高貝弘也『露地の花』(2)(思潮社、2010年10月31日発行)
粕谷栄市の『遠い 川』には「死」がたくさん出てくる。けれど、それは「死」を通り越している。「死」なのだけど、けっして死なない。「死」へ行ってしまうことはない。逆に「死」は「生」の方へ越境してくる。「生」から「死」へではなく、「死」から「生」へと越境する「時間」がある。「死」は生まれ、そして「生きる」のである。
だから「死」は「幸福」なのだ。
高貝弘也のことばは、どうだろうか。粕谷のことばとは逆の動きに見える。年齢的には、粕谷の方が高貝よりはるかに高齢である(はずである。--私は、粕谷にも高貝にも会ったことはないので、はっきりとはわからないが……。)それでも、不謹慎な言い方になるけれど、その若いはずの高貝の方が「死」に近い。「死」に近づいていくことばである。
ただし、そのときの「死」とは、生が生をまっとうした先にある「死」ではなく、なにやら「生」が生まれる前の、つまり「未生」の「死」という感じがする。
ここに書かれていることが具体的に何なのか、私にはさっぱりわからない。何が書かれているかさっぱりわからないのに、断片的に、ことばにひかれてしまう。「ひとがたが だしぬけに呼ばれて。」と中途半端な響きのまま終わることばは、どこへでもつづいていく。つながっていく。「呼ばれて。」ととぎれているのに、どこへでもつながっている。その「つながり」にそのまま飲み込まれていくような感じである。
そして、この「どこへでも」は、けれど、絶対に生をまっとうした先の「死」ではない、という印象がある。直感的に、私は、そう思う。
この「か」の繰り返しによる不思議な音楽。それは、前へ進んでゆくというより、どこかへ引き返していく。そして、その引き返すという運動の方向性だけをみると、粕谷の「死」から「生」への逆行に似てはいるのだが、「かすれている」ということばが象徴的なように、それは何からしらエネルギーの衰弱につながるものである。粕谷の「死」が「生」へと逆行してきて、そこでいきいきと動くのに対して、高貝のことばは逆行することで徐々に弱まっていく。弱々しくなっていく。無力になっていく。
めんどうくさい(?)のは、そんなふうに無力になるのに、それは「ゼロ」にはならないという点である。無力になり、ゼロに近づけば近づくほど、あ、そういう遠いところから高貝のことばはやってきていたのだ。いま、高貝のことばは、そのことばが生まれてきたはるかなはるかな遠くへ帰っていくのだという印象が強くなる。
高貝のことばは、「いま」「ここ」を切り開いて、「いま」「ここ」ではない時と場へとは炸裂しない。逆なのだ。「いま」「ここ」に開いているものを、静かに閉じて、フィルムを逆回しにするようにして、「いま」「ここ」以前へと帰るのである。
その「時」と「場」はどこか。
「柳川」ということばのせいだろうか。「くみず」「めかんじゃ」という音のせいだろうか。私は白秋を思い出すのだ。先日読んだ部分では、なんとなく朔太郎を思い出した。きょうは白秋を思い出している。高貝のことば、そのリズム、そのメロディー(というのだろうか、音の変化の組み合わせ方)は、高貝のことばが生まれる以前から存在したことばへと帰っていく。
なつかしいなつかしい「未生」のゆりかご。「おしめ」が登場するから、赤ん坊や、赤ん坊以前を思うのだろうか。
「霊」(高貝は旧字体をつかっているが、私は新字体で引用している)を「ひ」と読ませるということを私は高貝のこの詩で始めて知った。「霊」には「たましい」とか「神」というような意味合いがあり、それは「あきらかなもの」である。その「あきらか」と「火」が呼応して「ひ」になるのかもしれない。「日」は「太陽」であり、そこにも「あきらか」なものがある。
「霊」を「ひ」と読ませるとき、「霊」が「れい」になる前の「未生」の「ことばの場」が、ふいに見える。そのふいに見える「場」へ高貝のことばはかえっていく。朔太郎も白秋も通り越して、さらには古今集も万葉も通り越して、ことば以前へ帰っていくのかもしれない。
かすかに、弱まりながら「ゼロ」を通り越して、どこかへ帰っていく。
限りなく弱まり(というのは表面的な印象であるが)、「ゼロ」に近づくのは、「未生」へ帰るには「存在」であってはいけないからなのだろう。「未生」とは存在以前である。そういう「場」へ帰るにはできるかぎり小さくならなければならないのだ。
きっと素粒子の振動(波)になって、高貝のことばは、ことば以前へ帰る。
高貝の書いているは、そのための素粒子の波動そのものなのである。
そんな過激なことばにおいては、「みずの火」(水の火)というような、実際にはありえないようなことばが瞬間的に炸裂する。炸裂して「見ずの火」(見なかったけれど絶対的にあきらかなもの」を、どこにもない場に刻印する。それは「水子」のように、実際には存在しないのに、存在してしまう何かでもあり、その存在は一度存在してしまうと、それが存在しなくなってからも、刻印として残る。
そのときの刻印が「詩」である。
粕谷栄市の『遠い 川』には「死」がたくさん出てくる。けれど、それは「死」を通り越している。「死」なのだけど、けっして死なない。「死」へ行ってしまうことはない。逆に「死」は「生」の方へ越境してくる。「生」から「死」へではなく、「死」から「生」へと越境する「時間」がある。「死」は生まれ、そして「生きる」のである。
だから「死」は「幸福」なのだ。
高貝弘也のことばは、どうだろうか。粕谷のことばとは逆の動きに見える。年齢的には、粕谷の方が高貝よりはるかに高齢である(はずである。--私は、粕谷にも高貝にも会ったことはないので、はっきりとはわからないが……。)それでも、不謹慎な言い方になるけれど、その若いはずの高貝の方が「死」に近い。「死」に近づいていくことばである。
ただし、そのときの「死」とは、生が生をまっとうした先にある「死」ではなく、なにやら「生」が生まれる前の、つまり「未生」の「死」という感じがする。
あの露地へ、ひとがたが だしぬけに呼ばれて。
密かに川明かり かすれている
お襁褓(おしめ)が泣いている。柳川の水汲場(くみず)、
それは女間者貝(メカンジャ)の殻の 傍らで
過ぎし日の、夏草の霊(ひ)よ さようなら
泣けば手向(たむ)けの、みずの火よ
さようなら
ここに書かれていることが具体的に何なのか、私にはさっぱりわからない。何が書かれているかさっぱりわからないのに、断片的に、ことばにひかれてしまう。「ひとがたが だしぬけに呼ばれて。」と中途半端な響きのまま終わることばは、どこへでもつづいていく。つながっていく。「呼ばれて。」ととぎれているのに、どこへでもつながっている。その「つながり」にそのまま飲み込まれていくような感じである。
そして、この「どこへでも」は、けれど、絶対に生をまっとうした先の「死」ではない、という印象がある。直感的に、私は、そう思う。
ひそ「か」に「か」わあ「か」り 「か」すれている
この「か」の繰り返しによる不思議な音楽。それは、前へ進んでゆくというより、どこかへ引き返していく。そして、その引き返すという運動の方向性だけをみると、粕谷の「死」から「生」への逆行に似てはいるのだが、「かすれている」ということばが象徴的なように、それは何からしらエネルギーの衰弱につながるものである。粕谷の「死」が「生」へと逆行してきて、そこでいきいきと動くのに対して、高貝のことばは逆行することで徐々に弱まっていく。弱々しくなっていく。無力になっていく。
めんどうくさい(?)のは、そんなふうに無力になるのに、それは「ゼロ」にはならないという点である。無力になり、ゼロに近づけば近づくほど、あ、そういう遠いところから高貝のことばはやってきていたのだ。いま、高貝のことばは、そのことばが生まれてきたはるかなはるかな遠くへ帰っていくのだという印象が強くなる。
高貝のことばは、「いま」「ここ」を切り開いて、「いま」「ここ」ではない時と場へとは炸裂しない。逆なのだ。「いま」「ここ」に開いているものを、静かに閉じて、フィルムを逆回しにするようにして、「いま」「ここ」以前へと帰るのである。
その「時」と「場」はどこか。
お襁褓(おしめ)が泣いている。柳川の水汲場(くみず)、
それは女間者貝(メカンジャ)の殻の 傍らで
「柳川」ということばのせいだろうか。「くみず」「めかんじゃ」という音のせいだろうか。私は白秋を思い出すのだ。先日読んだ部分では、なんとなく朔太郎を思い出した。きょうは白秋を思い出している。高貝のことば、そのリズム、そのメロディー(というのだろうか、音の変化の組み合わせ方)は、高貝のことばが生まれる以前から存在したことばへと帰っていく。
なつかしいなつかしい「未生」のゆりかご。「おしめ」が登場するから、赤ん坊や、赤ん坊以前を思うのだろうか。
過ぎし日の、夏草の霊(ひ)よ さようなら
泣けば手向(たむ)けの、みずの火よ
さようなら
「霊」(高貝は旧字体をつかっているが、私は新字体で引用している)を「ひ」と読ませるということを私は高貝のこの詩で始めて知った。「霊」には「たましい」とか「神」というような意味合いがあり、それは「あきらかなもの」である。その「あきらか」と「火」が呼応して「ひ」になるのかもしれない。「日」は「太陽」であり、そこにも「あきらか」なものがある。
「霊」を「ひ」と読ませるとき、「霊」が「れい」になる前の「未生」の「ことばの場」が、ふいに見える。そのふいに見える「場」へ高貝のことばはかえっていく。朔太郎も白秋も通り越して、さらには古今集も万葉も通り越して、ことば以前へ帰っていくのかもしれない。
かすかに、弱まりながら「ゼロ」を通り越して、どこかへ帰っていく。
限りなく弱まり(というのは表面的な印象であるが)、「ゼロ」に近づくのは、「未生」へ帰るには「存在」であってはいけないからなのだろう。「未生」とは存在以前である。そういう「場」へ帰るにはできるかぎり小さくならなければならないのだ。
きっと素粒子の振動(波)になって、高貝のことばは、ことば以前へ帰る。
高貝の書いているは、そのための素粒子の波動そのものなのである。
そんな過激なことばにおいては、「みずの火」(水の火)というような、実際にはありえないようなことばが瞬間的に炸裂する。炸裂して「見ずの火」(見なかったけれど絶対的にあきらかなもの」を、どこにもない場に刻印する。それは「水子」のように、実際には存在しないのに、存在してしまう何かでもあり、その存在は一度存在してしまうと、それが存在しなくなってからも、刻印として残る。
そのときの刻印が「詩」である。
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