詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

川口晴美「発熱」、阿部嘉昭「川幅に似たからだが」

2010-12-30 23:59:59 | 詩集
川口晴美「発熱」、阿部嘉昭「川幅に似たからだが」(「現代詩手帖」2010年12月号)

 あ、これはいいことばだなあ、真似してつかいたいなあと思う詩に出合ったとき、ちょっとうれしくなる。
 川口晴美「発熱」。

皮膚を滑りひそかにわきのしたにはさみこまれる体温計の
内部を伸びていく水銀のように
西へ向かう午後の私鉄の空いた席に座って運ばれる

 この2行目がとてもいい。私は「体温計」ではないのだが、体温計になって、川口の脇の下に挟まれ、勃起する。あ、これって、セクハラ? 体温計のなかの水銀の伸びていく感じが、「内部を」ということばによって、私の内部で「伸びる」ものを刺激するのである。
 こんな「誤読」は川口には迷惑かもしれないが、もし私が10代なら、この1行を読みながらマスターベーションをしたかもしれない。

ぬるくあたためられたからだの内部で増していくつめたさ
うごめく鈍い光は誰にも見えない

 あ、いいなあ。
 川口は川口自身の「発熱」についてていねいに書いているのだが、なぜだか、私は痴漢になった気持ちになる。
 川口の意志というか、感情とは無関係に、私は川口のことばの一部に欲情する。そのとき、きっと川口の「からだ」の内部では、冷たい憎悪がうごめいている。でもね、そのつめたい憎悪は「誰にも見えない」。
 --書いていない。そんなことは、まったく書いていない。川口は「痴漢被害」のことを書いているわけではない。
 けれども、なぜか、私はそう読んでしまう。そして、読みながら痴漢になってしまう。最後の方を読むと、(原作の全文を知らず、私の引用している部分だけを読むと)、きっと「誤読」するだろう。

それならかたく透き通った先端を突き抜けてどこまでも行ってもかまわない
砕け飛んだ殻と触れることのできない痛みを撒き散らしながら
かくされた皮膚は笑うかたちで破れるだろう
向井の席に座って眠り書けていた知らないひとが
がくりと頽れるようにうなずいて
急行電車の扉が開く

                (川口晴美「発熱」の初出は、「かばん」6月号)



 阿部嘉昭「川幅に似たからだが」も、書き出しが刺激的だ。

川幅に似たからだが
ひとのいない夕暮れに
みずから陽炎となり
水を運ぶことがあるだろう

 私は「からだ」ということばに弱い(ひきずられる)のかもしれない。
 この詩がおもしろいのは、「川幅に似たからだ」というものが実際にはありはしないことである。私は田舎の山の中で育ったが、その山のなかの小さな川でも、人間のからだの幅よりは広い。人間のからだを基準にしていうと、そんな狭い川幅など、きっとどこにもない。
 それなのに、この行にひかれてしまう。
 このとき、私は「川幅に似たからだ」ではなく、「からだの幅に似た川」を思い出しているのではなく、「からだの幅」で「川」が生まれるのを見ているのだ。ありもしないものが出現してくるのを見ている。
 夕暮れ。ゆらゆらゆれる陽炎。そこに「逃げ水」はあるか。私は「からだの幅」で「逃げ水」を見てしまう。そして、その「逃げ水」を阿部が「川」と呼んでいるのだと「誤読」する。
 「逃げ水」とともにある「遠いからだ」--それは「逃げ水」をひきつれて流れる「川」なのだ。
 このとき、「川」となった「ひと」は暑苦しいだろうか。暑苦しいかもしれない。けれど、そこにある「逃げ水」のまぼろしが、不思議な涼しさをも感じさせる。「逃げ水」が涼しいというのは幻だし、矛盾なのだが、矛盾だからこそ、そこに「正しい日本語」では書けない真実--詩という真実がある。




EXIT.
川口 晴美
ふらんす堂

昨日知った、あらゆる声で
阿部 嘉昭
書肆山田
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ジョナサン・デミ監督「羊たちの沈黙」(★★★★)

2010-12-30 11:06:13 | 午前十時の映画祭
監督ジョナサン・デミ
出演ジョディ・フォスター、アンソニー・ホプキンス

 この映画の成功は、ジョディ・フォスターの力が一番大きい。まるでギリシャ悲劇の主役のように、内面に傷をかかえながら、他者(アンソニー・ホプキンス)に翻弄されながら、状況を切り開いていくのだが、低く知性的な声とシャープな肉体が、小さいながらも画面をぐいと引き締める。この映画以降、女性が「華」から「主役」へと大きく前進したと思う。
 アンソニー・ホプキンスはもしかするとジョディ・フォスターの身長に合わせる形でキャスティングされたのかもしれないが、イギリス俳優特有の立ち姿の美しさで、小さな体を大きく見せている。
 定評のある作品なので、あえて不満点だけを書いておく。
 ひとつめ。
 冒頭のクレジットが不細工。文字の大きさ、位置が目障りでしょうがない。私は、この冒頭のクレジットをすっかり忘れていた。ジョディ・フォスターが森を走っている。ジャージーの襟元と背中に汗がにじんでいる。(どうせなら、脇の下にも汗のにじみをつくるくらいのリアリティーがほしかった。)そこへ背後から大きな背中が近づいてくる。ジョディ・フォスターの小ささを生かした緊迫化のある始まりなのだが、文字が本当に邪魔である。私は記憶の中でその邪魔な文字を知らずに消してしまっていた。
 ふたつめ。
 ジョディ・フォスターがアンソニー・ホプキンスのことばを手掛かりに、連続殺人犯に迫っていく。その一番肝心な場面。ジョディ・フォスターが女友だちと会話する。「欲望の対象は一番身近にある(いつも見ているもの)」「最初の被害者にだけ重石がついていたのは発見を遅らせるため」などなど。あ、これが小説(ことば)ならそれでいいのだけれど、映画のクライマックスにこれはないだろうなあ。いや、ことばでもいいのだけれど、そのときは、ジョディ・フォスターとアンソニー・ホプキンスが同時に画面にいないとなあ。ふたりの役者の肉体がことばを超えていれば、そこにどんなにことばがあってもいけれど、一方のアンソニー・ホプキンスが不在で、話し相手が女友だちでは、ことばが主役になってしまう。
映画の主役はことばじゃないよなあ。
だからね。ほら、
最後のシーンがおもしろいよね。アンソニー・ホプキンスの主治医が南米(?)へ逃げてきて、「安全は大丈夫だろうな」と周りを見合し、そそくさとどこかへ行く。それを金髪で変装したアンソニー・ホプキンスがゆったりと追う。結論は描かず、いつもと同じ街、人通りが延々と写される。クレジットが画面の細部を隠す。あ、もしかしたら、あの文字の陰で・・・なんて思いながら食い入るように見てしまう。
こういうシーンが映画なんだよなあ。


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