詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ナボコフ『賜物』(13)

2010-11-16 10:50:12 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(13)

そして洋服箪笥の中に隠れると、足下ではナフタリンががりがり音を立て、人に見られることなく箪笥の隙間から、目の前をゆっくり通り過ぎていく召使を観察することができた。そうして見ると、召使は奇妙なほど新鮮な姿に生まれ変わって命を吹き込まれ、ため息をついていたり、お茶やリンゴの香りを漂わせたりしているように見えた。
                                 (24ページ)

 世界は自分をどのような立場に置くかによって違って見える。物陰に隠れて見る世界はいつもとは違って見える。それはそう見えるだけなのか、あるいはほんとうに違っているのか、--つまり、隠れていることが影響してそう見えるのか、それともの小説でいえば主人公がいないところ(召使からすれば少年はいないところ)では、召使は少年の知らない姿をしているだけなのか、実際のところはわからない。少年の前では召使はため息をつかない。けれど、少年のいないところではため息をついている。そういうこともありうる。
 そういうことは別にして、この部分でおもしろいのは、召使は「ため息をついていたり」、「お茶やリンゴの香りを漂わせたりしている」という表現である。前者は聴覚でとらえた世界である。耳でため息を聞く。後者は嗅覚でとらえた世界である。お茶やリンゴの香りは少年は嗅いでいる。そして、さらにおもしろいことには、そういう世界をナボコフは「……ように見えた」と視覚で封じ込めていることである。
 少年は聞いていない。香りを嗅いでいない。目で見たものから、音を聞いたように感じ、香りを感じたように感じている。そう、「見えた」のであって、そう聞いたわけでも、そう香りを嗅いだわけでもない。
 視覚が聴覚と嗅覚を覚醒させている。それは幻かもしれないけれど、幻よりも強烈かもしれない。幻よりも強く(明確に)存在するものかもしれない。

 聴覚、嗅覚が視覚に影響を与えるのではなく、視覚が他の感覚器官をゆさぶる。ナボコフにおいては視覚が他の感覚に優先し、またすべての感覚を統合するという働きをしている。



ロリータ (新潮文庫 赤 105-1)
ウラジミール・ナボコフ
新潮社


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粕谷栄市『遠い川』

2010-11-16 00:00:00 | 詩集
粕谷栄市『遠い川』(思潮社、2010年10月30日発行)

 粕谷栄市『遠い川』も、現代詩手帖の年鑑アンケートを回答したあとに読むことになってしまった。今年は例年になく詩集の発行が多いように感じる。しかもおもしろいものがおおい。

 粕谷栄市『遠い川』は感想を書くのが非常に難しい。40篇の詩が収められている。どの詩について書きはじめても同じことを書いてしまいそうである。けれども、その同じ感想のなかに少しずつ違いが出てくる(はずである)。その違いが、けれど違いなのかどうかわからないような気がするのである。
 あ、書き方を間違えた。
 この詩集には40篇の詩が収められている。その1篇1篇は独立した作品であり、それぞれに違ったことが書いてある。けれども、とても似ている。似ているのだけれど、違うのである。その似ていることと違っていることははっきりしているにもかかわらず、そのことを言いなおそうとするときっと同じことを書いてしまいそうなのである。
 とても変な予感がするのである。

 私は詩の感想を書くとき、「結論」というものを用意せずに書く。いわゆる「文章教室」でいうような「起承転結」というものも考えたことがない。ある行が気に入ったら、そのことを書く。書いているうちに次のことばが動きだす。ことばが動くままに書き、ことばが動かなくなったらやめる、ということを繰り返しているだけである。だから、この嫌いだなあ、と思いながら書きはじめてみたら、その詩が大好きということを書いていたり、逆に、この大好きと思って書きはじめたら大嫌いというところにたどりつくこともある。ことばがどこへ進んでいくかわからないのである。
 それが私のふつうの状態なのだが、粕谷の詩を読みはじめた瞬間から、あ、これは、変、と感じたのだ。書きたいことの「結論」というものはもちろん思い浮かばないのだが、どこから書いても、どの詩について書いてもきっと同じことを書いてしまう。少しずつ違っても、その違いは書いている私にだけ感じられる違いであって、誰にも通じない違い--とっても小さな違いである、という感じがするのだ。しかも面倒なことに、その少しの違いが非常に気になり1篇の詩の感想を書くだけでは終わらない、どこまでもどこまでも書かなければいけないという世界に引きこまれてしまいそう、と感じたのである。

 前置きばかり書いて、少しも詩の感想を書かないのは、そのためである。私は何だか怖くて、感想を書きたいのだけれど、それを引き伸ばしているのである。
 でも、もう、目をつぶって(?)書きはじめるしかない。予感を捨てて、あるいは捨てるように捨てるように、さらに捨てるようにしてことばを動かしていくしかない。
 冒頭の作品は「九月」。

 ずい分、永いこと一緒に暮らしたから、九月になった
ら、妻とふたり、ちょうちん花を見にゆきたいと思う。
 特に、何があるというわけでもない、その夜、私は、
ただ、それだけのことをしておきたいと思うのだ。

 この書き出しのふたつの「文章」を読んだだけで、私は苦しくなってしまう。これから始まることが予感できて、いやになる。そして、この「いやになる」は逆説なのである。いやになるのはわかっているが、読まずにはいられないのである。引きこまれるのである。そこには不思議なことばの「重力」がある。引力といってもいいのだけど、「重力」ということばを私が思いついたのは、きっと「引力」では説明できないなにか、ことばがことば自身の重さのために収縮していくようなものを感じるからだ。
 まるでブラックホールみたいなのだ。

 なぜ、読んだとたんに苦しくなるか。
 この詩は結局、冒頭の「文章」ですべてを語り尽くしている。それがくっきりとわかるからである。どんなにことばを重ねても、それは最初の文章の繰り返しなのだ。ほかのことは一切語らない。ただ、「九月になったら妻とちょうちん花を見にゆきたいと思う」という「意味」を粕谷は繰り返すだけである。

 ずい分、永いこと一緒に暮らしたから、九月になった
ら、妻とふたり、ちょうちん花を見にゆきたいと思う。
 特に、何があるというわけでもない、その夜、私は、
ただ、それだけのことをしておきたいと思うのだ。

 読み返すとはっきりする。最初の文章に書いていることを粕谷は言いなおしているだけである。何も変わっていない。何も変わっていないのに、ふたつめの文章がある。これは、ことばの「経済学」からいうと、とんでもないことである。むだをしている。高級な紙に、小説よりははるかに大きい活字をつかって、同じことを繰り返しているだけというのは「物質面」からみた「経済学」でが、「意識」面でも同じである。「見にゆきたい」を「そのことだけをしておきたい」と言い換えて、「意味」がかわるわけではない。同じことを繰り返すのは不経済である。同じことをいわずに、別なことを言って、ことばをさっさと動かすべきである。
 --と批判したいのだが、この「不経済」のことばの運動、そこにある「重力」に私は引きずり込まれ、抜け出せない。「不経済」という視点から粕谷のことばを切り捨てることができない。逆に、その「不経済」のなかに、変なものを見つけ出して、ことばの運動とは逆に、ことばそのものにひっぱられてしまう。

その夜、

 「その夜」って何? 九月になって、ちょうちん花を妻と一緒に見に行く「その夜」(予定の日の夜)という意味だろうか。でも、いまは「行きたい」と思っているだけで、「その夜」は決まっていない。決まっていないのに「その」と何かわかりきった前提のようにしてことばが動いている。
 そうなのだ。粕谷のことばのなかには、粕谷だけにわかっていることがらが紛れ込んでいるのである。そして、そのわかりきっていることを粕谷は語らない。わかりきっているから語る必要がないのである。「その」といわれていることがらは、粕谷にとってとはもう「肉体」になっている。粕谷がいるとき、常に粕谷とともにある「その」なのだ。「その」を粕谷は切り離すことができない。
 その切り離すことのできない粕谷の「肉体」となってしまったことばが、まだ「肉体」になっていないことばを、「肉体」になってしまっていることばの方へひっぱる。引きずり込む。「引力」ではなく、「肉体」となっていることば自体の重さ(重力)が他のことばと密着するとき、他のことばに乗り移って「ひとつ」になる。ブラックホールの「圏内」に入って、さらにまわりのことばの重力を増やしていくのだ。

 懐かしい古里の逢瀬川の夜の河原に、ちょうちん花は、
咲いている。二、三本ずつ、かたまって、青い茎に、水
色のちょうちんの花の簪を吊るしている。

 このひとかたまりの文章は「ちょうちん花」の説明である。そういう意味では、最初の文章から違う世界へ進んだような感じがしないでもない。すぐに、印象がかわる。

 ずい分、永いこと一緒に暮らしたから、ふたりは、そ
れを知っている。月明かりの吊橋の上から、それを眺め
てから、小石ばかりの河原を歩いてゆくのだ。
 
 「ちょうちん花」の説明はいったい誰に対する説明だったのか。読者に、というかもしれないが、書いているとき「読者」とは書いている本人だけである。そんなことをする必要はない。
 それは、いま引用した文を読むとはっきりする。「ずい分、永いこと一緒に暮らしたから、」は詩の冒頭に書かれていることばと同じである。ことばが読者のためにあるというなら、これはまったく余分である。少なくともことばの「経済学」からいえば必要がない。読者が忘れてしまっているかもしれないと想定して繰り返したのだとしたら、それは粕谷が読者をばかにしていることになる。そうではなくて、このことばは、粕谷にとって書かなくてはならないかったことなのである。
 「その夜」の「その」そのものに深く関係していることばなのである。「その夜」は「ふたり」が「ずい分、永いこと一緒に暮らしたから」、はじめて「その」夜なのである。ふたりの永い暮らしが意識できる「その」なのである。「その」といえば、読者にはわからなくても粕谷と妻にはわかる--そういうことが「その」に含まれている。
 「その夜」の「その」は粕谷と妻の「肉体」になっている「その」である。

 いま、私は「肉体」と書いて--そして、それは私がいつもつかっている「肉体のことば」というときの「肉体」であったはずなのだけれど、その「肉体」が別の意味ももっていることを感じている。
 いやあな予感のようなものが、こういうところにしのびこんでくる。

 そこは、ほかに、誰もいない河原だ。ここに、再び、
来ることはないだろう。永いこと、地獄と極楽の日々を、
一緒に暮らしたから、ふたりは、それを知っている。
 だからといって、ちょうちんの花に変わりがあるわけ
ではない。水色のちょうちんの花の簪。その一つ一つを、
ふたりは、丹念に、腰をかがめて見てまわる。
 それができるのは、あるいは、ふたりが、本当は、ど
こか、遠い町で、仮に、死んでいるからかもしれない。
深く、一切を、忘却しているからかも知れない。

 意識としての「肉体」はあっても、死んでいるのかもしれない。「肉体」は死んでいるのかもしれない。粕谷の「肉体」には「死」が共有されているのである。
 もしそうであるなら、最初に書かれていた「その夜」の「その」にも「死」がまじりこんでいるはずである。「その夜」というのは、永遠にこないのだ。もう過ぎ去った日なのである。それを、「九月になったら」と未来のこととして思い描く。
 そのとき時間は、ごく一般的に考える時間のように過去-現在-未来というような一直線ではない。したがって、どちらかの方向へ向かって動かすことはできない。過去を思い出すとか未来を思い描くということはできない。粕谷は冒頭に「九月になったら……思う」とあたかも未来の時間を思い描いているかのように書いているが、そのとき粕谷にとって時間はそんなふうには存在していない。
 「その夜」という一点に凝縮している。
 「その夜」から全ての時間が動き、その夜へ向かって全ての時間が動く。それは「その夜」の「その」がことばのブラックホールであったように、時間のブラックホールなのだ。



転落
粕谷 栄市
思潮社

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