる」ことで鉋をかけるということとも一脈通じるものがある。
 ひとは生きるのではなく、生かされるのだ。生かされることで、生きる以上の何かを手に入れるのだ。
 イサム・ノグチが石を彫っているシーンが何度も何度も繰り返されるが、この石の彫刻も、きっとイサム・ノグチが石を彫っているのではなく、石に彫られれているのだ。そういうことを感じさせる。石のなかにある何かが形になろうとして、イサム・ノグチに働きかけてくる。その働きかけに身をまかせて動くとき、そこに芸術が生まれる。
 不思議なことに、これはイサム・ノグチとレオニーの関係そのものでもあるようだ。イサム・ノグチは自分から芸術家を目指したわけではない。母が、おまえには芸術の才能がある。医学なんかではなく、芸術分野へと進め、と助言する。イサムにもちろん才能があったことはたしかなのだろうけれど、イサムは母の助言にそうようにして新しい自分をつかみ取る。母と出会うこと(というのは変な表現だが)で、イサムは彫刻家になったのだ。母がいなかったら、医者になっていたのだ。母に生かされて、芸術家に生まれ変わったのだ。                 
 これはなんとも不思議な出会い。不思議な「一期一会」だ。だが、それ以外に、何もないのだ。この世にあるのは「一期一会」の出会いと、その出会いをとおして変わっていくこと、変わっていくことを自分に許すことがあるだけなのだ。
 この映画の品(気品といってもいい)は、苦労や哀しみを自己主張しないことにある、と最初に書いたが、「一期一会」は自己主張をしていては成立しないことだから、その描き方はごく自然なこと、当然なことでもあるのだ。
 映像、ストーリーとは、あまり関係ないことを書いたような気がする。そんなふうなことを自由に考えさせてくれる広がりをもった映画なのだ。



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