詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松川穂波「足りない夢」、渡辺めぐみ「小笛記」ほか

2010-12-07 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
松川穂波「足りない夢」、渡辺めぐみ「小笛記」ほか(「イリプスⅡ」06、2010年11月15日発行)

 松川穂波「足りない夢」は散文詩ということになるのだと思う。そして「夢」を描いているという点でも粕谷栄市の詩と通い合うものがある--はずであるが、通い合うものよりも、違いの方がくっきりと見えてくる。

なぜわたしを忌むのか ほんとうにわたしは いっぽん足りない鳥なのか
六月の早い朝 空は濁り沼のように水を張り そのとりわけ深い淵を渡る
とき ついわたしは大声をえげたくなる 漆黒の喉にしつぞんの力をこめ
嘴を震わせ わたしの静かな暮らしを唄ってみる かあ!かあ!かあ!す
ると 下町一帯に広がるくすんだ家々の とりわけ貧しげな二階の窓あた
りから 谺する声が零れるのだ ああ!ああ! その声のはるか先には
たいてい汚れたカーテンがぼんやりと揺れていて その声のはるか先には
わたしの喉より黒い沼が瘴気をあげている わたしは誰かの夢を破ったの
かもしれない それはどこかいっぽん足りない夢であるはずだが ゴルフ
ボールの代わりにその夢のかけらをひょいと咥えたら もう鳴くこともで
きず わたしはどの枝にも帰りかねている

 粕谷のことばと何が違うのか。粕谷のことばは「考え」をあらわしていたが、松川のことばは「考え」を持っていない。「考え」をもっていないという言い方はちょっと失礼な言い方で申し訳ないが、ことばが「考え」になっていない。「考え」に到達せずに、「考え」に至る前に別のものに動いていってしまう。
 たとえば、「かあ!かあ!」と鳴くカラス。そして、それに答えて「ああ!ああ!」と声をもらす人間。きちんと書いているにもかかわらず、書き終わっていないという印象が残る。
 なぜだろう。
 反復がないからだ。
 松川の詩に対する感想と粕谷の詩に対する感想がごちゃまぜになって申し訳ないと思うけれど……。粕谷の詩には、うんざりするほどの繰り返しがあった。ほとんど繰り返ししかないと言っていいくらい、同じことばが繰り返されている。
 そのことを思い出すとわかるのだが、「考え」とは「繰り返し」によって「考え」になるのだ。「散文」は前に書いたことを踏まえて次へ進むものだが、その前に書いたことを踏まえるということのなかには「繰り返し」があるのだ。
 松川は繰り返さない。
 「大声をあげたくなる」と、「かあ!かあ!」と素直に声に出してしまう。そして、その「かあ!かあ!」がどういう「意味」をもっているのか点検しない。点検する代わりに、まったく違うことをしてしまう。自分に目を向けずに、自分の外へと目を動かしてしまう。「下町一帯に広がるくすんだ家々の とりわけ貧しげな二階の窓あたりから」というような、声を上げたくなったこととは無関係なものを拾い集めてしまう。その瞬間、「わたし」がいなくなる。
 その結果。
「ああ!ああ!」と声をもらす人間に出会うのだが……。
 この「出会い」が直接的ではない。先に書いてしまったが、「かあ!かあ!」と「ああ!ああ!」の間に、「下町一帯に広がるくすんだ家々の とりわけ貧しげな二階の窓あたりから」という緩衝物が入る。
 そのために、「わたし」は、前にもまして「わたし」を「繰り返すこと」ができなくなる。「ああ!ああ!」という人間になって「わたし」を繰り返そうにも、「わたし」は「町の描写」という緩衝物によって切断されてしまっている。
 「考え」というものは、間に「緩衝物」を入れると成り立たなくなる。
 ただ、先へ先へと進む「物語」になってしまう。ストーリーになってしまう。もし、そこで何かを考えようとすると、ストーリーを「考え」にしてしまうしかない。
 だから「わたしの喉より黒い沼が瘴気をあげている」というような「仕掛け」が必要になってくる。「黒い沼」の「瘴気」など、「わたし」とは何の関係もない。「ああ!ああ!」と声をもらした人間とも何の関係もない。
 「わたし」→「ああ!ああ!と声をもらす人間」→「黒い沼の瘴気」
 図式化するとわかるが、矢印が「もの」をつないでいるのだが、この矢印は「接続」であると同時に、「分離」でもある。「わたし」が「黒い沼の瘴気」まで行ってしまうと、「「ああ!ああ!と声をもらす人間」は欠落してしまう。それは、「わたし」と「ああ!ああ!と声をもらす人間」が接続した瞬間、「わたし」→「ああ!ああ!と声をもらす人間」の矢印の部分に存在した「下町一帯に広がるくすんだ家々の とりわけ貧しげな二階の窓あたりから」が欠落するのと同じである。
 松川のことばは先へは進むが、その運動の過程で、「考え」を捨ててしまうのだ。「考え」というのは、もちろん運動もするけれど、「いま」「ここ」に踏みとどまって、反復することでしか明確にならないものなのかもしれない。
 --粕谷の詩を読み、その影響を残したまま、他のひとの作品を読むと、そんなふうに思える。
 なんだか松川の詩については何も書かず、粕谷の詩について考えていることを書くのに松川の作品を利用したような文章になって、あ、申し訳ないなあ、と思うが、しかし、まあ、これが、私がいま考えていることがらである。



 渡辺めぐみ「小笛記」。

明かりの足らないところに
明かりを足しにゆく仕事をしていました
その仕事のせいで
火傷を致しますので
素足では生きられませんでした

 行分けの形で書かれている。いわゆるふつうの詩である。けれど、ことばの運動に目を向けると、この詩が異質であることがわかる。1行目を踏まえて2行目がある。そして、1、2行目を踏まえて3行目の「その」がある。行分けをしているけれど、このことばの運動は「散文」である。前に書いたことを裏切らない。
 いまの行につづく次の部分を読むと、この詩のことばの「精神」が「散文」であることは、より明確になる。

養い親はとても優しく
ときにこわいこともありましたが
その裏切りの精妙な味にも
溺れながら甘えておりました
白百合のマイハートでいなさい
いつもそんなことを言っておりましたっけ
この養い親はわたくしの正体を
見抜いていたのかもしれませんが
お互いに後ろ暗いところがあれば
見て見ぬふりをしようじゃないか
と言ってくれているようでした

 「明かり差し」という仕事。素足では生きられないという仕事の厳しさ。そのあとで、「養い親」が突然登場する。それまでの行が無視されて、飛躍する。けれど、すぐに養い親と「わたし」の関係が語られ、その内容が、なんとなく「明かり差しの仕事」「厳しい」「素足手は火傷」というような世界と重ね合わせになる。「養い親」と「わたし」の関係のなかで、「仕事」と「わたし」が形をかえ、反復しているのだ。
 「明かり差し」という仕事がほんとうにあるかどうか私は知らないが、渡辺は、それをさまざまな形で反復しながら「ほんもの」に仕立てていく。もし「明かり差し(という仕事)」が「考え」であるとすれば、「考え」は「反復」のなかで少しずつ「実体」を獲得していくのである。
 「考え」というものは「実体」をもたない。「夢」もまた「実体」をもたない。「嘘」だって「実体」をもたない。けれど、それは「反復」されて「実体」になってゆく。その「反復」はふつうは「散文」のなかでおこなわれるから、この渡辺の詩は「散文精神」によって動いている作品であるといえるだろう。
 こんな紹介の仕方ではなく、もっと違う形で紹介すべきだったなあ、と、いま反省している。「散文精神」が生きた、とてもおもしろい詩なのである。
 補足をかねて、最後の方。

さてある日突然に
成人したわたくしは
小笛と名乗ることになりました

 「突然」がおかしいといえばいいのか、いかにも「物語(散文)」みたいでご都合主義だが、きちんと「突然」の前に書いたことを、いまの引用の後で「反復」している。
 私はいままで渡辺の詩を「散文精神」が生きていると思って読んだことはなかったが、読み落としていたのかもしれない。粕谷、松川とつづけ、そのあとに渡辺の作品を読むことで、彼女のことばの良質な部分がくっきりみえてきたと思った。



 彦坂美喜子「現在」。

虫を人差し指で潰したら跡形もなく
黒い残骸になってしまった
泣いている鳴いている泣いている鳴いている
泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて泣いてない

無表情の虫を見ていた

 「泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて」が「泣いてない」にかわったと思ったら、行をわたって「ない/て」。あらら、泣いちゃった。
 これは詩にしか書けないね。「散文」では、こういうむちゃくちゃ(?)はできない。絶対に前に書いたことを踏まえないと「散文」にならない。逆にいうと、「散文」を破壊すると「詩」になる可能性があるということだ。



萩原裕幸「わたしがわたしに帰りゆくとき」。

私のかたちをゆるく避けながら湯はゆふぐれに淡くふくらむ
死ぬまでの時間のつねに縮まつてゆくこと蕪の煮えてゆくこと

 ともに下七七がおもしろかった。音がしっかりしているという印象がある。そしてこの音の動きに、私はなぜか「散文精神」を感じる。

落丁がところどころにあるやうにかつなめらかに冬めいてゆく
辞書にないことばの雑ざる冬晴のあなたのこゑのなめらかな海
この世ではないところまで伸びてゐる気がして巷の列の後尾にて
風邪ですかええまあなどと曖昧にパジャマ姿で過ぎてゆく午後
わたしからわたしを剥がすやうにして煙草を買ひに出る冬の朝
ゆびでぱちんと弾いてみたい形よきおでこが冬の電車に揺れて

 旧かなづかいが美しい。旧かなは「散文精神」そのものである、と私は思う。その精神が萩原の口語(?)を支えている。奥深いところからことば全体を鍛え、音楽にしていると感じた。


ウルム心
松川 穂波
思潮社

内在地
渡辺 めぐみ
思潮社

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谷川俊太郎「心よ」

2010-12-07 18:56:42 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「心よ」(「朝日新聞」2010年12月06日夕刊)

谷川俊太郎「心よ」は「意味」で書かれているが、その「意味」が「意味」を超える。だから「意味」を忘れて、ほーっと息を漏らしてしまう。

心よ
一瞬もじっとしていない心よ
どうすればおまえを
言葉でつかまえられるのか
滴り流れ淀(よど)み渦巻く水の比喩(ひゆ)も
照り曇り閃(ひらめ)き翳(かげ)る光の比喩も
おまえを標本のように留めてしまう

 移り変わる心。ことばでつかまえる。「心」が「心」ということばではなく、別のことば「比喩」として書かれる。そうすると、「心」はことば(比喩)のなかに閉じ込められ、留められる。そうのとき、「心」は動いていない。その「心」は最初の定義「一瞬もじっとしていない心よ」に矛盾してしまう。動いていない「心」は「心」ではない。
 「どうすればおまえを/言葉でつかまえられるのか」という疑問だけが残る。動くものをつかまえ、そのまま動くものとして存在させる。
 そんなことを考えながら読みつづけると・・・。

音楽ですらまどろこしい変幻自在
心は私の私有ではない
私が心の宇宙に生きているのだ
光速で地獄極楽を行き来して
おまえは私を支配する
残酷で恵み深い
心よ

 「心は私の私有ではない」。ここに書かれているには「意味」だが、「意味」を超越している。ことばを論理として追い掛け、その意味するところは理解できる。だが、それは「疑問」を呼び覚ます「意味」(答え)であって、ふつう私たちが感じている「意味」ではない。こういうことを指して、私は「意味」を超越している、という。
 言い直すと・・・。
 「心は私の私有ではない」。では、だれのもの? 即座にその疑問が浮かぶ。「心」を恋人の「心」と読みかえるなら、「心は私の私有ではない」は「正しい意味」だが、ここに書かれている「心」はあくまで自分の「心」である。「私の心」なのに、「私有ではない」とはどういうことだろう。

私が心の宇宙に生きているのだ

 これは「心は私の私有ではない」を借りて言い直せば「私は心の私有物である」という「意味」になると思うが、その「私有」が「宇宙」という「比喩」のなかで、また「意味」を超越してしまう。「私有」という「意味」を、私は「宇宙」から感じられない。「宇宙」はむしろ「私有」の対極にあるもの、ぜったい「所有」できないもの、「私」をはるかに超越した存在だからである。
 この瞬間。
 私は「心」を忘れてしまう。「意味」を追うことを忘れてしまう。そして、これが一番不思議なことなのだが、この詩を書いているのが谷川俊太郎であるということ、いま読んでいるものが谷川俊太郎の書いたことばであるということを忘れてしまう。
 私自身が、突然、宇宙に放り出されたようが気がするのだ。
 「心の宇宙」ではなく、あくまで「宇宙」そのもののなかに、ぽーんと放り出されたように感じるのだ。
 あ、この感じ――これが、「心」というもの?

光速で地獄極楽を行き来して
おまえは私を支配する
残酷で恵み深い
心よ

 「光速」ということばは「宇宙」(光年)と関連しているかもしれない。
 でも、この部分も複雑だなあ。「意味」にしばられていると、わけがわからなくなる。「心の宇宙を生きている」とは「心の中を生きている」ということになると思うが、そのなかで生きている私は動かず、あくまで動くのは「心」である。
 うーん。
 「宇宙」が「光速で地獄極楽を行き来して/おまえ(心)は私を支配する」。
 「心」の大きさが消えてしまう。大きさを何で測っていいいのかわからない。そんな大きさのわからないものが、けれど、はっきり、いま、ここにある。

残酷で恵み深い
谷川俊太郎よ
ことばよ
詩よ




二十億光年の孤独 (集英社文庫 た 18-9)
谷川 俊太郎
集英社
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誰も書かなかった西脇順三郎(157 )

2010-12-07 11:45:17 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(157 )

 「失われたとき」のつづき。

ねむりは永遠にさまようサフサフ
永遠にふれてまたさまよう
くいながよぶ

しきかなくわ
すすきのほにほれる
のはらのとけてすねをひつかいたつけ
クルヘのモテルになつたつけ
すきなやつくしをつんたわ
しほひかりにも……
あす あす ちやちやふ
あす

セササランセサランセサラン

永遠はただよう

 「葦」のあとの行をどう読むのだろう。「鴫が鳴くわ/芒の穂にほれる/野薔薇の棘でスネをひっかいたっけ」と読んでいいのだろうか。音にしていいのだろうか。
 濁音混じりの「音」にしてしまうと「さまよう」「ただよう」という感じがしなくなる。「意味」から「意味」を剥奪して、「意味」にならないようにことばを動かしている。
 このとき。
 私は、ふと、思うのである。表記から濁音を省く--それでも、そのことばの思い描いているものが垣間見える。それはなぜだろう。
 ことばには音がある。そして、ことばはその音のなかにリズムももっている。音そのものがかわっても、リズムがそのままのとき、そのリズムからもことばがよみがえる。
 さまよう、ただよう、とは、そういうリズムそのものに身をまかせることなのかもしれない。

 この引用部分に先立って、次の行がある。

潮の氾濫の永遠の中に
ただよう月の光りの中に
シギの鳴く音も
葦の中に吹く風も
みな自分の呼吸の音になる
はてしなくただようこのねむりは
はてしなくただよう盃のめぐりの
アイアイのさざ波の貝殻のきらめきの
沖の石のさざれ石の涙のさざえの
せせらぎのあしの葉の思いの睡蓮の
ささやきのぬれ苔のアユのささやきの
ぬれごとのぬめりのヴェニスのラスキン
の潮のいそぎんちゃくのあわびの

 「呼吸の音」。ことばは、結局、呼吸の音ということかもしれない。「はてしなく……」からつづく「の」の連結によることばの動き。そこにあるのは、「意味」ではもちろんないのだが、もしかすると「音楽」さえ拒絶した「音楽」かもしれない。「音楽」以前の「呼吸の音」なのかもしれない。
 「呼吸」に声がまじるとことばになる。ことばから「意味」があらわれる。
 逆に、ことばから「意味」をとると、声になる。声から濁音をとると--呼吸になる。「永遠」は「呼吸」のなかにある。その「呼吸」を確立するのが西脇の夢かもしれない。




カンタベリ物語〈上〉 (ちくま文庫)
ジェフレイ チョーサー
筑摩書房


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