ナボコフ『賜物』(2)
きのう自分に課したことがらが、もう守れない。1ページから1か所以上引用しない--そうしないと、1年をすぎてもこの本を読み終えることができない。本文だけで 580ページもあるのだから。--しかし、ここだけは外すわけにはいかないだろう。
小説の冒頭の1ページ半は、この2段落目によって現実ではなく仮想された「小説の書き出し」になる。そして、仮想された小説の書き出しでありながら、実は「賜物」という小説の実際の書き出しになっている。
小説が「ふたつ」存在するのである。
この「ふたつ」はナボコフにとってはとても重要なことがらかもしれない。あることがらにおいて、そこにあるものは「ひとつ」ではなく「ふたつ」である。その「ふたつ」は書かれのもの(対象)と書き表したもの(記述)でもあるし、意識と無意識でもある。
ことばを書くというのは意識的な作業だけれど、意識的な作業のすべてが意識下にあるというわけでもない。どんなときでも無意識というものが動いている。意識できない意識が意識を調えている。
ナボコフはその無意識をここでは「彼の内にいる誰か」と読んでいる。無意識だから「彼の意思には関わりなく」というのは自然だと思うが、次のことばがナボコフ以外に書けるかどうかわからない。とてもナボコフ的だと思う。「すでにこのすべてを受け入れ」の「すべて」。
書かれるもの(対象)は「ひとつ」である。書き表したもの(記述)も「ひとつ」である。でも、その「ひとつ」は必ず何かとつながっている。「ふたつ」になる要素をもっている。「ひとつ」のものが別のものとつながり「ふたつ」になり、それが延々とつづいていって「すべて」になる。
「すべて」というのは面倒くさい。「すべて」なんて、いらない。「ひとつ」で充分、というときもあるかもしれない。けれど、ナボコフの無意識は「すべて」を「受け入れる」。
「すべて」を「受け入れる」ものが一方にあり、もう一方にはそれを選択するものがある。無意識と意識は、拮抗しながらナボコフの文体になる。
「いつか分厚いのを一冊、こんな昔ながらの書き出しではじめてみようか」と、ちらりと頭をよぎった考えにはのんきな皮肉がまじっていてた。とはいえ、その皮肉はまったく余計なものだった。彼の内にいる誰かが、彼の代わりに、彼の意思には関わりなく、すでにこのすべてを受け入れ、書きとめ、しまいこんでいたからである。
(8ページ)
きのう自分に課したことがらが、もう守れない。1ページから1か所以上引用しない--そうしないと、1年をすぎてもこの本を読み終えることができない。本文だけで 580ページもあるのだから。--しかし、ここだけは外すわけにはいかないだろう。
小説の冒頭の1ページ半は、この2段落目によって現実ではなく仮想された「小説の書き出し」になる。そして、仮想された小説の書き出しでありながら、実は「賜物」という小説の実際の書き出しになっている。
小説が「ふたつ」存在するのである。
この「ふたつ」はナボコフにとってはとても重要なことがらかもしれない。あることがらにおいて、そこにあるものは「ひとつ」ではなく「ふたつ」である。その「ふたつ」は書かれのもの(対象)と書き表したもの(記述)でもあるし、意識と無意識でもある。
ことばを書くというのは意識的な作業だけれど、意識的な作業のすべてが意識下にあるというわけでもない。どんなときでも無意識というものが動いている。意識できない意識が意識を調えている。
ナボコフはその無意識をここでは「彼の内にいる誰か」と読んでいる。無意識だから「彼の意思には関わりなく」というのは自然だと思うが、次のことばがナボコフ以外に書けるかどうかわからない。とてもナボコフ的だと思う。「すでにこのすべてを受け入れ」の「すべて」。
書かれるもの(対象)は「ひとつ」である。書き表したもの(記述)も「ひとつ」である。でも、その「ひとつ」は必ず何かとつながっている。「ふたつ」になる要素をもっている。「ひとつ」のものが別のものとつながり「ふたつ」になり、それが延々とつづいていって「すべて」になる。
「すべて」というのは面倒くさい。「すべて」なんて、いらない。「ひとつ」で充分、というときもあるかもしれない。けれど、ナボコフの無意識は「すべて」を「受け入れる」。
「すべて」を「受け入れる」ものが一方にあり、もう一方にはそれを選択するものがある。無意識と意識は、拮抗しながらナボコフの文体になる。
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