詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

毛利珠江『みみぱぁまぁ』

2010-12-27 23:59:59 | 詩集
毛利珠江『みみぱぁまぁ』(書肆山田、2010年11月30日発行)

 毛利珠江『みみぱぁまぁ』は花を題材にした詩集である。「れんげそう」もまたレンゲのことを書いているのだが、主題(?)の花に入る前の部分がおもしろかった。

夜のプールに行った。ねじれた水着の肩ひもを直す気にもならなくて、光り揺らぐ水面に足先から入る。もぐるわたしを水が閉じる。

 「水が閉じる」がとてもいい。この記憶を「肉体」にかかえたまま家に帰り、眠る。眠っているが、夢見ているのか、目覚めているのか、あいまいになる。その部分。

時々波の頂から落下するのは誰かがバタフライで泳いでいるからだ。そのままゆだねていよう。崩れたうねりの先端が勢いよく耳に入る。奥からうねりが引き返すとき、抜けなかったプールの水もさらってくれる。体温にあたためられたプールの水が冷たい水にとめどなく流れ出て、排水溝に落ちる。ざざざーざざざー同じリズムで落ちる水音がわたしの内にあるのか外なのか区別がつかない。

 「水が閉じる」とき、「わたし」は水にとじこめられる。そして、体内に水が浸入してくる。その水は「体温にあたためられ」、「わたし」の一部、いや、「わたし」そのものになる。それが、夢のなかに押し寄せてくる水と混じり合って、「わたし」から出て行く。
 このときの感じは、詩の冒頭の部分に重なり合う。

夜のプールに行った。ねじれた水着の肩ひもを直す気にもならなくて、光り揺らぐ水面に足先から入る。もぐるわたしを水が閉じる。光の帯をすり抜ける。壁を蹴ってゆっくりターン。夥しい気泡がからだにまとわりついてゆらぎ、はじける。それは消えていく記憶のかけらのようだ。小さく透明になって皮膚を突き破りあぶくになって脱け出てゆくのだろうか。いま離れていったものは何だろう。

 「わたし」を「水が閉じる」。「水に閉じられたわたし」のなからから「皮膚を月や出って」何かが水のなかへでていった。それがプールでのできごと。そしてベッドのなかでは、「わたし」のなかから「体温にあたためられプールの水」が流れ出る。その水はきっと、プールのなかでターンしたとき出ていったもののかわりに入ってきた「水」なのだろう。
 「わたし」の「からだ」から何かが出て行く。そのとき何かがはいってくる。内と外が瞬間的に入れ代わる。そういうことを体験したあと、水のこぼれる音を聞く。それは「わたし」の「からだの奥」から流れ出たはずのものなのだが、夢のなかでその音だけを聞いていると、その音が「内」にあるのか「外」にあるのかわからなくなる。
 これは「内」と「外」が「ひとつ」のものになる、ということだ。「内」と「外」の区別などないのだ。瞬間瞬間にそれはいれかわりながら存在する。区別しても意味がない。この自己の内・外の未分化を毛利は何度も何度も繰り返し書いている。
 この区別のない「世界」が、たぶん、毛利の「理想」の世界なのだ。
 「ミミ・パーマー」。

蘭園主が何か言いながら黒い日除けケットをめくってくれる。水の滲みこんだ土に足を踏み入れる。指さす先。ついに匂いを発する蘭を手に入れた。かかえる胸に触れてくる。しっとりしているのはわたしの皮膚だろうか。

 蘭の「におい」。その「におい」を感じるとき、「におい」が「わたし」の「内」に入ってくる。そして、「内」と「外」が区別がつかなくなる。

しっとりしているのはわたしの皮膚だろうか。

 毛利は1行しか書いていないが、そこには書かれていない「こと」がたくさんある。しっとりしているのは「蘭の匂い」だろうか。しっとりしているのは「蘭の花びら」だろうか。しっとりしているのが「わたしの皮膚」だとしたら、それは「蘭の匂い」が「わたし」の「内」に入ってきて、その結果「わたし」が「蘭の花」になったせいだろうか。「わたし」はいま「蘭の花」なのだろう。車に、蘭を運び……。

ドアを閉める。ほのかな香りは遠くに見える熱帯雨林の森からとどいてくるかのようにかすかだ。

 このとき、毛利は、遠い森にいるのだ。そして、それは次のように繰り返される。

揺れながら湿った森の奥、苔を割って誕生する野生の蘭を想像した。

 「想像する」とは、そのものに「なる」ことだ。毛利は、湿った森の奥で、苔を割って誕生する。生まれ変わる。野生の蘭に。
 ことばを書く--ということは、私が私ではなくなること、書いたものになってしまうことである。私とは対象が入れ代わってしまうのである。この入れ代わりを、毛利は「誕生」と考えている。
 そして、こういう「誕生」は、「ことば」の動いた範囲までの「誕生」である。いいかえると、「誕生」というところまでは、ある程度ことばを書き慣れてくるとだれでもたどりつけるのだが、そこから「生きる」ところまで書いていくのは、実は、むずかしい。毛利は、その「誕生」を超え、「生きる」いのちを次のように書いている。

袋の内壁に黄色い花粉を塗りつけたような円い模様が滲んでいる。香りを分泌しているのはここかもしれない。動かすとカオリが飛び出てきそうだ。頬杖をつき嗅ぐ。嗅ぎ続ける。だるくなる。木目の渦で腕を囲んで横顔を埋めると、からだ全部が溶けた目蓋に覆われた。カオリは透明なカプセルに詰められ、何かに導かれ、わたしを巡って葉裏のようなところへ運ばれてゆく。蜂の巣状に溜め込まれたカオリは体温で保たれ、数週間でとろりとした体液になる。

 プールの水が体内であたためられたように、この作品では「カオリ(におい)」が体温であたためられる。そうすると「カオリ」は「体液」になる。蘭として生きはじめた毛利の「肉体的変化」である。
 「生きる」とは「変わる」ことなのだ。--これが、毛利の「肉体」であり、「思想」だ。書くということ、ことばをとおして「肉体」が「変わる」ということが。


みみぱぁまぁ
毛利 珠江
書肆山田

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