誰も書かなかった西脇順三郎(151 )
「失われたとき」のつづき。
空(くう)と有(ゆう)をめぐる哲学。しかし、哲学というには、ここに書かれていることはあまりに簡単過ぎる。哲学の「意味」は、テーマではない。ただ、そうしたことを話しあった、という「事実」を告げるだけである。西脇がこの問題を真剣に考えていたとは思えない。「真剣に」というのは、ある結論を出すまでにいたっていないということである。
この部分がおもしろいのは、「空(くう)」がカマクラを境にして「空(そら)」に変わってしまうことである。カマクラという具体的な「場」に出会い、「大空」にかわってしまうことである。具体的な「場」が「ミズナ」や「竹藪」という具体的なものによってより具体的になるとき、哲学は具体性を書いた空論に似てくる。この空しさ--それを西脇は「つかれた」と書いている。
ミズナや竹藪の登場によって、具体的な「肉体」があらわれる。哲学的話題で「頭」がつかれる--のではなく、「立ち話」(ふと始めてしまった話)、立ったままつづけてしまった話によって、「肉体」がつかれる。
「立ち話」ではなく、これが机に向かって(あるいはテーブルを挟んで)椅子に座っての議論なら「つかれた」は「頭」かもしれないが、西脇は「立ち話」と書くことで、哲学を狭い領域からすくいだし、さらに「頭」から「肉体」へとすくいだしている。
「頭」のなかで繰り広げられるだけの「話」は、そもそも哲学ではないのかもしれない。
私は、この1行が非常に好きだ。「ああかけすが鳴いてやかましい」(旅人かへらず)と同じように大好きである。
この詩の引用部分には、また魅力的で不思議な1行がある。
これは文脈の「意味」にしたがって読めば、カマクラのツァラトゥストラがいったことば、その内容になるだろう。空や有のややこしい問題のかわりに、カマクラには「大空」がある。そしてそれがもし「空」につながるものだとしたら、「有」につながるのが「竹藪のささやきかきのこの香いだ」ということになる。「大空」に対して「大地」。その「大地」あるのが竹藪やきのこだ。
空・有の哲学問題に対して、カマクラの「大空」と「竹藪」「きのこ」を向き合わせる。その「肉体感覚」。それをいっそう具体的にいうと「ささやき」(これは聴覚であると同時に発声器官に属することがら)、「香い」(におい、と読ませるのだろう--嗅覚)になる。「聴覚」と「嗅覚」が並列している。「か」で結ばれているのだから、それは対立するものであるはずだが、実際に読むと、そのことばは「対立するもの」とはいえない。「か」で結ばれているにもかかわらず、それはからみあい、融合しているように感じる。
「大空」は「竹藪のささやき」のなかにも存在する。「きのこの香い」のなかにもある。「竹藪」と「きのこ」は別々のものだが、その「竹藪」「きのこ」の「肉体」をとおるとき、「青空」はそのどちらになることもできる。
「空」「有」ということばをつかず、西脇は存在そのものと向き合い、そこにある「運動」を嗅ぎ取る。太陽が(空が)、たとえば「竹藪」(有)をとおって「空」にもどる。逆に「竹藪」が「大空」を通って、「竹藪」になる。
そして、この運動が運動としてそこにあるとき、そこにはひとつの特徴がある。
「ささやき」と「香い」が、区別なく、西脇の思いを代弁する。

「失われたとき」のつづき。
欲望は見えないものを指さし
空は有に向つて有は空に向つて
あこがれる苔むした指環の廻転に
空は有を通つて空にもどる
有は空を通つて有にもどる
下馬の数学者は空は有に有は
空に絶対にならない
とペルノーの影でいう
カマクラのツァラトゥストラは空でも
有でもない大空がある
とミズナの影でいう
竹藪のささやきかきのこの香いだ
もう立ち話はつかれた
どこから有が空になり空が有になる
かその紫の線がひけない
空(くう)と有(ゆう)をめぐる哲学。しかし、哲学というには、ここに書かれていることはあまりに簡単過ぎる。哲学の「意味」は、テーマではない。ただ、そうしたことを話しあった、という「事実」を告げるだけである。西脇がこの問題を真剣に考えていたとは思えない。「真剣に」というのは、ある結論を出すまでにいたっていないということである。
この部分がおもしろいのは、「空(くう)」がカマクラを境にして「空(そら)」に変わってしまうことである。カマクラという具体的な「場」に出会い、「大空」にかわってしまうことである。具体的な「場」が「ミズナ」や「竹藪」という具体的なものによってより具体的になるとき、哲学は具体性を書いた空論に似てくる。この空しさ--それを西脇は「つかれた」と書いている。
もう立ち話はつかれた
ミズナや竹藪の登場によって、具体的な「肉体」があらわれる。哲学的話題で「頭」がつかれる--のではなく、「立ち話」(ふと始めてしまった話)、立ったままつづけてしまった話によって、「肉体」がつかれる。
「立ち話」ではなく、これが机に向かって(あるいはテーブルを挟んで)椅子に座っての議論なら「つかれた」は「頭」かもしれないが、西脇は「立ち話」と書くことで、哲学を狭い領域からすくいだし、さらに「頭」から「肉体」へとすくいだしている。
「頭」のなかで繰り広げられるだけの「話」は、そもそも哲学ではないのかもしれない。
私は、この1行が非常に好きだ。「ああかけすが鳴いてやかましい」(旅人かへらず)と同じように大好きである。
この詩の引用部分には、また魅力的で不思議な1行がある。
竹藪のささやきかきのこの香いだ
これは文脈の「意味」にしたがって読めば、カマクラのツァラトゥストラがいったことば、その内容になるだろう。空や有のややこしい問題のかわりに、カマクラには「大空」がある。そしてそれがもし「空」につながるものだとしたら、「有」につながるのが「竹藪のささやきかきのこの香いだ」ということになる。「大空」に対して「大地」。その「大地」あるのが竹藪やきのこだ。
空・有の哲学問題に対して、カマクラの「大空」と「竹藪」「きのこ」を向き合わせる。その「肉体感覚」。それをいっそう具体的にいうと「ささやき」(これは聴覚であると同時に発声器官に属することがら)、「香い」(におい、と読ませるのだろう--嗅覚)になる。「聴覚」と「嗅覚」が並列している。「か」で結ばれているのだから、それは対立するものであるはずだが、実際に読むと、そのことばは「対立するもの」とはいえない。「か」で結ばれているにもかかわらず、それはからみあい、融合しているように感じる。
「大空」は「竹藪のささやき」のなかにも存在する。「きのこの香い」のなかにもある。「竹藪」と「きのこ」は別々のものだが、その「竹藪」「きのこ」の「肉体」をとおるとき、「青空」はそのどちらになることもできる。
「空」「有」ということばをつかず、西脇は存在そのものと向き合い、そこにある「運動」を嗅ぎ取る。太陽が(空が)、たとえば「竹藪」(有)をとおって「空」にもどる。逆に「竹藪」が「大空」を通って、「竹藪」になる。
そして、この運動が運動としてそこにあるとき、そこにはひとつの特徴がある。
「ささやき」と「香い」が、区別なく、西脇の思いを代弁する。
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