粕谷栄市『遠い 川』(12)(思潮社、2010年10月30日発行)
谷川俊太郎は、『ぼくはこうやって詩を書いてきた』のなかで、
と語っていた。「嘘」になるのか、それとも「嘘」にならずに「成り立つ」のか(文学として成り立つという意味だろう)は別にして、「何ひとつ書く事はない」と書いた後でもことばは動く。
それは、どうしてだろう。
書き手が瞬間的に読み手(聞き手)に変わるからではないだろうか。
「何ひとつ書く事はない」と書いたひとには、たしかに「書く事」はないかもしれない。けれど、それを読んだひと(聞いたひと)はそのことばに反応して何か言いたくなる。そのことばに刺激を受けて、あれこれと考えはじめる。
具体的に言えば、たとえば今朝の私の日記は、谷川の「何ひとつ書く事はない」から始まる文章に対して私が考えたこと、谷川のことばにふれた瞬間に動いた私のことばをそのまま書いたものだが、そういうことがあらゆる瞬間に起きる。(それが「何ひとつ書く事はない」であろうと、その他のどんなことばであろうと同じである。)そして、それは書き進めば書き進むほど、そういうことが起きはじめる。
いま書いたことに対して、それを私自身が読み手として反応して、次々に逸脱していく。そういうことが起きる。書き手とはいつでも読み手になりながら、新たにことばを書き進めるものなのだ。
だから「何ひとつ書く事はない」と書いた後でも次々にことばは動くのだ。というより、「何ひとつ書く事はない」と書かないことには動いていかないことばというものもあるのだ。谷川の「鳥羽」はそういうものだろうと思う。「詩」だから「何ひとつ書く事はない」と書いた後に何かを書いても文学として「成り立つ」のではなく、「何ひとつ書く事はない」と書かないことには動きはじめないことばが「詩」を「成り立たせる」のだ。あるいは、前に書かれたことばを突き破りながら動いてしまうことば、前のことばを否定しながら動くことばが「詩」ということになるのかもしれない。「詩」だけではなく、それはあらゆる「文学」に共通しているのだと思う。
--ここまでは、ほんとうは朝の文章につづけて書くべきことだったかもしれない。
*
「何ひとつ書く事はない」と書いた後でも、ことばは動く。「書き手」である「私」は瞬間的に「読み手」にかわり、そこに書かれていることばに刺激を受けるからである。「書き手」は自分の書いたことばにも影響を受けるのである。いや、受けるどころか、自分の書いたことばを読み返しながら、そのとき感じたことを書きつづけるものなのだ。
*
「孫三」は、作品のなかにおける「書き手」「読み手」の交錯(交代)について考えさせてくれる。
この書き出しは、谷川の「何ひとつ書く事はない」と重なるものをもっている。孫三という男のことは何も知らない。それが事実だとしたら、その男のことを考えることは、「ばかげた」ことである。無意味なことである。
だが、それがどんなに「ばかげた」こと、無意味なことであれ、ひとは、それを考えることができる。ことばを続けることができる。
あ、と思う。この詩はたしか孫三という男の子とを考える「自分」から始まっていた。知らない男の、知らないだけではなく、この世にいるかどうかも定かではない男のことを考える「自分」。「語り手」は「自分」であった。
しかし、その「自分」のことを書いていると、いつの間にか、その孫三が「語り手」になって、かってに孫三自身のことを語りはじめている。しかも、その内容が、自分がつくっている煎餅がほんものかどうか、自分の店がほんものかどうか、疑問になるというないようである。
これは最初の「書き手」が自分の書いていることがほんものかどうか悩むのとそっくりである。最初の「自分」は、自分の書いていることが、ほんものの孫三についてのことなのかどうかわからない。そういうことを書くこと(考えること)はばかげていると感じている。
その「自分」の考えのなかで、考えられた孫三は、自分がつくっている煎餅がほんものかどうかわからないというばかげたことを感じている。それを売って、小銭を稼いでいるのに、それがほんものであるかどうかを疑うことほどばかげたことはないだろう。
だが、どんな考え(ことば)も、それをことばにしたとたんに、それ自身で自立して動いていく。
ことばは「読み手(聞き手)」だけではなく、「書き手」自身をも裏切ってというか、「書き手」の思いをも超えてかってに動いていくものなのだ。
ことばは、「書き手」の思いを超えて動いていく。どこまでも逸脱する。この「書き手」の思いを超えること、逸脱することこそ、「自由」だと思う。「書き手」の「自由」ではなく、ことば自身の「自由」。
ことばが「書き手」から独立して、勝手に動いていくという「自由」を獲得するとき、そこに詩が成立する。
そして、その逸脱について、この詩ではとてもおもしろいことを語っている。
ことばは、逸脱することばは、いつでも「正確」なのだ。間違っていないのだ。いや、「正確」は「間違っていない」を通り越している。間違っているかもしれないが、間違いとは感じられないということだ。それは「独立」しているのだ。何から? 孫三の「思い」から独立して、勝手に成立している。孫三が最初の書き手「自分」から独立して動いているように、孫三の思いも、孫三から独立して勝手に動いている。
あるものが、他のもの影響を受けずに、勝手に動く「自由」。その「自由」のなかに、いままでどこにも存在しなかった「正確」が生まれ、動いていくのだ。
それは「怖い」ことかもしれない。
手のとどかない「自由」、抑制できない「自由」がどこかにあり、それが勝手に動いていく。
孫三の町がそうであるなら、そこに生きるひとも、それぞれ「自由」で「正確」な町を生きている。
ことば--ことばをつかって考えるあらゆることは、ことば自身のなかに「正確」をもっている。それは「書き手」とは無関係である。
もし、そうであるなら。(私は、ここから逸脱する。)
もしそうであるなら、そこに書かれている「詩」、そのことばを「書き手」の考えていることとは無関係に、私が私なりに動かしてみること(誤読すること)もまた「自由」なのだ。私の自由というより、ことばそのものの「自由」にかかわることなのだ。
私は、そんなふうに思っているのだ。
どんなことばも、それを発したひと(書き手、詩人)の思いを反映している。いわば、そのひとの思いに縛られている。それを解き放ち、そこにあることばそのものを動かしてみる。この詩のなかの孫三のように、勝手に生きさせる。孫三がほんとうはどう考えたのか--を書き手とは関係なしに、ことば自身の運動にまかせてみる。
ことばを「自由」にしてみたくてたまらない。
そこから始まる何か--それが知りたくて、私は、たぶん、ことばを書いている。
この最後の部分は幾通りにも読むことができる。その幾通りもの「読み」は、まあ、誰かにまかせることにして、「不完全に」ということばについてだけ書きたい。
この「不完全」は「正確すぎる」に呼応している。「正確すぎる」ことが「不完全」なのだ。「自由」であることが「不完全」なのだ。この「自由」であることが「不完全」とは、もちろん逆説である。
私たちの暮らしている「この世」は何かに縛られ、その規則のなかで成立している。どんなに「自由」であっても、そこにはいくつかの「規制--不自由」がある。そういうものがあること、暮らしを成立させるために、そういう「不自由」を生きることが、この世の「完全」である。
ことばの「自由」はそういう「完全」とはまっこうから対立するもの、そういう「完全」を破壊してしまうものなのだ。だから、ひとは、そういうものを「不完全」と呼ぶことで、この世を守る。
あ、これは、「現代詩は難解である」という定義で、この世の日本語を守ろうとするときの「難解」に似ているなあ。

谷川俊太郎は、『ぼくはこうやって詩を書いてきた』のなかで、
散文だったらね、「何ひとつ書く事はない」って書いて、その後を書きつないだら嘘になっちゃうんですよ。だけど詩の場合には、「何ひとつ書く事はない」と書いてその後を書いても、成り立つっていうことがあるんだという発見ですね。
と語っていた。「嘘」になるのか、それとも「嘘」にならずに「成り立つ」のか(文学として成り立つという意味だろう)は別にして、「何ひとつ書く事はない」と書いた後でもことばは動く。
それは、どうしてだろう。
書き手が瞬間的に読み手(聞き手)に変わるからではないだろうか。
「何ひとつ書く事はない」と書いたひとには、たしかに「書く事」はないかもしれない。けれど、それを読んだひと(聞いたひと)はそのことばに反応して何か言いたくなる。そのことばに刺激を受けて、あれこれと考えはじめる。
具体的に言えば、たとえば今朝の私の日記は、谷川の「何ひとつ書く事はない」から始まる文章に対して私が考えたこと、谷川のことばにふれた瞬間に動いた私のことばをそのまま書いたものだが、そういうことがあらゆる瞬間に起きる。(それが「何ひとつ書く事はない」であろうと、その他のどんなことばであろうと同じである。)そして、それは書き進めば書き進むほど、そういうことが起きはじめる。
いま書いたことに対して、それを私自身が読み手として反応して、次々に逸脱していく。そういうことが起きる。書き手とはいつでも読み手になりながら、新たにことばを書き進めるものなのだ。
だから「何ひとつ書く事はない」と書いた後でも次々にことばは動くのだ。というより、「何ひとつ書く事はない」と書かないことには動いていかないことばというものもあるのだ。谷川の「鳥羽」はそういうものだろうと思う。「詩」だから「何ひとつ書く事はない」と書いた後に何かを書いても文学として「成り立つ」のではなく、「何ひとつ書く事はない」と書かないことには動きはじめないことばが「詩」を「成り立たせる」のだ。あるいは、前に書かれたことばを突き破りながら動いてしまうことば、前のことばを否定しながら動くことばが「詩」ということになるのかもしれない。「詩」だけではなく、それはあらゆる「文学」に共通しているのだと思う。
--ここまでは、ほんとうは朝の文章につづけて書くべきことだったかもしれない。
*
「何ひとつ書く事はない」と書いた後でも、ことばは動く。「書き手」である「私」は瞬間的に「読み手」にかわり、そこに書かれていることばに刺激を受けるからである。「書き手」は自分の書いたことばにも影響を受けるのである。いや、受けるどころか、自分の書いたことばを読み返しながら、そのとき感じたことを書きつづけるものなのだ。
*
「孫三」は、作品のなかにおける「書き手」「読み手」の交錯(交代)について考えさせてくれる。
孫三という男のことを考える。自分の知らないそんな
男のことを考えることは、ばかげたことだ。
この書き出しは、谷川の「何ひとつ書く事はない」と重なるものをもっている。孫三という男のことは何も知らない。それが事実だとしたら、その男のことを考えることは、「ばかげた」ことである。無意味なことである。
だが、それがどんなに「ばかげた」こと、無意味なことであれ、ひとは、それを考えることができる。ことばを続けることができる。
大体、彼がこの世にいるかどうか、定かでない。だが、
自分には、孫三は、もう何十年も、黒門町とかいう町の
どこかに、確かに、暮らしていなければならない。
孫三は、気の弱いまじめな男で、長年、小さな煎餅の
店をやっている。毎日、自分で煎餅を焼いて、客がくる
と、それを髪袋に入れて、売って、小銭を貰う。
生きるために、孫三のできることといえば、それだけ
だ。兎に角、死ぬまで何とか生きること。それだけが、
孫三の願いだったが、それも、容易なことではない。
孫三には、病気があって、自分の煎餅の店が、本当に
存在するかどうか、いつも疑わしくてならなかった。自
分の焼く煎餅一枚一枚が、本当に、煎餅なのかどうか、
いつも不安だった。そういう病気だった。
あ、と思う。この詩はたしか孫三という男の子とを考える「自分」から始まっていた。知らない男の、知らないだけではなく、この世にいるかどうかも定かではない男のことを考える「自分」。「語り手」は「自分」であった。
しかし、その「自分」のことを書いていると、いつの間にか、その孫三が「語り手」になって、かってに孫三自身のことを語りはじめている。しかも、その内容が、自分がつくっている煎餅がほんものかどうか、自分の店がほんものかどうか、疑問になるというないようである。
これは最初の「書き手」が自分の書いていることがほんものかどうか悩むのとそっくりである。最初の「自分」は、自分の書いていることが、ほんものの孫三についてのことなのかどうかわからない。そういうことを書くこと(考えること)はばかげていると感じている。
その「自分」の考えのなかで、考えられた孫三は、自分がつくっている煎餅がほんものかどうかわからないというばかげたことを感じている。それを売って、小銭を稼いでいるのに、それがほんものであるかどうかを疑うことほどばかげたことはないだろう。
だが、どんな考え(ことば)も、それをことばにしたとたんに、それ自身で自立して動いていく。
ことばは「読み手(聞き手)」だけではなく、「書き手」自身をも裏切ってというか、「書き手」の思いをも超えてかってに動いていくものなのだ。
そう感じると、彼の町は、いつも暗黒のなかにあって、
全てが、あまりに正確すぎる。だが、この町に住む人々
は、平気で、何でもない顔をして暮らしている。
孫三は、それが不思議でたまらない。彼らは、ここで
生きていることが、怖くないのだろうか。彼らには、自
分と違う、別の黒門町があるのだろうか。
ことばは、「書き手」の思いを超えて動いていく。どこまでも逸脱する。この「書き手」の思いを超えること、逸脱することこそ、「自由」だと思う。「書き手」の「自由」ではなく、ことば自身の「自由」。
ことばが「書き手」から独立して、勝手に動いていくという「自由」を獲得するとき、そこに詩が成立する。
そして、その逸脱について、この詩ではとてもおもしろいことを語っている。
全てが、あまりに正確すぎる。
ことばは、逸脱することばは、いつでも「正確」なのだ。間違っていないのだ。いや、「正確」は「間違っていない」を通り越している。間違っているかもしれないが、間違いとは感じられないということだ。それは「独立」しているのだ。何から? 孫三の「思い」から独立して、勝手に成立している。孫三が最初の書き手「自分」から独立して動いているように、孫三の思いも、孫三から独立して勝手に動いている。
あるものが、他のもの影響を受けずに、勝手に動く「自由」。その「自由」のなかに、いままでどこにも存在しなかった「正確」が生まれ、動いていくのだ。
それは「怖い」ことかもしれない。
手のとどかない「自由」、抑制できない「自由」がどこかにあり、それが勝手に動いていく。
孫三の町がそうであるなら、そこに生きるひとも、それぞれ「自由」で「正確」な町を生きている。
ことば--ことばをつかって考えるあらゆることは、ことば自身のなかに「正確」をもっている。それは「書き手」とは無関係である。
もし、そうであるなら。(私は、ここから逸脱する。)
もしそうであるなら、そこに書かれている「詩」、そのことばを「書き手」の考えていることとは無関係に、私が私なりに動かしてみること(誤読すること)もまた「自由」なのだ。私の自由というより、ことばそのものの「自由」にかかわることなのだ。
私は、そんなふうに思っているのだ。
どんなことばも、それを発したひと(書き手、詩人)の思いを反映している。いわば、そのひとの思いに縛られている。それを解き放ち、そこにあることばそのものを動かしてみる。この詩のなかの孫三のように、勝手に生きさせる。孫三がほんとうはどう考えたのか--を書き手とは関係なしに、ことば自身の運動にまかせてみる。
ことばを「自由」にしてみたくてたまらない。
そこから始まる何か--それが知りたくて、私は、たぶん、ことばを書いている。
この世のどこかに、孫三の帳面が残っている。その最
後の頁に、自分は、誰かのできそこないの詩のなかでだ
け、不完全に、淋しく生きていた男だと書いてある。
この最後の部分は幾通りにも読むことができる。その幾通りもの「読み」は、まあ、誰かにまかせることにして、「不完全に」ということばについてだけ書きたい。
この「不完全」は「正確すぎる」に呼応している。「正確すぎる」ことが「不完全」なのだ。「自由」であることが「不完全」なのだ。この「自由」であることが「不完全」とは、もちろん逆説である。
私たちの暮らしている「この世」は何かに縛られ、その規則のなかで成立している。どんなに「自由」であっても、そこにはいくつかの「規制--不自由」がある。そういうものがあること、暮らしを成立させるために、そういう「不自由」を生きることが、この世の「完全」である。
ことばの「自由」はそういう「完全」とはまっこうから対立するもの、そういう「完全」を破壊してしまうものなのだ。だから、ひとは、そういうものを「不完全」と呼ぶことで、この世を守る。
あ、これは、「現代詩は難解である」という定義で、この世の日本語を守ろうとするときの「難解」に似ているなあ。

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