金時鐘「錆びる風景」(「現代詩手帖」2010年12月号)
金時鐘「錆びる風景」を読む前に、私は伊藤比呂美「新訳『般若心経』」を読んだ。きのうの「日記」に感想を書いた。これは、私にとってはとてもいいことだった。金の作品を先に読んでいたら、きっと読みとばしていたと思う。感想を書かずにいたことだろうと思う。
この詩は不思議な詩でタイトルは「錆びる風景」であり、実際に「柿の実」のある風景の描写ではじまるのだが、書かれていることがだんだん「風景」ではなくなっていく。「主題」が「風景」から「時」へ、そして「時」の連続である「時間」へと変わっていく。 2連目。
「風景」が「時(時間)」にかわるにしたがって、「声」が浮かび上がってくる。
1連目には「叫び」があった。2連目では、「叫び」の対極にある「黙っている」ということばがある。
「風景」は、それぞれに「声」を持っている。「声」はあるときは「叫び」、あるときは「黙っている」。そして、その「叫び」も「沈黙」も、金のことばによって、いま、ここで「叫び」に「なる」。「沈黙」に「なる」。それは、金のことばが存在させた「こと」なのだ。
そのとき、「ことば」とは「時間」にほかならない。「ことば」がなければ「叫び」も「沈黙」も存在することはできず、その結果として「時間」も存在することはできないからである。
「ことば」は金が目撃している「こと」と金の肉体の共鳴なのだ。共鳴して「ひとつの声」に「なる」。「声」のなかに、「時間」がある。「声」が「時間」に「なる」。そうすることで「時間」が「ある」。
私はここで立ち止まる。「誤読」の誘惑にかられる。「誤読」してしまう。
「慣れていない」を「成れていない」、まだ「なってはいない」と読みたいのだ。「風景」とは「事物」というより「もの」のある姿だろう。そこには「事(こと)」はない。「こと」はあるかもしれないが、「こと」がなくても「風景」と呼ばれるかもしれない。けれど、金は「事物」と「こと」をつけくわえている。
「事物になれていない」は「こと」も「もの」も、まだ「なる」ことができない状態。「こと」以前、「もの」以前の「時間」である。
そして「こと」「もの」に「なる」のは、何かといえば、それは「時間」なのだ。「時間」というものが持っている何か、動いていくエネルギー(動いていく、と書いてしまうのは、動きこそが「時間」の基本的な要素であると考えるからだ)こそが「こと」「もの」に「なる」からだ。
もし何かが「ある」とすれば「なる」という運動だけが「ある」のだ。
このときの、まだ「こと」「もの」に「なる」ことができない「象」。それは、イメージである。
「イメージ」が「未成(未生)」のものとしてあらわれ、それが「こと」「もの」に「なる」。「こと」「もの」になって、それが存在しつづけるとき、そこに「時間」が根を下ろし、暮らしになり、歴史になる。
「錆びる風景」とは、「錆びる時間」のことかもしれない。「時間」が動かない。錆びついている。それは「こと」「もの」の奥で「沈黙」している。「沈黙する風景」がそのとき「錆びる風景」に「なる」。動くことをやめた「こと」と「もの」の世界だ。
ふいにあらわれる「今」。「今」とは何か。わかっているけれど、わからない「時」である。「今」「墜ちる」のではなく「今に」墜ちる。「この」、「私」の「一点」に。「一点」だからこそ、「垂直」になるのだろう。
金は、「沈黙」が「ある」ことを明確にすることで、「いま」「ここ」を「突き刺し」、そこから「時間」を噴出させようとしているのだろう。
ただ、この「今」を、金はどう動かしていくのか。この詩からだけでは、私には、わからない。
一方、きのう読んだ伊藤は、「いま」をどう動かすかを知っている。きのうは書かなかったが、伊藤ははっきりと書いている。
ここには「意味」は「ない」。そしてことによって、「意味」は「ある」。「ない」けれど、それを「声」にするとき「意味」に「なる」。どんな「意味」に? それは無意味な質問だ。「ことば」が「声」に「なる」とき、そこに「意味」は「ある」。わからなくていいのだ。わからなくたって、そこに「意味」が生成している。生まれている。「声」はすべてを「産む」力である。
金時鐘「錆びる風景」を読む前に、私は伊藤比呂美「新訳『般若心経』」を読んだ。きのうの「日記」に感想を書いた。これは、私にとってはとてもいいことだった。金の作品を先に読んでいたら、きっと読みとばしていたと思う。感想を書かずにいたことだろうと思う。
どこをどう経巡(へめぐ)ったのか
残り少ない山柿の
朱い実の下に
さざえの殻が一つ
あお向いて落ちている
空のへりで凍えている
赤い叫びと
ささくれた空をただ見上げている
虚ろな叫びと
開かない木戸の
錆びた蝶番(ちょうつがい)のかたえで
とどこおった時を耐えている
この詩は不思議な詩でタイトルは「錆びる風景」であり、実際に「柿の実」のある風景の描写ではじまるのだが、書かれていることがだんだん「風景」ではなくなっていく。「主題」が「風景」から「時」へ、そして「時」の連続である「時間」へと変わっていく。 2連目。
今に柿も落ちて
自らが時間の出口となっていくだろう
そこで涸(か)れているものは
そのままそこで涸らしてた時を壊しているだろう
時が流れるとは
時点にあやかっていたい者の錯覚だ
黙っているものの奥底で
本当はもっとも多くの時が時を沈めているのだ
「風景」が「時(時間)」にかわるにしたがって、「声」が浮かび上がってくる。
1連目には「叫び」があった。2連目では、「叫び」の対極にある「黙っている」ということばがある。
「風景」は、それぞれに「声」を持っている。「声」はあるときは「叫び」、あるときは「黙っている」。そして、その「叫び」も「沈黙」も、金のことばによって、いま、ここで「叫び」に「なる」。「沈黙」に「なる」。それは、金のことばが存在させた「こと」なのだ。
そのとき、「ことば」とは「時間」にほかならない。「ことば」がなければ「叫び」も「沈黙」も存在することはできず、その結果として「時間」も存在することはできないからである。
「ことば」は金が目撃している「こと」と金の肉体の共鳴なのだ。共鳴して「ひとつの声」に「なる」。「声」のなかに、「時間」がある。「声」が「時間」に「なる」。そうすることで「時間」が「ある」。
私の時間もたぶん
やりすごしたどこかの
物影で大口をあけていたのだろう
そこにはまだ事物に慣れていない時間の
初々しい象(かたち)があったはずだ
私はここで立ち止まる。「誤読」の誘惑にかられる。「誤読」してしまう。
事物に慣れていない時間の/初々しい象
「慣れていない」を「成れていない」、まだ「なってはいない」と読みたいのだ。「風景」とは「事物」というより「もの」のある姿だろう。そこには「事(こと)」はない。「こと」はあるかもしれないが、「こと」がなくても「風景」と呼ばれるかもしれない。けれど、金は「事物」と「こと」をつけくわえている。
「事物になれていない」は「こと」も「もの」も、まだ「なる」ことができない状態。「こと」以前、「もの」以前の「時間」である。
そして「こと」「もの」に「なる」のは、何かといえば、それは「時間」なのだ。「時間」というものが持っている何か、動いていくエネルギー(動いていく、と書いてしまうのは、動きこそが「時間」の基本的な要素であると考えるからだ)こそが「こと」「もの」に「なる」からだ。
もし何かが「ある」とすれば「なる」という運動だけが「ある」のだ。
このときの、まだ「こと」「もの」に「なる」ことができない「象」。それは、イメージである。
「イメージ」が「未成(未生)」のものとしてあらわれ、それが「こと」「もの」に「なる」。「こと」「もの」になって、それが存在しつづけるとき、そこに「時間」が根を下ろし、暮らしになり、歴史になる。
「錆びる風景」とは、「錆びる時間」のことかもしれない。「時間」が動かない。錆びついている。それは「こと」「もの」の奥で「沈黙」している。「沈黙する風景」がそのとき「錆びる風景」に「なる」。動くことをやめた「こと」と「もの」の世界だ。
今まさにつぐみが一羽
点と消え
今に垂直に
ついぞ誰ひとり聞くことのなかった
沈黙の固まりが突きささって墜ちる
錆びている私の
時間のなかを
ふいにあらわれる「今」。「今」とは何か。わかっているけれど、わからない「時」である。「今」「墜ちる」のではなく「今に」墜ちる。「この」、「私」の「一点」に。「一点」だからこそ、「垂直」になるのだろう。
金は、「沈黙」が「ある」ことを明確にすることで、「いま」「ここ」を「突き刺し」、そこから「時間」を噴出させようとしているのだろう。
ただ、この「今」を、金はどう動かしていくのか。この詩からだけでは、私には、わからない。
一方、きのう読んだ伊藤は、「いま」をどう動かすかを知っている。きのうは書かなかったが、伊藤ははっきりと書いている。
おしえよう このちえの まじないを。
さあ おしえて あげよう こういうのだ。
きゃーてい。
ぎゃーてい。
はーらー ぎゃーてい。
はらそう ぎゃーてい。
ぼーじー そわか。
ここには「意味」は「ない」。そしてことによって、「意味」は「ある」。「ない」けれど、それを「声」にするとき「意味」に「なる」。どんな「意味」に? それは無意味な質問だ。「ことば」が「声」に「なる」とき、そこに「意味」は「ある」。わからなくていいのだ。わからなくたって、そこに「意味」が生成している。生まれている。「声」はすべてを「産む」力である。
失くした季節―金時鐘四時詩集 | |
金 時鐘 | |
藤原書店 |