詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粕谷栄市『遠い 川』(11)

2010-11-28 23:59:59 | 詩集
粕谷栄市『遠い 川』(11)(思潮社、2010年10月30日発行)

 高貝弘也の、それぞれのことばが互いの音楽を呼吸し合う(?)詩を読んでいたら、また粕谷栄市の詩を読みたくなった。
 「幸福」。

 別に、その馬のように長い顔のためでなかったが、そ
の男は、とうとう、老齢になるまで生き延びることがで
きた。生き延びたというべきだろう。子どもの頃から、
病弱で、いつも顔色が優れず、頭痛持ちだったから。

 この詩は、いままで読んできた『遠い 川』(あ、「遠い」と「川」の間に1字分の空白がある--と、いまごろになって気がついた)とは少し違う--と書こうとして、いま、「遠い」と「川」の間に1字分空白があると書いたとたん、そうかな、ほんとうに違うのかな、という疑問に襲われた。
 私は最初(つまり、いま、こうやって書いている直前まで)、この詩で繰り返される「馬のように長い顔」ということばについて、それがこれまでの粕谷のことばとは微妙に違うということを書こうと思っていた。
 粕谷の繰り返しは、高貝のことばが微妙な変化で他のことばを呼吸するのとは違って、まったく同じ「馬のように長い顔」を繰り返している。

 少年時代から、近くの酒屋に勤めに出て、小僧になり、
やがて蔵番になった。ときには、頭痛で、馬のように長
い顔を顰めていたが、休まず、薄給の日々を過ごした。
 その間に、馬のような長い顔で言い訳しながら、父親
の借金やら何やらをきれいにして、やっと自分のためだ
けに暮らせるようになったときは、もう中年だった。
 当然、縁遠くて、ずっと独身だった。酒も煙草も知ら
なかったから、仕事の休みの日も、小さな家で、馬のよ
うに長い顔をして、ぼんやりしているだけだった。

 この繰り返される「馬のように長い顔」に何か「意味」があるのだろうか。
 どうも「意味」などないように感じる。それはただ無意味に繰り返され、「繰り返し」だけを印象づける。そして、その果てに、なぜだがわからないが、「馬のように長い顔」ということばだけが残る。
 男は、ある日、女と一緒になって暮らしはじめる。女は……。

 毎朝、彼の髪を整え、馬のように長い顔を拭くことか
ら始めて、夕方、彼が仕事から帰ると、すぐ、馬乗りに
なって、腰や手足を揉んでくれさえてたのだ。
 彼の好きな鰊の団子を作ることも忘れなかった。そし
て、その後、無事、歳月は過ぎ、彼は死んだ。つまり、
彼の一生は、永遠に、彼のものになったのである。
 それは、何ものかの幻である。暗黒のある日、朝顔の
花の咲く庭で、彼が笑っている。一緒に笑っているのは、
みんな、馬のように長い顔をした彼の娘たちである。

 「馬のように長い顔」がそんなふうにして最後まで残ってしまうと、なんといえばいいのだろう、この詩でも「主人公」は死んでしまっているのに、なぜか、「馬のように長い顔」ということばと一緒にいつまでも生き残っている感じがする。
 男は「老齢になるまで生き延びることができた」を通り越して、いつまでも生き残っている。その生き残ったものを、粕谷は「幻」と書いている。「何ものかの幻」と。しかし、それは「幻」ではなく、「夢」なのではないだろうか。「何ものかの夢」ではなく、「私」の、つまり粕谷の、そして粕谷の詩を読んでいる読者の「夢」。言いかえると、「日常を超えてやってくる、特別な時間」なのではないのか。
 「馬のように長い顔」が「特別な時間」というのは奇妙な言い方になるが、「日常を超えてやってくる、特別な時間」とは、そんなふうにして変なものなのである。わけのわからないもの--けれど、はっきりとわかる特徴のあるものなのだ。
 不思議にリアルで、リアル過ぎてどうすることもできない何かである。そして、その不思議なリアルさが、なぜか、とても懐かしく、また安心感がある。

 ここで、こんなこと(次に書くこと)を唐突に書くのは、それこそ変かもしれないが。

 この粕谷のリアルななつかしさと、高貝の書いているはかないような音楽の呼吸はどうも対極にあるような感じがする。
 高貝の書いていることばは、ほんとうに音楽そのままで、読む先から消えていく。先へ動いていくときだけ、その動きのなかに「日本語の歴史」が「肉体」(声)としてふわーっと浮いてくる。そして、その「ふわーっ」は、はかないながら、けっして消えない根っこを持っている。その根っこは、「日本語」のなかに、深々と根を張っている。。
 粕谷のことばは、はかなさとは反対の位置にある。この「反対」をうまく表現できないけれど、あえていえば、「日本語」のなかに根を張っていない。もっと言い換えると、どうも「他人(日本語を離す日本人)」に共有されない。--あ、違うなあ。「日本語」なのだけど、そこには「日本語」の歴史と共有している「感性」というか、共通の感覚がない。粕谷独自の「肉体」しかない。
 粕谷のことばは日本語であり、それが日本語であるから私は読むことができるのだが、読めば読むほど、それは「粕谷語」そのものになる。粕谷の「肉体」のなかで完結していることばだと感じてしまう。「ことば」ではなく、粕谷は「肉体」を書いている。
 そういう「リアル」さがある。
 「ことば」ではなく、粕谷の肉体を見て、その肉体に触っている感じがする。--私は、粕谷に会ったことがないし、その写真も記憶にないのだが……。
 一方、高貝の肉体は、ことばのなかに消滅していく。肉体は消え、呼吸だけが、ことばからことばへと通っていく。
 そういう呼吸としてのことばをきのう読んでしまったので、私はまた呼吸ではなく、呼吸する「肉体」の方のことばをふいに読みたくなって、また粕谷にもどってきてしまったのだ。

 「馬のような長い顔」というあまりにも具体的なイメージのために、私は、この作品を「異質」と感じていたが、それは間違いである。いままでの私の読み方が完全に間違っていたのだ。たとえば巻頭の「九月」。その詩のなかに登場してくる「私」という人間がいる。その「私」を、私は粕谷と置き換えるようにして読んでいたが、そうではない。粕谷は「ちょうちん花」なのだ。

 それだけのことだ。それだけのことだが、たとえ、一
切が、遠い夢のなかのできごとだったとしても、九月に
なったら、私は、妻とふたり、ちょうちん花を見にゆく
のだ。
                     (「九月」)

 私と妻はちょうちん花を見にゆくのではない。ちょうちん花になってしまうのだ。男が「馬のような長い顔」そのものになったように、ちょうちん花こそ、粕谷の肉体なのだ。ことばを書くことで、粕谷は書いたことばの肉体になる。
 この瞬間を、粕谷は「幸福」と名づけている。
 粕谷の今回の詩集には「死」が何度も登場するが、それは絶望ではなく、幸福としての死である。粕谷の肉体は、彼の書いたことばとして残る。肉体が残れば、そこに死など存在はしない。

遠い川
粕谷 栄市
思潮社


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ピエトロ・ジェルミ監督「鉄道員」(★★★★★)

2010-11-28 15:12:52 | 午前十時の映画祭
監督 ピエトロ・ジェルミ 出演 ピエトロ・ジェルミ、アルフレード・ジャンネッティ、ルチアーノ・ヴィンセンツォーニ、エンニオ・デ・コンチーニ、カルロ・ミュッソ

 この映画はいつ見ても泣ける。泣かせる映画の「定番」という感じがする。子どもの視線が生きているのだ。子どもは何も知らない。何も知らないけれど、何でも理解している。そして、その理解というのは、たとえば最初の方に描かれる家族の喧嘩(娘の妊娠を知り、父親が怒る)のような場面にしっかり描かれている。子どもは、そこで実際に何があらそわれているかわからない。けれど、家族が喧嘩をすると哀しくなる--その哀しさを心底理解している。そういう理解の仕方である。
 ひとには言ってしまうと(わかってしまうと)困ることがある。秘密がある。大人はそれぞれ秘密を持っている。それは子どもだからといって犯してはいけない領域である。哀しみをとおして子どもはそれを直感的に理解している。この映画の少年は特にそういうことに敏感である。
 だから父親が家出(?)したあと、その父親がある酒場で女と話しているのをみかけても「お父さんはいなかった」と言ったりする。そして、そういう理解力こそが哀しみを哀しみにしているということがわからず、ひとりで哀しみに閉じこもる。
 そういう子どもが見せる一瞬の転換点。それも、この映画はとてもていねいに描いている。
 姉が泣いている。好きでもない男と結婚し、別れ、昔つきあっていた男につきまとわれ……という姉が、少年の前で泣く。「なぜ、泣くの」「おとなになれば、わかる」。そのことは秘密にしなければならないのだけれど、少年は母親に言ってしまう。「お姉さんはおとなになればわかるといったけれど、ぼくはいま知りたい」。
 そうなのだ。子どもは何でも理解する。しかし、その理解は「哀しい」という感情の理解であって、人間がどんなふうにして思い悩み、そんな行動をしてしまうのか、その行動を突き動かしているのは何なのか、ということは理解していない。わかっていない。それを知りたいといつも思っている。たしかに、それを知らない限りはおとなになれないのだと知っている。
 これに対して、母親がていねいに語る。家族は何でも話しあわないとだめ。思っていることを内に秘めると、それが少しずつ歪んで、ある日突然爆発する、という具合に。この母の語りかけが切実で胸を打つ。私はいつもここで泣いてしまうなあ。すべてを知っていて、それをつつみこみ、和解させようと願う母の(妻の、女の)祈りがでている。それは、夫や息子(長男)や娘にこそ語りかけたいことばである。でも、その語りかけたい、本当は聞いていもらいたい相手がいない。だから、本当は聞かせたくないたったひとりの子ども(末っ子)に向かって、涙で語ってしまうのだ。
 このお母さんは、女の哀しさと強さを体全体で具現化している。すばらしいなあ、と思う。

 女の哀しさ--といえば、娘(少年の姉)が父親に怒りをぶつけるシーンもいいなあ。「18歳まで木綿のストッキングだった。コートは父親のコートの仕立て直し。どんなに恥ずかしかったか」。「はずかしかった」というのは直訳なのか意訳なのかわからないが、感情(思い)をわかってもらえない切なさが一気に爆発する。そのとき、それまではっきりしなかった一家の暮らしぶり(どんなに貧しいか)が浮かび上がる。その描き方の「品のよさ」に、なぜか、胸を打たれる。



 鉄道の、特急のスピード感も、とてもいい。線路を特急の運転席から写しているのだが、枕木や風景の動きからスピード感がとても感じられる。剛直な感じがとてもいい。あ、この運転士(父親)そのものなのだ、と今回みて、初めてわかった。だから、冒頭に運転席から見た風景が描かれるのだ。
 この映画の主人公(父)は剛直に生きている。酒を飲むと止まらない。歌が大好きで、クリスマスでも酒場で飲むとついつい帰るのを忘れてしまう。そういう、一種のだらしない(?)男なのだが、そのだらしなさのなかに剛直さがある。家族を支えなければならない、そのためにはつらい仕事をしなければならない。長時間の運転。神経も磨り減ってしまう。就職しない長男と娘のことも気になって仕方がない。末っ子はまだ幼い。大家族なので、働いても働いても貧しくなるばかりだ。--息抜きは必要なのだ。その息抜きのときも、父は剛直に、つまり真剣に(?)息抜きをしてしまうので、ついついはめがはずれるのだ。
 この剛直な性格(?)がこの映画を貫く。描かれる生活は、剥き出しである。家のなかも、職場も、町で遊ぶ子どもたちでさえ、剥き出しである。「スト破り」という落書きの、剥き出しのやりきれなさ、子ども(少年の友達)に、そういうことばを書かせてしまう社会全体の感情の剥き出しさ加減--そこにある剛直としかいいようのない監督の厳しい視線。そして、そうやって剛直に生活をみつめることこそやさしさなのだ、やさしさが育つ場なのだと、観客は最後に知ることになるのだが……。
 「泣ける」から書きはじめてしまったので、剛直な美しさについては補足になってしまったが、この映画は、冒頭の特急のスピード感、それをしっかり定着させるカメラという点から再構成するようにしてみつめると、また違ったことが書けると思う。娘と父が喧嘩するシーン、「恥ずかしかった」と思い出を語るシーンについてももっと深く書けると思う。--で、「*」以後、少し補足した。



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