詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ナボコフ『賜物』(2)

2010-11-04 13:12:43 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(2)

 「いつか分厚いのを一冊、こんな昔ながらの書き出しではじめてみようか」と、ちらりと頭をよぎった考えにはのんきな皮肉がまじっていてた。とはいえ、その皮肉はまったく余計なものだった。彼の内にいる誰かが、彼の代わりに、彼の意思には関わりなく、すでにこのすべてを受け入れ、書きとめ、しまいこんでいたからである。
                                 (8ページ)

 きのう自分に課したことがらが、もう守れない。1ページから1か所以上引用しない--そうしないと、1年をすぎてもこの本を読み終えることができない。本文だけで 580ページもあるのだから。--しかし、ここだけは外すわけにはいかないだろう。
 小説の冒頭の1ページ半は、この2段落目によって現実ではなく仮想された「小説の書き出し」になる。そして、仮想された小説の書き出しでありながら、実は「賜物」という小説の実際の書き出しになっている。
 小説が「ふたつ」存在するのである。
 この「ふたつ」はナボコフにとってはとても重要なことがらかもしれない。あることがらにおいて、そこにあるものは「ひとつ」ではなく「ふたつ」である。その「ふたつ」は書かれのもの(対象)と書き表したもの(記述)でもあるし、意識と無意識でもある。
 ことばを書くというのは意識的な作業だけれど、意識的な作業のすべてが意識下にあるというわけでもない。どんなときでも無意識というものが動いている。意識できない意識が意識を調えている。
 ナボコフはその無意識をここでは「彼の内にいる誰か」と読んでいる。無意識だから「彼の意思には関わりなく」というのは自然だと思うが、次のことばがナボコフ以外に書けるかどうかわからない。とてもナボコフ的だと思う。「すでにこのすべてを受け入れ」の「すべて」。
 書かれるもの(対象)は「ひとつ」である。書き表したもの(記述)も「ひとつ」である。でも、その「ひとつ」は必ず何かとつながっている。「ふたつ」になる要素をもっている。「ひとつ」のものが別のものとつながり「ふたつ」になり、それが延々とつづいていって「すべて」になる。
 「すべて」というのは面倒くさい。「すべて」なんて、いらない。「ひとつ」で充分、というときもあるかもしれない。けれど、ナボコフの無意識は「すべて」を「受け入れる」。
 「すべて」を「受け入れる」ものが一方にあり、もう一方にはそれを選択するものがある。無意識と意識は、拮抗しながらナボコフの文体になる。





ロリータ (新潮文庫)
ウラジーミル ナボコフ
新潮社


人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

広瀬大志『草虫観』

2010-11-04 00:00:00 | 詩集
広瀬大志『草虫観』(思潮社、2010年08月30日発行)

 広瀬大志『草虫観』は二部構成の詩集である。前半の「草虫観」がおもしろかった。とりわけ冒頭の作品が私は好きだ。

ただ水の流れる音から
少し外れた場所に
腰掛けのようにして並べられた
一揃えの耳だけが
通過している

交流しえない形の
消失できない時間を
ただ流れる水の音だけが
聞こえるために
繰り返されている

供花のように置かれた
一繋ぎの静寂が
鳴り止まない

あらゆるものが
素描された水の音であるなら
私は失われていく

ただ耳を残して

 どこからか水の流れる音がする。水のありかは定かではなく、ただ水が聞いている。耳の中を水の音が通過していく。その水の音は音なのだけれど「静寂」のように感じられる。まわりの静寂があるから水の音が聞こえてくる--という現実が意識のなかで逆転する。それにあわせるように、「私」と「耳」の関係も逆転する。水の音を聞いている「耳」だけが存在し、「私」のその他の肉体は消えてしまう。
 これは、いわば「俳句」の求心・遠心が固く結びつき、運動のあり方が凝縮した世界である。
 耳の中を音が通過していくとき、水の音の中を耳が通過していく。水の音が聞こえてくるとき、ほんとうに聞いているのは水の音を浮かび上がらせる静寂であり、鳴り止まないのは水ではなく静寂である。そのとき、私は耳そのものになる。耳だけが世界に残る。
 いま、耳がただここにあり、その耳によって水の音も静寂も新しく生まれている。そして、私もその水の音、静寂といっしょに新しく生まれている。ここに一期一会の瞬間がある。
 こういう「一元論」を広瀬は書いているのだと思うが、とてもおもしろいのは、そのときの「耳」を「外耳」と呼んでいることである。
 もっとも、ここからは、私のいつもの「誤読」の世界になるかもしれない。
 広瀬は、このことばを「外耳・内耳(がいじ・ないじ)」という具合に使っているのかもしれない。私はしかし「がいじ」とは読まなかったのだ。いや、最初は「がいじ」と読んでいたのだが、最終行「ただ耳を残して」という1行を読んだとき、「外耳」は「がいじ」ではなく「そとみみ」、外にある耳になってしまった。
 たぶん広瀬の書いているのが「俳句」ではない、ということが、その原因(?)である。広瀬のことばを「誤読」しながら、それを広瀬のせい(?)にするのは変な具合なのだが……。
 どういうことか、というと俳句ならば、最後に残るのは「耳」ではない。耳と水の音、静寂--そして、その三つが融合した宇宙が残るのだが、広瀬の世界では耳が他の存在を押し退けて耳として残る。宇宙(世界)の「外」に美しく存在して残る。宇宙から「外れた」場所で、耳が残る。--そういう感じがするのだ。
 なぜ、そういう変な感じを持ってしまうかといえば、広瀬のことばの動きが奇妙だからである。1連目。「一揃えの耳だけが/通過している」。ふつう(学校教科書の文法では、あるいは作文では)、耳が通過するとは言わない。耳は動けない。耳が動くとしたら、それは土台の人間そのものが動くからである。けれども広瀬は「耳だけが/通過している」という奇妙な日本語を書く。(俳句なら、少なくとも伝統俳句ならこういう書き方は許されない。)
 3連目「水の音だけが/聞こえるために/繰り返されている」、4連目「一繋ぎの静寂が」ということばも、とても変である。
 広瀬は、わざと(西脇がいう意味での「わざと」)、そういうふうにことばを動かしている。そんなふうに動かすことで、ことばを、宇宙から独立させている。
 そういう印象があるために、「外耳」は「がいじ」ではなく、「そと・耳」として、私には感じられるのだ。
 いま、ここにあるのは、「宇宙」ではなく「広瀬のことば」である。そして、その「ことば」そのもののあり方としての象徴が「そと・耳」なのである。

 「鳥光」にも、広瀬の、世界とことば(認識、あるいは「私」)との関係を象徴するような表現がある。

遠い稜線から
いっせいに湧き上がる雲がある
翼を震わせ
林立する塔の間を
縫いあわせるために
聞こえないほどの明るさで
夜に囀る
世界の内側だけがある

 「明るさ」(視覚)が「聞こえない」(聴覚)「囀る」(聴覚)のなかに紛れ込んでいる。融合している。これも、私の感覚では俳句の融合に通じる世界だが、広瀬はそういう融合した世界、あるいは感覚が自己の領域を超越し、他の領域に越境して共存する感じのありようを、宇宙全体のありようとは結びつけない。
 「世界の内側」。
 あ、どこかに「外」があるのだ。
 広瀬は、いつも「外」と「内」という「二元論」の世界を生きているのだ。
 そして、その「二元論」は不思議なことに、その内部(?)では、俳句の表現が得意とするような「一元論」を抱え込んでいる。
 これは、不思議といえば不思議。不思議としかいいようがない。

 この不思議なことばの運動で、広瀬は時に非常に美しい何か、幻とさえ感じられる何かをみせてくれる。

「ロープをほどいた舟の月の闇の光はどうしてあるの?」

 「川岸」という詩のちょうど真ん中辺りに登場する1行。この1行の描いている世界は、私には正確には見えない。広瀬が書こうとしているのはこういう世界であると別のことばで言い表すことができない。たとえば絵にすることもできない。何もできないのだけれど、そこにあるのは舟であり、月であり、闇であり、光であることがわかるので、苦しく、切なくなる。
 こういう美しい幻(?)がロープとなって、広瀬の「内」と「外」をつないでいるのかもしれない。




草虫観
広瀬 大志
思潮社

人気ブログランキングへ
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする