詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

近藤久也「口のついたもの」

2010-12-21 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
近藤久也「口のついたもの」(「現代詩手帖」2010年12月号)

 近藤久也「口のついたもの」を読み、とてもおもしろく感じた。そのおもしろさを書きたいのだが、うーん、どこから書くべきなのか。最後の2行が、何といえばいいのか、「あ、声が聞こえた」と感じたのだ。まあ、それだけ書けばいいだけなのかもしれない。
 とりあえず引用する。そのあとで、何が書けるか、書けるところまで書いてみよう。

一九六八年の夏、和歌の浦の突堤で
生きた蝦に鉤をつけて糸を垂らしていた
すぐに小鰺が食いついてきた
あわてて引きあげようとすると
小鰺を追いかけてきた大きなカマスが
小鰺にくらいついた
あわてて引きあげると
カマスは鰺を散らして突堤で
実をくねらせてはねまわった
大急ぎで家に帰り
カマスをひらき一夜干しで
次の日に食べてしまった

一九八九年の春、奈良公園へ
幼い息子を連れて鹿をみにいった
ベンチでサンドイッチを食べていると
大きな鹿賀さっそくやってきて
息子のサンドイッチを鼻でつつき落とした
息子が奇声をあげたので
鹿は去っていった
ふと下をみるとサンドイッチに黒蟻が四匹
早くもたかっている
すぐに鳩が二羽舞い降りてきた
ああと思っていると
大きなカラスが一羽舞い降りてきて
鳩を追いはらった
しっしっと息子が小さな声をだした
すると
いつのまにかさきほどの鹿が舞い戻ってきて
カラスを追いはらいサンドイッチに近づく
息子があわてて拾いにいこうとするので
よせよせと
久しぶりに声を発したのだ
                      (初出は詩集『夜の言の葉』03月)

 小さいものを、大きいものが食う。それが1連目。2連目は実際に喰うところまで書かれてはいないが、同じ構造である。小さいものが食おうとするものを、大きいものが横取りする。横取りしようとする。
 弱肉強食--というのにはすこし変かもしれないが、まあ、似たようなものである。
 口は、何かを食べるためにある。そして、その口は、大きいものが勝つ。実に単純である。その単純さの中に、「いのち」の連鎖のおもしろさがある。そして、その関係を、なぜか美しいと私は感じる。こんなふうに繰り返されると、単純さが明確になるからかもしれない。
 そして、その単純さの果てで、なぜか、口が大変身する。
 食べる--ではなく、ことばを発するのだ。あ、口は、食べるだけではなく、ことばをいうためにもあったのだ、と気づかされるのだが……。
 何か、変。
 いや、別に変でもないのかもしれないのだけれど、そうか、生き物にはみんな口があるけれど、その口を食べること以外につかうのは人間だけなのか、と気づいて、そのことをおかしいと思うのだ。

よせよせと
久しぶりに言葉を発したのだ

 この2行がおかしいのは、そこに書かれていることが「うそ」だからである。「うそ」というと、語弊があるかもしれないけれど、近藤は生きているのだから、毎日黙っているわけではないだろう。なんらかのことばを発しているだろう。この日だって、たとえば「きょうは奈良公園へ鹿を見に行くぞ」とか「サンドイッチ食べるか」とかを息子に対して言っているはずである。無言で公園に来るということはないだろう。幼い息子とふたりなのに、無言で何かを食べるなどということも常識では考えられない。きっと何かを話している。
 それでも、

よせよせと
久しぶりに言葉を発したのだ

 と近藤は書く。
 なぜか。
 ここに書かれていることは「文字通り」のことではないのだ。近藤は久しぶりにことばを発したのではない。久しぶりにことばを意識したということなのだ。
 ことばは基本的に「もの」に対応する。「もの」があり、それをことばで追いかける。それはまるで「小さいもの」を「大きなもの」が食べるようなものである。「大きなもの」(ことば)は「小さなもの」(対象)を、のみこみながら動いていく。そして、「小さなもの」からはじまって「大きなもの」になっていく。たとえば、蝦を鰺が食べ、その鰺をカマスが食べ、さらにカマスを人間が食べるということで食の連鎖という「大きな世界」が生まれる。ことばは、「小さいもの(ことがら)」踏まえながら徐々に「大きなもの(こと)」をとらえる--細部から始まり、全体をとらえる。そういう動きをする。
 1連目、2連目で繰り返される「世界」はそういうものだ。繰り返されることで、そういう「世界」がしっかりと見えてくる。ことばは、繰り返すことで、あいまいに見えていたものをはっきりさせる力がある。

 まあ、こんな変な「哲学?」は、どうでもいい。

 おもしろいのは、そのあとの「よせよせ」。
 これは、先に書いた「哲学」(食の連鎖)とは関係がない。サンドイッチという食べ物をめぐっているから、「食」とは関係があるかもしれないが、「小さいもの」を「大きなもの」が食べることで世界がつながっている(循環している)ということとは厳密に言えば関係がない。(だから、さらに言いなおせば関係がある--という言い方もできるかもしれないが。)
 ふっ、とそういう「食の連鎖」という「哲学」から離れてしまう。
 あ、ことばは世界に接近するためにある、世界の構造を明確に認識するためにある--というだけではなく、世界からぱっと離れてしまうためにもあるのだ。
 この世界からの「離脱」というのはなんだかおもしろいなあ。ふいに身軽になったような感じがする。

 私の感想は、またまたいつものように「誤読」なのだろう。近藤の書いていることから、大きく脱線しているのかもしれないが、近藤はこの詩の最後の2行で、ことばは世界を描写するだけのためにあるのではなく、世界から離れるためにもあるということを実証しているように感じる。
 そのことが、おもしろい。
 詩は、世界に入り込み、その内部から世界を作り替えることもある。
 一方、世界から離れてしまって、その瞬間に別のものをみせる、ということもある。

 ここには、世界から離れることばとしての詩があるのだ。

夜の言の葉
近藤 久也
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(163 )

2010-12-21 12:22:29 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(163 )

 『豊饒の女神』の「豊饒の女神」つづき。

 後半は、

幸福もなく不幸もないことは
絶対の幸福である
地獄ものなく極楽もないところに
本当の極楽がある

 という行から、「意味」の強いことばを挟みながら動いていく。私は、西脇が書いていることをそのまま受け取ることができずに、「絶対の幸福」「本当の極楽」を、逆に「絶対の不幸」「本当の地獄」と読んでしまう。なぜか、書き落とされた(?)ことば「地獄」がとても気にかかってしまう。
 そして、それが最後に突然よみがえってくると、なぜか、うれしくなってしまう。

これは豊饒の女神であり
祭祀の二月の女であるか
春の野げしもタビコラも
地獄の季節をにげて
セメントのすきまから
また人間のいるところへ
頭を出して
何事かささやいている
弓の弦の大工のささやきをさけようと
祈るやがてソバやにあがり
三級酒に生物の無常を
語る日が近づいた

 「地獄」の復活がうれしいと同時に、私は、ここでは「さ行」の動きが音楽としてとてもおもしろいと思う。豊饒、祭祀、野げし、地獄、セメント、すきま。そこには「さ行(ざ行)」が動いている。
 それは「ささやいている」「ささやきをさけようと」ということばを経て「ソバや」へとつながる。そば屋がでてくるのは「諧謔」、ユーモアというものかもしれないが、うどん屋やてんぷら屋では音が違ってくる。「三級酒」「生物」「無常」とつながっていくとき、そこは絶対に「ソバや」でなくてはならないのだ。
 この「さ行」の音楽を優先させるために、「祈る」という強いことばは、行の冒頭にあるにもかかわらず、「意味」を奪われ、埋没している。「意味」を剥奪するために、西脇は、あえて行のわたりをして、そのことばを行頭に置いたのかもしれない。
 「意味」ではなく、音楽。酒、日本酒ではなく「三級酒」ということばが選ばれているのも、ただ音楽のためだと私は思う。
 この音の選択は西脇が意識していたことかどうかわからない。無意識にやっていたことかもしれない。無意識だとすれば、それは「本能」というのもだと思う。そうだとすれば、その「本能」こそが「思想」だと私には思える。




詩人たちの世紀―西脇順三郎とエズラ・パウンド (大人の本棚)
新倉 俊一
みすず書房


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