粕谷栄市『遠い 川』(13)(思潮社、2010年10月30日発行)
「夢」とは何か。「境界」とは何か。「越境」とは何か。同じことを私は書いているのかもしれない。同じように見えてまったく違うことを書いているのかもしれない。まったく違っているからといって、そこに何か通い合うものがないかというと、そんなことはなく、どこかでつながっているかもしれない。--と、私はまたとりとめもなく書いてしまうのだが……。
「青芒抄」。
この書き出しの「永く」は「長く」ではない。「永さ」時間の問題ではなく、充実の問題である。「永い」という意識が「淋しい」を立ちあらわさせる。
これは、すでに見慣れた光景である。--というと語弊があるかもしれないが、粕谷がこの詩集で書いているのは、「永さ」の意識と、その「永さ」を否定するような「いま」との対峙である。「永さ」と「いま」を越境して動くものを粕谷は書きつづけている。
この詩も同じものだといえるかもしれないが、後半、いつもとは違うものがあらわれる。淋しい淋しいと繰り返し、にぎり飯を食って、女を思い出していることにかわりはないのだが……。
井戸のあたりの水の音--というのは、男の幻が投身した音かもしれない。井戸に身を投げて死んでしまう男の幻の音かもしれない。
と、感じている間は、これまでの詩と非常に通じ合う。
けれど、違った幻が、ふいにあらわれる。
井戸に身を投げたのは女なのだ。そして、その女はなぜ身を投げたかというと、女が死んでしまうと(女がいなくなる、というのは死ぬということだと思うのだが)、男がにぎりめしを食いながら淋しい淋しいと繰り返しているばかりで何もしない。そんなことを思うと、とても淋しい。そして、その淋しさに耐えられずに、女は身を投げたのだ。
そんなことをすれば、男の淋しさが現実になるだけで、何の救いにもならない。男のことを思うなら、身を投げずに男と少しでも長く生きればいいのに--というのは、論理的かもしれないが、ひとは、論理的には行動できないものなのだ。
いや、そうではなく--つまり、女は井戸に身を投げて死んだのではなく、それは男が想像したことなのだ。女が死んでしまったら、男が淋しい淋しいといいながらにぎりめしを食っているにちがいないと女は想像し、その想像に耐えられずに身を投げたのだと、男が想像したのだ。
書いていると、男の想像と女の想像がいりまじり、これではいったいどの想像が男の想像で、どこからが女の想像なのか、きっとこの文章を読んでいるひとにはわからなくなるなあ--と思いながら、私は書いているのだが……。
この区別のなさ、瞬時の、主体の入れ代わり、男と女の、相互の越境。越境し合うことで「ひとつ」になる男と女。そういうことを、私は感じるのだ。
「夢」は「日常を超えてやってくる、特別な時間」とは「砂丘」のなかの「定義」だが、「越境」というのは一方的にやってくるのではない。夢が日常を超えてやってくる時間であるとき、その夢をみるひとは日常を超えて「永遠」へ行ってしまうのだ。そして、それは逆もまた同じようなことが起きるのだ。日常を超えてどこかへ(永遠へ?)行ってしまうとき、永遠の方から「夢」がやってくるのだ。
「青芒抄」の男が井戸に身を投げるという一瞬の姿を想像するとき--つまり、淋しいといいながらにぎりめしを食うという日常から一瞬離脱するとき、その瞬間へ向けて、永遠から夢がやってくる。身を投げたのは男ではない。女が身を投げた。女は、そうやって死んだのだ、男のことを思いながら死んだのだ、という「夢」がやってくる。
そのとき、男と女は「淋しさ」のなかで固く結ばれるのだ。「淋しさ」がそのとき、「永遠」になるのだ。
このことばを粕谷はどれくらい意識して書いているかわからない。おそらく意識などしていない。無意識に書いていると思うのだが、無意識だからこそ、そこに「淋しさ」と「永遠」が「夢」として結びついている。
「淋しいことには、終わりがない」のではなく、「淋しさ」は「永遠」なのだ。
『遠い 川』という詩集は、全体が「淋しさ」に満ちているが、それは「永遠」という時間に満ちているということなのだ。
書く順序が逆になったかもしれないが……。
この詩では「ぼんやり(している)」ということばが印象に残った。「だが、その日、おれにできたのは、にぎりめしを食って、ぼんやりしていることだけだった。」
「ぼんやり」とは「放心」。こころの垣根をとりはらって、こころをどこまでもどこまでも解放する。解放するという意識もなく、ほどけていくにまかせている。
そういうときに「夢」はやってくる。「おれ」が日常の暮らしを忘れて、どこかへ彷徨い歩くとき、反対側から「夢」が彷徨い歩いてきて、「おれ」をつつんでしまう。
「ぼんやり」することが、「夢」を結晶させるのだ。
もうひとつ。
最後に出てくる「赤い櫛」の「赤」。これは鮮烈だ。「青芒」の「青」、そして書かれていないが「にぎりめし」の「白」--その三つの色が、とても印象に残る。
さらに、もうひとこと。
この3行を読んだとき、あ、「おれ」が食ったのは「にぎりめし」ではなく「赤い櫛」なのではないのか、という「幻」が私をかすめたのである。
女の形見の赤い櫛。男はそれを愛撫しながら女との「永い」暮らしを思い返している。そのうちに、いとおしくて、愛撫だけではおわらず、なめたりする。なめているうちに、かみついて、食べてしまう。食べることで「女」を「おれ」の「肉体」の内部に取り込んでしまう。
そして。
男はやっぱり井戸に身を投げるのである。男は自分の身を投げながら、女の身も投げる。女は、赤い櫛。それは、いま、男の「肉体」のなかにあるのだから、男のからだと「ひとつ」なのだから、男が身を投げることは女が身を投げることと同じなのだ。いや、それ以上だ。ふたりは一緒に身を投げるのだ。
そのとき「永く」のキーワードが「一緒」であることがわかる。「永く、一緒に暮らした」と粕谷は書いているが、「一緒」でなければ、「永く」という感じは生まれない。
この「永く」と「一緒」の関係から、「一緒」がなくなると、つまり、「ふたり」ではなく「ひとり」になると「淋しい」が生まれてくる。「永く」はなんといえばいいのだろうか、横に広がる充実だとすると、この「淋しい」は横の広がりを欠いた垂直の屹立である。その屹立した「淋しさ」を同じく屹立した「淋しさ」と結びつくことを夢見る。(井戸に身を投げるという垂直の運動が暗示的だ。)そして、それが結びついたとき「永遠」があらわれる。
「夢」とは何か。「境界」とは何か。「越境」とは何か。同じことを私は書いているのかもしれない。同じように見えてまったく違うことを書いているのかもしれない。まったく違っているからといって、そこに何か通い合うものがないかというと、そんなことはなく、どこかでつながっているかもしれない。--と、私はまたとりとめもなく書いてしまうのだが……。
「青芒抄」。
その日、とても淋しかったので、おれは、にぎりめし
を食った。何が淋しいといって、永く、一緒に暮らした
女がいなくなってしまうことほど、淋しいことはない。
この書き出しの「永く」は「長く」ではない。「永さ」時間の問題ではなく、充実の問題である。「永い」という意識が「淋しい」を立ちあらわさせる。
これは、すでに見慣れた光景である。--というと語弊があるかもしれないが、粕谷がこの詩集で書いているのは、「永さ」の意識と、その「永さ」を否定するような「いま」との対峙である。「永さ」と「いま」を越境して動くものを粕谷は書きつづけている。
この詩も同じものだといえるかもしれないが、後半、いつもとは違うものがあらわれる。淋しい淋しいと繰り返し、にぎり飯を食って、女を思い出していることにかわりはないのだが……。
おれは、よろよろと立ち上がって、外へでて、この淋
しい家の井戸に入って、死んでもよかったかもしれない。
だが、その日、おれにできたのは、にぎりめしを食っ
て、ぼんやりしていることだけだった。蜩の声も、いつ
か、聞こえなくなって、青芒に細かい雨が降り始めた。
真に、淋しいことには、終わりがないはずだが、その
夕べ、井戸のあたりで、思いがけない水の音がしたよう
だったが、本当は、何だったのだろう。
たぶん、一切は、どこかの未練な男の、でたらめな夢
の一生のでたらめな明け暮れのできごとだったのだ。
その家の縁側には、にぎりめしのかわりに、赤い櫛が、
一枚、残されていたが、そのまま、宵闇に消えていった
らしいのである。
井戸のあたりの水の音--というのは、男の幻が投身した音かもしれない。井戸に身を投げて死んでしまう男の幻の音かもしれない。
と、感じている間は、これまでの詩と非常に通じ合う。
けれど、違った幻が、ふいにあらわれる。
井戸に身を投げたのは女なのだ。そして、その女はなぜ身を投げたかというと、女が死んでしまうと(女がいなくなる、というのは死ぬということだと思うのだが)、男がにぎりめしを食いながら淋しい淋しいと繰り返しているばかりで何もしない。そんなことを思うと、とても淋しい。そして、その淋しさに耐えられずに、女は身を投げたのだ。
そんなことをすれば、男の淋しさが現実になるだけで、何の救いにもならない。男のことを思うなら、身を投げずに男と少しでも長く生きればいいのに--というのは、論理的かもしれないが、ひとは、論理的には行動できないものなのだ。
いや、そうではなく--つまり、女は井戸に身を投げて死んだのではなく、それは男が想像したことなのだ。女が死んでしまったら、男が淋しい淋しいといいながらにぎりめしを食っているにちがいないと女は想像し、その想像に耐えられずに身を投げたのだと、男が想像したのだ。
書いていると、男の想像と女の想像がいりまじり、これではいったいどの想像が男の想像で、どこからが女の想像なのか、きっとこの文章を読んでいるひとにはわからなくなるなあ--と思いながら、私は書いているのだが……。
この区別のなさ、瞬時の、主体の入れ代わり、男と女の、相互の越境。越境し合うことで「ひとつ」になる男と女。そういうことを、私は感じるのだ。
「夢」は「日常を超えてやってくる、特別な時間」とは「砂丘」のなかの「定義」だが、「越境」というのは一方的にやってくるのではない。夢が日常を超えてやってくる時間であるとき、その夢をみるひとは日常を超えて「永遠」へ行ってしまうのだ。そして、それは逆もまた同じようなことが起きるのだ。日常を超えてどこかへ(永遠へ?)行ってしまうとき、永遠の方から「夢」がやってくるのだ。
「青芒抄」の男が井戸に身を投げるという一瞬の姿を想像するとき--つまり、淋しいといいながらにぎりめしを食うという日常から一瞬離脱するとき、その瞬間へ向けて、永遠から夢がやってくる。身を投げたのは男ではない。女が身を投げた。女は、そうやって死んだのだ、男のことを思いながら死んだのだ、という「夢」がやってくる。
そのとき、男と女は「淋しさ」のなかで固く結ばれるのだ。「淋しさ」がそのとき、「永遠」になるのだ。
真に、淋しいことには、終わりがないはずだが、
このことばを粕谷はどれくらい意識して書いているかわからない。おそらく意識などしていない。無意識に書いていると思うのだが、無意識だからこそ、そこに「淋しさ」と「永遠」が「夢」として結びついている。
「淋しいことには、終わりがない」のではなく、「淋しさ」は「永遠」なのだ。
『遠い 川』という詩集は、全体が「淋しさ」に満ちているが、それは「永遠」という時間に満ちているということなのだ。
書く順序が逆になったかもしれないが……。
この詩では「ぼんやり(している)」ということばが印象に残った。「だが、その日、おれにできたのは、にぎりめしを食って、ぼんやりしていることだけだった。」
「ぼんやり」とは「放心」。こころの垣根をとりはらって、こころをどこまでもどこまでも解放する。解放するという意識もなく、ほどけていくにまかせている。
そういうときに「夢」はやってくる。「おれ」が日常の暮らしを忘れて、どこかへ彷徨い歩くとき、反対側から「夢」が彷徨い歩いてきて、「おれ」をつつんでしまう。
「ぼんやり」することが、「夢」を結晶させるのだ。
もうひとつ。
最後に出てくる「赤い櫛」の「赤」。これは鮮烈だ。「青芒」の「青」、そして書かれていないが「にぎりめし」の「白」--その三つの色が、とても印象に残る。
さらに、もうひとこと。
その家の縁側には、にぎりめしのかわりに、赤い櫛が、
一枚、残されていたが、そのまま、宵闇に消えていった
らしいのである。
この3行を読んだとき、あ、「おれ」が食ったのは「にぎりめし」ではなく「赤い櫛」なのではないのか、という「幻」が私をかすめたのである。
女の形見の赤い櫛。男はそれを愛撫しながら女との「永い」暮らしを思い返している。そのうちに、いとおしくて、愛撫だけではおわらず、なめたりする。なめているうちに、かみついて、食べてしまう。食べることで「女」を「おれ」の「肉体」の内部に取り込んでしまう。
そして。
男はやっぱり井戸に身を投げるのである。男は自分の身を投げながら、女の身も投げる。女は、赤い櫛。それは、いま、男の「肉体」のなかにあるのだから、男のからだと「ひとつ」なのだから、男が身を投げることは女が身を投げることと同じなのだ。いや、それ以上だ。ふたりは一緒に身を投げるのだ。
そのとき「永く」のキーワードが「一緒」であることがわかる。「永く、一緒に暮らした」と粕谷は書いているが、「一緒」でなければ、「永く」という感じは生まれない。
この「永く」と「一緒」の関係から、「一緒」がなくなると、つまり、「ふたり」ではなく「ひとり」になると「淋しい」が生まれてくる。「永く」はなんといえばいいのだろうか、横に広がる充実だとすると、この「淋しい」は横の広がりを欠いた垂直の屹立である。その屹立した「淋しさ」を同じく屹立した「淋しさ」と結びつくことを夢見る。(井戸に身を投げるという垂直の運動が暗示的だ。)そして、それが結びついたとき「永遠」があらわれる。
続・粕谷栄市詩集 (現代詩文庫) | |
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