詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粕谷栄市『遠い 川』(12)

2010-12-01 23:59:59 | 詩集
粕谷栄市『遠い 川』(12)(思潮社、2010年10月30日発行)

 谷川俊太郎は、『ぼくはこうやって詩を書いてきた』のなかで、

散文だったらね、「何ひとつ書く事はない」って書いて、その後を書きつないだら嘘になっちゃうんですよ。だけど詩の場合には、「何ひとつ書く事はない」と書いてその後を書いても、成り立つっていうことがあるんだという発見ですね。

 と語っていた。「嘘」になるのか、それとも「嘘」にならずに「成り立つ」のか(文学として成り立つという意味だろう)は別にして、「何ひとつ書く事はない」と書いた後でもことばは動く。
 それは、どうしてだろう。
 書き手が瞬間的に読み手(聞き手)に変わるからではないだろうか。
 「何ひとつ書く事はない」と書いたひとには、たしかに「書く事」はないかもしれない。けれど、それを読んだひと(聞いたひと)はそのことばに反応して何か言いたくなる。そのことばに刺激を受けて、あれこれと考えはじめる。
 具体的に言えば、たとえば今朝の私の日記は、谷川の「何ひとつ書く事はない」から始まる文章に対して私が考えたこと、谷川のことばにふれた瞬間に動いた私のことばをそのまま書いたものだが、そういうことがあらゆる瞬間に起きる。(それが「何ひとつ書く事はない」であろうと、その他のどんなことばであろうと同じである。)そして、それは書き進めば書き進むほど、そういうことが起きはじめる。
 いま書いたことに対して、それを私自身が読み手として反応して、次々に逸脱していく。そういうことが起きる。書き手とはいつでも読み手になりながら、新たにことばを書き進めるものなのだ。
 だから「何ひとつ書く事はない」と書いた後でも次々にことばは動くのだ。というより、「何ひとつ書く事はない」と書かないことには動いていかないことばというものもあるのだ。谷川の「鳥羽」はそういうものだろうと思う。「詩」だから「何ひとつ書く事はない」と書いた後に何かを書いても文学として「成り立つ」のではなく、「何ひとつ書く事はない」と書かないことには動きはじめないことばが「詩」を「成り立たせる」のだ。あるいは、前に書かれたことばを突き破りながら動いてしまうことば、前のことばを否定しながら動くことばが「詩」ということになるのかもしれない。「詩」だけではなく、それはあらゆる「文学」に共通しているのだと思う。
 --ここまでは、ほんとうは朝の文章につづけて書くべきことだったかもしれない。



 「何ひとつ書く事はない」と書いた後でも、ことばは動く。「書き手」である「私」は瞬間的に「読み手」にかわり、そこに書かれていることばに刺激を受けるからである。「書き手」は自分の書いたことばにも影響を受けるのである。いや、受けるどころか、自分の書いたことばを読み返しながら、そのとき感じたことを書きつづけるものなのだ。



 「孫三」は、作品のなかにおける「書き手」「読み手」の交錯(交代)について考えさせてくれる。

 孫三という男のことを考える。自分の知らないそんな
男のことを考えることは、ばかげたことだ。

 この書き出しは、谷川の「何ひとつ書く事はない」と重なるものをもっている。孫三という男のことは何も知らない。それが事実だとしたら、その男のことを考えることは、「ばかげた」ことである。無意味なことである。
 だが、それがどんなに「ばかげた」こと、無意味なことであれ、ひとは、それを考えることができる。ことばを続けることができる。

 大体、彼がこの世にいるかどうか、定かでない。だが、
自分には、孫三は、もう何十年も、黒門町とかいう町の
どこかに、確かに、暮らしていなければならない。
 孫三は、気の弱いまじめな男で、長年、小さな煎餅の
店をやっている。毎日、自分で煎餅を焼いて、客がくる
と、それを髪袋に入れて、売って、小銭を貰う。
 生きるために、孫三のできることといえば、それだけ
だ。兎に角、死ぬまで何とか生きること。それだけが、
孫三の願いだったが、それも、容易なことではない。
 孫三には、病気があって、自分の煎餅の店が、本当に
存在するかどうか、いつも疑わしくてならなかった。自
分の焼く煎餅一枚一枚が、本当に、煎餅なのかどうか、
いつも不安だった。そういう病気だった。

 あ、と思う。この詩はたしか孫三という男の子とを考える「自分」から始まっていた。知らない男の、知らないだけではなく、この世にいるかどうかも定かではない男のことを考える「自分」。「語り手」は「自分」であった。
 しかし、その「自分」のことを書いていると、いつの間にか、その孫三が「語り手」になって、かってに孫三自身のことを語りはじめている。しかも、その内容が、自分がつくっている煎餅がほんものかどうか、自分の店がほんものかどうか、疑問になるというないようである。
 これは最初の「書き手」が自分の書いていることがほんものかどうか悩むのとそっくりである。最初の「自分」は、自分の書いていることが、ほんものの孫三についてのことなのかどうかわからない。そういうことを書くこと(考えること)はばかげていると感じている。
 その「自分」の考えのなかで、考えられた孫三は、自分がつくっている煎餅がほんものかどうかわからないというばかげたことを感じている。それを売って、小銭を稼いでいるのに、それがほんものであるかどうかを疑うことほどばかげたことはないだろう。
 だが、どんな考え(ことば)も、それをことばにしたとたんに、それ自身で自立して動いていく。
 ことばは「読み手(聞き手)」だけではなく、「書き手」自身をも裏切ってというか、「書き手」の思いをも超えてかってに動いていくものなのだ。

 そう感じると、彼の町は、いつも暗黒のなかにあって、
全てが、あまりに正確すぎる。だが、この町に住む人々
は、平気で、何でもない顔をして暮らしている。
 孫三は、それが不思議でたまらない。彼らは、ここで
生きていることが、怖くないのだろうか。彼らには、自
分と違う、別の黒門町があるのだろうか。

 ことばは、「書き手」の思いを超えて動いていく。どこまでも逸脱する。この「書き手」の思いを超えること、逸脱することこそ、「自由」だと思う。「書き手」の「自由」ではなく、ことば自身の「自由」。
 ことばが「書き手」から独立して、勝手に動いていくという「自由」を獲得するとき、そこに詩が成立する。
 そして、その逸脱について、この詩ではとてもおもしろいことを語っている。

全てが、あまりに正確すぎる。

 ことばは、逸脱することばは、いつでも「正確」なのだ。間違っていないのだ。いや、「正確」は「間違っていない」を通り越している。間違っているかもしれないが、間違いとは感じられないということだ。それは「独立」しているのだ。何から? 孫三の「思い」から独立して、勝手に成立している。孫三が最初の書き手「自分」から独立して動いているように、孫三の思いも、孫三から独立して勝手に動いている。
 あるものが、他のもの影響を受けずに、勝手に動く「自由」。その「自由」のなかに、いままでどこにも存在しなかった「正確」が生まれ、動いていくのだ。
 それは「怖い」ことかもしれない。
 手のとどかない「自由」、抑制できない「自由」がどこかにあり、それが勝手に動いていく。
 孫三の町がそうであるなら、そこに生きるひとも、それぞれ「自由」で「正確」な町を生きている。
 ことば--ことばをつかって考えるあらゆることは、ことば自身のなかに「正確」をもっている。それは「書き手」とは無関係である。

 もし、そうであるなら。(私は、ここから逸脱する。)

 もしそうであるなら、そこに書かれている「詩」、そのことばを「書き手」の考えていることとは無関係に、私が私なりに動かしてみること(誤読すること)もまた「自由」なのだ。私の自由というより、ことばそのものの「自由」にかかわることなのだ。
 私は、そんなふうに思っているのだ。
 どんなことばも、それを発したひと(書き手、詩人)の思いを反映している。いわば、そのひとの思いに縛られている。それを解き放ち、そこにあることばそのものを動かしてみる。この詩のなかの孫三のように、勝手に生きさせる。孫三がほんとうはどう考えたのか--を書き手とは関係なしに、ことば自身の運動にまかせてみる。
 ことばを「自由」にしてみたくてたまらない。
 そこから始まる何か--それが知りたくて、私は、たぶん、ことばを書いている。

 この世のどこかに、孫三の帳面が残っている。その最
後の頁に、自分は、誰かのできそこないの詩のなかでだ
け、不完全に、淋しく生きていた男だと書いてある。

 この最後の部分は幾通りにも読むことができる。その幾通りもの「読み」は、まあ、誰かにまかせることにして、「不完全に」ということばについてだけ書きたい。
 この「不完全」は「正確すぎる」に呼応している。「正確すぎる」ことが「不完全」なのだ。「自由」であることが「不完全」なのだ。この「自由」であることが「不完全」とは、もちろん逆説である。
 私たちの暮らしている「この世」は何かに縛られ、その規則のなかで成立している。どんなに「自由」であっても、そこにはいくつかの「規制--不自由」がある。そういうものがあること、暮らしを成立させるために、そういう「不自由」を生きることが、この世の「完全」である。
 ことばの「自由」はそういう「完全」とはまっこうから対立するもの、そういう「完全」を破壊してしまうものなのだ。だから、ひとは、そういうものを「不完全」と呼ぶことで、この世を守る。
 あ、これは、「現代詩は難解である」という定義で、この世の日本語を守ろうとするときの「難解」に似ているなあ。


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遠い川
粕谷 栄市
思潮社
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谷川俊太郎、山田馨『ぼくはこうやって詩を書いてきた』

2010-12-01 11:47:18 | 詩集
谷川俊太郎、山田馨『ぼくはこうやって詩を書いてきた』(ナナロク社、2010年07月06日発行)

 谷川俊太郎、山田馨『ぼくはこうやって詩を書いてきた』には「谷川俊太郎、詩と人生を語る」というサブタイトルがついている。サブタイトルどおり、谷川が、いつ、どんな状況でその詩を書き、そのときどんな暮らしをしていたかが語られている。
 私は「誤読」が大好きな人間だ。詩のことばと詩人の人生を結びつけることは、どうも苦手だ。好き勝手に読み、好き勝手に考えたいので、思い出したようにときどきページをめくっている。そして、とてもおもしろいことばに出会った。
 「何ひとつ書く事はない」という有名な1行で始まる「鳥羽」について語っている。(201 ページ)

散文だったらね、「何ひとつ書く事はない」って書いて、その後を書きつないだら嘘になっちゃうんですよ。だけど詩の場合には、「何ひとつ書く事はない」と書いてその後を書いても、成り立つっていうことがあるんだという発見ですね。

 谷川はここで「散文」と「詩」を定義している。
 「散文」は書いたことを踏まえながら事実を積み重ねていく。ひとつの文と次の文の間に「断絶」はない。けれども詩の場合は「断絶」を抱え込んで次の分を続けることができる。--谷川は、そう言っているのだと思う。
 この「散文」の定義は、たしかにそのとおりだと思う。特に森鴎外を読んでいると、谷川の書いている以上の定義はない、という気持ちになる。
 ところが、実際に文章を書いてみると、必ずしもそうではない。
 これは私だけかもしれないが、いま、こうして書いてる文章を「散文」と考えてのことなのだが、「何ひとつ書く事はない」と書いた後でも、私は平気で、その後を書いてしまうのだ。

 谷川の「散文」の「定義」、「詩」の「定義」のあと、何ひとつ書く事はない。書くことはないのだけれど、書きたい。--と、私は書いてしまうのだ。
 すでに鴎外の例を引いた。さらに石川淳のことも書きつづけることができる。石川淳が絶賛した森鴎外の「渋江抽斎」。この日本の散文の最高傑作(と私は信じている)は、渋江抽斎の評伝なのに、渋江抽斎は3分の1くらいのところで死んでしまう。その後は、何も書くことなどないはずなのに、渋江抽斎の家族のことや何かが書き継がれていく。渋江抽斎からどんどん逸脱していく。そして、逸脱すればするほど、その細部に渋江抽斎が見えてくる。とても不思議な散文である。
 私の考えでは、ことばというのは、ただただ逸脱しつづけるものなのだと思う。
 だれでも何か書きたいことがあって書きはじめる。しかし、「起承転結」という構想(?)をもって書きはじめても、なかなか思う通りに行かない。まあ、起承転結という具合にきちんとした形のものを「散文のお手本」というのかもしれないけれど、どうして狙いどおりにはことばが動かない。ずれて行ってしまう。逸脱して行ってしまう。
 その逸脱したもの--それは、いったい何だろう。
 「散文」ではなく、「詩」?
 「詩」と考えれば、「散文」の定義自体は完結する。もう何ひとつ書くことはない。

 けれど。

 鴎外よりもはるかはるか昔のギリシャ。プラトンの書き留めたソクラテス対話篇。これは「散文」の始まりだね。ここから「散文」が始まっているね。(と、私は思っている。)
 そこで語られていることば--それをいちいち具体的には引用していけれど、ソクラテスがあることばを「定義」しようとする。そのために一つずつことばを検証する。ことばを厳密に吟味し(定義し)、その上にことばを積み上げることで「真実」(真理)にたどりつこうとする。
 けれど、たどりつけない。ソクラテスの「定義」にいちいち反論する誰それがいる。そのたびにソクラテスはせっかく積み上げた論理から逸脱して、またことばを組み立てなおす。そこにあるのは構築というよりも脱構築だ。(あれっ、フランス哲学になってしまうなあ。)そして、最後は、この対話をしているひとたちはみんなばかだ、という結論に達する。このひとたちは、たとえば「愛」とは何か、ということをよく知っているのに(そのやりとりを聞けば、よく知っていることがだれにでもわかるのに)、愛とは何か、「わからない」という結論にしかたどりつけないのだから……。

 変でしょ? もしプラトンが書いていることが「散文」であり、ソクラテスの対話が「散文」であるのだとしたら、ことばをひとつひとつ積み上げて、たどりつく果てが「わからない」という結論だとしたら、散文とは「わからない」ということを知るためだけのために苦労してことばを動かすことになってしまう。いったい、人間は何をしている? わけがわからないね。

 で、結論。(?)
 私は、ことばには「散文」も「詩」もない。ただ、それはことばなのだ、と思うことにしている。そして、ことばというのは、ひたすら逸脱していく。文学だけではなく、政治のことば、法律のことばさえも逸脱していく。逸脱しながら、最初の「定義」を修正しつづける。「定義」を叩きこわしては組み立て直し、また叩きこわす。
 きっと、ことばは現実の一面しか表現できないということに原因があるのだと思う。どんなにたくさんことばを費やしてみても、ことばからあふれる現実があり、そのことを誰かが別のことばで言いはじめる。それが「逸脱」だからだ。
 ことばは、終わりようがないのだ。それが「散文」であっても。

 先のことばにつづけて、谷川は、こう言っている。

それで後になって思ったのは、そうか、詩っていうのはそういう自由さがあるんだ、ある意味でインチキなんだけど、とね。

 「詩」の「定義」になっているのか? よくわからない。--というのは、私は、それについてよく考えたい、吟味してみたい、と思っていないということである。(私は、正直でしょ? こんなことを平気で書いてしまうのだから。)
 私は、ここでは谷川の「詩」の「定義」そのものよりも、「自由」ということばにひどくひかれてしまった。
 「自由」。ことばは、いつでも「自由」を求めているのだと思う。
 たとえば「ばら」ということば。それは実際に目の前にある「ばら」と結びつけられて存在させられる。でも、花びらが複数からみあうようにして開き、美しいと感じられるものその花を「ばら」と呼ぶだけでは、何かつまらないね。それで、ひとは「きみの微笑みはばらだ」とかなんとか言ってしまう。微笑みは顔の表情であって、もちろんばらではない。でも、その微笑みをばらと呼んだ後、きみのなかのばらは枯れてしまった、散ってしまった、いまは棘があるだけだ--なんて言ったりもする。
 これ「きみの微笑みをばらだ」という具合に言うこと、つまり、事実から逸脱してことばを動かすということがないかぎりありえなかったことばの運動だね。そして、そのへんてこなことばの動き(谷川の表現を借りれば「インチキ」)があって、初めて見えてくるものがある。
 その初めて見えてくるものは、そんなふうにことばを動かさない限りみえてこなかったもの。つまり--、それはことばが作り上げた何かだね。
 ことばは、そんなふうにして、何かを作り上げる「自由」をもっている。何かを「自由」に作り上げたがっている。

 「自由」であればあるほど、それはきっと「文学」のことばなんだと思う。「逸脱」が「自由」であることの証拠なのだと思う。瞬間的な逸脱ではなく、持続する逸脱、わざとおこなわれる逸脱が文学なのだと思う。
 そして、そのとき、「散文」「詩」という区別はないのではないか。ことばの「自由」が「散文」と「詩」の境界線を消してしまうのではないか、と思う。

 あ、なんだか、書いていることがほんとうに「逸脱」してしまったかな?
 強引に最初のことばにもどると(ちょっと、結論?を書いてみると--さっきも結論と書いたから、これは二つ目の結論になるのかな?)……。谷川のことばに、私のことばを接ぎ木してみようかな。

 散文だったらね、「何ひとつ書く事はない」って書いて、その後を書きつないだら嘘になっちゃうんですよ。だけど、その嘘をずーっとつづけていったら、嘘のなかから、嘘でしか言えない何かが「ほんとう」になって、あらわれてきちゃうんですよ。ことばっていうのは、そういう変なことができるんですよ。ある意味でインチキなんだけれど、ね。

 「ある意味でインチキ」ということは、「別の意味とではインチキではない」ということになるね、きっと。で、その「インチキではない」って何かというとき「自由」の問題があらわれるのだと思う。

 (あ、『ぼくはこうやって詩を書いてきた』の全体と、私がきょう書いたことはほとんど関係がありません。私は、ほんの数行だけを取り上げ、そこからどれだけ逸脱していけるか--その「自由」を楽しんでみただけです。私の感想、私の「誤読」はいつでも、そういうものなのだけれど。念のため。)

ぼくはこうやって詩を書いてきた 谷川俊太郎、詩と人生を語る
谷川 俊太郎,山田 馨
ナナロク社


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誰も書かなかった西脇順三郎(154 )

2010-12-01 11:11:11 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(154 )

 「失われたとき」のつづき。

ああほそ長い顔をして
なでしこを一本もつ男は
いまどこにいるだろうか
灰色の海の中へプッ プッ
ほし葡萄の種子をまいている男は
翻訳者の曲つたペンは
永遠に人間の肝臓をつきさしている

 たとえば、この部分の、「なでしこを一本もつ男は」の「一本」とは何だろうか。もちろん意味的には「茎」の一本である。それはわかるが、日本語では花を数えるとき「一本」とはふつうは言わない。「一輪」「二輪」と数える。西脇の数え方は違う。
 そして、何気なく読んでしまっているのだが、それが「灰色の海の中へプッ プッ」という行にきたとき、ふいになつかしく響いてくる。「いっぽん」「プッ」「いっぽん」「プッ プッ」と。あ、あの「一本」は「プッ プッ」という音のための「補助線」だったんだなあ。
 そういう音のつながりに気がつくと、全体がちがってみえてくる。
 「いっぽん(と、あえてひらがなで書いておく)」「プッ プッ」「ペン」とここにはぱひぷぺぽへつながる音がばらまかれている。
 それから「ほそ」長い、「ほし」葡萄、「ほ」ん訳家という「ほ」の響きがある。そして「いまどこにいる」と「まいている」の音の不思議な交錯もある。
 もし翻訳家のペンが「曲つ」ていなかったら、つまり「曲つた」がなかったら、そいペンは、はたして「人間」の「肝臓」をつきさしたかどうかわからない。「まがつた」のなかにある「か(が)行」「っ」という短い音、濁音があるからこそ「にんげんのかんぞう」というスピードがあってか行が響き、濁音も響くという行が自然に呼び込まれるのだと思う。
 ことばには「意味」があり、その「意味」が呼びあうということはもちろん自然なことなのだが、他方に「意味」とは関係なしに、音が音を呼びあうということがある。ことばは、何かしら独自の自律性をもって動いているのである。
 この音の自律性(?)から、いくつもの「外国語」は生まれた--というと、おおげさな仮説になるが、私はなんとなく、そう感じている。「意味」は同じなのに「音」が違うのは、「意味」をつたえるだけでは満足できなくて、ことばの「音」そのものが何かしらのことを伝えようとして変化したにちがいないと感じるのである。
 フランス語、イタリア語、スペイン語--そこには、何か「意味」と同時に「音」の類似性がある。音のイメージは、そういうひとつの「語圏」を超えて、隣接するドイツ語、英語にも響いていく。「黒」という意味の「ノワール」「ネグロ」「ニニグロ」という音には何か深みがあるそして、そこから「黒い」だけではなく「豊かな」という印象もあらわれてくる、という感じである。
 外国語同士でさえそうなのだから、同じ日本語同士なら門といろいろ響きあうにちがいないと思う。

 もちろん西脇のことばには、「意味」、あるいは「視覚」の響きあいもある。「ほし葡萄の種子をまいている男は」は、先に引用した部分に先立って、

死は種子をつづけるだけである

という1行をもっている。「種子」がそっくり繰り返されている。



あざみの衣 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)
西脇 順三郎
講談社


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