高橋正英『クレピト(CREPITO)』(ふらんす堂、2010年10月28日発行)
高橋正英『クレピト(CREPITO)』には私の知らないことばばかりが出てくる。わかることばはほんの僅かだ。そのわずかなことばだけを手がかりに私は読む。
「どこ」と「ここ」が問われている。「ここ」を求めているのだが「ここ」がない。「ここ」が「ここ」ではないことだけがわかるが、「どこ」へ行っていいかわからない。行った先が「ここ」であるかどうかわからない。そして、そういうときに「私」ということばがふいに漏れる。「ここ」が「ここ」ではなくても、「私」は「私」ということなのだろう。「ここ」に優先して「私」が存在している。
不明の「ここ」と、わかっている「私」がいる。「ここ」があり、「私」がある。「二元論」である。
そして、「ここ」に「どこ」が対応するように、「私に私と呼ばれた私」に「だれにも呼ばれなかった私」が対応する。このとき、「ここ」は「私に私と呼ばれた私」なのか、それとも「ここ」は「だれにも呼ばれなかった私」なのか。「ここ」は「私に私と呼ばれた私」と合致するべきなのだろうけれど、合致しない。齟齬がある。だから「どこ」かへ行って「ここ」を獲得したいと考えるのだろうけれど、「そこ」では「私に私と呼ばれた私」と「だれにも呼ばれなかった私」は合致し、「私」そのものになれるのか。
そういう運動を高橋は描こうとしている、ことばで追い求めようとしているのだろうか。よくわからない。
この部分だけは非常によくわかる。高橋の「肉体」(思想)を実感できる。「誤読」かもしれないけれど……。
「ふいた/ふいた」「きえた/きえた」「いのる/そのいのり」という一種のしりとりのようなことばの運動。そこに高橋の肉体がことばを追いかけ、追いかけることで、そのことばを突き破り、いま、仮にある「ここ」から「どこか」へ、ほんとうの「ここ」へ行こうとしている。
そのために、ことばがある。
とてもおもしろいのは「いのる」と「そのいのり」の関係である。このしりとりは、「ふいた/ふいた」「きえた」「きえた」とは微妙に違う。動詞が名詞に変化している。「運動」が「名詞(存在)」に変化している。もちろん「ふいた/ふいた」もよくみると「ふいた/ふいた風(名詞)」「きえた/きえたもの(名詞)」なのだが、それは動詞の「連体形」がつくりだす名詞であり、動詞とは切り離せない。ところが「いのる」「いのり」はそういう関係ではない。つまり動詞の連体形+名詞として「名詞」になっているのではなく、動詞そのものを「存在」として考えるときに「名詞」が割り振られているのである。「動詞」から「名詞」への飛躍という「運動」があるのだ。見えない運動があるのだ。
そして、そういう運動をしているとき、そこには「私」がいる。運動の主体としての「私」がいる。「私」がある。それは「私に私と呼ばれた私」ではなく、「私を私と呼ぶ私」である。「私を私と呼ぶ私」は書かれていないが、「そこ」(その運動のなか)に生まれてきている。
この「私」は何か。--それは「あなた」である、と私は、言ってしまおう。次の断章がある。
これは「運動」ではなく「停止」を描いているように見えるが、そうではなく、「運動」そのものの微分値であると見るべきだろう。微分された一点において、過去も未来もない。過去と未来は積分するときにあらわれてくる。「ここ」はしたがって、「どこか」に存在するのではなく、運動のさなかの一点「いま」においてのみ存在することになる。そして、その「ここ」という一点は、実は、存在不能の「場」である。「ここ」というのは「どこか」と対比して明示されるものだが、「どこか」を明示した瞬間、微分は積分にかわってしまうからである。
それでも「ここ」が「ことば」として存在しうるのは、「私」が「ここ」と呼ぶからである。
そういうとき、「私」の存在はどうなるのか。「いま」「ここ」に微分された「場」で「私」もまた微分されて「私」しか存在しないことになる。しかし、もし人間が「私」しかいないなら、「私」が「私」である根拠はなくなる。どうしても「私」以外のものを想定しなくてはならない。そうやって想定されたものが「あなた」である。
だが「あなた」が想定された存在であるなら、それは「いつ」「どこ」にいるのか。「いま」「ここ」に、「私」とともにいることになる。そしてそれは存在しないという意味にもなる。「あなたのいた場所」は、微分された「いま」「ここ」をさらに微分した「無」そのものである。「あなた」は「無」とも言い換えることができる。
高橋は「無」としての「いま」「ここ」を描こうとしているのだ。「無」が高橋の追い求めている「肉体」(思想)であり、それに向けてことばを動かしている。
次の3行は高橋の「肉体」(思想)を象徴的にあらわしている。
世界は「無」とともに立ちあらわれている--とは、世界は「無」そのものから立ちあらわれる、ということかもしれない。そこにあるのは「存在」ではなく、「立ちあらわれる」という運動である。
「無」から次々に何ものかが立ちあらわれ、世界になる。そういう世界の把握のなかで、最初に引用した、
ということばが動いている。「涌きいでてきたもの」とは「立ちあらわれてきたもの」のことである。
「無」と、そこから「立ちあらわれる」ものの世界--その「立ちあらわれる」という運動のなかで「私」と「あなた」は一体となる。
「かさなる」は「一体になる」、ひとつになるということである。そして、その「ひとつ」から世界は多様に広がっていく。さまざまな立ちあらわれとなって広がっていく。
その数は、一枚から十万枚までこの詩には書かれているが、「十万枚」は「無数」のことである。
ここに書かれているのは「一則多」ということである。高橋の「肉体」は完全なる「一」を目指して動いている。「一」をめざすために「無」に向かう。「二元論」から出発して「一元論」へ向かうために、ことばを鍛えなおす--というのが高橋の詩であると思った。
高橋正英『クレピト(CREPITO)』には私の知らないことばばかりが出てくる。わかることばはほんの僅かだ。そのわずかなことばだけを手がかりに私は読む。
こうして、涌きいでてきたもののどこへゆくこともせずどこへもゆけずに
だって、どこもここではないと言うものたちはいっせいにそこここに
あるいは、時代をこえて同じ場所で
私、とつぶやき
つぶやいた声がどこへもゆかないことにやすらぎふたたび
私、とつぶやいてみる
「どこ」と「ここ」が問われている。「ここ」を求めているのだが「ここ」がない。「ここ」が「ここ」ではないことだけがわかるが、「どこ」へ行っていいかわからない。行った先が「ここ」であるかどうかわからない。そして、そういうときに「私」ということばがふいに漏れる。「ここ」が「ここ」ではなくても、「私」は「私」ということなのだろう。「ここ」に優先して「私」が存在している。
不明の「ここ」と、わかっている「私」がいる。「ここ」があり、「私」がある。「二元論」である。
私よ、
ひとは人を忘れることができた、覚えることもないままに
フィカス・プラミに水をやる、この窓の向こうでは
だれにも呼ばれなかった私がつぶやいていた
そして、「ここ」に「どこ」が対応するように、「私に私と呼ばれた私」に「だれにも呼ばれなかった私」が対応する。このとき、「ここ」は「私に私と呼ばれた私」なのか、それとも「ここ」は「だれにも呼ばれなかった私」なのか。「ここ」は「私に私と呼ばれた私」と合致するべきなのだろうけれど、合致しない。齟齬がある。だから「どこ」かへ行って「ここ」を獲得したいと考えるのだろうけれど、「そこ」では「私に私と呼ばれた私」と「だれにも呼ばれなかった私」は合致し、「私」そのものになれるのか。
そういう運動を高橋は描こうとしている、ことばで追い求めようとしているのだろうか。よくわからない。
私よ、
呼びかけては風がふいた
ふいた風はながれどこにきえた
きえたもののそらをあおぎ今まさに木々の葉先にいのる
そのいのりばかり
この部分だけは非常によくわかる。高橋の「肉体」(思想)を実感できる。「誤読」かもしれないけれど……。
「ふいた/ふいた」「きえた/きえた」「いのる/そのいのり」という一種のしりとりのようなことばの運動。そこに高橋の肉体がことばを追いかけ、追いかけることで、そのことばを突き破り、いま、仮にある「ここ」から「どこか」へ、ほんとうの「ここ」へ行こうとしている。
そのために、ことばがある。
とてもおもしろいのは「いのる」と「そのいのり」の関係である。このしりとりは、「ふいた/ふいた」「きえた」「きえた」とは微妙に違う。動詞が名詞に変化している。「運動」が「名詞(存在)」に変化している。もちろん「ふいた/ふいた」もよくみると「ふいた/ふいた風(名詞)」「きえた/きえたもの(名詞)」なのだが、それは動詞の「連体形」がつくりだす名詞であり、動詞とは切り離せない。ところが「いのる」「いのり」はそういう関係ではない。つまり動詞の連体形+名詞として「名詞」になっているのではなく、動詞そのものを「存在」として考えるときに「名詞」が割り振られているのである。「動詞」から「名詞」への飛躍という「運動」があるのだ。見えない運動があるのだ。
そして、そういう運動をしているとき、そこには「私」がいる。運動の主体としての「私」がいる。「私」がある。それは「私に私と呼ばれた私」ではなく、「私を私と呼ぶ私」である。「私を私と呼ぶ私」は書かれていないが、「そこ」(その運動のなか)に生まれてきている。
この「私」は何か。--それは「あなた」である、と私は、言ってしまおう。次の断章がある。
こうして私は一方に座り
あなたがいた場所を向いていた
だれの声も聞こえなかった
ここではすべてがふくらんで、閉じていた
互いにそれとは気づかずに
すれちがって留まることはなかった
過去も未来もなかった
それ以上、進むことのない
ここはいまも断片のままだった
これは「運動」ではなく「停止」を描いているように見えるが、そうではなく、「運動」そのものの微分値であると見るべきだろう。微分された一点において、過去も未来もない。過去と未来は積分するときにあらわれてくる。「ここ」はしたがって、「どこか」に存在するのではなく、運動のさなかの一点「いま」においてのみ存在することになる。そして、その「ここ」という一点は、実は、存在不能の「場」である。「ここ」というのは「どこか」と対比して明示されるものだが、「どこか」を明示した瞬間、微分は積分にかわってしまうからである。
それでも「ここ」が「ことば」として存在しうるのは、「私」が「ここ」と呼ぶからである。
そういうとき、「私」の存在はどうなるのか。「いま」「ここ」に微分された「場」で「私」もまた微分されて「私」しか存在しないことになる。しかし、もし人間が「私」しかいないなら、「私」が「私」である根拠はなくなる。どうしても「私」以外のものを想定しなくてはならない。そうやって想定されたものが「あなた」である。
だが「あなた」が想定された存在であるなら、それは「いつ」「どこ」にいるのか。「いま」「ここ」に、「私」とともにいることになる。そしてそれは存在しないという意味にもなる。「あなたのいた場所」は、微分された「いま」「ここ」をさらに微分した「無」そのものである。「あなた」は「無」とも言い換えることができる。
高橋は「無」としての「いま」「ここ」を描こうとしているのだ。「無」が高橋の追い求めている「肉体」(思想)であり、それに向けてことばを動かしている。
次の3行は高橋の「肉体」(思想)を象徴的にあらわしている。
世界はこうして
あなたたとともに
立ちあらわれている
世界は「無」とともに立ちあらわれている--とは、世界は「無」そのものから立ちあらわれる、ということかもしれない。そこにあるのは「存在」ではなく、「立ちあらわれる」という運動である。
「無」から次々に何ものかが立ちあらわれ、世界になる。そういう世界の把握のなかで、最初に引用した、
こうして、涌きいでてきたもの
ということばが動いている。「涌きいでてきたもの」とは「立ちあらわれてきたもの」のことである。
「無」と、そこから「立ちあらわれる」ものの世界--その「立ちあらわれる」という運動のなかで「私」と「あなた」は一体となる。
あなたは私のからだのなかに
私はあなたのからだのなかに
まるで西日にのびる影のように、
ゆれながらかさなる
「かさなる」は「一体になる」、ひとつになるということである。そして、その「ひとつ」から世界は多様に広がっていく。さまざまな立ちあらわれとなって広がっていく。
私はあなたに、あなたは私に、 いのり、手をあわせていのり、その手は
優れたものにいのり、劣ったものにいのり、
醜いものにいのり、美しいものにいのり、
幸福なものにいのり、不幸なものにいのり、
浄らかなものにいのり、不浄のものにいのり、
死に向かうものにいのり、生けるものにいのり、
手のさきにふれるものからしみでる花びら、一枚、
二枚三枚、
四枚、五枚、
その数は、一枚から十万枚までこの詩には書かれているが、「十万枚」は「無数」のことである。
ここに書かれているのは「一則多」ということである。高橋の「肉体」は完全なる「一」を目指して動いている。「一」をめざすために「無」に向かう。「二元論」から出発して「一元論」へ向かうために、ことばを鍛えなおす--というのが高橋の詩であると思った。
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