粕谷栄市『遠い 川』(17)(思潮社、2010年10月30日発行)
井坂洋子の詩を読むと、そこに「肉体」があるのを感じる。「肉体」が「思想」そのものであると感じる。「肉体」が何かを隠し、その隠している何かは井坂には自明のことであり、読者には説明しない。ことばにしない。そこに井坂の意地悪なような、不思議な強さがある。
そういうことばにら触れたあとでは、粕谷のことばの特質がいっそう浮き彫りになる。粕谷のことばには「肉体」がない。それは粕谷のことばが「考え」だからである。
「螢」。
この「男」には「肉体」がない。簡単に言いなおすと、たとえば「肉体」を持っている井坂洋子なら、この書き出しを「男ならば」と書き出さない。(書き出せない。)いきなり「他人」ですらない「抽象」から出発することはない。
「男ならば」の「男」は完全な「抽象」である。幾人もの男がいて、その男に共通するものを「抽出」してできあがった平均的な「男」というものとも違う。それは、あくまで粕谷が「男」を考えたときに浮かび上がる「男」である。「誰もが」と書いてあるが、それはほんとうに「誰もが」ではない。粕谷が「誰もが」と考えたときに存在する「誰もが」である。
すべてが粕谷が「考えた」ときに、その「考え」として、そこに存在するのだ。「男」だけではない。「舟」も「月明かり」も「沼地」も、そして「淋しい」さえも、考えたときに存在するのである。
「淋しい」は感情ではなく「考え」なのである。
それは「男ならば、誰もが思い当たることだろう。」ということばが証明している。「思い当たる」のであって「感じる」のではない。「淋しい」は男にとって、直接的な「感情」ではない。あくまで、「思い(考え)」を動かしていくとき、その「思い」がつきあたるもの、いま、そこにはないものなのである。
粕谷は、いま、そこにあるものを書いているのではない。ことばを動かしていくと、そのことばの先にあらわれてくるものを書いている。「淋しい」も、そういう意味では、粕谷がつくりだしたものである。粕谷の「考え」がつくりだした感情として、いま、そこに「淋しい」がある。
そこには何もない。そこにあるものは、ことばがつくりだしたもことばであって、それ以外のものはない。
この「明滅するもの」(螢)は、まるで、粕谷が書いている(書こうとしている)「考え」そのもののようである。ことばを動かしていく。それは何かを書こうとすることなのだが、「書いた」と思っても、「書かれたもの」は、何もない。
書きつづけるしかない。
この部分は粕谷が書いているものが「感情」ではなく「考え」であることを鮮明に語っている。「淋しい」が「ふしぎに、おかしくて、哀しい」にかわっている。書くにしたがって、そこに書かれることがかわり、それにあわせて、その書かれたものが「自分の日常から、果てしなく、遠いところに」まで進んでしまう。そして、それが「ふしぎに、おかしくて、哀しい」。
こんなことは「感情」では起きない。感情は突き進めば突き進むほど、どっぷりと「いま」に沈み込む。「日常」のすべてをのみこみ「淋しい」だけになってしまう。というか、突き進んだふりをしながら、けっして動かないのが「感情」だろう。
きのう読んだ井坂の詩に
という1行があった。井坂は、何かを「思い当たる」具合に、ことばを、そのことばの先へ動かしていくことはしないのである。そうして、動かさないとき、「肉体」のなかでことばが「疑問」として「ぎざぎざ」した感じでとどまる。その「ぎざぎざ」の違和感こそが、井坂にとって「感情」であり、それが「思想」である。
粕谷は、そうではない。「淋しい」が「ふしぎに、おかしくて、哀しい」にかわるのが粕谷の「思想」である。「考え」のなかで、ことばは、そんなふうにかわるのである。
井坂は「肉体」のなかにいる。けれども、粕谷は「考え」がつくりあげた「夢」のなかにいる。そして、そのことは「実感」ではなく、つまり「感じる」ことではなく「知る」という精神の運動なのだ。
これは、いいことなのか。もしかすると、とんでもなく「まずい」とこかもしれない。「考え」「知る」ということはたしかに「思想」だけれど、そんなところへのみことばが動いて行ってしまうのは、もしかすると、ほんとうに「淋しい」ことかもしれない。
これは「女」と「私」の関係を書いているという風に読むのが正しいのだろうけれど、私は、ここでも「誤読」して、次のように読むのだ。
粕谷は、「考え」だけを書きつづけては「まずい」ということを詩人の本能で感じて、ここでは「声」「耳」という「肉体」を呼び戻し、ことばで、あえて「怖ろしい」を作り上げ、恐怖に「身震いする」という「肉体」を取り戻しているのだ、と。
「考え」は「肉体」にもどらないと、「思想」にはならないからである。粕谷は、ここでは「考え」を「肉体」に戻そうとしているのである。
きちんとしたことばにできないが、井坂は「思想」を「肉体」のなかにしっかりと封印して、「肉体」を動かす。「思想」は動かずに、「肉体」が動く。一方、粕谷の「思想」はことばの動きにしたがって「肉体」から飛び出していく。それを、粕谷はことばをつかってもう一度「肉体」に呼び戻す。
そういうことをしていると思う。
井坂洋子の詩を読むと、そこに「肉体」があるのを感じる。「肉体」が「思想」そのものであると感じる。「肉体」が何かを隠し、その隠している何かは井坂には自明のことであり、読者には説明しない。ことばにしない。そこに井坂の意地悪なような、不思議な強さがある。
そういうことばにら触れたあとでは、粕谷のことばの特質がいっそう浮き彫りになる。粕谷のことばには「肉体」がない。それは粕谷のことばが「考え」だからである。
「螢」。
男ならば、誰もが思い当たることだろう。深夜、独り、
手漕ぎの舟に乗って、月明かりの沼地を行くのは、淋し
いものである。
この「男」には「肉体」がない。簡単に言いなおすと、たとえば「肉体」を持っている井坂洋子なら、この書き出しを「男ならば」と書き出さない。(書き出せない。)いきなり「他人」ですらない「抽象」から出発することはない。
「男ならば」の「男」は完全な「抽象」である。幾人もの男がいて、その男に共通するものを「抽出」してできあがった平均的な「男」というものとも違う。それは、あくまで粕谷が「男」を考えたときに浮かび上がる「男」である。「誰もが」と書いてあるが、それはほんとうに「誰もが」ではない。粕谷が「誰もが」と考えたときに存在する「誰もが」である。
すべてが粕谷が「考えた」ときに、その「考え」として、そこに存在するのだ。「男」だけではない。「舟」も「月明かり」も「沼地」も、そして「淋しい」さえも、考えたときに存在するのである。
「淋しい」は感情ではなく「考え」なのである。
それは「男ならば、誰もが思い当たることだろう。」ということばが証明している。「思い当たる」のであって「感じる」のではない。「淋しい」は男にとって、直接的な「感情」ではない。あくまで、「思い(考え)」を動かしていくとき、その「思い」がつきあたるもの、いま、そこにはないものなのである。
粕谷は、いま、そこにあるものを書いているのではない。ことばを動かしていくと、そのことばの先にあらわれてくるものを書いている。「淋しい」も、そういう意味では、粕谷がつくりだしたものである。粕谷の「考え」がつくりだした感情として、いま、そこに「淋しい」がある。
そこには何もない。そこにあるものは、ことばがつくりだしたもことばであって、それ以外のものはない。
遠く、烈しく明滅するものが見えて、それを目指すほ
かないのだが、近づくと、そこには何もなくて、丈の高
い草が、水のなかから立っているだけだ。
この「明滅するもの」(螢)は、まるで、粕谷が書いている(書こうとしている)「考え」そのもののようである。ことばを動かしていく。それは何かを書こうとすることなのだが、「書いた」と思っても、「書かれたもの」は、何もない。
書きつづけるしかない。
幾たびも、それを繰り返して、結局は、何もかも、ど
うでもよくなる。独り、舟の中で、仰向けになっている
しかないのだ。
自分が、いつの間にか、思いがけなく、自分の日常か
ら、果てしなく、遠いところに来ている。そのことが、
ふしぎに、おかしくて、哀しいのである。
この部分は粕谷が書いているものが「感情」ではなく「考え」であることを鮮明に語っている。「淋しい」が「ふしぎに、おかしくて、哀しい」にかわっている。書くにしたがって、そこに書かれることがかわり、それにあわせて、その書かれたものが「自分の日常から、果てしなく、遠いところに」まで進んでしまう。そして、それが「ふしぎに、おかしくて、哀しい」。
こんなことは「感情」では起きない。感情は突き進めば突き進むほど、どっぷりと「いま」に沈み込む。「日常」のすべてをのみこみ「淋しい」だけになってしまう。というか、突き進んだふりをしながら、けっして動かないのが「感情」だろう。
きのう読んだ井坂の詩に
私は質問したことはないが
という1行があった。井坂は、何かを「思い当たる」具合に、ことばを、そのことばの先へ動かしていくことはしないのである。そうして、動かさないとき、「肉体」のなかでことばが「疑問」として「ぎざぎざ」した感じでとどまる。その「ぎざぎざ」の違和感こそが、井坂にとって「感情」であり、それが「思想」である。
粕谷は、そうではない。「淋しい」が「ふしぎに、おかしくて、哀しい」にかわるのが粕谷の「思想」である。「考え」のなかで、ことばは、そんなふうにかわるのである。
しんとして、いよいよ、天は深い。男ならば、誰もが
思い当たることだろう。今さらのように、自分が、独り、
無明の夢のなかにいることを知るのだ。
井坂は「肉体」のなかにいる。けれども、粕谷は「考え」がつくりあげた「夢」のなかにいる。そして、そのことは「実感」ではなく、つまり「感じる」ことではなく「知る」という精神の運動なのだ。
これは、いいことなのか。もしかすると、とんでもなく「まずい」とこかもしれない。「考え」「知る」ということはたしかに「思想」だけれど、そんなところへのみことばが動いて行ってしまうのは、もしかすると、ほんとうに「淋しい」ことかもしれない。
そんなときだ。二つの乳房を持つものの切ない喘ぎの
声を、幽かに、耳にするのは。深く、怖ろしいものを感
じて、私は、思わず、身震いするのである。
これは「女」と「私」の関係を書いているという風に読むのが正しいのだろうけれど、私は、ここでも「誤読」して、次のように読むのだ。
粕谷は、「考え」だけを書きつづけては「まずい」ということを詩人の本能で感じて、ここでは「声」「耳」という「肉体」を呼び戻し、ことばで、あえて「怖ろしい」を作り上げ、恐怖に「身震いする」という「肉体」を取り戻しているのだ、と。
「考え」は「肉体」にもどらないと、「思想」にはならないからである。粕谷は、ここでは「考え」を「肉体」に戻そうとしているのである。
きちんとしたことばにできないが、井坂は「思想」を「肉体」のなかにしっかりと封印して、「肉体」を動かす。「思想」は動かずに、「肉体」が動く。一方、粕谷の「思想」はことばの動きにしたがって「肉体」から飛び出していく。それを、粕谷はことばをつかってもう一度「肉体」に呼び戻す。
そういうことをしていると思う。
粕谷栄市詩集 (1976年) (現代詩文庫〈67〉) | |
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