詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田原「階段 画家廣戸絵美に」、高橋睦郎「箱宇宙を讃えて」

2010-12-28 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
田原「階段 画家廣戸絵美に」、高橋睦郎「箱宇宙を讃えて」(「現代詩手帖」2010年12月号)

 田原「階段 画家廣戸絵美に」はちょっと不思議な詩である。

陽射しは階段の暗闇を締め出している
時間の大きな流れが
階段にそって勢いよく流れ
ひっそりした空間は埋没しているように見える

絵筆を持った手は
光を持ち上げるように
階段を暗闇のなかに復元し
立体の現象を平面の抽象に変える

 私はまったく知らないのだが、廣戸絵美という画家には「階段」という作品があるのだろう。そしてその作品を見て田原がこの詩を書いた。そこまでのことはわかる。しかし、そのあと、私にはちょっと変なことが起きるのである。

陽射しが階段に反射する光に
感動。人生は何と似ていることか
反射光のなかに漂っている雲に
太陽の移動につれて とりとめもなく変化して消える
そうしてまた太陽の昇るにつれて現れる

 私は「絵」ではなく、ほんものの階段を思い浮かべてしまうのである。廣戸絵美とその作品を見たことがないせいもあるのかもしれないが、どうしても「絵」が浮かんでこない。
 なぜだろう。
 「太陽の移動につれて とりとめもなく変化して消える/そうしてまた太陽の昇るにつれて現れる」。太陽の移動とともに、消え、また現れる。暗くなると見えなくなり、明るくなるとまた見えるようになる。--この現象のなかに「時間」がある。ものが見える、見えないという変化、見るということが「時間」としてとらえられているからだと思う。
 「絵」とは「時間」ではなく「空間」として存在している。
 ピカソの作品のように、ひとりの顔のなかに複数の表情が描かれるときでも、それは「複数の時間としての表情」ではなく、「一瞬のなかの複数の表情」の同居である。朝喜んでいたが、昼に怒り、夜に泣いた、という顔ではなく、喜びと怒りと哀しみが同居してしまう「瞬間」としての顔である。そこには「時」はあっても「時間」はない。
 けれども、それがどんな絵であるかわからないのだけれど、田原は廣戸絵美の絵に「時間」を見ている。「時間」とともに表情を変える「絵」--その「絵」の向こうにある「時間」を見ている。
 そして、その「時間」は次のように変わる。

階段は一つの秩序と規律
その哲学のなかに奥義を宿している
階段は一種の沈黙
暗闇と孤独の圧迫に黙々と耐えている

 「時間」のなかに「哲学」がある。「時間」によって、あらゆることが積み重なり、そこに「哲学」が生まれる。あ、さすがに中国、歴史の国の詩人なんだなあと思ってしまう。
 田原の詩を(ことばを)読んでいて、どうしてこんな具合に「世界」が見えるのかなあ、とときどきびっくりすることがあるが、それは田原が「世界」を「時間」として見ているからだろうと思う。田原のことばの底から、ふいに「時間」が噴出してくるのである。それは日本の短い(?)歴史を一番奥底から突き破ってくるような「時間」である。

階段にはいろんな構造と材質がある
急な階段、緩やかな階段、広い階段、狭い階段、
そうして木の階段、セメントの階段
しかし必ず実行する仕事は一つしかない
昇ると 太陽の距離が縮まる
降りると 地平線や広々とした大地へ出る

 まいるなあ。「中国」の「長大な時間」から世界を見ると、階段を上り下りするだけで「太陽との距離」がかわるのだ。私の感覚では階段を上ったくらいでは太陽との距離なんかは変わりっこないが、田原は変化を感じる。「長大な時間」の単位は、実はとても「精密」なのだ。「精密」だけが「長大」という広がりまで測定できるのだ。
 階段を降りて歩き回るのは、私はせいぜいが1階、がんばっても家の近くの公園くらい。連れている犬の気分次第ではあっちの公園、こっちの公園と歩き回るけれど、地平線を感じる(認識できる)ほどの「大地」へは降り立ったことがない。
 「時間」は「空間」「立体」さえも変化させてしまうのだ。

 一枚の絵(それとも廣戸絵美には何枚もの階段シリーズの絵があるのかな?)から、こんなところへまで行ってしまう田原のことばに驚いてしまう。これでは、廣戸の絵ではなく、田原の階段哲学である。



 高橋睦郎「箱宇宙を讃えて」にも「絵」が登場する。

肖像画の女性は 見つめる
誰を? とりあえず私を
いいえ 私をつきぬけて 向こうを
そのまっすぐな矢によって
私は消去される
女性は消え失せている

 ここにかかれていることばは、田原のことばとは対照的である。肖像画の視線は、絵を見つめる「私」を突き抜けて遠くまで進む。その結果、私は消え失せる。存在しなくなる。そうしたことが起きたあと、肖像画を見ると、女性も消えている。
 あ、絵は、見るひとがいてはじめて存在するのものだ。
 見るひと(私)が消えてしまえば、絵もまた消えるのである。
 --この哲学は、とてもおもしろい。また、私としとは、田原の哲学に比べるとずいぶんとなじみやすい。よくわかる。わかるなあ、この感覚。
 でも、繊細だなあ、と思ってしまう。繊細が悪いというのではないが、感覚的過ぎて、こわれてしまわないか不安になってしまう。田原の哲学は、どんなに叩いてもこわれないというか、こわれてもそのこわれたところがまた哲学になるという感じだが、高橋のことばは「箱」にいれて大事にしまっておかないと消えてしまうそうな感じがする。

 (田原「階段 画家廣戸絵美に」の初出は「新美術新聞」4月21日、
  高橋睦郎「箱宇宙を讃えて」の初出は、詩集『箱宇宙を讃えて』4月)

石の記憶
田 原
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