ナボコフ『賜物』(11)
私はロシア語を知らない。また『賜物』を日本語以外のどの言語でも読んでいないのだが18ページから19ページにかけての「訳文」がどうにも納得ができない。「「震える」という形容があまり気に入らないのは、なぜだろう。」という文章からナボコフのことばは「逸脱」をはじめる。
「逸脱」というのは一種の暴走である。スピードが出すぎて、抑制がきかない。そのため、文体が危なっかしくなり、意味がしばしば混乱するような印象を与える--というのはいいのだが、訳文には肝心のスピード感がない。「逸脱」が「逸脱」に、「暴走」が「暴走」になっていない。逆に停滞している。
記憶の根源--一番最初の記憶として「震える影」がある。その記憶の方へ記憶の方へとさかのぼっていく。それは「誕生」をつきぬけて「誕生以前」(未生、つまり非存在)を感じさせる。その誕生以前の闇、未生の闇を存分に味わい、それをやがてやってくる死へと結びつけてみようとする。そのとき、誕生以前の闇、未生の闇は、老人が感じる死の恐怖とは合致しない。ただし、あの「震える影」以外は。--ナボコフが書いていること(訳文)をさらに私のことばに「翻訳」しなおせば、そういう具合になるのだが……。
うーん。
ナボコフが感じている愉悦(ナボコフの書いている主人公が感じている愉悦)、その愉悦がことばを逸脱させているという感じが、訳文からは伝わってこない。(私の「誤訳・翻訳」からは、もちろん、そんなものは浮かび上がるはずはないのだけれど。)
だいたい誕生以前の闇、未生の闇は、生を経験したあとの闇(死)とはまったく性質が違うから、そんなものは「恐怖」の対象にはならない。ならないはずだけれど、ナボコフの主人公は、なぜが「恐怖」につながるものを感じている。幼いときに見た「震える影」。それは誕生以前の闇、未生の闇の何かしら「恐怖」に通じるものと「共振」しているのだ。
そして、思うのだが、この小説の訳者(沼野充義)は、ナボコフのことばに「共振」していないのではないのか、という印象が残る。「震える(影)」と書いただけで、いっしょに「震える」ものをもたないまま、ことばを追っている。「論理」として訳出している。そういう感じがする。
きょう引用した部分では「つまり」のつかい方がひっかかってしようがない。「……のに」「だからこそ……なのだ」「つまり……」。そういうことばが出てくるとき、ことばのリズムが乱れる。「論理」を訳出しようとするとリズムが乱れる。ナボコフのことばは、そういう一種の論理を補助することばを借りて暴走しているはずなのに、その暴走、逸脱のスピードが訳文ではとたんに失速する。
きのう読んだかっこのなかに入っていた人形劇のくだりのように、「論理」の仕組みが日本語とロシア語とでは違うのだろう。ロシア語の持続力を(粘着力のある論理構造を)、その持続するときの出発点から順に持続させていくために、論理がねじれ、重くなるのだろう。
「……のに」「だからこそ……なのだ」「つまり……」は、ある意味では、「結論」を含んでいる。その含んでいるはずの「結論」までの構造を利用して、ナボコフのことばは暴走する。その暴走はどんなに暴走しても構造から「逸脱」しえない--そういう「安心感」がナボコフ自身にあるのかもしれない。
けれども、訳文には、その「安心感」がなく、ただ「構造」が重しのようにことばを苦しめている。
直感的に、私は、そういうものを感じる。
訳文への不平を書くことが目的ではないし、私はロシア語の原文自体を読んでもいないのだから、これは次のように言い換えるべきなのだろう。
ナボコフは、ロシア語特有の論理的構文を利用して、そのなかでことばを暴走させる。論理的構文は非常に強固なので、ことばはどんなに暴走しようとも、論理から逸脱しない。そういう安心感(母国語の暗黙の安心感)が、ナボコフをさらに暴走させる。それは、たとえば、子供時代の思い出を語る部分に「非存在」というよう堅苦しいことばをもってくるところにもあらわれている。この哲学的なことばは、子供時代の根源的な思い出、影をきらめかせる逆説的な光--つまり絶対的な闇のような効果を原文(ロシア語)では発揮しているはずだ、と私は直感として感じる。
ナボコフの魔術的文体は、ロシア語に根源的な論理構造(長い長い文章を平然と成立させる構造)にある。その構造はどんな言語をも強い粘着力でしばりつける。子供時代の「震える(影)」も「非存在」ものみこみ、それを電気でいえば「並列」ではなく「直列」の形でパワーアップさせ、暴走させるのだ。

私はロシア語を知らない。また『賜物』を日本語以外のどの言語でも読んでいないのだが18ページから19ページにかけての「訳文」がどうにも納得ができない。「「震える」という形容があまり気に入らないのは、なぜだろう。」という文章からナボコフのことばは「逸脱」をはじめる。
「逸脱」というのは一種の暴走である。スピードが出すぎて、抑制がきかない。そのため、文体が危なっかしくなり、意味がしばしば混乱するような印象を与える--というのはいいのだが、訳文には肝心のスピード感がない。「逸脱」が「逸脱」に、「暴走」が「暴走」になっていない。逆に停滞している。
それはつまり、逆のほうから無に入っていくということだ。つまり、幼児のぼんやりした状態はぼくにはいつも、長い病気のあとのゆっくりとした恢復、根源的な非存在から遠ざかることのように思えるのだが、この闇を味わい、その教訓を未来の闇に入っていくのに役立てるために記憶を極限まで張りつめるとき、それは非存在に近づいていくことになる。ところが、自分の生涯を逆立ちさせ、誕生が詩になるようにしてみても、この逆のほうからの死の間際に、百歳の老人でさえも本来の詩を目の前にしたときに味わうという、あの極度の恐怖に相応するようなものは何も見あたらないのだ。その、さきほど触れた影たちのほかには何も。
記憶の根源--一番最初の記憶として「震える影」がある。その記憶の方へ記憶の方へとさかのぼっていく。それは「誕生」をつきぬけて「誕生以前」(未生、つまり非存在)を感じさせる。その誕生以前の闇、未生の闇を存分に味わい、それをやがてやってくる死へと結びつけてみようとする。そのとき、誕生以前の闇、未生の闇は、老人が感じる死の恐怖とは合致しない。ただし、あの「震える影」以外は。--ナボコフが書いていること(訳文)をさらに私のことばに「翻訳」しなおせば、そういう具合になるのだが……。
うーん。
ナボコフが感じている愉悦(ナボコフの書いている主人公が感じている愉悦)、その愉悦がことばを逸脱させているという感じが、訳文からは伝わってこない。(私の「誤訳・翻訳」からは、もちろん、そんなものは浮かび上がるはずはないのだけれど。)
だいたい誕生以前の闇、未生の闇は、生を経験したあとの闇(死)とはまったく性質が違うから、そんなものは「恐怖」の対象にはならない。ならないはずだけれど、ナボコフの主人公は、なぜが「恐怖」につながるものを感じている。幼いときに見た「震える影」。それは誕生以前の闇、未生の闇の何かしら「恐怖」に通じるものと「共振」しているのだ。
そして、思うのだが、この小説の訳者(沼野充義)は、ナボコフのことばに「共振」していないのではないのか、という印象が残る。「震える(影)」と書いただけで、いっしょに「震える」ものをもたないまま、ことばを追っている。「論理」として訳出している。そういう感じがする。
きょう引用した部分では「つまり」のつかい方がひっかかってしようがない。「……のに」「だからこそ……なのだ」「つまり……」。そういうことばが出てくるとき、ことばのリズムが乱れる。「論理」を訳出しようとするとリズムが乱れる。ナボコフのことばは、そういう一種の論理を補助することばを借りて暴走しているはずなのに、その暴走、逸脱のスピードが訳文ではとたんに失速する。
きのう読んだかっこのなかに入っていた人形劇のくだりのように、「論理」の仕組みが日本語とロシア語とでは違うのだろう。ロシア語の持続力を(粘着力のある論理構造を)、その持続するときの出発点から順に持続させていくために、論理がねじれ、重くなるのだろう。
「……のに」「だからこそ……なのだ」「つまり……」は、ある意味では、「結論」を含んでいる。その含んでいるはずの「結論」までの構造を利用して、ナボコフのことばは暴走する。その暴走はどんなに暴走しても構造から「逸脱」しえない--そういう「安心感」がナボコフ自身にあるのかもしれない。
けれども、訳文には、その「安心感」がなく、ただ「構造」が重しのようにことばを苦しめている。
直感的に、私は、そういうものを感じる。
訳文への不平を書くことが目的ではないし、私はロシア語の原文自体を読んでもいないのだから、これは次のように言い換えるべきなのだろう。
ナボコフは、ロシア語特有の論理的構文を利用して、そのなかでことばを暴走させる。論理的構文は非常に強固なので、ことばはどんなに暴走しようとも、論理から逸脱しない。そういう安心感(母国語の暗黙の安心感)が、ナボコフをさらに暴走させる。それは、たとえば、子供時代の思い出を語る部分に「非存在」というよう堅苦しいことばをもってくるところにもあらわれている。この哲学的なことばは、子供時代の根源的な思い出、影をきらめかせる逆説的な光--つまり絶対的な闇のような効果を原文(ロシア語)では発揮しているはずだ、と私は直感として感じる。
ナボコフの魔術的文体は、ロシア語に根源的な論理構造(長い長い文章を平然と成立させる構造)にある。その構造はどんな言語をも強い粘着力でしばりつける。子供時代の「震える(影)」も「非存在」ものみこみ、それを電気でいえば「並列」ではなく「直列」の形でパワーアップさせ、暴走させるのだ。

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