詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

井坂洋子『嵐の前』(3)

2010-12-13 23:59:59 | 詩集
井坂洋子『嵐の前』(3)(思潮社、2010年10月25日発行)

 粕谷栄市『遠い 川』と井坂の詩を交互に読むと、それぞれを別々に読んでいたときとは違ったところへと、私は迷い込んでいく。こんな感想を書くはずじゃなかったのになあ、と思いながら感想を書くことになってしまう。
 「へそ」。その書き出し。

病気に愛撫されて半日シーツの上で苦しむ
熱が肉を消費する
足が細くなりまるで 洗面所の
鏡の裏にでも出たように重力がない

 私は何度も何度も「足が細くなりまるで 洗面所の」を読み返してしまう。粕谷なら絶対にこうは書かない。「足が細くなり まるで洗面所の」、あるいは「足が細くなり まるで 洗面所の」になる。粕谷の詩には句読点がやたらと多いが、それはことばのひとつひとつの句読点で区切りながら、区切ることで、ことばとして確立させながら、「ことば=考え」の関係をしっかりとつくりながら動いていくからである。
 井坂のことばは違う。ことばの論理が論理的ではない。「まるで洗面所の鏡の裏にでも出たように重力がない」ではないのだ。「まるで」はあくまで「足が細くなり」という「肉体」に結びついている。そんな結びつき方は「学校教科書文法」にはあり得ないが(粕谷の書く句読点だらけの文章も「学校教科書文法」的には反則だろう)、井坂はどうしてもそう書いてしまう。
 井坂が「足が細くなり」までを書いたとき、何かそれにつけくわえたいという意識はあるが、それはまだことばになっていない何かであり、何を書いていいかわからない。けれども、書いてしまう。何かつけくわえたいという思いまで書いてしまったのが「足が細くなりまるで」なのだ。書いたあと、ひと呼吸おいて「比喩」を考える。「肉体」が感じていることを、ことばでさがしはじめる。「肉体」が先に動いて行って、そのあとへことばがついてくるのを待っている、と言った方がいいかもしれない。ことばをさがしはじめる--というより、ことばがやってくるのを待っているのが「足が細くなりまるで」のあとの一字空白なのだ。「洗面所の」のあと改行し「鏡の裏に」とつづくのも、ことばが追いつくのを待っているからなのだ。
 ことばを「肉体」が追いかけるのではなく、「肉体」にことばが追いつくのを待っている。あるいは「肉体」のなからかことばが生まれるのを待っている。
 この「待ち」の時間があるから、「鏡の裏にでも出たように重力がない」という濃密な「比喩」が説得力を持つ。書かれていることは、わかるようで、わからない。わからないようで、わかる。「頭(考え)」では、それは「わかる」というところまで突き進むのはとても難しい。いや、面倒だ。ところが「肉体」なら、この何だが「だるくて苦しい」感じを、ああ、そうだよなあ、と納得してしまう。
 特に、その比喩が「すらすら」と「学校教科書的」に書かれるのではなく、「ほら、あれだよ、あれ、どうしてわかんないのかなあ、あれ、そう、鏡の裏にでも出たように重力がない、という感じ」という雰囲気を「文体」のなかに抱え込んでいると、納得させられてしまうのである。会話で、相手が何かことばをさがしていて、それについてもどかしそうに苦しみ、やっとことばを見つけ出したとき、そのことばを納得するというより、、ことばを探し出す苦しみを納得してしまう感じに似ているかもしれない。
 きっと一字空白や不自然な(?)改行は、会話(口語)のときの、言いよどみ、ことばをさがしている「間」なのだ。「間」を押し広げ、その「間」の空白(真空)に、何かが誘い出される。そこに誘い出されたものは「鏡の裏にでも出たように重力がない」のような、わけのわからないものだけれど、そのことばがあらわれる前の「間」の方に強い実感があるので、そのわけのわからないことばを、ただ納得してしまうのだ。
 私たちは(私は、というべきか)、「鏡の裏にでも出たように重力がない」という書かれた1行よりも、その手前の、変な「呼吸」、「肉体」の存在感に納得してしまうのだ。一度、こういう「間」と、「飛躍」(わけのわからないことばへの接続)を納得してしまうと、あとはもうどんなことばが出てきても、それを自然に(?)聞き取って納得してしまう。

回線の眠りは深く 時計が二十五時を告げる
夜明けに向かって
姉のような女の人が氷上を滑っていた
少年用のスケート靴をはいていた
朝 目をあけたら彼女は水に紛れていってしまったらしい
南側の窓をあけ
飛行機が滑っていく空のどの一点にもへそのような中心がなかった

 これは「意味」的には、女の人がスケートをしている夢を見たが、朝になって、氷枕(?)の氷が解けて、熱が下がってしまうとその夢は氷のように消えてしまっていた。窓を開けたら飛行機が見えた--というくらいのことだろう。
 そういう「意味」を思い浮かべたとき、

南側の窓をあけ
飛行機が滑っていく空のどの一点にもへそのような中心がなかった

 この2行の「学校教科書文法」から逸脱したことばが気になる。「南側の窓をあけ」るのは「私」だろう。その「私」という主語を受けることばが次の行にない。あえて、それを「復元」してみるなら、

(私は)南側の窓をあけ
(私は)飛行機が滑っていく空(を見た)
(その空)のどの一点にもへそのような中心がなかった 

 となるだろう。
 ここには、「足が細くなりまるで 洗面所の/鏡の裏に……」とは正反対のことばの運動がある。
 ことばが「肉体」を追いこしている。「足が細くなりまるで 洗面所の/鏡の裏に……」と書いたとき、井坂は、ことばを待っていた。ここでは「待つ・間」もなく、ことばが追いこしていっている。
 「間」がない。
 そのわりに何があるか。

へそ

 「肉体」である。
 「空」は「肉体」なんかではない。けれど、ことばが「肉体」を追い越していって、その追いこしたことばを「肉体」が追いかけると、ことばにおいついた瞬間、そのことばは「肉体」になる。

 うーむ。

 けれど、井坂は非常に用心深い。追いこしていくことばを、ただただ追いかけるわけではない。追いかけ、追いつくだけではない。

時間にも中心がない「バクテリアが三十億年 四十億年かかってつ
くった空気をあなたは今すっています」
「あなたは、毎日感じたり考えたり楽しんだり悲しんだりするその
あなたの主人です」「他の人というのは結局意識の主人になれない」
「あなたはあなた一人で世界をつくっているのです」
ナゼ私トイウ中心がアルノカ ソレハ嘘デハナイノカ

 ことばの暴走を井坂は「嘘デハナイカ」と疑う。疑うことで、遠くまでいってしまた「肉体」を「いま」「ここ」に呼び戻す。

不思議の国のアリスのように地下の部屋が伸びていて
穴におちたら
そこはふしぎでもなんでもなく
東京の地下街
首の上にのぼる血の 金属的な音を耳のそこに聞きながら
膝を深く折り 貝のように体をまるめていた
太陽も取引にやってこない
精霊よ この日ダンボールですごすことをお助け下さい
うららかな表通りでは 女の人が赤ちゃんを見かけ
「体のなかからお湯がでてくるみたいな気持になるわね」
夥しい数のへそが行き交っていた

 「空」(宇宙?)とか「時間」とか--そんなものは関係ない。あるのは、へそからへそへとつながる「女の肉体(いのち)」である。
 病気・熱に苦しんで、快復したら、井坂はそんなふうに感じた。「肉体」の勝利宣言のようなものであるが、この「へそ」は、やっぱり「攻撃的」だなあ。男にもへそはあるが、それはいわば女につくってもらったもの。男はへそをつくれないからなあ。男は「肉体」では「中心」をつくれないし、「つながり」もつくれないんだぞ、と言われてしまった気分だなあ。
 「あ、ごめんなさい。女に勝とうなんてだいそれたことは思いません。だから仲よくしてね、いじめないでね、いっしょにいてね」と、気弱な少年にもどるしかないのかなあ。男は。




嵐の前
井坂 洋子
思潮社


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ルネ・クレマン監督「太陽がいっぱい」(★★★★)

2010-12-13 12:59:37 | 午前十時の映画祭
監督 ルネ・クレマン 出演 アラン・ドロン、マリー・ラフォレ、モーリス・ロネ

 アラン・ドロンは不思議な役者である。美形は美形である。だが、品がない。色でいうと「原色」である。どんな色でも黒を加えると色が落ち着き、品が出てくる。(好みの問題かもしれないが、私はそう感じる。。)アラン・ドロンには、その色をおさえる「黒」が欠けている。色が剥き出しである。その剥き出しの感じが、品がない、という印象を呼び覚ます。
 この映画では、その品のなさが「個性」として生かされているが、一か所、とても色気があるシーンがある。「持ち味」を上回って、努力というか、肉体を懸命に動かすシーンがあり、それが「原色」を抑え、色気になる。
 モーリス・ロネのサインを偽造する--偽造するために練習するシーンである。投影機を買い込み、小さなサイン壁いっぱいの大きさに拡大する。その拡大されたサインを全身をつかってなぞる。手先でサインの癖を盗むのではなく、全身で盗む。小さな紙にサインするときでも、肉体は微妙に全身をつかっている。その全身の感覚を、そっくりそのまま盗むのである。そのときの、他人になる感覚。アラン・ドロンの肉体それ自体を裏切りながら鍛えていく--そのシーンがとても迫力がある。
 私には気に入った映画の気に入ったシーンは真似してみたくなるという癖があるが、「太陽がいっぱい」では、この偽造の練習シーンである。
 このほかにも、この映画ではアラン・ドロンは「肉体」を酷使している。船からボートにほうりだされ、漂流して日焼けするシーン。その日焼けの皮膚が破れて、いわゆる皮がむけるシーン。その日焼けの肩の色、皮むけぼろぼろな感じ--これをメーキャップではなく、実際の肌でやっている。なんだか、すごい。
 その「肉体」を酷使した海のシーンでは、別の「肉体」の酷使の仕方もしている。モーリス・ロネを殺した跡、死体を布でつつむ。ロープで縛る。揺れる船の上での、その悪戦苦闘ぶりが、かなりの時間をかけて描かれる。--こういうシーンは映画ならではである。台詞は何もない。やっていることはわかりきっている。わかりきっていることだけれど、そういうことは普通ひとはみないし、やったこともない。だからほんとうのところ肉体がそのときどんなふうにして動くは知らない。その観客の、知っているようで知らないことを、アラン・ドロンが全身で再現する。サインの偽造の練習も、あ、そうか、とわかるけれど、そういうことは実際には誰も体験していない。その体験していないことを肉体でみせるが役者なのだ。
 あ、そうなのだ。おもしろいのは、すべて肉体なのだ。アラン・ドロンがモーリス・ロネの靴を履いてみたり、服を着てみたり、そしてそのまま鏡に姿を映して自分に口づけしてみたりも、ストーリーでもことばでもなく、ただ肉体なのだ。アラン・ドロンという特有の顔をもつ男の、特権的な肉体の動き。それが、この映画のおもしろさの核心である。
 肉体を酷使して酷使して、その最後--ああ、これで幸せになれると笑みを浮かべるクライマックスの、アラン・ドロンの顔。肉体が、そのとき、顔そのものになる。特権の花が華麗に、華麗過ぎるほど華麗に、満開になる。
 アラン・ドロンという役者は私は好きではないけれど、こういう特権的な顔を見るだけのために、この映画を見るのもいいかもしれない。犯罪映画を、まるで美男子の悲劇のように華麗に描いてしまうルネ・クレマンには、まあ、脱帽すべきなのだろう。


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ナボコフ『賜物』(29)

2010-12-13 09:27:13 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(29)

 それでも彼は座って煙草をふかし続け、爪先をぶらぶら揺らしていた。そして他の人たちが話をしている最中も、自分が話をしている最中も、いつどこででもそうしていたように、他人の内面の透明な動きを想像しようと努め、ちょうど肘掛け椅子に座るように話相手の中に慎重に腰をおろして、その人のひじが自分の肘掛けになるように、自分の魂が他人の魂の中に入り込むようにした。
                                 (59ページ)
 
 話し相手の話を真剣に聞く。そのとき、ナボコフの主人公は「論理」を追っていない。「魂」を追っている。「魂」と自分の「魂」を重ねあわせる。そしてその「魂」を「透明な動き」と呼んでいる。この「透明な」はとても重要なことばかもしれない。なぜなら、もしその動きがそれぞれに「青」とか「赤」とかの「色」を持っていたら、「自分の魂が他人の魂の中に入り込」んだその瞬間に、そこに色の衝突、あるいは色の混合がはじまる。「紫」という新しい色がでてきてしまう。そういう色の変化を追うのも楽しいが、ナボコフの主人公は「透明」にこだわる。色ではなく「動き」に関心があるからだ。
 そして、このとき「肉体」が大切に扱われている。「魂」に触れるには肉体も大切にしなければならないのだ。自分と他人の「魂」の「透明な」「動き」を一致させるとき、主人公は「肉体」の力を借りる。「その人のひじが自分の肘掛けになるように」とナボコフは具体的に書いている。まるで「魂」と「肉体」の細部、その動きそのもののなかにあるかのようだ。
 だからこそ、ナボコフは「肉体」の動きをていねいに書く。ひとつの動きに、別の動きを重ねる。(続ける。)そうすることで、「肉体」の内部の、つまり「魂」の動きがより明確になる。少なくともひとつの動きから別の動きへとつづき、そのつづきのなかに、ひとつのものを別のものとつなげるための「根源的な意識=魂」が浮かび上がる--そう考えているらしい。

それでも彼は座って煙草をふかし続け、爪先をぶらぶら揺らしていた。

 煙草をふかしつづけるか、爪先をぶらぶらゆらすか、簡潔な小説なら、動きをひとつにするだろう。けれどナボコフはふたつの動きを書く。ナボコフにとって、ふたつを書くことは、複雑になることではなく、単純になることなのだ。ある動きと別の動きの「間」にある「動き」--「透明な」動きになることなのだ。
 ことばは(動きを描写することばは)、重なることで、その重なりの「間」に、運動の主体である人間の「魂」を浮かび上がらせる。
 文章が複雑になればなるほど、ナボコフは「透明」な運動を書きたいと思っているのだ。書けたと思っているのだ。
 単純と複雑は、ナボコフにとっては、私たちがふつうつかうのとは逆な「意味」をもっている。

 その「単純」の過激性は、次の部分に強烈に出ている。先の引用につづく文章である。

するとどうだろう、突然、世界の照明ががらっと変わり、彼は一瞬、実際にアレクサンドル・ヤコーヴレヴィチや、リュボーフィ・マルコヴナや、ワシリーエフになるのだった。
                                 (59ページ)

 「自分」ではなく「他人」に「なる」。「私」と「他人」がいるのではなく、そして二人が対話しているのではなく、そこには「他人」という「ひとり」だけがいる。そこで話すことばは「対話」ではなく、「ひとり」の「独白」になる。
 これは「見かけ」は「ひとり」だから単純だが、実際は「単純」な世界ではなく、とても複雑である。丁寧に書こうとすると、どんどん矛盾に陥っていくしかない。
 たとえば……。
 このとき「見かけ」は「複数」の人間が「ひとり」に集約するのだから「単純」である。しかし、そのとき「肉体」の内部、つまり「魂」は複雑である。ある内容を語る「魂」と「ひとり」になったと認識する「魂」の「ふたつ」がないと、ある人間が「別な人間」に「なった」と書くことはできないからである。
 これは、矛盾である。



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世界の文学〈8〉ナボコフ (1977年)
クリエーター情報なし
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