詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ナボコフ『賜物』(3)

2010-11-05 11:40:07 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(3)

色とりどりの歩道を備えているこの通りは、ほとんど気づかないくらいの上り坂になっていて、まるで書簡体小説のように郵便局で始まり、教会で終わっていた。
                                (9ページ)

 「書簡体小説」が郵便局で始まり、教会で終わるというのは、手紙を書き、投函するところから始まり、ひとりに死んでしまう(教会での葬儀)ことで終わるということなのかもしれない。皮肉っぽい見方であるけれど、小説のなかで町を描写するのに、その比喩に小説をつかう--この二重構造への偏執的な(?)好みは、ナボコフの特徴かもしれない。
 小説はあることがらをことばで描写することで成り立っているが、ナボコフはそのことばをもう一度ことばで描写するのである。ことばがことばを呼び寄せ、増殖し、動いていく。そしてそのときことばは、どうしても最初の目的(この場合、町の描写)を逸脱していく。
 町ではなく、「まるで書簡体小説のように郵便局で始まり、教会で終わっていた。」という意識をもっている人間の内面、そういうことばを瞬間的に要求してしまう人間の精神の運動、感覚の運動への暴走してゆく。

例えば、口のなかにすぐさま不愉快なオートミールか、さもなければハルヴァの味を呼び起こすような建物、(……以下略)
                                (9ページ)

 町の描写と同様に、この「肉体感覚」、人間の内面こそ、ナボコフはことばで暴走させたいのだ。



透明な対象 (文学の冒険シリーズ)
ウラジーミル ナボコフ
国書刊行会

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長田典子『清潔な獣』

2010-11-05 00:00:00 | 詩集
長田典子『清潔な獣』(砂子屋書房、2010年10月22日発行)

 長田典子『清潔な獣』を読み終わったとき、ある1行が突然甦ってきた。「また来てね」の前半に出てくる。

だけれどここから見える景色は近づきも遠のきもせずにそこに留まったままだ

 ホテルの67階からコンビナートの明かりを見ている。風景が動かないのは当たり前である。特別変わったことが書いてあるわけではない。けれど、この1行は私にはとても強烈に響いてきた。
 景色を書いているのだが、実は「あたし」を書いているのではないのか。
 「あたし」は「あたし」のまま。動かない。近づきもしないし、遠のきもしない。--これは当たり前のことのようだが、当たり前ではない。
 書くということは、自分が自分でなくなってしまうことである。書くことによって、どこかへ行ってしまう。だから、たとえホテルの67階ににいて遠くのコンビナートの明かりを見ていたのだとしても、書いたあとでは、その明かりはどこか違ったところへ行っているはずである。「あたし」が変わっているのだから、そこから見えるものが同じであるはずがない。動かないはずがない。相対的には、そうなるはずである。
 そうならない。動かない。それは、「あたし」が変わらないということにほかならない。

 長田は変わらないのである。この詩集に書かれていることが長田の実体験であるか、架空であるかは問題ではない。実体験であろうと架空のことであろうと、書くということをとおして人間は変わってしまうはずである。体験をとおして人間は変わるはずである。そうでなければ、書く意味も、体験する意味もない。
 私はそんなふうに考えているが、長田は逆である。どんな体験をしても、「あたし」はかわらない。
 新しい服を買うためにティッシュ売りの呼び子(?)をしても、見知らぬ男とセックスをしても、「あたし」が「あたし」であることに変わりはない。それは詩集の中に何度か登場する湖底の村のようでもある。生まれ育った村が湖底に沈み、家族がばらばらになる。学校も、記憶もすべて水によって封印させる。そこから「あたし」は脱出したのだけれど、「あたし」の純真なこころは、いつもその湖底にある。そして、いつもそこへ返っていく。その「湖底の村」で「あたし」は変わらない。
 実際には、「あたし」が動いているのだが、長田にとってはそれは「真実」ではない。「あたし」は変わらず、動かず、風景が、あるいはいろいろなひととの交わりの方が動いていくのである。

だけれどここから見える景色は近づきも遠のきもせずにそこに留まったままだ

 この1行は逆説である。その動かない景色は「あたし」の象徴を通り越し、「あたし」そのものである。
 この不思議なことばの運動、生き方は、私にはなんだかとても悲しく感じられる。「あたし」が動かず、風景が、そしてひとが変わっていく。そこでは傷つくということがない。どんなに傷ついたように見えても、その傷は「あたし」ではなく、相手の肉体に刻印されるだけである。傷は、そこからとんでもないものが体内に入り込み、肉体を替えてしまうからこそ傷なのである。
 この風変わりな詩集は、しかし、最後に美しい1篇を用意している。「モスコーミュール」。「あたし」はモスクワで(?)バイオリンを習っている。 

寒いのは厭じゃない鼻先や睫毛が凍りそうになって手や足の先がうまく動かなく
なってもからだの中心で呼吸しているトツトツトツという音がかえってあたしを
ここにいると感じさせてくれるから

路地から少数民族の民謡を奏でるバイオリンの音が聞こえる延々と続く草原を渡
る風のように澄み切っていて手織の絨毯の表面のようにところどころざらざらし
ている砂の匂いがする

バイオリンの旋律があたしの凍った鼻先や睫毛の先からきりきりと入ってきてあ
たしの喉や胃を潤し重い荷物を下ろした後のようにあたしはからだの芯から緩ん
でいく

 この詩ではじめて「あたし」がかわるのだ。「あたし」が「あたし」でなくなる。ここで、「あたし」ははじめて「他者」を受け入れている。
 変わる--とは「他者」を受け入れることなのだ。
 それまで「あたし」が変わらなかったのは、見知らぬ男とセックスをしても、愛のない肉体交渉をしても、「あたし」は傷つかない。何一つ変わらない。それは「あたし」がその相手を受け入れなかったからだ。
 「あたし」以外のひとからみれば、それは「他者」を受け入れているように見えるかもしれないが「あたし」の感覚では、それは「受け入れ」ではない。
 「凍った(略)睫毛の先から」が象徴的だが、そういういわば「侵入のための入口」のないところから入ってくるものなのだ。防ぎようのないところから入ってくる。睫毛の先には「入口」がない。「入口」をふさぐことができない。そういうところから入ってくるものこそ「他者」である。そして、その「他者」によって、「あたし」は「あたし」でなくなる。

 いま、「あたし」はそれまでとはまったく違った「あたし」になって、それまでの「あたし」がけっしてしなかったことをしている。

ターコイズブルーの天蓋のような空に開いた
白い穴を見上げる
唇をひらいて
施しを受ける人のように
見上げている

 「白い穴」とは雪のことである。「穴」ではないものが「穴」と呼ばれ、それを「あたし」は唇を開いて受け止める。唇の穴に、白い穴が入ってくる。それを「あたし」は受け入れる。「あたし」という「穴」がほんとうの「穴」にかわる。誰かを受け入れるものになる。
 ここから長田は変わっていくに違いない。





翅音―詩集
長田 典子
砂子屋書房

人気ブログランキングへ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする