粕谷栄市『遠い川』(10)(思潮社、2010年10月30日発行)
きのう、粕谷のこの詩集の明るさについて少し書いた。そこには「生きていることが特別な時間なのだという哲学」があるから明るいのだ。一方、死を描くからには明るさだけではなく、別な面もある。さびしさである。
「隠者」には、さびしい音が響いている。
「悦ばしい」と書いているけれど、そこには歓喜はなく、逆にさびしさがある。このさびしさは、きっと「魂の力」に原因がある。「魂の力」を粕谷は、「魂の力のみ」と強調して書いているが、この「のみ」にさびしさがあるのかもしれない。
「のみ」は単独をあらわす。「ひとつ」をあらわす。誰とも出会わない。だから「さびしい」。
この「魂(の力)」を粕谷は言い換えている。
ここに書かれている「哲学」には簡単に触れることはできないかもしれない。簡単に触れてしまうと、何か、とんでもないことが起きそうな気がする。
たとえば、ここには「自由」ということばが書かれているが、その定義は? なんでもできるから自由? しかし、そのなんでもできるは、彼にしか存在しないできごとなのだから、不自由であるはずがない。不自由ではないということが「自由」であるとは、言えないのではないのか。
「自由」とは「虚妄」のことである。もし、そうであるなら、「自由」を求めることに何の価値があるのだろう。
この詩では、何かがおかしい。そして、その何かおかしいところに、「さびしい」の原因がある。「魂の力」というようなものに頼っている(?)のが、その「さびしさ」の原因かもしれない。
「夢」の場合は、こういう「さびしさ」とは無縁である。「夢」と「虚妄」の違いが「さびしさ」の原因かもしれない。
そして、そのことを思うと、「虚妄」を引き出したいくつかのことばが気になりはじめる。
「虚妄」は「意味」「考える」から生まれている。そして、その「意味」を「考える」のは何かといえば、それは「魂の力」である。「魂」が「意味」を「考える」。そのとき、世界から何かが抜け落ちていく。その欠落が「さびしい」のである。
何が抜け落ちていくのか。
「肉体」である。
飯を食う「肉体」、女を襲う「肉体」。そういうものがないとき、その「食う」も「襲う」も「虚妄」である。「魂」が考えただけの行為である。実体がない。
「夢」は「日常を超えてやってくる、特別の時間」である。それに対して、その反対の「虚妄」は日常を「超えることなく」やってくる、特別の時間である。
「日常を超える」「日常を超えない」の違いは何か。「日常」とは何か。「繰り返す」が「日常」であった。「日常」はつづいているものである。繰り返し、つづいているものである。人間にとって、繰り返しつづいているものとは何だろう。何かを「繰り返すことのできる・肉体」である--と、直感的に言ってしまおう。
「夢」は、「肉体」を超えてやってくる、特別な時間である。「肉体を超える」とは「肉体」の遠くから、かけ離れたところからやってくる、ということかもしれない。
一方、「虚妄」は「肉体」を超えることなくやってくる。「肉体」を超えない、とはどういうことになるだろうか。「肉体」の内部から。「肉体」の連続していることころから。そして、それは「考える」ということと結びついていることを思うとき、私には「頭」ということばが浮かんでくる。
「頭」で「意味」を「考える」。「魂」で「意味」を「考える」。「魂」とは「頭」である。そのとき、「虚妄」がやってくる。「夢」ではなく、「虚妄」がやってくる。
それは、さびしい。
「魂」(頭)で考えることは、さびしいことなのだ。
「隠者」--「隠者として生きるには、それ相応の覚悟がいる。」というのは、この詩の書き出しのことばだが、ここに、もうひとつ「さびしい」につながることばがある。
「隠者」というのは「頭」で考え出されたものだが、同じように、「生きる」というのも「頭」で考え出されたことばなのだ。きっと。
私はきっととんでもないことを書いているのだろうけれど、粕谷の詩(そのことば)を読むと、「生きる」ということを考えないものが、人間にはある。「肉体」である。「肉体」は「生きる」ということを考えない。もし「肉体」が何かをするとすれば、それはただ「死」へ向かうということである。考えるのではなく、ただ「生きる」。「生きている」という動きのなかにだけ「肉体」があり、それは「肉体」の外から「夢」がやってくるのを待っている。「夢」とは、そのとき「肉体」の完全なる外部にあるものだから「死」でもあるのだ。
「死」こそが「夢」。「死」は、「日常を超えてやってくる、特別の時間」。「死」だけが「虚妄」から人間を解放する。
最後にもう一度「魂」が出てくることがこの詩を複雑にしている。この最後の「魂」は「いじけた男の・魂」ではなく、「真の何ものかの魂」である。そのことを、しっかり、みつめないと、この作品はわけのわからないものになる。
もし「魂」というものがあるとしても、それは「私」の魂ではなく、つまり「肉体」のなかにあるものではなく、外にあるものであるとき、そこに死の幸福がやってくる。無事に、白骨になって、死ぬことができる。
よりよく死ぬために、粕谷は、この詩で「魂」を「頭」を捨てる練習をしている。私には、なぜだか、そんなふうに感じられる。
きのう、粕谷のこの詩集の明るさについて少し書いた。そこには「生きていることが特別な時間なのだという哲学」があるから明るいのだ。一方、死を描くからには明るさだけではなく、別な面もある。さびしさである。
「隠者」には、さびしい音が響いている。
そうしていると、次第に、からだが、痩せ衰えてくる。
そのまま、年月をすごすと、やがて、目がかすみ、すべ
てが、ぼんやりとしか見えなくなる。
悦ばしいことに、そのために、すべてを、ぼんやりと
しか考えられなくなるのだ。彼に約束されるのは、襤褸
を下げて、あちこちを、さ迷い歩くことであり、やがて、
そのぼんやりとした世界のどこかで、行き倒れて死体と
なることなのである。
隠者が、真の隠者となるのは、それからである。つま
り、それからは、彼は、隠者として、魂の力のみで存在
することになる。
「悦ばしい」と書いているけれど、そこには歓喜はなく、逆にさびしさがある。このさびしさは、きっと「魂の力」に原因がある。「魂の力」を粕谷は、「魂の力のみ」と強調して書いているが、この「のみ」にさびしさがあるのかもしれない。
「のみ」は単独をあらわす。「ひとつ」をあらわす。誰とも出会わない。だから「さびしい」。
この「魂(の力)」を粕谷は言い換えている。
そうなった彼は、万事、自由である。他人の家に入り
こんで、飯櫃の飯を食ってもいいし、女を襲っても構わ
ない。どこかの寺の松の木に首を吊ってもいいのだ。
つまり、それが、隠者としての彼に関わるものである
限り、一切は、この世のことでないから、それらは、彼
にしか存在しないできごとになるのである。
ここに書かれている「哲学」には簡単に触れることはできないかもしれない。簡単に触れてしまうと、何か、とんでもないことが起きそうな気がする。
たとえば、ここには「自由」ということばが書かれているが、その定義は? なんでもできるから自由? しかし、そのなんでもできるは、彼にしか存在しないできごとなのだから、不自由であるはずがない。不自由ではないということが「自由」であるとは、言えないのではないのか。
そのことの意味を考えるのは、さらにばかげたことで
ある。彼の一切は、虚妄のことなのだ。
「自由」とは「虚妄」のことである。もし、そうであるなら、「自由」を求めることに何の価値があるのだろう。
この詩では、何かがおかしい。そして、その何かおかしいところに、「さびしい」の原因がある。「魂の力」というようなものに頼っている(?)のが、その「さびしさ」の原因かもしれない。
「夢」の場合は、こういう「さびしさ」とは無縁である。「夢」と「虚妄」の違いが「さびしさ」の原因かもしれない。
そして、そのことを思うと、「虚妄」を引き出したいくつかのことばが気になりはじめる。
「虚妄」は「意味」「考える」から生まれている。そして、その「意味」を「考える」のは何かといえば、それは「魂の力」である。「魂」が「意味」を「考える」。そのとき、世界から何かが抜け落ちていく。その欠落が「さびしい」のである。
何が抜け落ちていくのか。
「肉体」である。
飯を食う「肉体」、女を襲う「肉体」。そういうものがないとき、その「食う」も「襲う」も「虚妄」である。「魂」が考えただけの行為である。実体がない。
「夢」は「日常を超えてやってくる、特別の時間」である。それに対して、その反対の「虚妄」は日常を「超えることなく」やってくる、特別の時間である。
「日常を超える」「日常を超えない」の違いは何か。「日常」とは何か。「繰り返す」が「日常」であった。「日常」はつづいているものである。繰り返し、つづいているものである。人間にとって、繰り返しつづいているものとは何だろう。何かを「繰り返すことのできる・肉体」である--と、直感的に言ってしまおう。
「夢」は、「肉体」を超えてやってくる、特別な時間である。「肉体を超える」とは「肉体」の遠くから、かけ離れたところからやってくる、ということかもしれない。
一方、「虚妄」は「肉体」を超えることなくやってくる。「肉体」を超えない、とはどういうことになるだろうか。「肉体」の内部から。「肉体」の連続していることころから。そして、それは「考える」ということと結びついていることを思うとき、私には「頭」ということばが浮かんでくる。
「頭」で「意味」を「考える」。「魂」で「意味」を「考える」。「魂」とは「頭」である。そのとき、「虚妄」がやってくる。「夢」ではなく、「虚妄」がやってくる。
それは、さびしい。
「魂」(頭)で考えることは、さびしいことなのだ。
「隠者」--「隠者として生きるには、それ相応の覚悟がいる。」というのは、この詩の書き出しのことばだが、ここに、もうひとつ「さびしい」につながることばがある。
「隠者」というのは「頭」で考え出されたものだが、同じように、「生きる」というのも「頭」で考え出されたことばなのだ。きっと。
私はきっととんでもないことを書いているのだろうけれど、粕谷の詩(そのことば)を読むと、「生きる」ということを考えないものが、人間にはある。「肉体」である。「肉体」は「生きる」ということを考えない。もし「肉体」が何かをするとすれば、それはただ「死」へ向かうということである。考えるのではなく、ただ「生きる」。「生きている」という動きのなかにだけ「肉体」があり、それは「肉体」の外から「夢」がやってくるのを待っている。「夢」とは、そのとき「肉体」の完全なる外部にあるものだから「死」でもあるのだ。
「死」こそが「夢」。「死」は、「日常を超えてやってくる、特別の時間」。「死」だけが「虚妄」から人間を解放する。
そのいじけた男は、最後に、ただ、人並みに、白骨と
なって、生涯を閉じることのできた僥倖だけを、真の何
ものかの魂に感謝すべきなのである。
最後にもう一度「魂」が出てくることがこの詩を複雑にしている。この最後の「魂」は「いじけた男の・魂」ではなく、「真の何ものかの魂」である。そのことを、しっかり、みつめないと、この作品はわけのわからないものになる。
もし「魂」というものがあるとしても、それは「私」の魂ではなく、つまり「肉体」のなかにあるものではなく、外にあるものであるとき、そこに死の幸福がやってくる。無事に、白骨になって、死ぬことができる。
よりよく死ぬために、粕谷は、この詩で「魂」を「頭」を捨てる練習をしている。私には、なぜだか、そんなふうに感じられる。
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