詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粕谷栄市『遠い 川』(14)

2010-12-05 23:59:59 | 詩集
粕谷栄市『遠い 川』(14)(思潮社、2010年10月30日発行)

 この詩集には何度も何度も「死」が出てくる。ぜんぜん、変わらない。どこまでいっても同じことが書いてある。こんなに同じことが書いてあると、読んでいて飽きてもいいはずなのに(失礼!)、なぜか、飽きない。書くべき感想は、もう、何もない--という気がするのだが、書いてしまう。
 「幽霊」。

 いまさら、何をいうこともないが、幽霊になることは、
淋しいものだ。幽霊になってみると分かるが、淋しくて、
淋しくて、いたたまれないものだ。
 まして、貧しく心ぼそい一生を送った男が、幽霊にな
ると、淋しくて、淋しくて、もう、どうしてよいか、分
からない。

 書き出しは、多くの作品に共通しているように、繰り返してである。話(?)はなかなか進まない。そして、最後はというと、

 わずかに、願うことといえば、やはり、どこかの貧し
く心細い一生を送っている男に、そんな自分の古い提灯
の夢を見てもらうことだ。
 つまり、一昔前のありきたりの絵草紙にあるように、
傾いて立つ墓石と風に揺れている芒の寒い夕空に、ぽつ
んと、浮かんでいる小さな古い提灯の夢だ。

 「夢」が出てくる。他人の「夢」のなかで生きている「自分」へと落ち着く。「夢」のなかで、安住する。「夢」が人を救う。「夢」のなかで「自分」と「他者」が一体になる。そういう世界である。
 それぞれが微妙に違うといえば違うけれど、同じといえば同じ感じである。それなのに、それぞれがおもしろい。
 なぜだろう。
 それは、ここに書かれていること、この詩集に書かれいてることばが「考え」だからである。

 人間は、深い闇から、生まれてくるときも一人で、死
んでそこへ、帰るときも一人だということは、分かって
いたが、それからのことは、考えることもなかった。

 粕谷は「思った」ことを書いているのではない。粕谷のこの詩集を貫くことばは、「思った」ことを書くことばではない。ここには「考え」が書かれているのだ。
 「思う」と「考える」は、どう違うか。
 いろいろな「定義」があると思うけれど、「思う」はばらばらである。散らばっていく。一貫性がない。その場その場で、ふっと、動いてしまう感覚、感情、--そういうものが「思う」の運動である。
 「考える」はその場その場ではない。散らばってはいかない。「一つ」考える。その「一つ」考えたことを踏まえて、次を考える。「考える」というのは、「散文」の運動なのだ。

散文だったらね、「何ひとつ書く事はない」って書いて、その後を書きつないだら嘘になっちゃうんですよ。だけど詩の場合には、「何ひとつ書く事はない」と書いてその後を書いても、成り立つっていうことがあるんだという発見ですね。

 というのは、谷川俊太郎が『ぼくはこうやって詩を書いてきた』(ナナロク社)の中で語っていたことばだが、なにごとかを「一つ」書いて、その書いたことを踏まえながら書きつなぐ、書きつなぎながら進んでいくというのが「散文」である。考えるというのは、その「散文」の作業である。「一つ」「一つ」を積み重ねて、その積み重ねの過程から「嘘」を締め出す--というのが「散文」である。
 粕谷は、この詩集では、嘘をひとつひとつ締め出しながら、「考える」のである。死とは何か。夢とは何か。生きるとは、生き残っているとはどういうことなのか。生と死の接点、その境界線はどこにあるのか。その境界線にふれたとき、ひとはどんなことができるのか。
 粕谷は思っているのではない。考えているのだ。
 そのことばは、少しずつしか進んでゆかない。

 いまさら、何をいうこともないが、幽霊になることは、
淋しいものだ。幽霊になってみると分かるが、淋しくて、
淋しくて、いたたまれないものだ。
 まして、貧しく心ぼそい一生を送った男が、幽霊にな
ると、淋しくて、淋しくて、もう、どうしてよいか、分
からない。

 この書き出しは、「淋しい」と繰り返しているだけのように見えるが、実際に、繰り返すことで、少しだけ動いている。「淋しくて、いたたまれない」から、「淋しくて、もう、どうしてよいか、分からない。」へと、ことば動いている。
 淋しいことがかわったわけではないが、「いたたまれない」から「どうしてよい、分からない」ということころまで、ことばはたしかに動いているだ。
 最後の「ぽつんと、浮かんでいる小さな古い提灯の夢だ。」も、それは「考え」なのである。考えた結果として、提灯と夢があるのだ。

 「考え」というのは、難しいことばでいえば「思想」である。「思想」というものは、どんな思想書でもそうだが、何度も何度も同じことを書いてある。いや、まったく同じではなく、少しずつ少しずつ何かが変わっているのだが、それが何であるかを見きわめようとすると、よくわからない。分厚い本なのに、最初から最後まで何も変わらない--まるで変わらないことが「思想」とでもいうようである。
 粕谷の今回の詩集は(それ以前もそうなのだろうけれど)、そういう「思想」(考え)がびっしりと詰まっている本なのである。
 私は、さっき「少しずつ少しずつ変わっている」と書いたが、その「少しずつ」はあす読み返すと「少し」ではなく、とてつもなく「大きく」に見えたりする。「少し」七日に、「深い」なにごとかが見えたりする。それが「思想」というものなのだと私は感じている。

 粕谷の詩を読んで、私の書いている感想は、毎日違っているのか、それともまったく同じことを書いているのか--あ、これも、よくわからないねえ。粕谷のことばをより理解できるようになっているか、それともますます間違えて、とんでもないことを書いているだけなのか--こんなことは、私が書くのをやめた後も、結局わからないだろうなあ。
 きょうは「幽霊」という詩に向き合って、私のことばは、こんなふうに動いた。こんなところで、急に谷川俊太郎か「鳥羽」について語ったことばがよみがえってきた--という「こと」があるだけだ。
 こんなことは、どれだけ書いても何にもならないのかもしれないが、粕谷の「考え」の強靱さに触れると、なぜか、激しく揺さぶられて、私は書かずにはいられなくなるのだ。ことばが動かされてしまうのだ。

 粕谷が書いていることば、その内容は、私には結局わからないかもしれない。それはわからないけれど、粕谷が書いていることはとても真剣なことであり、そのことばには向き合わなければ、粕谷のことは何もわからないということだけはわかる。



転落
粕谷 栄市
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(156 )

2010-12-05 11:22:19 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(156 )

 「口語」も、「自然」と同じように西脇の思考を攪拌する。そうして自由にする。そういう働きをしていると思う。

たそがれの人間はささやくだけだ
しかし人間は完全になくなることはない
ただ形をかえるだけだ
現在をなくすことは
人間の言葉をなくすことだ
どこかで人間がまたつくられている
--おつかさんはとんだことだつたね
--ながくわずらつていたんですよ
かくされたものは美しい
葡萄と蓮の実の最後のばんさんを祝福する

 「頭脳」で考えていた窮屈なことがらが、口語によって「肉体的」になる。
 人間が存在をなくすこと--死。これに対する反対概念は「生」である。「誕生」である。人間が死んでも、どこかでまた人間がつくられる--これは、誕生するという具合に読むことができる。あ、しかし、このものの見方、考え方は、私の感覚ではあまりにも「頭脳的」である。
 西脇は、ほんとうに、そんなことを言っているのか。
 私には違ったふうに感じられる。

--おつかさんはとんだことだつたね
--ながくわずらつていたんですよ

 ここには赤ちゃんの「誕生」は書かれていない。逆に、母の(たぶん、老いた母の)死が語られている。そして、その語りの中にこそ、「人間がまたつくられている」というふうに私は読むのである。
 語ることのなかで、母がよみがえる。「ながくわずらつていた」という時間がよみがえる。
 だけではない。
 そういう母の姿をひとり抱え込んでいた話者の時間がよみがえる。いのちのありかたが浮かび上がる。
 それに対して「かくされたものは美しい」というのである。このとき「かくされたもの」とは病気の母をかかえ、苦労しているその暮らしを「かくす」話者の生き方である。
 こういう態度に「美」をみるというのは、あまりに東洋的かもしれない。けれど、西脇には、そういう東洋的なものがあるのだと思う。そして、その東洋的なものが、西脇を不思議にすばやく動かしているように感じられる。



詩集 (定本 西脇順三郎全集)
西脇 順三郎
筑摩書房
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マルセル・カルネ監督「天井桟敷の人々」(★★★★★+★★★★★)

2010-12-05 10:30:20 | 午前十時の映画祭

監督 マルセル・カルネ 脚本 ジャック・プレヴェール 出演 アルレッティ、ジャン= ルイ・バロー、ピエール・ブラッスール、ピエール・ルノワール、マリア・カザレス、マルセル・エラン

 この映画の充実は冒頭の「犯罪大通り」とラストのシーンに象徴されている。スクリーンからあふれる群衆。手前で重量挙げ(?)の大道芸、遠くでカンカン踊りの呼び込み――が1カットに納まる。あ、いったい何人動員して撮影したんだろう。リハーサルはどうしたんだろう。手間がかかるよなあ。でも、その手間を惜しまず、丁寧に丁寧に作ったのがこの映画だ。
 そして手間暇をかけるといえば、やっぱり、恋愛。人生でいちばん手間がかかることを、ほんとうに丁寧に描いている。恋愛と同棲(セックス)と結婚は別、そして恋愛(愛)こそが人間の名誉がかかった大切なもの――というフランス人の「哲学」が、まあ、丁寧で丁寧で丁寧で、これは若者にはわかりませんねえ。
私は30年ほど前に見た時は、変な三角関係(二重の三角関係)くらいの見方しかできなかったが、いやあ、違いますねえ。
特に、男のうじゃうじゃとした「嫉妬」がすごい。女の方は「嫉妬」しない。セックスの結婚も超越して、ただ純粋に「愛」を生きている。信じている。きっぱりと、生きている。愛のプロだねえ。「愛に正しいも、間違いもない。ただ愛の人生があるだけだ」は「ウエストサイド物語」のなかのセリフだが、その女の「愛の人生」のなかで、男がうじゃうじゃしている、ああだ、こうだ、と悩み、決闘も、暗殺(?)もしてしまう。去った女を、必死に追いかける。
その出会いから別れまで、ほんとうに丁寧だなあ。
如実にあらわれるのが、セリフだ。ことばがどんどん磨かれてゆく。「愛している人同士にはパリは狭い」というのは、最初は「ほんとうに愛しているなら、必ずあえるはず。約束しないと会えないのは愛がないから」という拒絶の意味だったのが、「会いたい、会える」という祈りにかわる。最後は、その「狭い」パリ、狭い狭い犯罪大通りの人ごみの「狭さ」が愛し合っている2 人を引き裂いてしまう。「ガランス」と叫ぶ声をかき消してしまう。(「望郷」のラストみたいだなあ。)
そのほかのセリフも、愛が真剣になるばなるほど、とぎすまされ、無駄のないことばになっていく。どこをとっても「名セリフ」ばかりである。しかし、それが「ことば」として浮いてしまわないのは、役者の力だなあ。
その役者の力にあわせるように・・・。
「愛」の人生の一方、役者人生、芸人人生がオーバーラップするのも、おもしろいなあ。「芸人」を描いた映画ともいえる。「嫉妬」に苦しみ、その果てに「オセロ」を演じることができると確信するところなんか、すごいなあ。「女(恋愛)は芸のこやし」を地でやっている。「生活」が「芸」を育てていく。「生活」を「芸」のなかに次々にとりこんでゆく。「オセロ」のように人間理解だけではなく、嫌いな人間を芝居のなかでからかったり、アドリブで芝居をかえたり・・・たくましいねえ。
けっして見あきることのない映画、傑作中の傑作のこの映画が、しかし、第二次大戦中、ドイツの占領下でつくらたというのは奇跡だ。さすが恋愛の国フランス、映画の国フランスだね。



書きそびれたが、アルレッティは不思議な女優だ。私は、アルレッティを美人だと思ったことはないが、どんな視線も飲み込んでしまう(ひきつけるを通り越している)肉体をもっている。最初、見世物小屋の「ヌード」で登場するが、そのエセヌード、女体の秘密でさえ、なんというか怒ることを忘れさせる何かがある。だまされているのに怒りださない「紳士たち」の気持ちがなんとなく納得できる。人間ではなく「おんな」がそこにいる。それは「男」とは違っている。「おんな」としか言えない「いきもの」がまっすぐに存在している。その、「まっすぐ」の力がすごい。

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