詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(151 )

2010-11-07 12:26:31 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(151 )

 「失われたとき」のつづき。

欲望は見えないものを指さし
空は有に向つて有は空に向つて
あこがれる苔むした指環の廻転に
空は有を通つて空にもどる
有は空を通つて有にもどる
下馬の数学者は空は有に有は
空に絶対にならない
とペルノーの影でいう
カマクラのツァラトゥストラは空でも
有でもない大空がある
とミズナの影でいう
竹藪のささやきかきのこの香いだ
もう立ち話はつかれた
どこから有が空になり空が有になる
かその紫の線がひけない

 空(くう)と有(ゆう)をめぐる哲学。しかし、哲学というには、ここに書かれていることはあまりに簡単過ぎる。哲学の「意味」は、テーマではない。ただ、そうしたことを話しあった、という「事実」を告げるだけである。西脇がこの問題を真剣に考えていたとは思えない。「真剣に」というのは、ある結論を出すまでにいたっていないということである。
 この部分がおもしろいのは、「空(くう)」がカマクラを境にして「空(そら)」に変わってしまうことである。カマクラという具体的な「場」に出会い、「大空」にかわってしまうことである。具体的な「場」が「ミズナ」や「竹藪」という具体的なものによってより具体的になるとき、哲学は具体性を書いた空論に似てくる。この空しさ--それを西脇は「つかれた」と書いている。

もう立ち話はつかれた

 ミズナや竹藪の登場によって、具体的な「肉体」があらわれる。哲学的話題で「頭」がつかれる--のではなく、「立ち話」(ふと始めてしまった話)、立ったままつづけてしまった話によって、「肉体」がつかれる。
 「立ち話」ではなく、これが机に向かって(あるいはテーブルを挟んで)椅子に座っての議論なら「つかれた」は「頭」かもしれないが、西脇は「立ち話」と書くことで、哲学を狭い領域からすくいだし、さらに「頭」から「肉体」へとすくいだしている。
 「頭」のなかで繰り広げられるだけの「話」は、そもそも哲学ではないのかもしれない。
 私は、この1行が非常に好きだ。「ああかけすが鳴いてやかましい」(旅人かへらず)と同じように大好きである。

 この詩の引用部分には、また魅力的で不思議な1行がある。

竹藪のささやきかきのこの香いだ

 これは文脈の「意味」にしたがって読めば、カマクラのツァラトゥストラがいったことば、その内容になるだろう。空や有のややこしい問題のかわりに、カマクラには「大空」がある。そしてそれがもし「空」につながるものだとしたら、「有」につながるのが「竹藪のささやきかきのこの香いだ」ということになる。「大空」に対して「大地」。その「大地」あるのが竹藪やきのこだ。
 空・有の哲学問題に対して、カマクラの「大空」と「竹藪」「きのこ」を向き合わせる。その「肉体感覚」。それをいっそう具体的にいうと「ささやき」(これは聴覚であると同時に発声器官に属することがら)、「香い」(におい、と読ませるのだろう--嗅覚)になる。「聴覚」と「嗅覚」が並列している。「か」で結ばれているのだから、それは対立するものであるはずだが、実際に読むと、そのことばは「対立するもの」とはいえない。「か」で結ばれているにもかかわらず、それはからみあい、融合しているように感じる。
 「大空」は「竹藪のささやき」のなかにも存在する。「きのこの香い」のなかにもある。「竹藪」と「きのこ」は別々のものだが、その「竹藪」「きのこ」の「肉体」をとおるとき、「青空」はそのどちらになることもできる。
 「空」「有」ということばをつかず、西脇は存在そのものと向き合い、そこにある「運動」を嗅ぎ取る。太陽が(空が)、たとえば「竹藪」(有)をとおって「空」にもどる。逆に「竹藪」が「大空」を通って、「竹藪」になる。
 そして、この運動が運動としてそこにあるとき、そこにはひとつの特徴がある。
 「ささやき」と「香い」が、区別なく、西脇の思いを代弁する。




雑談の夜明け (講談社学術文庫)
西脇 順三郎
講談社

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ナボコフ『賜物』(5)

2010-11-07 11:41:07 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(5)

 角の薬局に向かって道を渡るとき、彼は思わず首を回し(何かにぶつかって跳ね返った光がこめかみのあたりから入ってきたのだ)、目にしたものに対して素早く微笑んだ--それは人が虹や薔薇を歓迎して浮かべるような微笑だった。
                                 (10ページ)

 「何かにぶつかって跳ね返った光」。反射。ナボコフのことばには、いつも反射があるように感じる。ことばとことばがぶつかりあって輝く。それ自体で輝かしいことばもあるだろうけれど、ナボコフは、衝突と反射によって、その輝きを自ら燃え上がる炎にするのかもしれない。
 いま引用した部分では、「こめかみ」が自ら燃え上がる炎である。
 光はどんなことをしたって「目」からしか入ってこない。私たちは視覚で光を見る。けれど、ナボコフは「こめかみのあたり」と書く。それは「目のこめかみのあたり(こめかみに近いあたり)」を超越して、「こめかみ」から入ってくる。見るための「肉体」ではないところから、光は目を通らずに入ってくる。網膜へ、ではなく、脳へ。
 このとき、「こめかみ」は自ら燃え上がり、新しい「肉眼」になるのだ。
 そういう「肉眼」が「見る」ものは、当然、「目」が見るものを超越した存在である。

ちょうどそのとき、引っ越しようのトラックから目もくらむような平行四辺形の白い空が、つまり前面が鏡張りになった戸棚が下ろされるところで、その鏡の上をまるで映画のスクリーンを横切るように、木の枝の申し分なくはっきりした映像がするすると揺れながら通りすぎたのだった。その揺れ方がなんだか木らしくなく、人間的な震えだったのは、この空とこれらの木々の枝、そしてこの滑り行く建物の前面(ファサード)を運ぶ者たちの天性ゆえのことだった。
                                 (10ページ)

 「人間的な震え」。この「人間的」は「目」では見ることはできない。「肉眼」になった「こめかみ」が見たものである。そして「人間的」というのは、実は「天性」のことである。この「天性」も「目」には見えないものである。
 「肉眼」のなかを動く「ことば」だけがとらえることのできるものである。





ナボコフ自伝―記憶よ、語れ
ウラジミール・ナボコフ
晶文社

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高塚謙太郎「抒情小曲集」

2010-11-07 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
高塚謙太郎「抒情小曲集」(「エウメニデスⅡ」38、2010年10月31日発行)

 高塚謙太郎「抒情小曲集(ショート・ピース)」を読むと、私は一瞬、「もの」が見えなくなる。「もの」を視力で識別できなくなる。

陽のもっともみえる時刻の、目をみはるほどの膝うら
にたたえられた《もはや浜》の湖面そこからあふれさせずあふれ
敗意の飛沫たかくに、空いっぱいに、波紋の見えやすい方途の
澄ますと耳がきこえることを、袖口ににじませ
「膝うら」から「袖口」へかけてのかすかなしかしたおやかな
うしろ髪を束ね、ずず、進みでる《その浜》を、ならす

 これは「No16」の一部だが、私の視力は「膝うら」はかろうじてとらえるが、それ以外のものを目にみえるものとしてはっきり想像できない。ようするに、私には見えない。そして、見えているはずの「膝うら」も「うら」が「浦」に変わってしまい、ほんとうの(?)膝うらはどこにもない。遠い記憶のなかにしかない。
 そして、その記憶さえ、「浦」に、つまり「水辺」(浜辺、海辺)のようなものに乗っ取られて、何を見ているかわからなくなる。
 「もの」が見えなくなった代わりに、私は「音」を聞く。それは水辺の(特に海辺の)音のように飽きることなく繰り返している。その繰り返しは違う音なのか、それとも同じ音なのにたまたまなにかの加減で(実際の海であれば、たとえば風向きとか、飛んできたかもめとかの影響で)違って聞こえるだけなのか、はっきりしない。

陽のもっともみえる時刻の、目をみはるほどの膝うら

 この行には「もっとも」の「も」の繰り返しを中心にして「ま行」、「目(め)」「み」える、「み」はる、の繰り返しと、「は行」、「陽(ひ)」、み「は」る、「ひ」ざうら、の繰り返しが交錯し、ときどき「ら行」もまじる。みえ「る」みは「る」う「ら」。
 この交錯が、つぎの「もはや浜」に結晶する。も(ま行)・は(は行)・や・は(は行)・ま(ま行)。このとき「もはや浜」は「浜」の名前ではなく、音楽の「音」である。意味を失い、ただ「音」として存在している。「音」として、別の「音」、「和音」をつくるべき「音」をさがしている。
 「敗意の飛沫たかくに」の「飛沫」は「しぶき」とも「ひまつ」とも読めるが、「敗意の飛沫たかくに、空いっぱいに、波紋の見えやすい方途の」という1行のなかでは「しぶき」と読むのはつらい。「ひまつ」という「音」として動いている。
 こういう「音」の呼応は、私はとても好きである。視覚が消えて、その空白のなかへ「音」がつくりだす何かがあらわれてくる。「もの」にならず--いや、「もの」という姿をとるのかもしれないけれど、それは「もの」として別の「もの」と関係をつくらないまま消えていく。何が見えたのかわからず、けれども何かをみたかもしれないという気持ちが「音」のように消えていくのだ。
 高塚の「音」は「音楽」かもしれないが、そのタイトルが象徴しているように「交響曲」というような壮大な構造をもったものではなく、さっとあらわれて消えていく「小曲」そのものかもしれない。

 「No17」の次の部分もおもしろい。

舞え《おまえ》舞え
スカートが引きずられずにすむよう
裳裾にからめてじりじりと黒煙が立ちのぼるリズミカルに止血ぐるみ
なるほどその夕暮れが逢瀬のおわりとなったわけ
たくしあげてはひらり
たくしあげてはさらり

 「舞え《おまえ》舞え」の「まえ」の繰り返しのような単純な(?)ものから「(立)ちのぼるリズミカルに止血ぐるみ」のようなめまいを誘う「音」まである。
 この部分がめまいを誘うのは、たぶん「音」だけではなく「文字」(視覚)も影響しているかもしれない。立「ち」のぼる。止血は「しけつ」なのだが、血は「ち」でもある。私の視覚は、そこにない「もの」、ことばがあらわそうとする「もの」ではなく、文字そのものを「音」に還元して見てしまう。
 あ、いったい、何が起きたんだろう。わからずに、私はめまいを感じるのだ。



さよならニッポン
高塚 謙太郎
思潮社

人気ブログランキングへ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする