詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋正英『クレピト(CREPITO)』

2010-12-02 23:59:59 | 詩集
高橋正英『クレピト(CREPITO)』(ふらんす堂、2010年10月28日発行)

 高橋正英『クレピト(CREPITO)』には私の知らないことばばかりが出てくる。わかることばはほんの僅かだ。そのわずかなことばだけを手がかりに私は読む。

こうして、涌きいでてきたもののどこへゆくこともせずどこへもゆけずに
だって、どこもここではないと言うものたちはいっせいにそこここに
あるいは、時代をこえて同じ場所で
私、とつぶやき
つぶやいた声がどこへもゆかないことにやすらぎふたたび
私、とつぶやいてみる

 「どこ」と「ここ」が問われている。「ここ」を求めているのだが「ここ」がない。「ここ」が「ここ」ではないことだけがわかるが、「どこ」へ行っていいかわからない。行った先が「ここ」であるかどうかわからない。そして、そういうときに「私」ということばがふいに漏れる。「ここ」が「ここ」ではなくても、「私」は「私」ということなのだろう。「ここ」に優先して「私」が存在している。
 不明の「ここ」と、わかっている「私」がいる。「ここ」があり、「私」がある。「二元論」である。

私よ、

ひとは人を忘れることができた、覚えることもないままに
フィカス・プラミに水をやる、この窓の向こうでは
だれにも呼ばれなかった私がつぶやいていた

 そして、「ここ」に「どこ」が対応するように、「私に私と呼ばれた私」に「だれにも呼ばれなかった私」が対応する。このとき、「ここ」は「私に私と呼ばれた私」なのか、それとも「ここ」は「だれにも呼ばれなかった私」なのか。「ここ」は「私に私と呼ばれた私」と合致するべきなのだろうけれど、合致しない。齟齬がある。だから「どこ」かへ行って「ここ」を獲得したいと考えるのだろうけれど、「そこ」では「私に私と呼ばれた私」と「だれにも呼ばれなかった私」は合致し、「私」そのものになれるのか。
 そういう運動を高橋は描こうとしている、ことばで追い求めようとしているのだろうか。よくわからない。

私よ、

呼びかけては風がふいた
ふいた風はながれどこにきえた
きえたもののそらをあおぎ今まさに木々の葉先にいのる
そのいのりばかり

 この部分だけは非常によくわかる。高橋の「肉体」(思想)を実感できる。「誤読」かもしれないけれど……。
 「ふいた/ふいた」「きえた/きえた」「いのる/そのいのり」という一種のしりとりのようなことばの運動。そこに高橋の肉体がことばを追いかけ、追いかけることで、そのことばを突き破り、いま、仮にある「ここ」から「どこか」へ、ほんとうの「ここ」へ行こうとしている。
 そのために、ことばがある。
 とてもおもしろいのは「いのる」と「そのいのり」の関係である。このしりとりは、「ふいた/ふいた」「きえた」「きえた」とは微妙に違う。動詞が名詞に変化している。「運動」が「名詞(存在)」に変化している。もちろん「ふいた/ふいた」もよくみると「ふいた/ふいた風(名詞)」「きえた/きえたもの(名詞)」なのだが、それは動詞の「連体形」がつくりだす名詞であり、動詞とは切り離せない。ところが「いのる」「いのり」はそういう関係ではない。つまり動詞の連体形+名詞として「名詞」になっているのではなく、動詞そのものを「存在」として考えるときに「名詞」が割り振られているのである。「動詞」から「名詞」への飛躍という「運動」があるのだ。見えない運動があるのだ。
 そして、そういう運動をしているとき、そこには「私」がいる。運動の主体としての「私」がいる。「私」がある。それは「私に私と呼ばれた私」ではなく、「私を私と呼ぶ私」である。「私を私と呼ぶ私」は書かれていないが、「そこ」(その運動のなか)に生まれてきている。

 この「私」は何か。--それは「あなた」である、と私は、言ってしまおう。次の断章がある。

こうして私は一方に座り
あなたがいた場所を向いていた
だれの声も聞こえなかった
ここではすべてがふくらんで、閉じていた
互いにそれとは気づかずに
すれちがって留まることはなかった
過去も未来もなかった
それ以上、進むことのない
ここはいまも断片のままだった

 これは「運動」ではなく「停止」を描いているように見えるが、そうではなく、「運動」そのものの微分値であると見るべきだろう。微分された一点において、過去も未来もない。過去と未来は積分するときにあらわれてくる。「ここ」はしたがって、「どこか」に存在するのではなく、運動のさなかの一点「いま」においてのみ存在することになる。そして、その「ここ」という一点は、実は、存在不能の「場」である。「ここ」というのは「どこか」と対比して明示されるものだが、「どこか」を明示した瞬間、微分は積分にかわってしまうからである。
 それでも「ここ」が「ことば」として存在しうるのは、「私」が「ここ」と呼ぶからである。
 そういうとき、「私」の存在はどうなるのか。「いま」「ここ」に微分された「場」で「私」もまた微分されて「私」しか存在しないことになる。しかし、もし人間が「私」しかいないなら、「私」が「私」である根拠はなくなる。どうしても「私」以外のものを想定しなくてはならない。そうやって想定されたものが「あなた」である。
 だが「あなた」が想定された存在であるなら、それは「いつ」「どこ」にいるのか。「いま」「ここ」に、「私」とともにいることになる。そしてそれは存在しないという意味にもなる。「あなたのいた場所」は、微分された「いま」「ここ」をさらに微分した「無」そのものである。「あなた」は「無」とも言い換えることができる。

 高橋は「無」としての「いま」「ここ」を描こうとしているのだ。「無」が高橋の追い求めている「肉体」(思想)であり、それに向けてことばを動かしている。
 次の3行は高橋の「肉体」(思想)を象徴的にあらわしている。

世界はこうして
あなたたとともに
立ちあらわれている

 世界は「無」とともに立ちあらわれている--とは、世界は「無」そのものから立ちあらわれる、ということかもしれない。そこにあるのは「存在」ではなく、「立ちあらわれる」という運動である。
 「無」から次々に何ものかが立ちあらわれ、世界になる。そういう世界の把握のなかで、最初に引用した、

こうして、涌きいでてきたもの

 ということばが動いている。「涌きいでてきたもの」とは「立ちあらわれてきたもの」のことである。
 「無」と、そこから「立ちあらわれる」ものの世界--その「立ちあらわれる」という運動のなかで「私」と「あなた」は一体となる。

あなたは私のからだのなかに
私はあなたのからだのなかに
まるで西日にのびる影のように、
ゆれながらかさなる

 「かさなる」は「一体になる」、ひとつになるということである。そして、その「ひとつ」から世界は多様に広がっていく。さまざまな立ちあらわれとなって広がっていく。

私はあなたに、あなたは私に、 いのり、手をあわせていのり、その手は
優れたものにいのり、劣ったものにいのり、
醜いものにいのり、美しいものにいのり、
幸福なものにいのり、不幸なものにいのり、
浄らかなものにいのり、不浄のものにいのり、
死に向かうものにいのり、生けるものにいのり、
手のさきにふれるものからしみでる花びら、一枚、
                     二枚三枚、
                         四枚、五枚、

 その数は、一枚から十万枚までこの詩には書かれているが、「十万枚」は「無数」のことである。
 ここに書かれているのは「一則多」ということである。高橋の「肉体」は完全なる「一」を目指して動いている。「一」をめざすために「無」に向かう。「二元論」から出発して「一元論」へ向かうために、ことばを鍛えなおす--というのが高橋の詩であると思った。





CREPITO クレピト
高橋 正英
ふらんす堂


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ナボコフ『賜物』(26)

2010-12-02 11:50:26 | ナボコフ・賜物
ナボコフ『賜物』(26)

 ナボコフの描写が鮮烈なのは、そこに視覚の自由があるからだ。

彼が自分の詩について夢想している間にどうやら雨が降ったらしく、通りは見渡す限りその果てまで磨かれたようにつやつやしていた。すでにトラックの姿はなく、さきほどまでその牽引車(トラクター)があって場所では、歩道の際に、鳥の羽のように彎曲し、真紅を基調として虹のようにきらきら光る油の染みが残されている。アスファルトの鸚鵡だ。

 雨上がり。歩道(車道)にこぼれた油。油膜。その強烈な色彩を虹にたとえるところまでは、よくある「比喩」である。光を受けていくつもの色に輝く--それはたしかに虹である。光の反射、光の屈折--それはたしかに虹である。だが、

アスファルトの鸚鵡

 ふいにやってくる「鸚鵡」。それはどこからやってきたのか。「鳥の羽のように彎曲し」ということばが直前にあるが、まさか、その「鳥の羽」が「鸚鵡」を呼び込んだということはないだろう。逆だろう。「鸚鵡」が先にやってきて、それからそれを説明するために「鳥の羽」が選ばれているのである。
 これが「散文」である。
 詩は、意識のままに書いていくから、「鸚鵡」を先に書き、それから「鳥の羽」のように油膜の色彩が彎曲していると書くだろうけれど、視覚の運動をわかりやすくするために、ことばの衝動を制御しというか、整え直してしまうのが「散文」なのだと思う。
 そして、そうやって「散文」でことばを整え直しても、わけのわからない「鸚鵡」が詩として残ってしまう。

 ここには視覚の自由がある、としかいえない。
 ナボコフの視覚は、そこにあるものから自由に離脱する、逸脱するのである。最初の方はていねいに、雨上がりの道を近景から遠景へと動かしている。まず、近景。足元の濡れた色。それから「見渡す」という動きで「遠景」へと視線が動く。そこからまたもどってきて中景。トラックのいた場所。そうやって一通り描写した後、描写にこだわることで、いっきに「いま」「ここ」とは無関係な、虹のように雨と関係があるものとも無関係な、鸚鵡へ飛躍する。
 ナボコフの視覚は、視覚独自の「過去」をもっている、ということになるのかもしれない。


ナボコフのドン・キホーテ講義
ウラジーミル ナボコフ
晶文社

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