詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

井坂洋子『嵐の前』

2010-12-10 23:59:59 | 詩集
井坂洋子『嵐の前』(思潮社、2010年10月25日発行)

 書き出しの1行で、その詩全体がわかる(わかると錯覚する)作品がある。その1行で詩集全体がわかったと思う詩がある。
 井坂洋子『嵐の前』を私は読みはじめたばかりである。「溝」という作品の1行目を読み、その1行にのみこまれ、この詩はこの1行にすべてがあると感じ、瞬間的に詩集全体もこの1行が始まりなのだ、方向を決定づけているのだ、と感じた。まだ「溝」と「ふた葉」しか読んでいないが、感じたこと、考えたことを書いておく。
 「溝」。

俯瞰図を書けない蟻の足が透き通ってくる
かげろうが立つ道の 端に寄れば反対側が翳
り どちらに寄っても炎暑に灼かれる 前頭
葉の溝まで干涸びるようだ その溝に沿って
歩き続ける 生垣の向こうを横切るのは級友
 私に目もくれずに 自分の巣に散って行っ
た彼女らはそれぞれが私に似た影を引き 長
い耳をしている 頭上に傷痕のようなどす黒
い太陽を戴き 炎暑に灼かれながら生真面目
な姿勢を崩さない 死んでいったひとりの友
が半身を無間に転写されながら 振り子の水
脈を探しあてている それでこのうねり波う
つ道に 新しい水道管が縦横に走っている訳
がわかった
      (谷内注・「干涸びる」には「ひから」びる、のルビ、
           「無間」には「むけん」のルビがついている。)
 
 書き出しは「俯瞰図を書けない」とはじまっているが、これは「俯瞰図を書かない」という井坂の決意のようなもの、これからはじまる詩の決意のようなものがこめられている。世界を俯瞰しないのだ。あくまで、「蟻」になるのだ。蟻になって、目を対象に近づけていく。対象にこだわる。そこからはじまる旅と冒険がある。
 だから、猛暑に灼かれ、

前頭葉の溝まで干涸びるようだ その溝に沿って歩き続ける

 という行を読むと、一瞬、強烈な眩暈がやってくる。「溝」。それは、道路の「溝」? それとも、前頭葉の「溝」? 「その」という意地悪なことばが、眩暈を誘うのだ。
 井坂には「その」がわかりきっている。井坂が書いているのだから。「肉体」になっているのだから。
 (あるいは「肉体」になってしまっているので、井坂自身も、それがわかっていないかもしれない--これは、あとでもう一度別な形でふれることになる問題である。)
 けれど、私には、それがどちらを指しているのかわからない。わからないまま--つまり、「その」がどちらを指しているか俯瞰すること、対象から離れてそれを見下ろし、識別することができず、蟻になって、「溝」に迷い込む。
 俯瞰図を書けない(書かない)蟻は、いったん「前頭葉」のなかに入りこみ、その溝に触れたなら、もう「下界」(?)溝にはもどれない。蟻は、前頭葉の溝を歩いているのだ。その「前頭葉」の「溝」から見る世界は、では、誰の世界?
 「私(井坂)」の世界? 蟻の世界? 蟻が見た井坂の世界? 蟻ならこんなふうに見えるにちがいないと想像した井坂の世界?
 わからない。わからないまま二重になる。
 「端に寄れば反対側が翳り」ということばがあったが、そこには二つのものが「端」をつくっている。「蟻」と「私」。そして、それが互いに反対側をみつめている。その「ふたつ」の視線によって、世界が二重になる。「級友」は「家」ではなく「巣」へ帰るといとき、そこには「級友」と「蟻」の区別がなくなっている。したがって、頭上に「どす黒い太陽」を戴いているのは、「級友」なのか「蟻」なのかもわからない。「生真面目」なのは「蟻」なのか、「級友」なのか。死んでいったのは「蟻」なのか、「級友」なのか。
 こういう「無分別」の世界を通ることで、井坂のことばは、「現実」を離れ、無分別に「哲学・思想」の世界へ飛躍する。もちろん「哲学・思想」も「現実」ではあるのだが、「蟻」の足が透き通るとか、「級友」が「長い耳をしている」というような調子では語れない世界である。
 ふいに、

無間

 ということばが出てくる。「無間地獄」。間断がない。つながっている。
 それは、なぜか、「蟻」と「級友」(私)の間にも「断絶」がない--つながっているということを思い出させる。
 「無間地獄」とは苦痛が絶え間なくつづくということなのかなあ。それは、もしかすると罪を犯さなくても、たとえば「私」と「蟻」「級友」の区別がつかなくなり、「私」以外のものの存在を「私」の「ありよう」として「肉体」のなかに実感するとき感じる一種の苦悩につながるのかなあ。あ、「蟻」は苦しいだろうなあ、「級友」はくるしいだろうなあ、と実感するときに存在する「無間」としてあるのかなあ。

 俯瞰図を書かない--そうすると、どうしても対象に密着してしまう。そして、対象に触れ続けると、間断がなくなり、無間があらわれる。そのなかで、「私」は「私」ではなくなり、「私以外のもの」になる。そして、「私」が「私」であるときは、見ることのできなかったものが、突然見える。わかる。

それでこのうねり波うつ道に 新しい水道管が縦横に走っている訳がわかった

 この「それで」も非常にわかりにくい。「それ」が何を指しているか、わからない。これは井坂にもわからないかもしれない。わからないまま「それで」と、あたかも論理的な理由(根拠)でもあるかのようにして、ぐい、と不透明な部分をつきぬけてしまう。「肉体」で突き進んでしまう。
 「それ」「これ」「あれ」の区別がなくなっている。間断がなく、そこにも「無間」があるのだ。「無」があるのだ。存在の、形象の無があるのだ。まだ形になる前の、エネルギーそのものの「場」としての「無」と「無間」がこのとき重なり合う。
 その「無(無間)」を通って、その瞬間に、「新しい水道管」が存在・形象に変化する。それを井坂は発見するのだが、不思議だねえ、このとき井坂は「私」?「蟻」?「級友」?それとも「水道管」?あるいは「溝」?

 わからなくなる。いや、わからなくする。そうして、それぞれが好きなものになればそれでいいじゃないか、そうやってそれぞれが好きなものになって生きているのが世界だと井坂は考えているのかもしれない。感じているのかもしれない。
 まあ、そんなことは、どうでもよくて、そういう私が私以外のものになるために、井坂は「俯瞰図を書かない」、「間断」をつくらない、「間断」を拒否して「無間」へ入っていく、という方法をとるのだと思った。




嵐の前
井坂 洋子
思潮社

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吉増剛造「棘が人生の小川をぎっしりと流れている」

2010-12-10 11:12:08 | 詩(雑誌・同人誌)
吉増剛造「棘が人生の小川をぎっしりと流れている」(「現代詩手帖」2010年12月号)

 私は音痴である。どれくらい音痴かというと、人が歌っているのを聞いて、それを再現できない。どの高さの(どの位置の?)音を出しているのかわからないので、自分で再現できない。楽譜を見ながらなら、あ、これはこの音なのかと高さを確認できる。では楽譜が読めるのかとなると、これも無理。楽譜を見たって、それを自分では再現できない。人がそれを歌うのを聞いて、あ、これは声にするとこんなふうになるのか、とわかる程度である。ひとが歌うとき、そのメロディーを自分に歌いやすいように高さをかえることがあるが(キーをかえるというのかな?)、そういう歌を聴くと、もう楽譜がわからなくなる。完璧な音痴である。
 ことばではそんなことは起きない。まあ、ときどきは勘違いするけれど、ひとの話したことは一応そのまま反復できる。書き取ることができる。書かれたものを読み、それを声に出して読むことはできる。(カタカナは除く。)声に出さなくても、自然に「肉体」が動いている。喉が動いているし、耳も動いている。黙読の場合でも、私は、ときどきひどく喉がつかれるときがある。(書いているときも、ときどきつかれる。)
 そして、私の場合、ことばを読むとき、そこに「音」が聞こえないと、何が書いてあるさっぱりわからない。私は「音痴」のくせに、ことばだけは「音」なしではおもしろいともなんとも感じないのである。
 なぜこんなことをくだくだと書いているかというと……。

 私は吉増剛造の詩がまったくわからないのである。読めないのである。「棘が人生の小川をぎっしりと流れている」の書き出し。

棘(とげ)が人生の小川をぎっしりと流れている

 これは読むことができる。「音」が聞こえる。ところが、その冒頭の1行につづいて、詩は突然活字の大きさを変えて、次のようにつづく。(私の表記は、同じ活字の大きさになってしまうが、本文は小さい活字である。--「現代詩手帖」で確かめてください。)

07.3. 29島尾ミホさんの急逝に逢い、こころは行触れ-----そこまで
 行って触ってきたように、
        (谷内注・「行触れ」には「いきぶ(れ)」のルビ、
             「触って」には「さわ(って)」のルビ)

 どう読めばいいのだろう。転写して見ると読むことはできるが、本の形のままでは、私には見当がつかない。文字が小さいから、「音」も小さいのか。文字がびっしり詰まっているから、そのリズムは1行目より速いのか。
 他のひとは、どんな感じで「音」を受け止めているのだろうか。
 注として、私はルビのことを書いたが、ルビの問題もよくわからない。
 2連目の2行目。

小川は、まだお元気だったころにミホさんが古里(ふるさと)加計呂麻
 の、……少し、神さびたような山蔭で、
       (谷内注・「神さびた」には「かん(さびた)」のルビ)

 「古里」の読み方は括弧内にいれて説明し、「神さびた」はルビ。このとき「音」はどうなるのだろうか。読むリズムは?
 「楽譜」のリズム、音の強弱は、まあ、作者の指定もあるだろうけれど、それは演奏家(歌い手)の好みでかえてもいいものだろう。ことばを「読む」ときも、そのリズム、音の強弱などは読者のかってだろうけれど、吉増の詩のように、活字の大きさや、読み方の表記の仕方、さらには活字の汲み方、いくつもの表記記号のつかいわけ、さらには外国語までまじってくると、これはほんとうに、まったくわからない。お手上げである。
 私は朗読というものをほとんど聞いたことがない。吉増の朗読はもちろん聞いたことがない。吉増の声すら知らない。吉増の朗読を聞けば、この詩の読み方はわかるかもしれないが、聞いてもすぐにはその「読み方」を自分のものとして再現できるかなあ。わからない。
 それに、私は、文学というのは、作者の指定した読み方ではなく、読者がかってに読んでいいものと思っているから、読み方を作者に指定されたくはない。
 だったら、吉増がどんな表記の仕方をしていようが、勝手に読めば--ということになるかもしれないが、それはちょっと違う。
 たとえば、きのう読んだ粕谷栄市の作品。それを私はかってに「誤読」しているが、粕谷の作品にはどんな指定もない。句読点や改行はあるが、活字の大きさに変化はない。同じものとして書かれているものを、私はかってに、ここがおもしろいと選び出して感想を書いている。吉増の詩の場合は、そういう「かって」ができない。表記が、ことばに一定の「枠」を与えている。その「枠」に邪魔されて、ことばが「音」にならない。そうすると、ことばは「肉体」に入ってこない。



吉増剛造詩集 (ハルキ文庫)
吉増 剛造
角川春樹事務所

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