粕谷栄市『遠い 川』(11)(思潮社、2010年10月30日発行)
高貝弘也の、それぞれのことばが互いの音楽を呼吸し合う(?)詩を読んでいたら、また粕谷栄市の詩を読みたくなった。
「幸福」。
この詩は、いままで読んできた『遠い 川』(あ、「遠い」と「川」の間に1字分の空白がある--と、いまごろになって気がついた)とは少し違う--と書こうとして、いま、「遠い」と「川」の間に1字分空白があると書いたとたん、そうかな、ほんとうに違うのかな、という疑問に襲われた。
私は最初(つまり、いま、こうやって書いている直前まで)、この詩で繰り返される「馬のように長い顔」ということばについて、それがこれまでの粕谷のことばとは微妙に違うということを書こうと思っていた。
粕谷の繰り返しは、高貝のことばが微妙な変化で他のことばを呼吸するのとは違って、まったく同じ「馬のように長い顔」を繰り返している。
この繰り返される「馬のように長い顔」に何か「意味」があるのだろうか。
どうも「意味」などないように感じる。それはただ無意味に繰り返され、「繰り返し」だけを印象づける。そして、その果てに、なぜだがわからないが、「馬のように長い顔」ということばだけが残る。
男は、ある日、女と一緒になって暮らしはじめる。女は……。
「馬のように長い顔」がそんなふうにして最後まで残ってしまうと、なんといえばいいのだろう、この詩でも「主人公」は死んでしまっているのに、なぜか、「馬のように長い顔」ということばと一緒にいつまでも生き残っている感じがする。
男は「老齢になるまで生き延びることができた」を通り越して、いつまでも生き残っている。その生き残ったものを、粕谷は「幻」と書いている。「何ものかの幻」と。しかし、それは「幻」ではなく、「夢」なのではないだろうか。「何ものかの夢」ではなく、「私」の、つまり粕谷の、そして粕谷の詩を読んでいる読者の「夢」。言いかえると、「日常を超えてやってくる、特別な時間」なのではないのか。
「馬のように長い顔」が「特別な時間」というのは奇妙な言い方になるが、「日常を超えてやってくる、特別な時間」とは、そんなふうにして変なものなのである。わけのわからないもの--けれど、はっきりとわかる特徴のあるものなのだ。
不思議にリアルで、リアル過ぎてどうすることもできない何かである。そして、その不思議なリアルさが、なぜか、とても懐かしく、また安心感がある。
ここで、こんなこと(次に書くこと)を唐突に書くのは、それこそ変かもしれないが。
この粕谷のリアルななつかしさと、高貝の書いているはかないような音楽の呼吸はどうも対極にあるような感じがする。
高貝の書いていることばは、ほんとうに音楽そのままで、読む先から消えていく。先へ動いていくときだけ、その動きのなかに「日本語の歴史」が「肉体」(声)としてふわーっと浮いてくる。そして、その「ふわーっ」は、はかないながら、けっして消えない根っこを持っている。その根っこは、「日本語」のなかに、深々と根を張っている。。
粕谷のことばは、はかなさとは反対の位置にある。この「反対」をうまく表現できないけれど、あえていえば、「日本語」のなかに根を張っていない。もっと言い換えると、どうも「他人(日本語を離す日本人)」に共有されない。--あ、違うなあ。「日本語」なのだけど、そこには「日本語」の歴史と共有している「感性」というか、共通の感覚がない。粕谷独自の「肉体」しかない。
粕谷のことばは日本語であり、それが日本語であるから私は読むことができるのだが、読めば読むほど、それは「粕谷語」そのものになる。粕谷の「肉体」のなかで完結していることばだと感じてしまう。「ことば」ではなく、粕谷は「肉体」を書いている。
そういう「リアル」さがある。
「ことば」ではなく、粕谷の肉体を見て、その肉体に触っている感じがする。--私は、粕谷に会ったことがないし、その写真も記憶にないのだが……。
一方、高貝の肉体は、ことばのなかに消滅していく。肉体は消え、呼吸だけが、ことばからことばへと通っていく。
そういう呼吸としてのことばをきのう読んでしまったので、私はまた呼吸ではなく、呼吸する「肉体」の方のことばをふいに読みたくなって、また粕谷にもどってきてしまったのだ。
「馬のような長い顔」というあまりにも具体的なイメージのために、私は、この作品を「異質」と感じていたが、それは間違いである。いままでの私の読み方が完全に間違っていたのだ。たとえば巻頭の「九月」。その詩のなかに登場してくる「私」という人間がいる。その「私」を、私は粕谷と置き換えるようにして読んでいたが、そうではない。粕谷は「ちょうちん花」なのだ。
私と妻はちょうちん花を見にゆくのではない。ちょうちん花になってしまうのだ。男が「馬のような長い顔」そのものになったように、ちょうちん花こそ、粕谷の肉体なのだ。ことばを書くことで、粕谷は書いたことばの肉体になる。
この瞬間を、粕谷は「幸福」と名づけている。
粕谷の今回の詩集には「死」が何度も登場するが、それは絶望ではなく、幸福としての死である。粕谷の肉体は、彼の書いたことばとして残る。肉体が残れば、そこに死など存在はしない。
高貝弘也の、それぞれのことばが互いの音楽を呼吸し合う(?)詩を読んでいたら、また粕谷栄市の詩を読みたくなった。
「幸福」。
別に、その馬のように長い顔のためでなかったが、そ
の男は、とうとう、老齢になるまで生き延びることがで
きた。生き延びたというべきだろう。子どもの頃から、
病弱で、いつも顔色が優れず、頭痛持ちだったから。
この詩は、いままで読んできた『遠い 川』(あ、「遠い」と「川」の間に1字分の空白がある--と、いまごろになって気がついた)とは少し違う--と書こうとして、いま、「遠い」と「川」の間に1字分空白があると書いたとたん、そうかな、ほんとうに違うのかな、という疑問に襲われた。
私は最初(つまり、いま、こうやって書いている直前まで)、この詩で繰り返される「馬のように長い顔」ということばについて、それがこれまでの粕谷のことばとは微妙に違うということを書こうと思っていた。
粕谷の繰り返しは、高貝のことばが微妙な変化で他のことばを呼吸するのとは違って、まったく同じ「馬のように長い顔」を繰り返している。
少年時代から、近くの酒屋に勤めに出て、小僧になり、
やがて蔵番になった。ときには、頭痛で、馬のように長
い顔を顰めていたが、休まず、薄給の日々を過ごした。
その間に、馬のような長い顔で言い訳しながら、父親
の借金やら何やらをきれいにして、やっと自分のためだ
けに暮らせるようになったときは、もう中年だった。
当然、縁遠くて、ずっと独身だった。酒も煙草も知ら
なかったから、仕事の休みの日も、小さな家で、馬のよ
うに長い顔をして、ぼんやりしているだけだった。
この繰り返される「馬のように長い顔」に何か「意味」があるのだろうか。
どうも「意味」などないように感じる。それはただ無意味に繰り返され、「繰り返し」だけを印象づける。そして、その果てに、なぜだがわからないが、「馬のように長い顔」ということばだけが残る。
男は、ある日、女と一緒になって暮らしはじめる。女は……。
毎朝、彼の髪を整え、馬のように長い顔を拭くことか
ら始めて、夕方、彼が仕事から帰ると、すぐ、馬乗りに
なって、腰や手足を揉んでくれさえてたのだ。
彼の好きな鰊の団子を作ることも忘れなかった。そし
て、その後、無事、歳月は過ぎ、彼は死んだ。つまり、
彼の一生は、永遠に、彼のものになったのである。
それは、何ものかの幻である。暗黒のある日、朝顔の
花の咲く庭で、彼が笑っている。一緒に笑っているのは、
みんな、馬のように長い顔をした彼の娘たちである。
「馬のように長い顔」がそんなふうにして最後まで残ってしまうと、なんといえばいいのだろう、この詩でも「主人公」は死んでしまっているのに、なぜか、「馬のように長い顔」ということばと一緒にいつまでも生き残っている感じがする。
男は「老齢になるまで生き延びることができた」を通り越して、いつまでも生き残っている。その生き残ったものを、粕谷は「幻」と書いている。「何ものかの幻」と。しかし、それは「幻」ではなく、「夢」なのではないだろうか。「何ものかの夢」ではなく、「私」の、つまり粕谷の、そして粕谷の詩を読んでいる読者の「夢」。言いかえると、「日常を超えてやってくる、特別な時間」なのではないのか。
「馬のように長い顔」が「特別な時間」というのは奇妙な言い方になるが、「日常を超えてやってくる、特別な時間」とは、そんなふうにして変なものなのである。わけのわからないもの--けれど、はっきりとわかる特徴のあるものなのだ。
不思議にリアルで、リアル過ぎてどうすることもできない何かである。そして、その不思議なリアルさが、なぜか、とても懐かしく、また安心感がある。
ここで、こんなこと(次に書くこと)を唐突に書くのは、それこそ変かもしれないが。
この粕谷のリアルななつかしさと、高貝の書いているはかないような音楽の呼吸はどうも対極にあるような感じがする。
高貝の書いていることばは、ほんとうに音楽そのままで、読む先から消えていく。先へ動いていくときだけ、その動きのなかに「日本語の歴史」が「肉体」(声)としてふわーっと浮いてくる。そして、その「ふわーっ」は、はかないながら、けっして消えない根っこを持っている。その根っこは、「日本語」のなかに、深々と根を張っている。。
粕谷のことばは、はかなさとは反対の位置にある。この「反対」をうまく表現できないけれど、あえていえば、「日本語」のなかに根を張っていない。もっと言い換えると、どうも「他人(日本語を離す日本人)」に共有されない。--あ、違うなあ。「日本語」なのだけど、そこには「日本語」の歴史と共有している「感性」というか、共通の感覚がない。粕谷独自の「肉体」しかない。
粕谷のことばは日本語であり、それが日本語であるから私は読むことができるのだが、読めば読むほど、それは「粕谷語」そのものになる。粕谷の「肉体」のなかで完結していることばだと感じてしまう。「ことば」ではなく、粕谷は「肉体」を書いている。
そういう「リアル」さがある。
「ことば」ではなく、粕谷の肉体を見て、その肉体に触っている感じがする。--私は、粕谷に会ったことがないし、その写真も記憶にないのだが……。
一方、高貝の肉体は、ことばのなかに消滅していく。肉体は消え、呼吸だけが、ことばからことばへと通っていく。
そういう呼吸としてのことばをきのう読んでしまったので、私はまた呼吸ではなく、呼吸する「肉体」の方のことばをふいに読みたくなって、また粕谷にもどってきてしまったのだ。
「馬のような長い顔」というあまりにも具体的なイメージのために、私は、この作品を「異質」と感じていたが、それは間違いである。いままでの私の読み方が完全に間違っていたのだ。たとえば巻頭の「九月」。その詩のなかに登場してくる「私」という人間がいる。その「私」を、私は粕谷と置き換えるようにして読んでいたが、そうではない。粕谷は「ちょうちん花」なのだ。
それだけのことだ。それだけのことだが、たとえ、一
切が、遠い夢のなかのできごとだったとしても、九月に
なったら、私は、妻とふたり、ちょうちん花を見にゆく
のだ。
(「九月」)
私と妻はちょうちん花を見にゆくのではない。ちょうちん花になってしまうのだ。男が「馬のような長い顔」そのものになったように、ちょうちん花こそ、粕谷の肉体なのだ。ことばを書くことで、粕谷は書いたことばの肉体になる。
この瞬間を、粕谷は「幸福」と名づけている。
粕谷の今回の詩集には「死」が何度も登場するが、それは絶望ではなく、幸福としての死である。粕谷の肉体は、彼の書いたことばとして残る。肉体が残れば、そこに死など存在はしない。
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