松岡政則「フォルモサ(美麗島)」(「イリプスⅡ」06、2010年11月15日発行)
私は目が悪い。ということを「誤読」の理由にしてはいけないのかもしれないが、もともと目が悪い上に、網膜剥離で手術をしてさらに視力が落ちて、誤読が激しくなった。つまり、読みたいように読むようになってしまった。
松岡政則「フォルモサ(美麗島)」。その書き出し。
「根を選んだ者らの、」を私は最初「眼を選んだ者らの、」と読んでしまった。「根」と「眼」はヘンが違うがツクリは同じだ。何度も「眼」が出てきたので、「根」を、それまでの習慣で「眼」と読んでしまったのである。
この「眼」と、
この部分の「まなうら」を結びつけて、思ったことを書こうとしていた。「美麗島」のひとびと。そこで暮らし、そこで生きているひとびと。彼らの眼。その島を離れずに生きてきたひとびと。日本に侵略され、強奪された過去。その悲惨を「もう昔のことだ」と思うことはできる(許すことはできる?)が、日本人のうすい笑い、島のひとびとを蔑むような笑いだけは忘れることができず、眼に焼きついている。その「肉眼」について書くつもりだった。
ところが、その感想を書こうと思って、ふと書き出しを読み返すと「眼」ではなく、「根」であると気がついた。
で、私は、急遽、書きたいと思っていたことを変更して、思いつくままにこうやって書いている。そして、実は、これから書こうとするのは、「眼」ではなく「根」であると気がついた瞬間からはじまった「誤読」についてなのである。
私は「誤読」についてしか書けない、自分が「誤読」したことについてしか書けないのかもしれない。
何を、どう「誤読」したかと言うと……。
「眼」ではなく「根」だと気がついて瞬間、それまで読んできた「眼」がすべて「根」に見えてしまったのである。「根」は「眼」なのだ。
最初の「そのくさぐさを聞く。」につづく行は次のようになっている。
「フォルモサ」はフランス語の「フォーミダブル(すばらしい)」を連想させる。実際の意味はわからないが、ガシュマルの巨木を「美しい」とポルトガルの水夫が叫んだ--というような意味合いで私は受け止めた。
「眼になってじき、」というのは、その島のひとたちの「眼」を見て、その「眼」に強く突き動かされて、松岡自身の肉体の中に島のひとびとの「眼」そのものが「肉眼」として入ってきたとき、島のひとびとの「歴史」が見え、見えた瞬間、最初の侵略者、ポルトガルの水夫の叫びが「肉体」に、耳にとどいたということだろうと思った。この「眼になってじき、」に松岡の松岡らしい「肉体の思想」を私は感じるのだが、こういうことはいつも松岡の詩について書くときに書いているので、「誤読」にもどって書き直すと……。
この「眼になってじき、」の「眼」も、私には「根」と読めてしまうのである。
美麗島のひとびとは、侵略してくる外国人を「眼」で見た。そして、そのときから島の人々は「根」になって生きることを選んだのである。(こう書いてしまうと、ちょっと語弊があるかもしれないけれど、あえて、そう書いておく。私の「誤読」を説明するために。)
「根になる」とはどういうことか。「根」は土のなかに隠れている。土のなかにあって、その存在は見えないのが「根」である。土のなかにあって、外からは見えないのだけれど、どんな巨木であろうと、小さな草花であろうと、「根」がその存在を支えている。切られても、倒されても、「根」は土のなかで生きている。無抵抗というとまた語弊があるのだけれど、外国の支配は支配として、その支配がとどかない部分で生きつづけるいのち--それが「根」である。そして、そういうしぶといいのちとしての「根、その生き方の中で形作られる「眼」、ものの見方、というものがある。
松岡は、いま、そういうものに出会っているのだと思う。
土のなかで生きつづけた根、その根が、眼となって見つづけた「歴史」。それが、いま島のひとびとの「眼」となっている。その「眼」は松岡をみつめる。そのとき、どうしたって「眼」は松岡だけではなく、「歴史」をも見てしまう。それは「歴史」をくぐった「眼」で松岡をみつめるということでもある。
それは、松岡をたじろがせる。
だが、一方で、その「眼」が「眼」であるだけではなく、「根」であると知るとき--つまり、そこでしっかりと根を張って生きていると知るとき、しかも、常に「歴史」を告発する眼となって見返してくるとき、そこには一種の「やすらぎ」のようなものがやってくる。
死なずに生き抜いてきたものと、いま生きている松岡が、その「生きる」という一瞬のうちに、ふと、出会う。それは、もしかすると、私たちが地上でかわす目線ではなく、暗く、深く、さみしい土のなかでふと触れ合ってしまう「根」のような接触かもしれない。
「まなうら」とは「根っこの眼」のことである--と私は「誤読」する。そのとき松岡の感じている「さみしいは、うれしい」が私のものになる。
私は目が悪い。ということを「誤読」の理由にしてはいけないのかもしれないが、もともと目が悪い上に、網膜剥離で手術をしてさらに視力が落ちて、誤読が激しくなった。つまり、読みたいように読むようになってしまった。
松岡政則「フォルモサ(美麗島)」。その書き出し。
土のなかで、
眼が、見開いている。
どの眼も、
かなしみの芯のようなひかりを放っている。
あめつちを畏れた者らの、
いのちを愛しんできた者らの、
あまたの眼だ。
土の眼だ。
つばさよりも、
根をこそ選んだ者らの、
そのくさぐさを聞く。
「根を選んだ者らの、」を私は最初「眼を選んだ者らの、」と読んでしまった。「根」と「眼」はヘンが違うがツクリは同じだ。何度も「眼」が出てきたので、「根」を、それまでの習慣で「眼」と読んでしまったのである。
この「眼」と、
眼は言う。
奪う者らの、
膏血をしぼりとるような強欲も、
その野蛮のかぎりももう遠い昔のことだ。
だが、どうだろう。
あの蔑みのうらい笑いだけは、
つい昨日のことのようにまなうらにあると。
この部分の「まなうら」を結びつけて、思ったことを書こうとしていた。「美麗島」のひとびと。そこで暮らし、そこで生きているひとびと。彼らの眼。その島を離れずに生きてきたひとびと。日本に侵略され、強奪された過去。その悲惨を「もう昔のことだ」と思うことはできる(許すことはできる?)が、日本人のうすい笑い、島のひとびとを蔑むような笑いだけは忘れることができず、眼に焼きついている。その「肉眼」について書くつもりだった。
ところが、その感想を書こうと思って、ふと書き出しを読み返すと「眼」ではなく、「根」であると気がついた。
で、私は、急遽、書きたいと思っていたことを変更して、思いつくままにこうやって書いている。そして、実は、これから書こうとするのは、「眼」ではなく「根」であると気がついた瞬間からはじまった「誤読」についてなのである。
私は「誤読」についてしか書けない、自分が「誤読」したことについてしか書けないのかもしれない。
何を、どう「誤読」したかと言うと……。
「眼」ではなく「根」だと気がついて瞬間、それまで読んできた「眼」がすべて「根」に見えてしまったのである。「根」は「眼」なのだ。
最初の「そのくさぐさを聞く。」につづく行は次のようになっている。
五月の仔山羊、
小高い丘のガジュマルの巨木。
(どの聚落にも大切な木というものがあった。
眼になってじき、
ポルトガルの水夫が「フォルモサ!」と叫ぶのを聞いた。
じきにオランダが入り込み、
北部はスペインが入り込み、
やがては鄭成功が住みついた。
「フォルモサ」はフランス語の「フォーミダブル(すばらしい)」を連想させる。実際の意味はわからないが、ガシュマルの巨木を「美しい」とポルトガルの水夫が叫んだ--というような意味合いで私は受け止めた。
「眼になってじき、」というのは、その島のひとたちの「眼」を見て、その「眼」に強く突き動かされて、松岡自身の肉体の中に島のひとびとの「眼」そのものが「肉眼」として入ってきたとき、島のひとびとの「歴史」が見え、見えた瞬間、最初の侵略者、ポルトガルの水夫の叫びが「肉体」に、耳にとどいたということだろうと思った。この「眼になってじき、」に松岡の松岡らしい「肉体の思想」を私は感じるのだが、こういうことはいつも松岡の詩について書くときに書いているので、「誤読」にもどって書き直すと……。
この「眼になってじき、」の「眼」も、私には「根」と読めてしまうのである。
美麗島のひとびとは、侵略してくる外国人を「眼」で見た。そして、そのときから島の人々は「根」になって生きることを選んだのである。(こう書いてしまうと、ちょっと語弊があるかもしれないけれど、あえて、そう書いておく。私の「誤読」を説明するために。)
「根になる」とはどういうことか。「根」は土のなかに隠れている。土のなかにあって、その存在は見えないのが「根」である。土のなかにあって、外からは見えないのだけれど、どんな巨木であろうと、小さな草花であろうと、「根」がその存在を支えている。切られても、倒されても、「根」は土のなかで生きている。無抵抗というとまた語弊があるのだけれど、外国の支配は支配として、その支配がとどかない部分で生きつづけるいのち--それが「根」である。そして、そういうしぶといいのちとしての「根、その生き方の中で形作られる「眼」、ものの見方、というものがある。
松岡は、いま、そういうものに出会っているのだと思う。
土のなかで生きつづけた根、その根が、眼となって見つづけた「歴史」。それが、いま島のひとびとの「眼」となっている。その「眼」は松岡をみつめる。そのとき、どうしたって「眼」は松岡だけではなく、「歴史」をも見てしまう。それは「歴史」をくぐった「眼」で松岡をみつめるということでもある。
それは、松岡をたじろがせる。
くちべたな眼よ。
ちかしい喉の者らよ。
そんなふうにみないでくれ。
通りすがりのただの歩き筋くずれだ。
偏在を夢想する、
あいさつになりたいだけの旅師だ。
だが、一方で、その「眼」が「眼」であるだけではなく、「根」であると知るとき--つまり、そこでしっかりと根を張って生きていると知るとき、しかも、常に「歴史」を告発する眼となって見返してくるとき、そこには一種の「やすらぎ」のようなものがやってくる。
死なずに生き抜いてきたものと、いま生きている松岡が、その「生きる」という一瞬のうちに、ふと、出会う。それは、もしかすると、私たちが地上でかわす目線ではなく、暗く、深く、さみしい土のなかでふと触れ合ってしまう「根」のような接触かもしれない。
土の眼よ。
勁艸の者らよ。
それでもいま恩寵のようにくるものがある。
あれはみずうみのひかり、クマタカのかげ。
すれた動詞、土語のふるまい、栗。栗。くり。
魂とはまなうらのことだろうか。
いいやいってみただけだ。
ほら、どこかで犬が吼えているよ。
丈を炙っているにおいがするよ。
このさみしいは、うれしい。
「まなうら」とは「根っこの眼」のことである--と私は「誤読」する。そのとき松岡の感じている「さみしいは、うれしい」が私のものになる。
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