詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粕谷栄市『遠い 川』(17)

2010-12-12 23:59:59 | 詩集
粕谷栄市『遠い 川』(17)(思潮社、2010年10月30日発行)

 井坂洋子の詩を読むと、そこに「肉体」があるのを感じる。「肉体」が「思想」そのものであると感じる。「肉体」が何かを隠し、その隠している何かは井坂には自明のことであり、読者には説明しない。ことばにしない。そこに井坂の意地悪なような、不思議な強さがある。
 そういうことばにら触れたあとでは、粕谷のことばの特質がいっそう浮き彫りになる。粕谷のことばには「肉体」がない。それは粕谷のことばが「考え」だからである。
 「螢」。

 男ならば、誰もが思い当たることだろう。深夜、独り、
手漕ぎの舟に乗って、月明かりの沼地を行くのは、淋し
いものである。

 この「男」には「肉体」がない。簡単に言いなおすと、たとえば「肉体」を持っている井坂洋子なら、この書き出しを「男ならば」と書き出さない。(書き出せない。)いきなり「他人」ですらない「抽象」から出発することはない。
 「男ならば」の「男」は完全な「抽象」である。幾人もの男がいて、その男に共通するものを「抽出」してできあがった平均的な「男」というものとも違う。それは、あくまで粕谷が「男」を考えたときに浮かび上がる「男」である。「誰もが」と書いてあるが、それはほんとうに「誰もが」ではない。粕谷が「誰もが」と考えたときに存在する「誰もが」である。
 すべてが粕谷が「考えた」ときに、その「考え」として、そこに存在するのだ。「男」だけではない。「舟」も「月明かり」も「沼地」も、そして「淋しい」さえも、考えたときに存在するのである。
 「淋しい」は感情ではなく「考え」なのである。
 それは「男ならば、誰もが思い当たることだろう。」ということばが証明している。「思い当たる」のであって「感じる」のではない。「淋しい」は男にとって、直接的な「感情」ではない。あくまで、「思い(考え)」を動かしていくとき、その「思い」がつきあたるもの、いま、そこにはないものなのである。
 粕谷は、いま、そこにあるものを書いているのではない。ことばを動かしていくと、そのことばの先にあらわれてくるものを書いている。「淋しい」も、そういう意味では、粕谷がつくりだしたものである。粕谷の「考え」がつくりだした感情として、いま、そこに「淋しい」がある。

 そこには何もない。そこにあるものは、ことばがつくりだしたもことばであって、それ以外のものはない。

 遠く、烈しく明滅するものが見えて、それを目指すほ
かないのだが、近づくと、そこには何もなくて、丈の高
い草が、水のなかから立っているだけだ。

 この「明滅するもの」(螢)は、まるで、粕谷が書いている(書こうとしている)「考え」そのもののようである。ことばを動かしていく。それは何かを書こうとすることなのだが、「書いた」と思っても、「書かれたもの」は、何もない。
 書きつづけるしかない。

 幾たびも、それを繰り返して、結局は、何もかも、ど
うでもよくなる。独り、舟の中で、仰向けになっている
しかないのだ。
 自分が、いつの間にか、思いがけなく、自分の日常か
ら、果てしなく、遠いところに来ている。そのことが、
ふしぎに、おかしくて、哀しいのである。

 この部分は粕谷が書いているものが「感情」ではなく「考え」であることを鮮明に語っている。「淋しい」が「ふしぎに、おかしくて、哀しい」にかわっている。書くにしたがって、そこに書かれることがかわり、それにあわせて、その書かれたものが「自分の日常から、果てしなく、遠いところに」まで進んでしまう。そして、それが「ふしぎに、おかしくて、哀しい」。
 こんなことは「感情」では起きない。感情は突き進めば突き進むほど、どっぷりと「いま」に沈み込む。「日常」のすべてをのみこみ「淋しい」だけになってしまう。というか、突き進んだふりをしながら、けっして動かないのが「感情」だろう。
 きのう読んだ井坂の詩に

私は質問したことはないが

 という1行があった。井坂は、何かを「思い当たる」具合に、ことばを、そのことばの先へ動かしていくことはしないのである。そうして、動かさないとき、「肉体」のなかでことばが「疑問」として「ぎざぎざ」した感じでとどまる。その「ぎざぎざ」の違和感こそが、井坂にとって「感情」であり、それが「思想」である。
 粕谷は、そうではない。「淋しい」が「ふしぎに、おかしくて、哀しい」にかわるのが粕谷の「思想」である。「考え」のなかで、ことばは、そんなふうにかわるのである。

 しんとして、いよいよ、天は深い。男ならば、誰もが
思い当たることだろう。今さらのように、自分が、独り、
無明の夢のなかにいることを知るのだ。

 井坂は「肉体」のなかにいる。けれども、粕谷は「考え」がつくりあげた「夢」のなかにいる。そして、そのことは「実感」ではなく、つまり「感じる」ことではなく「知る」という精神の運動なのだ。

 これは、いいことなのか。もしかすると、とんでもなく「まずい」とこかもしれない。「考え」「知る」ということはたしかに「思想」だけれど、そんなところへのみことばが動いて行ってしまうのは、もしかすると、ほんとうに「淋しい」ことかもしれない。

 そんなときだ。二つの乳房を持つものの切ない喘ぎの
声を、幽かに、耳にするのは。深く、怖ろしいものを感
じて、私は、思わず、身震いするのである。

 これは「女」と「私」の関係を書いているという風に読むのが正しいのだろうけれど、私は、ここでも「誤読」して、次のように読むのだ。
 粕谷は、「考え」だけを書きつづけては「まずい」ということを詩人の本能で感じて、ここでは「声」「耳」という「肉体」を呼び戻し、ことばで、あえて「怖ろしい」を作り上げ、恐怖に「身震いする」という「肉体」を取り戻しているのだ、と。
 「考え」は「肉体」にもどらないと、「思想」にはならないからである。粕谷は、ここでは「考え」を「肉体」に戻そうとしているのである。

 きちんとしたことばにできないが、井坂は「思想」を「肉体」のなかにしっかりと封印して、「肉体」を動かす。「思想」は動かずに、「肉体」が動く。一方、粕谷の「思想」はことばの動きにしたがって「肉体」から飛び出していく。それを、粕谷はことばをつかってもう一度「肉体」に呼び戻す。
 そういうことをしていると思う。



粕谷栄市詩集 (1976年) (現代詩文庫〈67〉)
粕谷 栄市
思潮社

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森田芳光監督「武士の家計簿」(★★★★★)

2010-12-12 23:30:40 | 映画
監督 森田芳光 出演 堺雅人、仲間由紀恵、中村雅俊、松坂慶子、草笛光子

 あ、これはおもしろいなあ、と思ったシーンがある。一家がごはんを食べるシーンである。「家族ゲーム」で一家が横並びで食事するシーンで度肝を抜いた森田芳光は今度は逆に家族全員が顔を見ることができるよう「コ」の字型に一家を配置している。これは、まあ、昔はふつうの家庭の食事風景であるけれど、いまは、この「コ」の字が、たぶん、ない。家族の人数が減ったということ以上に、「トップ」が不在なのだ。
 江戸時代の武士の家だから、家長がいる、というのは当然だけれど、この「コ」の字の開いた方ではなく、ふさいでいる側の位置をしめる家長というのはなかなかおもしろい視線である。両側のひとの視線とはまったく動きが違う。彼は基本的に、誰とも真っ正面から視線をあわせない。あわせる必要がないのだ。家長だから、彼が見ているように、家族は世界を見なければならない。それが武士の家族の「生き方」である。
 他の家族にもきちんとすわるべき位置がある。家長(中村雅俊)の右手に直角に折れたところに妻(松坂慶子)が、そのとなりに「おばば」(草笛光子)が、そしてそのふたりと向き合う形で、つまり中村雅俊の左隣の列に堺雅人(跡取り)、仲間由紀恵(その妻)という具合である。
 その家族は何かいうとき、家長の顔色を重視するのはもちろんだが、向き合った家族の表情も気にする。簡単に言うと、他人の視線を気にしながら自分の意見を修正し、それを家長に報告するといえばいいのだろうか。そんなふうにして他の家族がことばをかわすのに対し、先に書いたけれど、家長はそんなことは気にしないのである。中村雅俊は、江戸につとめていたころ、屋敷の門を赤く塗るときの工夫したと、何度も何度も自慢げに話すが、そのとき家族が「またか」と思っている顔などまったく見ていないのと対照的である。
 こういう視線だけでは、もちろん人間は生きていけない。直接、ひととひとが面と向かうことが必要である。「家長」も「家長」以外の人間のことばを聞かなければならない。それは、しかし、食事のときとは別なのだ。食事を離れて二人になったとき、たとえば中村雅俊と松坂慶子は面と向かって話し、堺雅人と仲間由紀恵も目と目をあわせて話し、堺雅人とその子どももはっきりと目と目をあわせ、喧嘩(?)もするのである。
 食事は、そういう「場」ではないのだ。「公式」の「場」なのだ。「家族」それぞれの位置を確認し、その「場」を統一するのは、家長の哲学なのだ。だから、食事のとき、草笛光子は中村雅俊には何も言わないが、堺雅人に対しては「和算術」の問題を出して、答えをもとめたりする。「非公式の団欒」である。それは家長の「哲学」にはかかわってこないから、なにごともなくやりすごされる。
 家長が跡をゆずるなり、死んだりした場合は、当然、その位置がかわる。中村雅俊の座っていたところに堺雅人が座る。座る位置の変化が、そのまま家族の変化なのである。それはその家の「哲学」の変化でもあるのだ。
 映画は、厖大な借金を清算するために、節約に節約を重ね(それでも武士としての生き方はしっかりと守る)一家の工夫を描いている。その工夫(節約)に子どもの「わがまま」がからんでくるところがなかなか泣かせるが、そういうあれこれがあって、清算がおわったときと、ちょうど中村雅俊夫婦、おばばが死んだときが「一致」する。つまり、完全に「家」がかわってしまったとき、「借金」はなくなる。新しい「哲学」による「一家」が誕生するという構図になっている。
 借金返済計画は家長・中村雅俊ではなく、堺雅人の指揮で遂行されるけれど、このときでも中村雅俊が生きている限りは中村雅俊が「家長」の位置にいる。「家長」は、その位置から息子の計画を認めるという形をとる。
 なんでもないようなシーンだが、この「コ」の字型の食事シーンをきちんと撮っている、ただ撮るだけではなく、そこに変化を描いているところが実に巧みだ。
 はやりの「時代劇」なのだが、多くの時代劇のように「実証」にこだわって「写実的」ではない。映像が明るい。軽い。これも、この映画の魅力である。いまの日本の財政が、ちょうどこの映画の「一家」のような状態なので、ほんとうは思いテーマなのだが、それをそう感じさせずに、なるほど、そうすればいいのか、昔のひとはしっかりしているなあ、くらいの印象にとどめているところが美しい。

 なんといえばいいのか、まあ、K首相にみせてやりたい映画である。

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杉本徹「アコーディオン・ソング」

2010-12-12 10:00:07 | 詩(雑誌・同人誌)
杉本徹「アコーディオン・ソング」(「現代詩手帖」2010年12月号)

 杉本徹「アコーディオン・ソング」は、少しずつことばが乱れていく。その乱れのなかに、「思想」がある。

午後のはてで雲が切れた--
そのようにあなたは影を飼い、冬の大気の鼓動を
言葉少なに、愛した、……ある日ここに置き去りの
灰白色の陶器の皿の、北には
モノクロームの廃星とクレヴァスが、映りこむはず
(……わたしは記憶の底に射す昼の色を、だから語らなかった)
踏みしだいた雑草の渇きと、吹きつのる風の予兆、を
うつむきがちに告げながら
傾斜地をたどった、……その数刻を
追うこと、たとえば
あす現像される鳥の姿を囲うのではなく、空でない、と--
それはつねに空ではなく時間の皮膚で
ある、ように
あなたの(わたしの)滞空時間とは漲る無音の
裂け目のようなもの、手をつけば、……かえれない
うしろの、薄陽の痕跡を振りかえるとき
ほどけてゆく風景の階段下には、二輪車、泥靴、ペニンシュラ
そしていっせいに流れる葉という名の、乾いた地図を忘れ去ると
まばゆい、暗い、この小道の遠ざかる心が
西の時間でざわめいた

 「乱れる」と私が書いたのは、たとえば6行目と、14行目の比較の問題である。6行目の「(……わたしは」は、それ以前の5行が「あなた」の描写であり、描写しているのは「わたし」ではなるけれど、形式上の主語は「あなた」であると語っている。ところが14行目では、その二重構造はぐいと接近している。

あなたの(わたしの)滞空時間とは

 ここでは「わたし」は「あなた」と区別がおこなわれていない。6行目の形式を踏まえているために「わたし」はかっこのなかに入っているのだが、それは形式にすぎない。意識のなかでは「わたし」の方が強いのかもしれない。

わたしの(あなたの)滞空時間は

 と書きたいのだが、6行目で「わたし」をかっこのなかに入れてしまったために、その入れ替えができないのである。--いいかえると、杉本はいったん採用した形式にしたがってことばを動かしつづけるということになる。ことばの自由な運動を「形式」で縛り上げる。そこから「乱れ」がはじまる。
 「乱れ」には「無軌道」があるのではなく、「形式」と「形式を破ろうとする何か」のせめぎ合いがあるのだ。そういう対立というか、ふたつの存在をみきわめながらことばを動かすというのが、杉本の「思想」であり、「ふたつ」の間で乱れる、というのが杉本の抒情なのである。
 そのことが一番端的に出ているのが「あなた」と「わたし」である。「あなた」がいて、「わたし」がいる。「あなた」が語り、「わたし」は語らなかった。しかし、語らなかったからといって、そのとき、「わたし」にことばが存在しなかったということではない。語らないときでも「わたし」のなかには「無音」のままことばが「漲っている」。それは、あるとき、自然にこぼれてしまう。
 そして、詩に、なる。

言葉少なに、愛した、……ある日ここに置き去りの

 という行が象徴的だが、杉本のこの詩には読点「、」が何回も出てくる。そして、この行の読点が特徴的なのは、ふつうは「言葉少なに愛した」と読点なしにいわれるようなことばなのにそこに読点があるということだ。
 これも実は「あなた」「わたし」のように、ふたつのことがらなのだ。
 「言葉少なに愛した」のではなく、「言葉少なに」という状態がいったん意識される。それから「愛した」という「動詞」が動く。「言葉少なに」と「愛した」の間には「断絶」がある。「接続」よりも「断絶」が意識されている。
 「接続」と「断絶」の関係は不思議なもので、「断絶」が意識されれば意識されるほど「接続」も切実に意識される。
 「あなた」と「わたし」の間には誰がみてもわかる「明確な断絶」がある。その「誰がみてもわかる断絶」は、ふたりには意識されないことがある。たとえば、愛し合っているときに。けれどその愛がゆらいだとき、そこに生まれる「断絶」は、他人からみれば「接続」しているとしか見えない「断絶」だったりする。また、その「断絶」を「わたし」が意識するとしたら、それは「接続」への渇望があるからである。
 「断絶」と「接続」は、簡単に、ある状態を「断絶」、あるいは「接続」と断定できない。
 その「断絶」と「接続」の意識が、杉本のことばを、不思議な形で衝突させ、そこに悲鳴のようなものをしのびこませる。この不思議さを、私は「乱れ」と呼んでいる。
 この「乱れ」が一番大きくなるのは、次の部分である。

あす現像される鳥の姿を囲うのではなく、空でない、と--
それはつねに空ではなく時間の皮膚で

 「空」を何と読むか。杉本にはわかっているだろうけれど(わかっているから、ルビをふったりはしないのだと思うが)、私にはわからない。「そら」とも読めるし「くう」とも読める。「から」とは読まないとは思うが……。
 悩みながらも、私は、最初は「そらではない」と読み、次は「くうではなく」と読む。鳥を囲うのは「そら」である。けれど「時間」と対比されるのは「空間」だからである。そうすると「そら」というひとつの文字が、あるときは「そら」と読まれ、すぐあとには「くう」と読まれるという変な現象が起きる。「接続」しながら「断絶」するということがおきる。「乱れ」がおきる。
 「乱れ」が生まれるのだけれど、その「乱れ」を修正するのではなく、「乱れ」のまま、「いま」「ここ」に存在させる。そしてそれを「持続」させる。
 「断絶」「接続」のほかに「持続」というものがあるのだ。そして、その「持続」の主語は「わたし」であり、そのとき「わたし」がひとつの「抒情」になる。詩になる。

まばゆい、暗い、この小道の遠ざかる心が
西の時間でざわめいた

 「まばゆい」と「暗い」は反対のものである。それが読点「、」によって「切断」されることで「連続」する。読点を、たとえば「反対のものであると意識することによって結びつける力」と定義すると、「まばゆい」と「暗い」はその「定義」のなかで「持続」される。その「定義」を「持続」させるのは「心」というものであり、「持続」であるかぎり、そこには「時間」がある。その「持続・時間」のなかでの、意識された「乱れ」(わざと書かれた乱れ)を、杉本は「ざわめき」と呼んでいる--この詩では。

       (「アコーディオン・ソング」の初出は「読売新聞」2009年12月19日)



ステーション・エデン
杉本 徹
思潮社

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