井坂洋子『嵐の前』(3)(思潮社、2010年10月25日発行)
粕谷栄市『遠い 川』と井坂の詩を交互に読むと、それぞれを別々に読んでいたときとは違ったところへと、私は迷い込んでいく。こんな感想を書くはずじゃなかったのになあ、と思いながら感想を書くことになってしまう。
「へそ」。その書き出し。
私は何度も何度も「足が細くなりまるで 洗面所の」を読み返してしまう。粕谷なら絶対にこうは書かない。「足が細くなり まるで洗面所の」、あるいは「足が細くなり まるで 洗面所の」になる。粕谷の詩には句読点がやたらと多いが、それはことばのひとつひとつの句読点で区切りながら、区切ることで、ことばとして確立させながら、「ことば=考え」の関係をしっかりとつくりながら動いていくからである。
井坂のことばは違う。ことばの論理が論理的ではない。「まるで洗面所の鏡の裏にでも出たように重力がない」ではないのだ。「まるで」はあくまで「足が細くなり」という「肉体」に結びついている。そんな結びつき方は「学校教科書文法」にはあり得ないが(粕谷の書く句読点だらけの文章も「学校教科書文法」的には反則だろう)、井坂はどうしてもそう書いてしまう。
井坂が「足が細くなり」までを書いたとき、何かそれにつけくわえたいという意識はあるが、それはまだことばになっていない何かであり、何を書いていいかわからない。けれども、書いてしまう。何かつけくわえたいという思いまで書いてしまったのが「足が細くなりまるで」なのだ。書いたあと、ひと呼吸おいて「比喩」を考える。「肉体」が感じていることを、ことばでさがしはじめる。「肉体」が先に動いて行って、そのあとへことばがついてくるのを待っている、と言った方がいいかもしれない。ことばをさがしはじめる--というより、ことばがやってくるのを待っているのが「足が細くなりまるで」のあとの一字空白なのだ。「洗面所の」のあと改行し「鏡の裏に」とつづくのも、ことばが追いつくのを待っているからなのだ。
ことばを「肉体」が追いかけるのではなく、「肉体」にことばが追いつくのを待っている。あるいは「肉体」のなからかことばが生まれるのを待っている。
この「待ち」の時間があるから、「鏡の裏にでも出たように重力がない」という濃密な「比喩」が説得力を持つ。書かれていることは、わかるようで、わからない。わからないようで、わかる。「頭(考え)」では、それは「わかる」というところまで突き進むのはとても難しい。いや、面倒だ。ところが「肉体」なら、この何だが「だるくて苦しい」感じを、ああ、そうだよなあ、と納得してしまう。
特に、その比喩が「すらすら」と「学校教科書的」に書かれるのではなく、「ほら、あれだよ、あれ、どうしてわかんないのかなあ、あれ、そう、鏡の裏にでも出たように重力がない、という感じ」という雰囲気を「文体」のなかに抱え込んでいると、納得させられてしまうのである。会話で、相手が何かことばをさがしていて、それについてもどかしそうに苦しみ、やっとことばを見つけ出したとき、そのことばを納得するというより、、ことばを探し出す苦しみを納得してしまう感じに似ているかもしれない。
きっと一字空白や不自然な(?)改行は、会話(口語)のときの、言いよどみ、ことばをさがしている「間」なのだ。「間」を押し広げ、その「間」の空白(真空)に、何かが誘い出される。そこに誘い出されたものは「鏡の裏にでも出たように重力がない」のような、わけのわからないものだけれど、そのことばがあらわれる前の「間」の方に強い実感があるので、そのわけのわからないことばを、ただ納得してしまうのだ。
私たちは(私は、というべきか)、「鏡の裏にでも出たように重力がない」という書かれた1行よりも、その手前の、変な「呼吸」、「肉体」の存在感に納得してしまうのだ。一度、こういう「間」と、「飛躍」(わけのわからないことばへの接続)を納得してしまうと、あとはもうどんなことばが出てきても、それを自然に(?)聞き取って納得してしまう。
これは「意味」的には、女の人がスケートをしている夢を見たが、朝になって、氷枕(?)の氷が解けて、熱が下がってしまうとその夢は氷のように消えてしまっていた。窓を開けたら飛行機が見えた--というくらいのことだろう。
そういう「意味」を思い浮かべたとき、
この2行の「学校教科書文法」から逸脱したことばが気になる。「南側の窓をあけ」るのは「私」だろう。その「私」という主語を受けることばが次の行にない。あえて、それを「復元」してみるなら、
となるだろう。
ここには、「足が細くなりまるで 洗面所の/鏡の裏に……」とは正反対のことばの運動がある。
ことばが「肉体」を追いこしている。「足が細くなりまるで 洗面所の/鏡の裏に……」と書いたとき、井坂は、ことばを待っていた。ここでは「待つ・間」もなく、ことばが追いこしていっている。
「間」がない。
そのわりに何があるか。
「肉体」である。
「空」は「肉体」なんかではない。けれど、ことばが「肉体」を追い越していって、その追いこしたことばを「肉体」が追いかけると、ことばにおいついた瞬間、そのことばは「肉体」になる。
うーむ。
けれど、井坂は非常に用心深い。追いこしていくことばを、ただただ追いかけるわけではない。追いかけ、追いつくだけではない。
ことばの暴走を井坂は「嘘デハナイカ」と疑う。疑うことで、遠くまでいってしまた「肉体」を「いま」「ここ」に呼び戻す。
「空」(宇宙?)とか「時間」とか--そんなものは関係ない。あるのは、へそからへそへとつながる「女の肉体(いのち)」である。
病気・熱に苦しんで、快復したら、井坂はそんなふうに感じた。「肉体」の勝利宣言のようなものであるが、この「へそ」は、やっぱり「攻撃的」だなあ。男にもへそはあるが、それはいわば女につくってもらったもの。男はへそをつくれないからなあ。男は「肉体」では「中心」をつくれないし、「つながり」もつくれないんだぞ、と言われてしまった気分だなあ。
「あ、ごめんなさい。女に勝とうなんてだいそれたことは思いません。だから仲よくしてね、いじめないでね、いっしょにいてね」と、気弱な少年にもどるしかないのかなあ。男は。
粕谷栄市『遠い 川』と井坂の詩を交互に読むと、それぞれを別々に読んでいたときとは違ったところへと、私は迷い込んでいく。こんな感想を書くはずじゃなかったのになあ、と思いながら感想を書くことになってしまう。
「へそ」。その書き出し。
病気に愛撫されて半日シーツの上で苦しむ
熱が肉を消費する
足が細くなりまるで 洗面所の
鏡の裏にでも出たように重力がない
私は何度も何度も「足が細くなりまるで 洗面所の」を読み返してしまう。粕谷なら絶対にこうは書かない。「足が細くなり まるで洗面所の」、あるいは「足が細くなり まるで 洗面所の」になる。粕谷の詩には句読点がやたらと多いが、それはことばのひとつひとつの句読点で区切りながら、区切ることで、ことばとして確立させながら、「ことば=考え」の関係をしっかりとつくりながら動いていくからである。
井坂のことばは違う。ことばの論理が論理的ではない。「まるで洗面所の鏡の裏にでも出たように重力がない」ではないのだ。「まるで」はあくまで「足が細くなり」という「肉体」に結びついている。そんな結びつき方は「学校教科書文法」にはあり得ないが(粕谷の書く句読点だらけの文章も「学校教科書文法」的には反則だろう)、井坂はどうしてもそう書いてしまう。
井坂が「足が細くなり」までを書いたとき、何かそれにつけくわえたいという意識はあるが、それはまだことばになっていない何かであり、何を書いていいかわからない。けれども、書いてしまう。何かつけくわえたいという思いまで書いてしまったのが「足が細くなりまるで」なのだ。書いたあと、ひと呼吸おいて「比喩」を考える。「肉体」が感じていることを、ことばでさがしはじめる。「肉体」が先に動いて行って、そのあとへことばがついてくるのを待っている、と言った方がいいかもしれない。ことばをさがしはじめる--というより、ことばがやってくるのを待っているのが「足が細くなりまるで」のあとの一字空白なのだ。「洗面所の」のあと改行し「鏡の裏に」とつづくのも、ことばが追いつくのを待っているからなのだ。
ことばを「肉体」が追いかけるのではなく、「肉体」にことばが追いつくのを待っている。あるいは「肉体」のなからかことばが生まれるのを待っている。
この「待ち」の時間があるから、「鏡の裏にでも出たように重力がない」という濃密な「比喩」が説得力を持つ。書かれていることは、わかるようで、わからない。わからないようで、わかる。「頭(考え)」では、それは「わかる」というところまで突き進むのはとても難しい。いや、面倒だ。ところが「肉体」なら、この何だが「だるくて苦しい」感じを、ああ、そうだよなあ、と納得してしまう。
特に、その比喩が「すらすら」と「学校教科書的」に書かれるのではなく、「ほら、あれだよ、あれ、どうしてわかんないのかなあ、あれ、そう、鏡の裏にでも出たように重力がない、という感じ」という雰囲気を「文体」のなかに抱え込んでいると、納得させられてしまうのである。会話で、相手が何かことばをさがしていて、それについてもどかしそうに苦しみ、やっとことばを見つけ出したとき、そのことばを納得するというより、、ことばを探し出す苦しみを納得してしまう感じに似ているかもしれない。
きっと一字空白や不自然な(?)改行は、会話(口語)のときの、言いよどみ、ことばをさがしている「間」なのだ。「間」を押し広げ、その「間」の空白(真空)に、何かが誘い出される。そこに誘い出されたものは「鏡の裏にでも出たように重力がない」のような、わけのわからないものだけれど、そのことばがあらわれる前の「間」の方に強い実感があるので、そのわけのわからないことばを、ただ納得してしまうのだ。
私たちは(私は、というべきか)、「鏡の裏にでも出たように重力がない」という書かれた1行よりも、その手前の、変な「呼吸」、「肉体」の存在感に納得してしまうのだ。一度、こういう「間」と、「飛躍」(わけのわからないことばへの接続)を納得してしまうと、あとはもうどんなことばが出てきても、それを自然に(?)聞き取って納得してしまう。
回線の眠りは深く 時計が二十五時を告げる
夜明けに向かって
姉のような女の人が氷上を滑っていた
少年用のスケート靴をはいていた
朝 目をあけたら彼女は水に紛れていってしまったらしい
南側の窓をあけ
飛行機が滑っていく空のどの一点にもへそのような中心がなかった
これは「意味」的には、女の人がスケートをしている夢を見たが、朝になって、氷枕(?)の氷が解けて、熱が下がってしまうとその夢は氷のように消えてしまっていた。窓を開けたら飛行機が見えた--というくらいのことだろう。
そういう「意味」を思い浮かべたとき、
南側の窓をあけ
飛行機が滑っていく空のどの一点にもへそのような中心がなかった
この2行の「学校教科書文法」から逸脱したことばが気になる。「南側の窓をあけ」るのは「私」だろう。その「私」という主語を受けることばが次の行にない。あえて、それを「復元」してみるなら、
(私は)南側の窓をあけ
(私は)飛行機が滑っていく空(を見た)
(その空)のどの一点にもへそのような中心がなかった
となるだろう。
ここには、「足が細くなりまるで 洗面所の/鏡の裏に……」とは正反対のことばの運動がある。
ことばが「肉体」を追いこしている。「足が細くなりまるで 洗面所の/鏡の裏に……」と書いたとき、井坂は、ことばを待っていた。ここでは「待つ・間」もなく、ことばが追いこしていっている。
「間」がない。
そのわりに何があるか。
へそ
「肉体」である。
「空」は「肉体」なんかではない。けれど、ことばが「肉体」を追い越していって、その追いこしたことばを「肉体」が追いかけると、ことばにおいついた瞬間、そのことばは「肉体」になる。
うーむ。
けれど、井坂は非常に用心深い。追いこしていくことばを、ただただ追いかけるわけではない。追いかけ、追いつくだけではない。
時間にも中心がない「バクテリアが三十億年 四十億年かかってつ
くった空気をあなたは今すっています」
「あなたは、毎日感じたり考えたり楽しんだり悲しんだりするその
あなたの主人です」「他の人というのは結局意識の主人になれない」
「あなたはあなた一人で世界をつくっているのです」
ナゼ私トイウ中心がアルノカ ソレハ嘘デハナイノカ
ことばの暴走を井坂は「嘘デハナイカ」と疑う。疑うことで、遠くまでいってしまた「肉体」を「いま」「ここ」に呼び戻す。
不思議の国のアリスのように地下の部屋が伸びていて
穴におちたら
そこはふしぎでもなんでもなく
東京の地下街
首の上にのぼる血の 金属的な音を耳のそこに聞きながら
膝を深く折り 貝のように体をまるめていた
太陽も取引にやってこない
精霊よ この日ダンボールですごすことをお助け下さい
うららかな表通りでは 女の人が赤ちゃんを見かけ
「体のなかからお湯がでてくるみたいな気持になるわね」
夥しい数のへそが行き交っていた
「空」(宇宙?)とか「時間」とか--そんなものは関係ない。あるのは、へそからへそへとつながる「女の肉体(いのち)」である。
病気・熱に苦しんで、快復したら、井坂はそんなふうに感じた。「肉体」の勝利宣言のようなものであるが、この「へそ」は、やっぱり「攻撃的」だなあ。男にもへそはあるが、それはいわば女につくってもらったもの。男はへそをつくれないからなあ。男は「肉体」では「中心」をつくれないし、「つながり」もつくれないんだぞ、と言われてしまった気分だなあ。
「あ、ごめんなさい。女に勝とうなんてだいそれたことは思いません。だから仲よくしてね、いじめないでね、いっしょにいてね」と、気弱な少年にもどるしかないのかなあ。男は。
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