詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「ウエストサイド物語」(★★★★★)

2010-11-17 22:09:39 | 午前十時の映画祭
ロバート・ワイズ、ジェローム・ロビンス監督「ウエストサイド物語」(★★★★★)

監督 ロバート・ワイズ、ジェローム・ロビンス 音楽 レナード・バーンスタイン 作詞 スティーブン・サンドハイム 出演 ナタリー・ウッド、リチャード・ベイマー、ラス・タンブリン、リタ・モレノ、ジョージ・チャキリス

 私がはじめてスクリーンで見たのは沖縄返還の年、沖縄の映画館だった。アメリカサイズのスクリーンにびっくりした。田舎の映画館の5 倍くらいに感じた。映画感からはみ出すスクリーン、そしてそのスクリーンをはみ出す役者の踊り。後の方の席で見たのだが、最前列で見ているような気分だった。
 この映画の中で私が一番好きなのは「Gee, Officer Krupke (クラプキ巡査どの)」である。少年達がなぜ不良になったのかを歌う。レナード・バーンスタインの曲がすばらしいのはいうまでもないことだが、スティーブン・サンドハイムの詞がすばらしい。50年も前の作品だが、いまも同じ問題が存在している。まったく古びることがない。「Cool(クール)」も好きだ。
 役者はジョージ・チャキリスがポスターとダンスの影響だろうか、とても人気だったが(いまも人気かもしれない)、私はリタ・モレノが気に入っている。クライマックスで思わず嘘をつくシーンもいいけれど、その前のナタリー・ウッドとのやりとりのシーンが好きだ。「あんたの愛は間違っている」といったんはナタリー・ウッドを責めるのだが、ナタリー・ウッドに泣きつかれ「愛に正しいも間違っているもない。愛の人生があるだけ」という名台詞を口にする。
 女の、女による、女のための愛の名言――を通り越して、女そのものを語っている。ボーボワールは「女は女に生まれるのではない、女になるのだ」と言って、それは20世紀の思想そのものになったけれど、これに匹敵するなあ。
 この強いことばを、強さを感じさせず、それこそ思想として語る。「寅さん」の「それを言っちゃおしまいよ」と同じ自然な正直さで語る。唸ってしまう。
 と、ここまで書いて思うのだが、「America (アメリカ)」も女が歌う歌詞がいいねえ。このころから時代を女性が確実にリードし始めたのだとわかる。最後に生き残るのがナタリー・ウッドというのは、そういう意味では象徴的かもしれない。

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粕谷栄市『遠い川』(2)

2010-11-17 00:00:00 | 詩集
粕谷栄市『遠い川』(2)(思潮社、2010年10月30日発行)

 粕谷栄市『遠い川』の作品群は、時間の動きが独特なのだ。粕谷は不動の「時」を描いている。「時間」はある不動の「時」のためにだけ存在している。
 「白瓜」。

 涼しい夏の夕べ、白瓜の好きな男が、あぐらをかいて
白瓜を食っている。そのために、何日も、畑に行って、
丹精して作った白瓜を、箸で挟み、うっとりと目をつむ
って、味わっている。

 ここで描かれている「時」というのは「白瓜を食う」という「時」である。
 この1段落では、「そのために、」ということばが非常にあいまいで、複雑である。あいまいと書いたが、意味自体はあいまいではない。意味的には「白瓜を食うために」であり、「その」は「白瓜を食う」を指している。問題は--と言っていいのかよくわからないが、ふつうは(と私の知っている「学校文法」は主張する)、こういうとき「そのために」とはいわない。白瓜を食いたいがために、何日も畑へ行って丹精に作った。--それはそれで、「意味」としてわかるのだが、そういう「意味」を抱え込んで、ことばは最初の文章へもどっていく。
 その丹精をこめるという時間を味わうように、男は白瓜を、うっとりと目をつむって食べている、味わっている。
 「そのために、……作った」はいったいなんだったのだろうか。それは、いま、白瓜を食っている「時」に挿入された「時間」なのである。
 いま、白瓜を食っているという「時」、そのいわば「いま」という「短い時間」に対して、それよりも「長い時間」が挿入される。そうすることで「いま」という「時」が一瞬ではなく、「長い時間」に変わっていく。

 いや、青空の畑で青い蔓に実っただけの白瓜では、そ
のように、彼が満ち足りた思いをすることはない。
 頬被りして、こそに行き、それを家まで持って帰って、
井戸端で、一つずつ水で洗い、桶に漬け込んだ女がいな
ければならない。

 女が畑から白瓜をとってきて、洗い、漬け物にするという「時間」が「いま」に挿入される。「いま」はその時間を挿入されることで豊かになっていく。そうして、男が食べているのが「白瓜」ではなく、「時間」そのものになっていく。
 「時間」(時の経過)をしめすことばが、次の段落に多くなるのは必然である。

 その日から、塩と重しの石が、ゆっくりと、白瓜を甘
くする。男がはだかで田の草を採り、女が馬に餌をやる、
幾日か幾晩か、やがて、そのときがやってくる。

 「その日から」「幾日か幾晩か」。その「時間」のすべてが、「いま」に挿入される。時間だけではなく、時間とともにある暮らしが挿入される。男が「田の草を採り」「女が馬に餌をやる」。それはひりとの「時間」ではなく、複数の人間の「時間」であるが、その複数の人間の「時間」が、「ひとつ」の「時間」として「いま」の内部を耕すのである。
 そして、その「時間」の運動を、「やがて、そのときがやってくる」。この「現在形」。「やってくる」。
 あらゆる「時間」が「いま」になる。過去のことだけれど、「いま」になる。
 このあと、女が白瓜の漬け物をとりだし、男がそれを食べるという描写がある。女は白瓜を食べる男が好き、男の胸板か好き、そして食べる男のそばで「優しくうちわで蚊を追っている」のだが、それはそうすることがやはり好きだからである。
 そのあと。

 涼しい夏の夕べ、本当は、その二人が、とっくに死ん
でいたのだとしても、これらの全てが、地獄にいる二人
の幻だったとしても、そのことにまちがいはない。

 ふいにあらわれる「死」。「いま」白瓜を食うという「生」と、その「生」を死んだ二人が見る幻だとするもののみかたが、「いま」のなかで固く結びつく。固すぎて、それが「死」であっても「生」であっても同じなのだ。
 「生」は「死」とともに生きている。「生」のなかに「死」があり、「死」のなかに「生」がある。それは区別がつかない。そのどれもが「いま」「白瓜を食べる」という「時」のなかに「時間」を挿入し、人の生きる時間を「一生」にする。
 この「一生」は「ふたり一緒」の「一緒」なのだと書いてしまうと、へたなだじゃれみたいだが、なにもかもが「一緒」になって、「いま」という時のなかに入り込む。「いま」という「時」のなかにあらゆる「時間」が見える--そういう「時間」と「時」との関係を粕谷は書いている。



続・粕谷栄市詩集 (現代詩文庫)
粕谷 栄市
思潮社

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