時里二郎「卵歌」(「ロッジア」9、2010年12月20日発行)
時里二郎「卵歌」は「『水郷ノオト』抄」というサブタイトルを持っている。そして、その冒頭に、次のように書いている。
私は、この「前書き」を信じていない。時里の「父」が歌人であったこと、その父が「ノオト」を残しているということ、それを時里が抄出しているということを信じていない。それらはすべて時里の創作であると思っている。
私は時里の熱心な読者とはいえないかもしれないが、時里の書いている「ことば」と「父」のことばの区別がつかない。もしほんとうにここに抄出されているものが「父」のことばなら、時里と「父」はあまりにも似すぎている。「一卵性双生児」を通り越して似ている。
少女に「ヒトデハナイ」と言わせている。これは実際に「父」が体験したことではなく、「父」の創作だろうと私は思う。時里は「父」の「ノオト」を捏造し、その捏造のなかで「父」に「少女」を捏造させている。--この「入れ子構造」と時里のもっとも好きな「構造」、ほとんど「肉体」といっていい「思想」である。
そして、その「入れ子」のなかで捏造されていることが、またまた時里の「思想」である。
少女は、自分のことを「ウタデス」という。つまり、「ことば」であると言うのだ。そして、そのあとがとてもおもしろい。
「ウタ」、つまり「ことば」であると言ったとたんに、それを「ノド」と言い換える。「ノド」とはもちろん「肉体」である。時里にとって「ことば」と「肉体」は同一のものなのだ。それは切り離せないものなのだ。
「ウタ」といって、「ウタヲフルハセルノド」であるというのは、一種の「矛盾」である。もし「少女」が「ウタ」ならば、「ウタ」を「フルハセル/ノド」というのは別個の存在でなければならないはずである。別の存在でなければ、「ノド」は「ウタ」を「フルハセル」ことはできない。他動詞として動くことはできない。
この「矛盾」はどうやったら乗り越えることができるか。
実は、とても単純である。
「ヨウ」という「少女」も「ウタ」(ことば)も「ノド」も同じもの(ひとつのもの)であると考えればいいのである。「一元論」である。
「世界」に存在するものは「ひとつ」である。「ひとつ」のものが、ときと場合に応じて、その瞬間瞬間に、それにふさわしい「もの・こと」になるのである。あるときは「ヨウ」という「少女」になり、「ウタ」になり、その「ウタ」を声にしてしまう「ノド」になる。
あらゆる「捏造・創造・想像」は時里(父)という詩人(歌人)が「いま」「ここ」にいて、「世界」を思い描くとき、その「ことば」とともに「あらわれる」。「ことば」にするときだけ、「いま」「ここ」に「ある」。それも、「少女」に「なる」、「ウタ」に「なる」、「ノド」に「なる」という運動によって「ある」。
こういう「世界」では「父」は「父」のままではありえない。「父」は「時里」に「なる」。あるいは、「時里」は「父」に「なる」しかない。
そして、こういう運動(一元論の世界)では、どっちが先かと問うことは無意味である。「父」がいて、その子として「時里」がいるのか、あるいは「時里」がてい、その「親」として「父」がいるのか。どっちでもない。「時里」が子であるとき、つまり「父」を思うとき、そこに「父」があらわれ、「父」の存在によって「時里」は子に「なる」。
このとき「ことば」はだれのものでもない。そのことばを使った者のものになる。
だから。
この、だから、はちょっと曲者なのだが、もし、ほんとうに時里が「父」の「ノオト」を抄出しているのであっても、そのことばが時里を潜り抜けた瞬間から、それは「父」のことばではなく、時里のものになる。
その「ことば」の選択が、「恣意による」ものならなおさらである。たとえ「父」が書いたものであれ、それは時里のことばになってしまっている。
ことばは「書いた人のもの、言った人のもの」ではなく、それを「読んだ人のもの、読んで使った人のもの」なのだ。
だから、私は言うのだ。たとえ時里が私(谷内)の読み方が「誤読」であると言おうとそんなことは私には関係ない。時里に、そんなことを言われる筋合いはない。私がそのことばを読んだのだ。どう読むかは私の勝手なのだ、と。
作者の「意図」とは無関係に、それを無視して「読む」のが「読む」という行為のすべてなのだ。時里も、「父のことば」を「恣意によって」読んでいる。順序を入れ換えさえしているではないか。
時里二郎「卵歌」は「『水郷ノオト』抄」というサブタイトルを持っている。そして、その冒頭に、次のように書いている。
○これは「水郷ノオト」と名づけられた父のノオト類からの抄出である。抄出部分の選択、及びその意図と順序は、ひとえにぼくの恣意によることを断っておきたい。
私は、この「前書き」を信じていない。時里の「父」が歌人であったこと、その父が「ノオト」を残しているということ、それを時里が抄出しているということを信じていない。それらはすべて時里の創作であると思っている。
私は時里の熱心な読者とはいえないかもしれないが、時里の書いている「ことば」と「父」のことばの区別がつかない。もしほんとうにここに抄出されているものが「父」のことばなら、時里と「父」はあまりにも似すぎている。「一卵性双生児」を通り越して似ている。
ヨウハヒトデハアリマセヌ
一息あつて、
ケモノデモアリマセヌ
わたしが葦間の見えない声と交はしてゐた対話をうかがつてゐたかのやうに、ヨウはさう言つた。
ヨウハウタデス
ウタヲフルハセルノドデス
少女に「ヒトデハナイ」と言わせている。これは実際に「父」が体験したことではなく、「父」の創作だろうと私は思う。時里は「父」の「ノオト」を捏造し、その捏造のなかで「父」に「少女」を捏造させている。--この「入れ子構造」と時里のもっとも好きな「構造」、ほとんど「肉体」といっていい「思想」である。
そして、その「入れ子」のなかで捏造されていることが、またまた時里の「思想」である。
少女は、自分のことを「ウタデス」という。つまり、「ことば」であると言うのだ。そして、そのあとがとてもおもしろい。
ウタヲフルハセルノドデス
「ウタ」、つまり「ことば」であると言ったとたんに、それを「ノド」と言い換える。「ノド」とはもちろん「肉体」である。時里にとって「ことば」と「肉体」は同一のものなのだ。それは切り離せないものなのだ。
「ウタ」といって、「ウタヲフルハセルノド」であるというのは、一種の「矛盾」である。もし「少女」が「ウタ」ならば、「ウタ」を「フルハセル/ノド」というのは別個の存在でなければならないはずである。別の存在でなければ、「ノド」は「ウタ」を「フルハセル」ことはできない。他動詞として動くことはできない。
この「矛盾」はどうやったら乗り越えることができるか。
実は、とても単純である。
「ヨウ」という「少女」も「ウタ」(ことば)も「ノド」も同じもの(ひとつのもの)であると考えればいいのである。「一元論」である。
「世界」に存在するものは「ひとつ」である。「ひとつ」のものが、ときと場合に応じて、その瞬間瞬間に、それにふさわしい「もの・こと」になるのである。あるときは「ヨウ」という「少女」になり、「ウタ」になり、その「ウタ」を声にしてしまう「ノド」になる。
あらゆる「捏造・創造・想像」は時里(父)という詩人(歌人)が「いま」「ここ」にいて、「世界」を思い描くとき、その「ことば」とともに「あらわれる」。「ことば」にするときだけ、「いま」「ここ」に「ある」。それも、「少女」に「なる」、「ウタ」に「なる」、「ノド」に「なる」という運動によって「ある」。
こういう「世界」では「父」は「父」のままではありえない。「父」は「時里」に「なる」。あるいは、「時里」は「父」に「なる」しかない。
そして、こういう運動(一元論の世界)では、どっちが先かと問うことは無意味である。「父」がいて、その子として「時里」がいるのか、あるいは「時里」がてい、その「親」として「父」がいるのか。どっちでもない。「時里」が子であるとき、つまり「父」を思うとき、そこに「父」があらわれ、「父」の存在によって「時里」は子に「なる」。
このとき「ことば」はだれのものでもない。そのことばを使った者のものになる。
だから。
この、だから、はちょっと曲者なのだが、もし、ほんとうに時里が「父」の「ノオト」を抄出しているのであっても、そのことばが時里を潜り抜けた瞬間から、それは「父」のことばではなく、時里のものになる。
その「ことば」の選択が、「恣意による」ものならなおさらである。たとえ「父」が書いたものであれ、それは時里のことばになってしまっている。
ことばは「書いた人のもの、言った人のもの」ではなく、それを「読んだ人のもの、読んで使った人のもの」なのだ。
だから、私は言うのだ。たとえ時里が私(谷内)の読み方が「誤読」であると言おうとそんなことは私には関係ない。時里に、そんなことを言われる筋合いはない。私がそのことばを読んだのだ。どう読むかは私の勝手なのだ、と。
作者の「意図」とは無関係に、それを無視して「読む」のが「読む」という行為のすべてなのだ。時里も、「父のことば」を「恣意によって」読んでいる。順序を入れ換えさえしているではないか。
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