粕谷栄市『遠い 川』(14)(思潮社、2010年10月30日発行)
この詩集には何度も何度も「死」が出てくる。ぜんぜん、変わらない。どこまでいっても同じことが書いてある。こんなに同じことが書いてあると、読んでいて飽きてもいいはずなのに(失礼!)、なぜか、飽きない。書くべき感想は、もう、何もない--という気がするのだが、書いてしまう。
「幽霊」。
書き出しは、多くの作品に共通しているように、繰り返してである。話(?)はなかなか進まない。そして、最後はというと、
「夢」が出てくる。他人の「夢」のなかで生きている「自分」へと落ち着く。「夢」のなかで、安住する。「夢」が人を救う。「夢」のなかで「自分」と「他者」が一体になる。そういう世界である。
それぞれが微妙に違うといえば違うけれど、同じといえば同じ感じである。それなのに、それぞれがおもしろい。
なぜだろう。
それは、ここに書かれていること、この詩集に書かれいてることばが「考え」だからである。
粕谷は「思った」ことを書いているのではない。粕谷のこの詩集を貫くことばは、「思った」ことを書くことばではない。ここには「考え」が書かれているのだ。
「思う」と「考える」は、どう違うか。
いろいろな「定義」があると思うけれど、「思う」はばらばらである。散らばっていく。一貫性がない。その場その場で、ふっと、動いてしまう感覚、感情、--そういうものが「思う」の運動である。
「考える」はその場その場ではない。散らばってはいかない。「一つ」考える。その「一つ」考えたことを踏まえて、次を考える。「考える」というのは、「散文」の運動なのだ。
というのは、谷川俊太郎が『ぼくはこうやって詩を書いてきた』(ナナロク社)の中で語っていたことばだが、なにごとかを「一つ」書いて、その書いたことを踏まえながら書きつなぐ、書きつなぎながら進んでいくというのが「散文」である。考えるというのは、その「散文」の作業である。「一つ」「一つ」を積み重ねて、その積み重ねの過程から「嘘」を締め出す--というのが「散文」である。
粕谷は、この詩集では、嘘をひとつひとつ締め出しながら、「考える」のである。死とは何か。夢とは何か。生きるとは、生き残っているとはどういうことなのか。生と死の接点、その境界線はどこにあるのか。その境界線にふれたとき、ひとはどんなことができるのか。
粕谷は思っているのではない。考えているのだ。
そのことばは、少しずつしか進んでゆかない。
この書き出しは、「淋しい」と繰り返しているだけのように見えるが、実際に、繰り返すことで、少しだけ動いている。「淋しくて、いたたまれない」から、「淋しくて、もう、どうしてよいか、分からない。」へと、ことば動いている。
淋しいことがかわったわけではないが、「いたたまれない」から「どうしてよい、分からない」ということころまで、ことばはたしかに動いているだ。
最後の「ぽつんと、浮かんでいる小さな古い提灯の夢だ。」も、それは「考え」なのである。考えた結果として、提灯と夢があるのだ。
「考え」というのは、難しいことばでいえば「思想」である。「思想」というものは、どんな思想書でもそうだが、何度も何度も同じことを書いてある。いや、まったく同じではなく、少しずつ少しずつ何かが変わっているのだが、それが何であるかを見きわめようとすると、よくわからない。分厚い本なのに、最初から最後まで何も変わらない--まるで変わらないことが「思想」とでもいうようである。
粕谷の今回の詩集は(それ以前もそうなのだろうけれど)、そういう「思想」(考え)がびっしりと詰まっている本なのである。
私は、さっき「少しずつ少しずつ変わっている」と書いたが、その「少しずつ」はあす読み返すと「少し」ではなく、とてつもなく「大きく」に見えたりする。「少し」七日に、「深い」なにごとかが見えたりする。それが「思想」というものなのだと私は感じている。
粕谷の詩を読んで、私の書いている感想は、毎日違っているのか、それともまったく同じことを書いているのか--あ、これも、よくわからないねえ。粕谷のことばをより理解できるようになっているか、それともますます間違えて、とんでもないことを書いているだけなのか--こんなことは、私が書くのをやめた後も、結局わからないだろうなあ。
きょうは「幽霊」という詩に向き合って、私のことばは、こんなふうに動いた。こんなところで、急に谷川俊太郎か「鳥羽」について語ったことばがよみがえってきた--という「こと」があるだけだ。
こんなことは、どれだけ書いても何にもならないのかもしれないが、粕谷の「考え」の強靱さに触れると、なぜか、激しく揺さぶられて、私は書かずにはいられなくなるのだ。ことばが動かされてしまうのだ。
粕谷が書いていることば、その内容は、私には結局わからないかもしれない。それはわからないけれど、粕谷が書いていることはとても真剣なことであり、そのことばには向き合わなければ、粕谷のことは何もわからないということだけはわかる。
この詩集には何度も何度も「死」が出てくる。ぜんぜん、変わらない。どこまでいっても同じことが書いてある。こんなに同じことが書いてあると、読んでいて飽きてもいいはずなのに(失礼!)、なぜか、飽きない。書くべき感想は、もう、何もない--という気がするのだが、書いてしまう。
「幽霊」。
いまさら、何をいうこともないが、幽霊になることは、
淋しいものだ。幽霊になってみると分かるが、淋しくて、
淋しくて、いたたまれないものだ。
まして、貧しく心ぼそい一生を送った男が、幽霊にな
ると、淋しくて、淋しくて、もう、どうしてよいか、分
からない。
書き出しは、多くの作品に共通しているように、繰り返してである。話(?)はなかなか進まない。そして、最後はというと、
わずかに、願うことといえば、やはり、どこかの貧し
く心細い一生を送っている男に、そんな自分の古い提灯
の夢を見てもらうことだ。
つまり、一昔前のありきたりの絵草紙にあるように、
傾いて立つ墓石と風に揺れている芒の寒い夕空に、ぽつ
んと、浮かんでいる小さな古い提灯の夢だ。
「夢」が出てくる。他人の「夢」のなかで生きている「自分」へと落ち着く。「夢」のなかで、安住する。「夢」が人を救う。「夢」のなかで「自分」と「他者」が一体になる。そういう世界である。
それぞれが微妙に違うといえば違うけれど、同じといえば同じ感じである。それなのに、それぞれがおもしろい。
なぜだろう。
それは、ここに書かれていること、この詩集に書かれいてることばが「考え」だからである。
人間は、深い闇から、生まれてくるときも一人で、死
んでそこへ、帰るときも一人だということは、分かって
いたが、それからのことは、考えることもなかった。
粕谷は「思った」ことを書いているのではない。粕谷のこの詩集を貫くことばは、「思った」ことを書くことばではない。ここには「考え」が書かれているのだ。
「思う」と「考える」は、どう違うか。
いろいろな「定義」があると思うけれど、「思う」はばらばらである。散らばっていく。一貫性がない。その場その場で、ふっと、動いてしまう感覚、感情、--そういうものが「思う」の運動である。
「考える」はその場その場ではない。散らばってはいかない。「一つ」考える。その「一つ」考えたことを踏まえて、次を考える。「考える」というのは、「散文」の運動なのだ。
散文だったらね、「何ひとつ書く事はない」って書いて、その後を書きつないだら嘘になっちゃうんですよ。だけど詩の場合には、「何ひとつ書く事はない」と書いてその後を書いても、成り立つっていうことがあるんだという発見ですね。
というのは、谷川俊太郎が『ぼくはこうやって詩を書いてきた』(ナナロク社)の中で語っていたことばだが、なにごとかを「一つ」書いて、その書いたことを踏まえながら書きつなぐ、書きつなぎながら進んでいくというのが「散文」である。考えるというのは、その「散文」の作業である。「一つ」「一つ」を積み重ねて、その積み重ねの過程から「嘘」を締め出す--というのが「散文」である。
粕谷は、この詩集では、嘘をひとつひとつ締め出しながら、「考える」のである。死とは何か。夢とは何か。生きるとは、生き残っているとはどういうことなのか。生と死の接点、その境界線はどこにあるのか。その境界線にふれたとき、ひとはどんなことができるのか。
粕谷は思っているのではない。考えているのだ。
そのことばは、少しずつしか進んでゆかない。
いまさら、何をいうこともないが、幽霊になることは、
淋しいものだ。幽霊になってみると分かるが、淋しくて、
淋しくて、いたたまれないものだ。
まして、貧しく心ぼそい一生を送った男が、幽霊にな
ると、淋しくて、淋しくて、もう、どうしてよいか、分
からない。
この書き出しは、「淋しい」と繰り返しているだけのように見えるが、実際に、繰り返すことで、少しだけ動いている。「淋しくて、いたたまれない」から、「淋しくて、もう、どうしてよいか、分からない。」へと、ことば動いている。
淋しいことがかわったわけではないが、「いたたまれない」から「どうしてよい、分からない」ということころまで、ことばはたしかに動いているだ。
最後の「ぽつんと、浮かんでいる小さな古い提灯の夢だ。」も、それは「考え」なのである。考えた結果として、提灯と夢があるのだ。
「考え」というのは、難しいことばでいえば「思想」である。「思想」というものは、どんな思想書でもそうだが、何度も何度も同じことを書いてある。いや、まったく同じではなく、少しずつ少しずつ何かが変わっているのだが、それが何であるかを見きわめようとすると、よくわからない。分厚い本なのに、最初から最後まで何も変わらない--まるで変わらないことが「思想」とでもいうようである。
粕谷の今回の詩集は(それ以前もそうなのだろうけれど)、そういう「思想」(考え)がびっしりと詰まっている本なのである。
私は、さっき「少しずつ少しずつ変わっている」と書いたが、その「少しずつ」はあす読み返すと「少し」ではなく、とてつもなく「大きく」に見えたりする。「少し」七日に、「深い」なにごとかが見えたりする。それが「思想」というものなのだと私は感じている。
粕谷の詩を読んで、私の書いている感想は、毎日違っているのか、それともまったく同じことを書いているのか--あ、これも、よくわからないねえ。粕谷のことばをより理解できるようになっているか、それともますます間違えて、とんでもないことを書いているだけなのか--こんなことは、私が書くのをやめた後も、結局わからないだろうなあ。
きょうは「幽霊」という詩に向き合って、私のことばは、こんなふうに動いた。こんなところで、急に谷川俊太郎か「鳥羽」について語ったことばがよみがえってきた--という「こと」があるだけだ。
こんなことは、どれだけ書いても何にもならないのかもしれないが、粕谷の「考え」の強靱さに触れると、なぜか、激しく揺さぶられて、私は書かずにはいられなくなるのだ。ことばが動かされてしまうのだ。
粕谷が書いていることば、その内容は、私には結局わからないかもしれない。それはわからないけれど、粕谷が書いていることはとても真剣なことであり、そのことばには向き合わなければ、粕谷のことは何もわからないということだけはわかる。
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