詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粕谷栄市『遠い川』(10)

2010-11-25 23:59:59 | 詩集
粕谷栄市『遠い川』(10)(思潮社、2010年10月30日発行)

 きのう、粕谷のこの詩集の明るさについて少し書いた。そこには「生きていることが特別な時間なのだという哲学」があるから明るいのだ。一方、死を描くからには明るさだけではなく、別な面もある。さびしさである。
 「隠者」には、さびしい音が響いている。

 そうしていると、次第に、からだが、痩せ衰えてくる。
そのまま、年月をすごすと、やがて、目がかすみ、すべ
てが、ぼんやりとしか見えなくなる。
 悦ばしいことに、そのために、すべてを、ぼんやりと
しか考えられなくなるのだ。彼に約束されるのは、襤褸
を下げて、あちこちを、さ迷い歩くことであり、やがて、
そのぼんやりとした世界のどこかで、行き倒れて死体と
なることなのである。
 隠者が、真の隠者となるのは、それからである。つま
り、それからは、彼は、隠者として、魂の力のみで存在
することになる。

 「悦ばしい」と書いているけれど、そこには歓喜はなく、逆にさびしさがある。このさびしさは、きっと「魂の力」に原因がある。「魂の力」を粕谷は、「魂の力のみ」と強調して書いているが、この「のみ」にさびしさがあるのかもしれない。
 「のみ」は単独をあらわす。「ひとつ」をあらわす。誰とも出会わない。だから「さびしい」。
 この「魂(の力)」を粕谷は言い換えている。

 そうなった彼は、万事、自由である。他人の家に入り
こんで、飯櫃の飯を食ってもいいし、女を襲っても構わ
ない。どこかの寺の松の木に首を吊ってもいいのだ。
 つまり、それが、隠者としての彼に関わるものである
限り、一切は、この世のことでないから、それらは、彼
にしか存在しないできごとになるのである。

 ここに書かれている「哲学」には簡単に触れることはできないかもしれない。簡単に触れてしまうと、何か、とんでもないことが起きそうな気がする。
 たとえば、ここには「自由」ということばが書かれているが、その定義は? なんでもできるから自由? しかし、そのなんでもできるは、彼にしか存在しないできごとなのだから、不自由であるはずがない。不自由ではないということが「自由」であるとは、言えないのではないのか。

 そのことの意味を考えるのは、さらにばかげたことで
ある。彼の一切は、虚妄のことなのだ。

 「自由」とは「虚妄」のことである。もし、そうであるなら、「自由」を求めることに何の価値があるのだろう。
 この詩では、何かがおかしい。そして、その何かおかしいところに、「さびしい」の原因がある。「魂の力」というようなものに頼っている(?)のが、その「さびしさ」の原因かもしれない。
 「夢」の場合は、こういう「さびしさ」とは無縁である。「夢」と「虚妄」の違いが「さびしさ」の原因かもしれない。
 そして、そのことを思うと、「虚妄」を引き出したいくつかのことばが気になりはじめる。
 「虚妄」は「意味」「考える」から生まれている。そして、その「意味」を「考える」のは何かといえば、それは「魂の力」である。「魂」が「意味」を「考える」。そのとき、世界から何かが抜け落ちていく。その欠落が「さびしい」のである。
 何が抜け落ちていくのか。
 「肉体」である。
 飯を食う「肉体」、女を襲う「肉体」。そういうものがないとき、その「食う」も「襲う」も「虚妄」である。「魂」が考えただけの行為である。実体がない。

 「夢」は「日常を超えてやってくる、特別の時間」である。それに対して、その反対の「虚妄」は日常を「超えることなく」やってくる、特別の時間である。
 「日常を超える」「日常を超えない」の違いは何か。「日常」とは何か。「繰り返す」が「日常」であった。「日常」はつづいているものである。繰り返し、つづいているものである。人間にとって、繰り返しつづいているものとは何だろう。何かを「繰り返すことのできる・肉体」である--と、直感的に言ってしまおう。
 「夢」は、「肉体」を超えてやってくる、特別な時間である。「肉体を超える」とは「肉体」の遠くから、かけ離れたところからやってくる、ということかもしれない。
 一方、「虚妄」は「肉体」を超えることなくやってくる。「肉体」を超えない、とはどういうことになるだろうか。「肉体」の内部から。「肉体」の連続していることころから。そして、それは「考える」ということと結びついていることを思うとき、私には「頭」ということばが浮かんでくる。
 「頭」で「意味」を「考える」。「魂」で「意味」を「考える」。「魂」とは「頭」である。そのとき、「虚妄」がやってくる。「夢」ではなく、「虚妄」がやってくる。
 それは、さびしい。

 「魂」(頭)で考えることは、さびしいことなのだ。
 「隠者」--「隠者として生きるには、それ相応の覚悟がいる。」というのは、この詩の書き出しのことばだが、ここに、もうひとつ「さびしい」につながることばがある。
 「隠者」というのは「頭」で考え出されたものだが、同じように、「生きる」というのも「頭」で考え出されたことばなのだ。きっと。

 私はきっととんでもないことを書いているのだろうけれど、粕谷の詩(そのことば)を読むと、「生きる」ということを考えないものが、人間にはある。「肉体」である。「肉体」は「生きる」ということを考えない。もし「肉体」が何かをするとすれば、それはただ「死」へ向かうということである。考えるのではなく、ただ「生きる」。「生きている」という動きのなかにだけ「肉体」があり、それは「肉体」の外から「夢」がやってくるのを待っている。「夢」とは、そのとき「肉体」の完全なる外部にあるものだから「死」でもあるのだ。
 「死」こそが「夢」。「死」は、「日常を超えてやってくる、特別の時間」。「死」だけが「虚妄」から人間を解放する。

 そのいじけた男は、最後に、ただ、人並みに、白骨と
なって、生涯を閉じることのできた僥倖だけを、真の何
ものかの魂に感謝すべきなのである。

 最後にもう一度「魂」が出てくることがこの詩を複雑にしている。この最後の「魂」は「いじけた男の・魂」ではなく、「真の何ものかの魂」である。そのことを、しっかり、みつめないと、この作品はわけのわからないものになる。
 もし「魂」というものがあるとしても、それは「私」の魂ではなく、つまり「肉体」のなかにあるものではなく、外にあるものであるとき、そこに死の幸福がやってくる。無事に、白骨になって、死ぬことができる。

 よりよく死ぬために、粕谷は、この詩で「魂」を「頭」を捨てる練習をしている。私には、なぜだか、そんなふうに感じられる。



遠い川
粕谷 栄市
思潮社


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ナボコフ『賜物』(21)

2010-11-25 10:24:41 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(21)

 私は--いやはや、本当のところ--虚弱で、わがままで、透明でした--そう、水晶の卵のように透明でしたね。
                                 (37ページ)

 ナボコフのことばは、「透明」である。これは内部に「濁り」(不純物)がないという意味である。
 そういう透明な存在と世界との関係はどうなるか。

青みを帯びた夕闇が幾重にも層を織りなしている部屋の中でベッドに平らに横たわった私の内には、信じがたいほどの明るさが秘められていました--それは、黄昏時の空間に輝かしく青白い空が彼方まで帯のように延び、そこにどことも知れない遠くの島々の岬や砂州が見えるかのようで、さらに自分の軽やかなまなざしをもうちょっと遠くに飛ばすと、濡れた砂の上に引き上げられたきらめくボートや、遠ざかっていく足跡を満たすまばゆい水まで見わけられるのではないかと思えるような、そんな明るさでした。
                                 (38ページ)

 近くと遠くの関係がなくなる。消える。自己と自己の外の世界の垣根がなくなる。「透明」の反対は「不透明」ではなく、「枠」(垣根、区切り)というようなことばであらわすことのできる何かなのかもしれない。
 「枠」(区切り)がないから、それは「どことも知れない」場所である。しかし、それは「遠く」であることはわかる、という矛盾した世界である。「どことも知れない」なら、それは「近く」である可能性もあるのだ。私たちは「どことも知れない」ところを「遠く」と考える習慣があるが、これは、知らないのは行ったことがないから--つまり、「遠く」だからと考えるが、それは単なるずぼらな精神がそうさせるだけのことである。ナボコフのように、どこまでもことばにしてしまう作家の精神にとって、「どことも知れない」が「遠く」と簡単に結びつくはずがない。
 では、なぜ、ナボコフはここで「遠く」ということばを使っているのか。
 それにつづいて出てくる「さらに」が重要なのだ。

さらに自分の軽やかなまなざしをもうちょっと遠くに飛ばすと、

 「さらに」「遠く」。自己と自己の外の区切りはなく、この小説の主人公は、ベッドのなかにいながら、遠くを見る。そして、その遠くを見る視線を「さらに」遠くへ飛ばす。自己と自己の外との区切りはない、つまり、そこに距離がないにもかかわらず、その外のある一点と他の一点との間に「距離」はある。そういう「距離」を無意識の内に見てしまう。
 「どことも知れない」は、それがどこであっても構わないということを意味する。そして「さらに」は、そのどこであってもかまわない場所であっても、ナボコフは、そこに「距離」を、「空間」を見てしまう。「隔たり」を見てしまう。
 どこまでも「透明」なナボコフは、ある一点と他の一点を隔てる「透明」な「空間」(距離)に親和してしまう。(親和する--という動詞があるかどうかもわからずに、私は、ふと書いてしまったのだが……。)
 そして、この「親和力」が「青みを帯びた夕闇が幾重にも層を織りなし……」というような、美しいことばの光景になる。--美しい光景がことばになる、というより、美しいことばが光景を美しく調え、それからナボコフと親和する。


ロリータ、ロリータ、ロリータ
若島 正
作品社

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