詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金時鐘「錆びる風景」

2010-12-18 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
金時鐘「錆びる風景」(「現代詩手帖」2010年12月号)

 金時鐘「錆びる風景」を読む前に、私は伊藤比呂美「新訳『般若心経』」を読んだ。きのうの「日記」に感想を書いた。これは、私にとってはとてもいいことだった。金の作品を先に読んでいたら、きっと読みとばしていたと思う。感想を書かずにいたことだろうと思う。

どこをどう経巡(へめぐ)ったのか
残り少ない山柿の
朱い実の下に
さざえの殻が一つ
あお向いて落ちている
空のへりで凍えている
赤い叫びと
ささくれた空をただ見上げている
虚ろな叫びと
開かない木戸の
錆びた蝶番(ちょうつがい)のかたえで
とどこおった時を耐えている

 この詩は不思議な詩でタイトルは「錆びる風景」であり、実際に「柿の実」のある風景の描写ではじまるのだが、書かれていることがだんだん「風景」ではなくなっていく。「主題」が「風景」から「時」へ、そして「時」の連続である「時間」へと変わっていく。 2連目。

今に柿も落ちて
自らが時間の出口となっていくだろう
そこで涸(か)れているものは
そのままそこで涸らしてた時を壊しているだろう
時が流れるとは
時点にあやかっていたい者の錯覚だ
黙っているものの奥底で
本当はもっとも多くの時が時を沈めているのだ

 「風景」が「時(時間)」にかわるにしたがって、「声」が浮かび上がってくる。
 1連目には「叫び」があった。2連目では、「叫び」の対極にある「黙っている」ということばがある。
 「風景」は、それぞれに「声」を持っている。「声」はあるときは「叫び」、あるときは「黙っている」。そして、その「叫び」も「沈黙」も、金のことばによって、いま、ここで「叫び」に「なる」。「沈黙」に「なる」。それは、金のことばが存在させた「こと」なのだ。
 そのとき、「ことば」とは「時間」にほかならない。「ことば」がなければ「叫び」も「沈黙」も存在することはできず、その結果として「時間」も存在することはできないからである。
 「ことば」は金が目撃している「こと」と金の肉体の共鳴なのだ。共鳴して「ひとつの声」に「なる」。「声」のなかに、「時間」がある。「声」が「時間」に「なる」。そうすることで「時間」が「ある」。

私の時間もたぶん
やりすごしたどこかの
物影で大口をあけていたのだろう
そこにはまだ事物に慣れていない時間の
初々しい象(かたち)があったはずだ

 私はここで立ち止まる。「誤読」の誘惑にかられる。「誤読」してしまう。

事物に慣れていない時間の/初々しい象

 「慣れていない」を「成れていない」、まだ「なってはいない」と読みたいのだ。「風景」とは「事物」というより「もの」のある姿だろう。そこには「事(こと)」はない。「こと」はあるかもしれないが、「こと」がなくても「風景」と呼ばれるかもしれない。けれど、金は「事物」と「こと」をつけくわえている。
 「事物になれていない」は「こと」も「もの」も、まだ「なる」ことができない状態。「こと」以前、「もの」以前の「時間」である。
 そして「こと」「もの」に「なる」のは、何かといえば、それは「時間」なのだ。「時間」というものが持っている何か、動いていくエネルギー(動いていく、と書いてしまうのは、動きこそが「時間」の基本的な要素であると考えるからだ)こそが「こと」「もの」に「なる」からだ。
 もし何かが「ある」とすれば「なる」という運動だけが「ある」のだ。
 このときの、まだ「こと」「もの」に「なる」ことができない「象」。それは、イメージである。
 「イメージ」が「未成(未生)」のものとしてあらわれ、それが「こと」「もの」に「なる」。「こと」「もの」になって、それが存在しつづけるとき、そこに「時間」が根を下ろし、暮らしになり、歴史になる。

 「錆びる風景」とは、「錆びる時間」のことかもしれない。「時間」が動かない。錆びついている。それは「こと」「もの」の奥で「沈黙」している。「沈黙する風景」がそのとき「錆びる風景」に「なる」。動くことをやめた「こと」と「もの」の世界だ。

今まさにつぐみが一羽
点と消え
今に垂直に
ついぞ誰ひとり聞くことのなかった
沈黙の固まりが突きささって墜ちる
錆びている私の
時間のなかを

 ふいにあらわれる「今」。「今」とは何か。わかっているけれど、わからない「時」である。「今」「墜ちる」のではなく「今に」墜ちる。「この」、「私」の「一点」に。「一点」だからこそ、「垂直」になるのだろう。
 金は、「沈黙」が「ある」ことを明確にすることで、「いま」「ここ」を「突き刺し」、そこから「時間」を噴出させようとしているのだろう。
 ただ、この「今」を、金はどう動かしていくのか。この詩からだけでは、私には、わからない。

 一方、きのう読んだ伊藤は、「いま」をどう動かすかを知っている。きのうは書かなかったが、伊藤ははっきりと書いている。

おしえよう このちえの まじないを。
さあ おしえて あげよう こういうのだ。

きゃーてい。
ぎゃーてい。
はーらー ぎゃーてい。
はらそう ぎゃーてい。
ぼーじー そわか。

 ここには「意味」は「ない」。そしてことによって、「意味」は「ある」。「ない」けれど、それを「声」にするとき「意味」に「なる」。どんな「意味」に? それは無意味な質問だ。「ことば」が「声」に「なる」とき、そこに「意味」は「ある」。わからなくていいのだ。わからなくたって、そこに「意味」が生成している。生まれている。「声」はすべてを「産む」力である。

失くした季節―金時鐘四時詩集
金 時鐘
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クロード・ルルーシュ監督「男と女」(★★★★)

2010-12-18 19:16:48 | 午前十時の映画祭
監督 クロード・ルルーシュ 出演 アヌーク・エーメ、ジャン・ルイ・トランティニャン

 この映画で一番好きなシーンは、アヌーク・エーメ、ジャン・ルイ・トランティニャンと子供たちが海岸で遊ぶところだ。走る子供の足に、ジャン・ルイ・トランティニャン足をひっかける。女の子の足にはうまくひっかからず、次にこころみた男の子の足にひっかかる。男の子は当然倒れる。それを抱き起こし、砂を払う――それだけのシーンだが、これがこの映画を象徴している。
 一回限り。
 男の子はきっと足をひっかけられることを知らないで走っている。このシーンがアドリブか、仕組まれた演出か、どちらであるか分からないが、もう一回撮ることはできない。男の子が警戒する。
 一回限り、二度と繰り返さない。それは、映画の撮り方を通り越して、男と女のふたりの関係にもなる。
 食事をしながら男が女の椅子の背後に手を伸ばす。指は女の背中に触れるか触れないか、微妙なところで躊躇している。こういうこともその日限りである。
 男が女を車で送っていく。ギアを動かした右手を女の膝にもっていく。女は、男の顔を見る。手を見ないで、顔を見て、あれこれ思っている。これも一度限り。次に同じことが起きたとしても、その時女は男の顔を、最初の時のように何分(実際は1分くらい?)も見つめたりはしない。
 このときスクリーンには女の顔しか写さないが、男はきっと女の方を見つめていない。手も見つめていない。ただ前を見て運転している。ただし、女に見つめられていることは感じている。
 こういうことも一回限りである。男と女の関係においては。
 そうなのだ、これは「即興」映画なのだ。脚本があるけれど、その場限りの動きが大切にされている。ストーリーよりも、役者の肉体そのものがそこにある。肉体でストーリーをたどりながら、肉体がストーリーから解放されている。
 ただ一回、セックスシーンの、アヌーク・エーメだけは「演技」である。やっとセックスまでたどりつきながら、その最中に死んだ男を思い出してしまう。その、思い出す瞬間、女が眼を開く。思い出してしまって、眼を開く。瞼に浮かんだ思い出を、いま、見えるものでかき消すかのように。
 そしてこのシーンだけが、一度ではなく、何度も繰り返される。アヌーク・エーメは何度も何度も眼を開く。
 おもしろいなあ。



 この映画は1966年に作られたということも、評価するときの要素になるかもしれない。自在なカメラワーク、焦点の移動など、その後の映画で採用されたいろいろな手法がつまっている。あ、こんなふうにすればだれでも映画が撮れる――と思わせる手法である。
 で、当時は、華麗なカメラワーク、映像の魔術師という風に評価されたと思うが、なんだか、いま見ると美しくない。オリベイラ監督のような、がっしりと動かない映像の方が剛直で美しいと、私には思える。まあ、これは、また時代がかわればかわってしまうことかもしれない。

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ナボコフ『賜物』(31)

2010-12-18 10:09:31 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(31)

 文学のなかに文学がある--小説のなかに詩があり、その詩についての批評があり……というような入れ子細工はナボコフの「好み」だと思うが、そういう「作品の構造」だけではなく、諸説の細部においても、もう一度ナボコフは「入れ子」をつくる。

彼女は柔らかな胸に腕を君で立っていたので、その姿を見るとたちまちぼくの中に、その題材をめぐる文学的連想のすべてが展開した--からりと晴れた埃っぽい夕べ、街道沿いの居酒屋で、退屈した女が注意深いまなざしを何かに向けている。
                                 (69ページ)

 ここからストーリーが展開するわけではない。ただ主人公が「文学的連想」をした、ということが書かれているだけなのだが、この「文学」への「逸脱」が不思議におもしろい。
 なぜか、そこに「短編小説」を感じるからである。女を主人公とした短編小説が、そのことばのなかにひそんでいる。何も書かれていないのに、短編小説を感じさせる。

 他方、次の、変な逸脱もある。

 ヤーシャは日記をつけていて、その中で自分とルドルフとオーリャの相互関係を「円に内接した三角形」と的確に定義していた。円というのは、正常で清らかな、彼の表現によれば「ユークリッド的な」友情のことで、それが三人を結び合わせていたので、それだけだったら彼の絆は何の心配もなく幸せなまま、解消されこともなかっただろう。しかしその円に内接する三角形の方は(略)--こんなことから短篇だの、中篇だの、一冊の本だのをつくりだすことはとうていできない、とぼくは思ってしまうのだ。
                               (69-70ページ)

 ナボコフは、ここで主人公に「短篇」「中篇」ということばを語らせている。非文学的(?)な円と三角形の比喩--文学的連想から遠いものは、短篇、中篇には向かない、といわせている。
 あるいは。
 それは逆説的には、文学的連想から遠いものは「長篇」になる、ということを意味しないだろうか。短篇、中篇は、「文学的連想」のことばとともに動く。「文学的連想」から動くことばは自然に短篇、中篇を作り上げてしまう。
 ここには、ナボコフの「自戒」がこめられているかもしれない。





ロリータ、ロリータ、ロリータ
若島 正
作品社

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