山本楡美子「航行」(「ぶりぜ」9、2010年12月10日発行)
きのう読んだ岡井隆の『詩歌の岸辺で』(思潮社)のなかに、詩なのだから「あいまい」でいいのだ、というようなことが書いてあった。私は、そのことばがとても好きだ。で、岡井が書いていた前後のことを無視して、詩の意味など「あいまい」でいいのだ、詩の論理など「あいまい」でいいのだ、と勝手に言い換えて、「座右の銘」とすることにした。--あ、これは、都合が悪くなったら、岡井隆は詩のことばの論理はあいまいでいいのだと言っているように……と言い逃れをするのに利用する、という意味である。
で、さっそく、そういう例に出合った。作者がどういうつもりで書いているかよくわからない、ことばの論理(意味)を正確に理解することはできないけれど、とても気に入った作品がある。その作品が好き--という「根拠」に、岡井の言っていた「あいまい」を利用したい。というか、「あいまい」なところを、私は私の勝手な「誤読」で補い、ここがいい、というために利用したいのだ。
山本楡美子「航行」は2連目がとても魅力的だ。
この2連目の書き出しの3行が、私にはセックスの絶頂のときの歓喜の声に思えるのだ。
「島」というのは「わたし」。(詩は私小説ではないけれど、まあ、私はこの「わたし」を山本と思って読む。)「海」というのも「わたし」。
男がやってきて、セックスをする。「わたし」の「海」のなかへと漕ぎだしてくる。「海」のなかには「島」がある。男は、そこへたどりつく。絶頂である。そのとき、「わたし」も絶頂を迎える。声が洩れる。「のど」から。「わたし」は「海」であり、「島」であり、いま、ふいに「わたし」自身にかえり、「のど」が別の生き物となる。「笛」になる。「笛」のなかを息が通り抜ける。声にはならない。
そのとき、「わたし」から、つまり「島」から船が出る。男は、その船の客である。
男は船(フェリー)からおりる。また船にのる。どちらかに限定はしない。男は船を降り、また船に乗る。男は海を渡ってやってくる。そしてまたぞこかへゆく。「泊まっていくのか、帰るのか」。これは、同じこと。泊まっていったって帰るし、帰ったって、また泊まりに来る。
セックスは、互いに行き来するものである。往復するとき、「意味」や「論理」は常に相互に入り乱れる。わからなくなる。厳密に「意味」を固定せず、「あいまい」にしておけばいいのである。
「あいまい」ななかで、「島」「海」「のど」「笛」「船」が次々に存在のあり方をかえながら、セックスそのものになる。それはまるで、セックスに夢中になって、しらずしらず体位をかえるようなものである。そして、それは、どんなに体位をかえようとも、セックスしているということ自体はかわらない、いや、かえること、かわることで、「いま」を超えてしまうというところが、まことにおもしろい。
で、(で、というのは便利なことばで、何が「で、」なのかわからないくても、「で、」と言ってしまうと、なんとなく、何かを言っているような感じがするので、私は愛用してしまうのだが……)
なぜ、2連目をそんなふうにセックスにこだわって読んでしまうかというと、1連目がやっぱりセックスを書いていると思うからなのである。
ほんとうは1連目、2連目の順序で書けばよかったのかもしれないが、2連目がともかくおもしろかったので先に書いた。これから書く1連目に関することは、いわば補足。
この1連目、その最後の部分で、私はどうしてもセックスを感じてしまう。「いもうとが走ってくると/近くのものが遠のき」というのは、女が(わが妹は、と古い歌でいうときの「妹」、いもうと)走ってくると、まわりにいたもの(近くのもの)が遠のく。男と女と二人だけにする。で、サトウキビ畑で、セックスがはじまる。「樹の悲鳴が聞こえる」は、遠くの森の樹の悲鳴とすると、ちょっと変な状況になるが、つまり麦畑で歓喜の声(悲鳴)があがるはずなのに、なぜ、樹? という疑問が生まれてくるが、それこそ岡井隆がいっているように「論理(意味)」は「あいまい」でいいのだ。遠い樹のところまで下がった人々が、ふたりの声を「悲鳴」のように聞いた、という意味であってもかまわないのだ。
そこから詩の行の展開とは逆の方向に、私の意識はもどっていく。「汗まみれのひとふたり」。これは、実はセックスをしているふたりである。ふたりがセックスをしているのに、そのあと「妹(女)」が走ってくるというのは変かもしれないが、それは、「いもうとが走ってくると」以下の3行を、あとから付け足した説明と考えれば解決する。つまり、なぜ、ふたりがあせまみれかって? それは、女が走ってきて、男とセックスをはじめたからさ。わたしらは(これは、近くにいたもの、ということだね)、ふたりに遠慮して遠く、樹の陰に隠れていたんだよ。でも、そこまで声が聞こえてきた。「悲鳴のようにね」。
そんなふうに読んでしまうと、それに先立つ部分も、ずいぶんとセックスを暗示させる。「果てるまで」は絶頂にたどりつくまで、と読むことができる。「重なり合う」はもちろん肉体が「重なり合う」ことであり、セックスそのものだね。
山本はセックスなど書いていない、こんな感想は谷内の「誤読」だ、というかもしれない。
そんな抗議は、しかし、私は気にしない。
ここにはおおらかなセックスが書かれている、と読むとき、私は楽しくなる。だから、そう読む。どんな文学も、それは読まれたときから、読んだもののものなのだ。書いた人のものではない、と私は思っている。
きのう読んだ岡井隆の『詩歌の岸辺で』(思潮社)のなかに、詩なのだから「あいまい」でいいのだ、というようなことが書いてあった。私は、そのことばがとても好きだ。で、岡井が書いていた前後のことを無視して、詩の意味など「あいまい」でいいのだ、詩の論理など「あいまい」でいいのだ、と勝手に言い換えて、「座右の銘」とすることにした。--あ、これは、都合が悪くなったら、岡井隆は詩のことばの論理はあいまいでいいのだと言っているように……と言い逃れをするのに利用する、という意味である。
で、さっそく、そういう例に出合った。作者がどういうつもりで書いているかよくわからない、ことばの論理(意味)を正確に理解することはできないけれど、とても気に入った作品がある。その作品が好き--という「根拠」に、岡井の言っていた「あいまい」を利用したい。というか、「あいまい」なところを、私は私の勝手な「誤読」で補い、ここがいい、というために利用したいのだ。
山本楡美子「航行」は2連目がとても魅力的だ。
島は海ののど
ひと笛で
わたしから船が出る
フェリーを降りるのは
水の上を渡ってきた旅人
波光が
(泊まっていくのか 帰るのか
(泊まっていくのか 帰るのか
と繰り返す
この2連目の書き出しの3行が、私にはセックスの絶頂のときの歓喜の声に思えるのだ。
「島」というのは「わたし」。(詩は私小説ではないけれど、まあ、私はこの「わたし」を山本と思って読む。)「海」というのも「わたし」。
男がやってきて、セックスをする。「わたし」の「海」のなかへと漕ぎだしてくる。「海」のなかには「島」がある。男は、そこへたどりつく。絶頂である。そのとき、「わたし」も絶頂を迎える。声が洩れる。「のど」から。「わたし」は「海」であり、「島」であり、いま、ふいに「わたし」自身にかえり、「のど」が別の生き物となる。「笛」になる。「笛」のなかを息が通り抜ける。声にはならない。
そのとき、「わたし」から、つまり「島」から船が出る。男は、その船の客である。
男は船(フェリー)からおりる。また船にのる。どちらかに限定はしない。男は船を降り、また船に乗る。男は海を渡ってやってくる。そしてまたぞこかへゆく。「泊まっていくのか、帰るのか」。これは、同じこと。泊まっていったって帰るし、帰ったって、また泊まりに来る。
セックスは、互いに行き来するものである。往復するとき、「意味」や「論理」は常に相互に入り乱れる。わからなくなる。厳密に「意味」を固定せず、「あいまい」にしておけばいいのである。
「あいまい」ななかで、「島」「海」「のど」「笛」「船」が次々に存在のあり方をかえながら、セックスそのものになる。それはまるで、セックスに夢中になって、しらずしらず体位をかえるようなものである。そして、それは、どんなに体位をかえようとも、セックスしているということ自体はかわらない、いや、かえること、かわることで、「いま」を超えてしまうというところが、まことにおもしろい。
で、(で、というのは便利なことばで、何が「で、」なのかわからないくても、「で、」と言ってしまうと、なんとなく、何かを言っているような感じがするので、私は愛用してしまうのだが……)
なぜ、2連目をそんなふうにセックスにこだわって読んでしまうかというと、1連目がやっぱりセックスを書いていると思うからなのである。
ほんとうは1連目、2連目の順序で書けばよかったのかもしれないが、2連目がともかくおもしろかったので先に書いた。これから書く1連目に関することは、いわば補足。
海に浮かぶ
果てるまで
重なりあう山の向こうの
一番大きな島
聳え立つサトウキビの根方に
汗まみれのひとふたり
いもうとが走ってくると
近くのものが遠のき
樹の悲鳴が聞こえる
この1連目、その最後の部分で、私はどうしてもセックスを感じてしまう。「いもうとが走ってくると/近くのものが遠のき」というのは、女が(わが妹は、と古い歌でいうときの「妹」、いもうと)走ってくると、まわりにいたもの(近くのもの)が遠のく。男と女と二人だけにする。で、サトウキビ畑で、セックスがはじまる。「樹の悲鳴が聞こえる」は、遠くの森の樹の悲鳴とすると、ちょっと変な状況になるが、つまり麦畑で歓喜の声(悲鳴)があがるはずなのに、なぜ、樹? という疑問が生まれてくるが、それこそ岡井隆がいっているように「論理(意味)」は「あいまい」でいいのだ。遠い樹のところまで下がった人々が、ふたりの声を「悲鳴」のように聞いた、という意味であってもかまわないのだ。
そこから詩の行の展開とは逆の方向に、私の意識はもどっていく。「汗まみれのひとふたり」。これは、実はセックスをしているふたりである。ふたりがセックスをしているのに、そのあと「妹(女)」が走ってくるというのは変かもしれないが、それは、「いもうとが走ってくると」以下の3行を、あとから付け足した説明と考えれば解決する。つまり、なぜ、ふたりがあせまみれかって? それは、女が走ってきて、男とセックスをはじめたからさ。わたしらは(これは、近くにいたもの、ということだね)、ふたりに遠慮して遠く、樹の陰に隠れていたんだよ。でも、そこまで声が聞こえてきた。「悲鳴のようにね」。
そんなふうに読んでしまうと、それに先立つ部分も、ずいぶんとセックスを暗示させる。「果てるまで」は絶頂にたどりつくまで、と読むことができる。「重なり合う」はもちろん肉体が「重なり合う」ことであり、セックスそのものだね。
山本はセックスなど書いていない、こんな感想は谷内の「誤読」だ、というかもしれない。
そんな抗議は、しかし、私は気にしない。
ここにはおおらかなセックスが書かれている、と読むとき、私は楽しくなる。だから、そう読む。どんな文学も、それは読まれたときから、読んだもののものなのだ。書いた人のものではない、と私は思っている。
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