詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

井坂洋子『嵐の前』(2)

2010-12-11 23:59:59 | 詩集
井坂洋子『嵐の前』(2)(思潮社、2010年10月25日発行)

 「俯瞰図を書かない」という生き方(思想)は「ふた葉」においても明確である。

木の階段をのぼるとき
何人もの靴の先で削られた
へこみに誘われる

 これは視線(視覚)がとらえた世界だけれど、なぜか「触覚」を感じさせる。「へこみ」を「削られた」ものととらえる視線のなかに、「削る」人と、「削られる」木の接点があるからだろう。
 そう思いながら、この「削られた」ということばに、私はちょっと異様なものを感じる。攻撃性を感じる。だからこそ「俯瞰図を書かない」を、「決意」(きっぱりした意思)と思うのかもしれない。
 攻撃性というのは、言い換えると、私には「削られた」ということばが思いつかない、思いつかなかった、というだけのことなのかもしれないけれど。私は、「磨り減った」くらいのことばしか思いつかないが、井坂は「削られた」と書く。「削られた」は木の立場である。ひとを主体にして書けば「削った」である。削るひとがいて、削られる木がある。そういうとらえ方に、ちょっと、どきっとしたのである。「磨り減った」は「削る」「削られた」という関係ではない。互いが「磨り減る」。木も、靴も磨り減る。ところが井坂の詩では、靴は磨り減っているようではない。あくまで靴は木を「削り」、木は「削られる」である。
 「俯瞰図を書かない」という姿勢は、そこまで深く徹底しているということなのだ。靴の方が木より硬い。だから、靴は一方的に「削り」、木は「削られる」。そこまで見ている。見ながら、そのへこみを触っている。どれくらいへこんでいるか、それは目で見るだけではなく、きっと井坂は触っているのだ。手で触らなくても、足裏で。あるいは、目で触るときも、ただじっと見つめるのではなく、へこみのカーブをていねいにたどって動く視線で触るのだ。
 その、不思議な曲線、へこみに触った視線は、どうしたって「不自然」な、曲がったものへと誘われていく。

古い建物の
ガラス戸の向こう
卍のポーズで
ねじれたままの女のひとがいる

 そのねじれと、木の階段のへこみ。それが出会うとき、私はなぜか、そのへこみをつくったのは、その女ひとりではないのか、という錯覚にとらわれる。そして、へこみ、ではなく、そのねじれにふくらみを感じる。--その女は妊婦ではないのか、と一瞬、思うのである。ふつうの女ではなく、腹が膨らんだ妊婦、傍から見ても妊婦とわかる姿の女、本人自身よりも重い(?)肉体で、卍のポースをとっている。その女の重みのために、木の階段は「削られ」、へこんだのである。

数日前 園芸センターで見た
レモンの鉢植
は あんな細枝に
大ぶりの実ったレモンが
図体を感じさせたが
からだの重い ひとの
図体をきゅうくつそうにしているのは
なんだか可憐だ

 女は、しかし、妊娠しているけれど、手足は細いのだ。細い手足に、まるで別の存在のようにしてまるく膨らんだ腹。その腹のカーブはレモンの実を通り越して、私には「削られた」木の階段のへこみを埋める膨らみに感じられる。
 ほんとうは何の関係もない木のへこみと妊婦の腹の膨らみ。そのカーブが、へこみと膨らみ自体が反対のものであるにもかかわらず、なぜか、ぴったりと重なる。
 この不思議な重なり、矛盾。へこみと膨らみが重なる、は矛盾でしょ?
 いや、矛盾じゃないのかな? 南アメリカのブラジルの東側の膨らみと、アフリカの西海岸のへこみが、実は、大陸プレートがつながっていた証拠であるように……。
 どうして、そんなことを考えるのかわからないけれど、わからないままに、いつのまにかそう考えている。そして、そういうときの考えは(ことばの動きは)、ものを「俯瞰」せず、最初に触れたものにしっかりと密着するところからはじまっている。
 何かに密着するということは、その何かから影響を受けて、自分が自分でなくなるということなのだ。最初に密着したものは、それ単独では存在せず、やはり何かと接触している。そして、密着しつづける「私」は、知らずに最初の存在から別の存在へと移動し、そこでさらに新しい何かを感じ、また自分でなくなる。
 井坂は、そういう変化を拒まない。余裕たっぷりに受け止める。余裕たっぷりというのは、何も感じずに、というのとは違う。何かを感じ、「私」が揺れる。揺れるけれど、揺れたっていい。それが「私」なのだ、と揺れを、揺れとして、はっきり書くことができるということである。
 その「私」の「実感」のようなものは、次の部分にもっと濃密に出てくる。

ヨガ教室の ヨガするひとを通りすぎて
部屋に辿りつくまで
埋めた種に
ふた葉が生えてくる
私は質問したことはないが
疑問が歯のぎざぎざのように湧く
性愛に関した二、三のこと
滅びについても一点

 「私は質問したことはないが」。これは、まことに手ごわい1行である。なぜ質問しないか。する必要がないからである。それは、井坂が「肉体」として知っていることがらである。「頭」ではなく、「肉体」で知っているから、質問する必要がない。
 「質問」すれば、それに対して「答え」が必要になる。「答え」も、「肉体」のなかにあるのだが、それをことばにしようとすれば、ちょっと違ってきてしまう。「頭」と「肉体」がせめぎあって、「ぎざぎざ」した感じが「肉体」とも「頭」ともわからないところにうごめく。「性愛に関した二、三のこと/滅びについても一点」とだけ指摘(?)して、そこでとどめおく。
 意地悪だなあとも思うし、攻撃的だなあ、とも思う。「そんなこと、読者が勝手に肉体で消化すればいいのであって、私(井坂)にはことばにする必要はない。私にはわかりきっていることなのだから」と言っているように感じられるのだ。
 でも、そういう部分が、私は好きだなあ。
 「よし、わかった、誤読してやろうじゃないか」という気持ちになる。売られた喧嘩(?)なら買ってやる--というようなことは、たしか昔書いたような記憶があるので、今回は省略。(と、書きながら、すでに半分以上、書いてしまっているかもしれないが。) で、以下は、前にこの詩の感想を書いたときに書いたかどうかはっきりしないこと。今回、気がついたこと。

 この連で私がおもしろいと思ったのは「ヨガするひとを通りすぎて」である。「ひと」を通りすぎることはできない。「ひと」を見ながら、その教室の前を通りすぎてというのが「学校教科書」の「作文」だろうけれど、でも、そうじゃなくて、ほんとうに井坂は「通りすぎて」いるのだ、きっと。その「肉体」を。妊婦の「肉体」を。だから、そこから種の芽生えや性愛が必然としてつながってくる。
 一点、「疑問が歯のぎざぎざのように」は私に、あまりにもわからなさすぎる。「歯」ではなく、「葉」なら、芽生えた「葉」の形が「ぎざぎさ」かなあ、とも思えるのだが……。
 何だろう。
 わからないが、わからないことがあると、詩は、とても読みやすい。ことばが次にどんなふうに飛躍しても、あ、これはきっと私のわからなかった何かを跳躍台にしてジャンプしたんだな、と思えるからである。

初潮を迎えた十二の年から
月とは関わり深かった
かぐやのように
じきに天にのぼり
十二以前の細い躯になるのは楽しみだ
                     (谷内注・「躯」は原文と正字)

 「月」は帰り道に「月」が出ていたのか。それとも、妊婦の腹が大きくなり、出産後、へこんで小さくなる--その満ち欠けから連想したものなのか、たぶん、後者だろう。そして、その「月」から「かぐや姫」、そして「死」をへて少女にもどる--その輪廻へとことばは動く。
 あれっ、どうして、こんなことを考えるのかなあ。
 わからない。最初は木の階段のへこみだったのに……どこが、こんな輪廻を考えるときのきっかけなんだろう。
 わからない。
 わからないけれど、この不思議なことばの運動は、「俯瞰図」にしようとするから不思議というか、奇妙、変、なのだ。最初からただ読んでいるだけのときは、不思議でも何でもない。自然に動いていく。
 おおげさな仕掛けもなく、ただことばが肉体と共に動いて行って、それが「哲学」にまでたどりつく--そこにおもしろさがある。



人気ブログランキングへ


はじめの穴 終わりの口
井坂 洋子
幻戯書房
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豊原清明「俳文『草を抱く』(3)」

2010-12-11 20:15:09 | その他(音楽、小説etc)
豊原清明「俳文『草を抱く』(3)」(「白黒目」26、2010年11月発行)

 豊原清明「俳文『草を抱く』(3)」は俳句と文章を組み合わせたものである。

曇りから抜け出た鳥の夜寒かな

 夏日は晴れじゃないと、なんとなく物足りなくなるが、秋、冬、と、移行していく最中で、「九森も、ええなあ。」と思うのだ。今年の秋は暑く、憂鬱でなにをしても旨くいかなかった。春、夏、と、緊張していたのか、秋は、「だらん」として、ごろごろした。気が向けば、すぐ近くの「マルゴ」店に行っていた。一人外出はそれ位になった。何が悩み事かといえば、女性と、誰一人とて、付き合っていない、飢えと、教会のにこにこした場で、ひとりっきりになるという、疎外感である。そんな、秋が終わった。

 「曇りから」という書き方がとてもおもしろい。「曇天から」「雲間から」くらいしか、私は思い浮かばない。「曇天から」も「雲間から」も「空」を指すが、「曇りから」はどうだろう。もちろん「空」も指すだろうが、私には何か「空」未満の感じがする。地面と空の間にある光の弱い「空間」。その「空間」に閉じ込められていたのは、鳥か。鳥であると同時に豊原なのだろう。「抜け出た」もいいなあ。
 文章の「そんな、秋がおわった。」がさっぱりしている。

ゆっくりとした父母包みしは冬の虫

曇り絵図撮って雨月の日々遅刻

秋雨後の父の時計や磨き澄む

 どの句も、句の中に「時間」がある。俳句は「一期一会」のものだが、その「一期一会」のためには、作者の「時間」(過去)が必要なのだ。作者の「時間」が対象と出会い、その瞬間に、「時間」が組み替えられあらわれるということなのかもしれない。




夜の人工の木
豊原 清明
青土社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする