詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

森ミキエ「風景 Ⅰ」

2010-12-20 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
森ミキエ「風景 Ⅰ」(「ひょうたん」42、2010年09月25日発行)

 作品の全行が、というか、作品全体がというのではないけれど、ある部分が忘れられない詩がある。
 森ミキエ「風景 Ⅰ」。

掃除のあいま 押入れの古い箱を開けると
こわれた写真立てのなかに取り残された 海
海はとてもいい顔で笑っている
なにが嬉しかったのだろう
なにが面白かったのだろう
人も船も魚も貝も うつっていないのに
なぜ 捨てられなかったのだろう

 「海」に「顔」があるか。ない。では、この「顔」は「比喩」なのか。「比喩」でもない--と私は思う。「比喩」を通り越している。いや、「比喩」になる前の何かである。「比喩」にならないし、「比喩」になろうともしていない。
 でも、そこに、何かがある。何だろう。

掃除のあいま

 ここに書かれている「あいま」かもしれない。「掃除のあいま」というのは、掃除と関係がないかというとそうでもない。掃除というのは単にごみを掃き集める、汚れを拭きとるというものでもない。それは「暮らし」をととのえるための、あれこれである。知らないうちにたまってくるのはごみやほこりだけではない。散らばっているごみ以外にも、なにやかやがたまってくる。そういうものを、掃除のついでに整理しようと思うのは、誰にでも経験のあることだろう。
 「あいま」と書かれているけれど、それは「掃除」と「掃除」の「あいだ」、掃除とは無関係な「時間」ではないのだ。掃除の「つづき」でもあるのだ。とぎれていない。つながっている。「あいま」は「隔たり」ではなく、「つながり」である。

 「あいま」は「合間」と書くのだと思う。その漢字をじっくりみつめていると、また、違ったものも見えてくる。「時間」との違いがわかってくる。
 「時間」は「時」と「時」の「間」。「掃除」を例にとると、「ある部屋を掃除している時」と「別の部屋を掃除する時」の「間」には、まあ、厳密に言えば「間(隔たり、隔たりとしての広がり)」があるし、その「間(広がり)」の「時」を「休憩」につかったりすることもできる。
 「合間」は「時間」の定義(?)をあてはめると「合」と「合」の「間」ということになる。
 「合」って、何? 「合う」と考えると、何かと何かがひとつになること、重なること、同じになること--かもしれない。「ひとつ」「重なる」「おなじ」なら、そこには「間(隔たり、ひろがり)」はない。

 と、ここまで書いて、私は「あっ」と叫んだ。(私は、何もわからずに、書きながら考えるのである。--結論はいつでも予定していたものとは違ったものになってしまう。)急に、「間(隔たり、ひろがり)」とは違うことを書きたくなった。なってしまった。

 「合う」というのは、ひとつになる「こと」、かさなる「こと」、おなじになる「こと」--つまり「こと」と「こと」が「合う」こと? 「こと」と「こと」が「間」が「あいま」なのだ。それは、ほんとうは「こと間」かもしれない。
 「こと」というのは「時」のように計る単位がない。はかりようのないものが、「こと」と「こと」の「間」を埋めてしまう。そういう「こと」があるのだ。

 それは、「こと・ま」(あいま)には「時間」(時)というものがないということにならないだろうか。

 「時間」と「あいま」の違いは「時」があるかないかである。

海はとてもいい顔で笑っている

 その写真を見る「時」、そしてその写真を撮った「時」。それが写真である限り、そこには「時間」がある。あるはずである。しかし、その写真を見て「とてもいい顔で笑っている」と感じる「時」、その「時」は写真を撮った「時」との「間」をかき消してしまう。「時」と「時」の「間」はなくなり、森は、写真を撮った「時」そのものへ帰っている。そこで過去の「時」と会っている。そして、そのとき、森は「時」と会っているのではなく、ほんとうは、海をみた「こと」、海の写真を撮った「こと」と会っている。海を見て「いい顔」と感じた--その感じた「こと」と会っている。

 「こと」のなかには、「いま」しかないのだ。「過去」などない。「未来」もない。「こと」は分断できない。それは「過去」「いま」「未来」を「ひろがりのない・つながり」にしてしまう。「永遠」にしてしまう。「こと」はいつでも「永遠」なのだ。

ただ 波ばかり
波ばかりの 色あせたモノクロ写真
もう一度 見つめて もう一度 しまう
ざざーん ざざーん
箱のなかで生きている

 「こと」は「生きている」。
 私は「海はとてもいい顔で笑っている」ということばにひかれて、この詩が忘れられなかったのだけれど、ほんとうは「あいま」ということばを森が発見したことが、この詩の力なのかもしれない。



P―森ミキエ詩集
森 ミキエ
七月堂


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ナボコフ『賜物』(32)

2010-12-20 10:32:48 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(32)

新年をなぜか三人はベルリンの駅の軽食堂で迎え--たぶん、駅では時間の武装が特に強い感銘を与えるためだろうか--そのあとで色とりどりのぬかるみの真っただ中に出ていき、ぞっとするようなお祭り気分の街路をぶらついた。
                                 (72ページ)

 「時間の武装」とは何だろうか。駅では時間は厳密に全体を支配している。列車の出発、到着は決められている。時間の支配力を「武装」と呼んでいるのだろうか。だが、それが「感銘を与える」とは? ものごとが「時間」の支配にしたがって動く--そのことにナボコフは感銘を受けるということだろうか。そうであれば、ナボコフの性質(?)、あるいはロシア人の性質のひとつに時間のルーズさがあることになる。時間感覚がルーズだから、時間が厳密に行動を支配しているような世界に感銘を受けるのだ。時間に厳密なひとは、時間に厳密な行動様式には感銘など受けないだろう。当然のことと受け止めるだろう。
 ここに描かれている三人は、時間に対してルーズというか、時間をあまり気にしないということかもしれない。そしてそれは時間だけではなく、「生活」や「世界」に対しても厳格さを求めていないということにつながるかもしれない。「新年」という区切りを、「駅の軽食堂」という「正式な場」から遠いところで迎えるというところに、その性質が暗示されている。
 そして、それはさらに、それに続く文章で強調されている。
 「色とりどりのぬかるみ」とは雨上がりのぬかるみに街の明かり(ネオン)が映り、色とりどりになっているということだろう。「色とりどり」という華麗なものと「ぬかるみ」の結合、さらに「ぞっとするような」という否定的気分と、「お祭り」という違和感のあることばの結びつき。
 ここには「厳格さ」はない。むしろ、「気まま」「自由」という匂いがひしめいている。

 ナボコフの文章の細部は「厳格」「厳密」である。しかし、そのことばの結合は、私たちが一般的に「厳格」「厳密」と呼んでいるものを否定するようにして動いている。そのために、一種の逆説的な効果のようなものが生まれ、その細部がいっそう輝かしく見える。


ロリータ、ロリータ、ロリータ
若島 正
作品社


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アントワン・フークア監督「クロッシング」(★★★)

2010-12-20 09:16:20 | 映画
監督アントワン・フークア 出演 リチャード・ギア、イーサン・ホーク、ドン・チードル、ウェズリー・スナイプス、エレン・バーキン

 リチャード・ギアという役者は、私は嫌いである。さえない。貧乏くさい。花がない。孤独――の匂いがする。この映画では、定年間近の、ただただ問題もなく定年までたどりつき、年金をもらうことだけを考えている。あ、ぴったり、と私は思う。適役じゃないか。孤独感が、いままでのどの映画よりも絵になっている。
 でも、そういう孤独人間でも、自分にできる最良のことは何かを考え続けている。それが少しづつあきらかになる。コンビニでの、新人警官の発砲の責任は自分にあると主張し、身を引いていくシーンは味があるなあ。上司に、こんな風に証言しろと言われるのだが、かたくなに拒む。このときの孤独感が、お、美しいじゃないか、と思う。彼の孤独は、仕事の中だけで完結し、仕事があるかぎり孤独ではないのだ。変な言い方だが、リチャード・ギアの孤独は仕事の孤独なのだ。
 警察の仕事、警官の仕事は、まあ、理解されない。反感をかいやすい仕事だ。仕事そのものが孤独であることが、たぶん宿命なのだ。そして、それが孤独であるとき、その仕事は美しい、ということかもしれない。誰も知らないところで完結していい、もしかすると何もしなくてもいい状態で仕事が完結するのが警察というところかもしれない。
 変な警官なのだけれど、その変なところが一種の「理想」を逆説的に暗示しているのが、この映画のおもしろいところかもしれない。
 クライマックスも、リチャード・ギアが考えていることは、誘拐され虐待されている女性を救うことだけ。誰かを殺すというようなことは考えていない。なるほどなあ、ここに、この映画の「理想」が描かれているわけか・・・。
 他の二人の警官、イーサン・ホークとドン・チードルも孤独なのだけれど、二人の孤独は美しくない。まわりの人と「友情」があるからだ。孤独だけれど、その孤独は、あるひとと「友情・愛情」があるために感じる切なさである。この仕事は自分のもの、という「完結」がない。イーサン・ホークは悪徳警官だから肯定されてはいない。これは当然として、ドン・チードルは一種のエリート(?)、花形に属するけれど、やはり「親身」には描かれていない。
 でも、この映画では、誰に肩入れして映画を見ればいいのかなあ。映画を見終わって、このシーン、この台詞を真似してみたい、というものがない。こんな映画は私は好きになれない。私はミーハーだから、映画を見たら、やっぱり主人公の気持ちで映画館から出てきたいのだ。


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