詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ナボコフ『賜物』(11)

2010-11-13 12:08:23 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(11)

 私はロシア語を知らない。また『賜物』を日本語以外のどの言語でも読んでいないのだが18ページから19ページにかけての「訳文」がどうにも納得ができない。「「震える」という形容があまり気に入らないのは、なぜだろう。」という文章からナボコフのことばは「逸脱」をはじめる。
 「逸脱」というのは一種の暴走である。スピードが出すぎて、抑制がきかない。そのため、文体が危なっかしくなり、意味がしばしば混乱するような印象を与える--というのはいいのだが、訳文には肝心のスピード感がない。「逸脱」が「逸脱」に、「暴走」が「暴走」になっていない。逆に停滞している。

それはつまり、逆のほうから無に入っていくということだ。つまり、幼児のぼんやりした状態はぼくにはいつも、長い病気のあとのゆっくりとした恢復、根源的な非存在から遠ざかることのように思えるのだが、この闇を味わい、その教訓を未来の闇に入っていくのに役立てるために記憶を極限まで張りつめるとき、それは非存在に近づいていくことになる。ところが、自分の生涯を逆立ちさせ、誕生が詩になるようにしてみても、この逆のほうからの死の間際に、百歳の老人でさえも本来の詩を目の前にしたときに味わうという、あの極度の恐怖に相応するようなものは何も見あたらないのだ。その、さきほど触れた影たちのほかには何も。

 記憶の根源--一番最初の記憶として「震える影」がある。その記憶の方へ記憶の方へとさかのぼっていく。それは「誕生」をつきぬけて「誕生以前」(未生、つまり非存在)を感じさせる。その誕生以前の闇、未生の闇を存分に味わい、それをやがてやってくる死へと結びつけてみようとする。そのとき、誕生以前の闇、未生の闇は、老人が感じる死の恐怖とは合致しない。ただし、あの「震える影」以外は。--ナボコフが書いていること(訳文)をさらに私のことばに「翻訳」しなおせば、そういう具合になるのだが……。
 うーん。
 ナボコフが感じている愉悦(ナボコフの書いている主人公が感じている愉悦)、その愉悦がことばを逸脱させているという感じが、訳文からは伝わってこない。(私の「誤訳・翻訳」からは、もちろん、そんなものは浮かび上がるはずはないのだけれど。)
 だいたい誕生以前の闇、未生の闇は、生を経験したあとの闇(死)とはまったく性質が違うから、そんなものは「恐怖」の対象にはならない。ならないはずだけれど、ナボコフの主人公は、なぜが「恐怖」につながるものを感じている。幼いときに見た「震える影」。それは誕生以前の闇、未生の闇の何かしら「恐怖」に通じるものと「共振」しているのだ。
 そして、思うのだが、この小説の訳者(沼野充義)は、ナボコフのことばに「共振」していないのではないのか、という印象が残る。「震える(影)」と書いただけで、いっしょに「震える」ものをもたないまま、ことばを追っている。「論理」として訳出している。そういう感じがする。
 きょう引用した部分では「つまり」のつかい方がひっかかってしようがない。「……のに」「だからこそ……なのだ」「つまり……」。そういうことばが出てくるとき、ことばのリズムが乱れる。「論理」を訳出しようとするとリズムが乱れる。ナボコフのことばは、そういう一種の論理を補助することばを借りて暴走しているはずなのに、その暴走、逸脱のスピードが訳文ではとたんに失速する。
 きのう読んだかっこのなかに入っていた人形劇のくだりのように、「論理」の仕組みが日本語とロシア語とでは違うのだろう。ロシア語の持続力を(粘着力のある論理構造を)、その持続するときの出発点から順に持続させていくために、論理がねじれ、重くなるのだろう。
 「……のに」「だからこそ……なのだ」「つまり……」は、ある意味では、「結論」を含んでいる。その含んでいるはずの「結論」までの構造を利用して、ナボコフのことばは暴走する。その暴走はどんなに暴走しても構造から「逸脱」しえない--そういう「安心感」がナボコフ自身にあるのかもしれない。
 けれども、訳文には、その「安心感」がなく、ただ「構造」が重しのようにことばを苦しめている。
 直感的に、私は、そういうものを感じる。
 訳文への不平を書くことが目的ではないし、私はロシア語の原文自体を読んでもいないのだから、これは次のように言い換えるべきなのだろう。

 ナボコフは、ロシア語特有の論理的構文を利用して、そのなかでことばを暴走させる。論理的構文は非常に強固なので、ことばはどんなに暴走しようとも、論理から逸脱しない。そういう安心感(母国語の暗黙の安心感)が、ナボコフをさらに暴走させる。それは、たとえば、子供時代の思い出を語る部分に「非存在」というよう堅苦しいことばをもってくるところにもあらわれている。この哲学的なことばは、子供時代の根源的な思い出、影をきらめかせる逆説的な光--つまり絶対的な闇のような効果を原文(ロシア語)では発揮しているはずだ、と私は直感として感じる。
 ナボコフの魔術的文体は、ロシア語に根源的な論理構造(長い長い文章を平然と成立させる構造)にある。その構造はどんな言語をも強い粘着力でしばりつける。子供時代の「震える(影)」も「非存在」ものみこみ、それを電気でいえば「並列」ではなく「直列」の形でパワーアップさせ、暴走させるのだ。

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ヨシフ・ブロツキイ「秋、鷹の声」

2010-11-13 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
ヨシフ・ブロツキイ「秋、鷹の声」(山本楡美子訳)(「長帽子」72、2010年11月10日発行)

 ヨシフ・ブロツキイ「秋、鷹の声」は、ことばの振幅が大きい詩である。

銀灰色、朱色、琥珀色、茶色の混じったコネチカット渓谷、
北西風に乗って、鷹は
渓谷上空を飛ぶ。遥か下方には、
あれた農家の庭、ニワトリがうずくまったり、
歩いたりしているだろう。シマリスも
ヒースの陰にいるのだろう。

 このことばの振幅の大きさは、詩人の眼が複数だからである。最初の1行はだれの眼か。人間の眼か、鷹の眼か。どちらともとれる。しかし、「渓谷上空を飛ぶ。」は詩人以外の眼ではありえない。鷹は渓谷の上空を飛んでいる姿を見ることができないからである。そして、このあとがおもしろいのだ。鷹を見上げた詩人の眼がそのまま鷹に乗り移って、そこから下方を(地上を)見下ろす。鷹そのものの眼ではないから、その見たもの(見るもの)には想像が入る。「いるだろう」という推量が入る。しかし、それは推量なのだけれど、なぜか推量を超越した事実のように感じられる。そこから目撃されるものが人間の関心のあるものではなく、鷹が関心をもっているであろう「生き物」に限定されているからだ。
 ここでは地上から上空を見あげる人間の眼と、上空から見下ろす鷹の眼が交錯している。地上-上空、人間-鷹と、ふたつの領域を素早く往復する眼がある。その眼の動きの距離の遠さ、そして眼が見るものの絶対性がことばの振幅を自然に大きくしているのである。

いま彼は高く気流に乗る。
眼下に見るのは--峨峨たる岩山。
険しい気流、鋼鉄製でありながら生きている骨の、
銀色の川、

 「鋼鉄製の」という比喩に私はとても驚いた。この行を読んだ瞬間に、あ、この詩についての感想を書きたい、と実は思ったのである。
 険しい渓谷を流れる川、その銀色の光を見て、それを「鋼鉄製」の「骨」と呼んでいるのだが、ここには不思議な視力がある。1連目、鷹に乗り移った詩人の眼はニワトリ、シマリスといった獲物を見ていた。それはあくまで鷹の眼である。(人間が想像する鷹の世界である。)けれど、鷹には「鋼鉄」は意味を持たない。つまり鷹に川が銀色に輝いたとしても「鋼鉄」に見えるはずがない。それを「鋼鉄」と感じるのは、いろいろな鋼鉄の状態を知っていて、銀色に特別な思いを抱いている人間だけである。真新しい鋼鉄。剥き出しの鋼鉄。それは、人間にとってはニワトリやシマリスのように、生(レア)な、血の滴る獲物のようなものである。
 大きな振幅を往復するあいだに、人間の眼と鷹の眼が融合して、その融合したまま、未分化の眼が世界を描写しているのである。

 ある存在が未分化であるのではなく、眼が未分化である。未分化の眼を通って世界が瞬間瞬間に噴出してくる。それは、いわば制御されないエネルギーの爆発である。だから、ことばの振幅はさらにさらにさらに大きくなっていくのである。

肉体と、羽毛と、羽根と、翼に育まれた心臓は、
止むことなく、はげしく打つ。
情熱と感覚で勢いをつけて。
鷹は秋の空を切り分け、
分け入る。その速さで、
茶色い小片になって、秋の空を広げ、

ようやく一点を目にとめ、
遥か上空ではなく、丈高いマツの木を
めざす。こうして、
空を見上げるコドモの無邪気な眼差しがあるのだ。
車を降りて、仰ぎ見る恋人たちがいるのだ、
ポーチに立つ女性がいるのだ。

 この「肉体感覚」の混乱(融合)の激しさ。そして「視線」の混乱の激しさ。いったい、この風景を描写しているのは誰なのだ。詩人--といってしまえば簡単だが、いったい詩人はどこにいるのか。
 詩人は、あるときは子供で、あるときは恋人たち(複数)で、あるときは女性である。その眼で鷹を見上げ、同時に鷹は見られていることを意識している。
 激しいことばの振幅は、その激しさのあまり、振幅の軌跡を描くことができない。振幅がありすぎて、振幅がない状態と同じになってしまう。
 この混乱というか、未分化は、詩が展開するにしたがって濃密になる。それはまるで「混沌(カオス)としての無」そのものである。詩人のことばを潜り抜けると、瞬間的な化学反応が起きて、そこから出現してこないものはない。あらゆるものが純粋な形、生の形であふれてくる。

鷹は天頂へ向かう。青い蒼穹へ。
双眼鏡で見れば、点滅する点、
真珠のようだ。
空で、使い慣れた食器が
割れた音がして、
何かがゆっくりと回転しながら落ちてくる。

しかし、その破片が、私たちの手のひらに落ちてきても、
痛くはない、手に触れて解けるだけだ。
もう一度きらきらと輝くのを見ることができる、
巻き毛を、穴飾りを、糸を、
虹のような、多色の、ぼやけたコンマ、楕円、螺旋、
大麦の穂、同心円を--

かつて一度は羽根が所有した美しい図柄、
地図、飛翔しながら緑の坂に積っていく白い片々。
子供たちは、晴れ晴れと装い、
ドアから走り出て、白い片々を捕まえるために、
大きな声で叫ぶ。
「冬が来た!」

 秋から冬へ--季節の時間さえも融合し、新しく生まれ変わるのだ。鷹が雪をつれてきたのではない。詩人の、世界をいったん融合させ、そこからもう一度存在のすべてを噴出させる眼の力が季節をさえ変えてしまうのだ。
 それにしても。
 「大きな声で叫ぶ。」この1行の激しい激しい美しさ。
 詩人は眼で何かを見るだけではない。それを「声」にする。ことばにする。詩人がことばを発するとき、そこから世界が生まれるのだ。
 「冬が来た!」
 詩人のことばのなかから、それはやって来る。いったん、遠く遠く遠くへ行って、「冬が来た!」ということばに呼び寄せられて、ほら、そこまで。

 あ、日本でも、もうすぐ初雪の季節だ。





大理石
ヨシフ ブロツキー
白水社

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