粕谷栄市『遠い 川』(18)(思潮社、2010年10月30日発行)
「夢の墓」は、タイトルそのものがすでに二重の「意味」を持っている。夢で(眠りのなかで)見た墓、理想の(夢の)墓。そして二重でありながら、ひとつの「意味」であるとも言うことができる。夢で見た夢が夢の墓である。眠りの中で見た墓が理想の墓である。どっちだろう。
「何故か、」ということばが、この描写は夢であると告げているかもしれない。眠りのなかで見た「無意識」の世界。無意識だから、その理由を、意識として書くことができない。「何故か、」とわからないものとして書くしかないのだろう。
この「わからない」は、少しことばが動いたあと、次のことばに変わる。
私はびっくりしてしまった。あらゆるものに「持続」がある。時間の前後がある。それは私たちが意識的に理解していることなのか、それとも無意識的に納得していることなのかよくわからないが、あることがらには「前後」というものがあり、その「前後」には「接続」があり、一定の「持続」があると思っている。粕谷もそう思っているからこそ、あえて、「その前のことも、その後のことも、私は、知らない。」と書いているのだが、そこに私はびっくりしてしまった。
あ、そうなのだ。あらゆるものに「持続」があるけれど、そういう「持続」とは無関係に私たちは何かを見ることができる。あるものを、そのあるものの「世界」から切り離して、「世界」とは無関係なものとして見ることができる。
そのとき、その「あるもの」はどうなるのだろうか。
ある「存在」に「前後」がないとき、因果関係というか、時間が存在しないとき、ひとは、その「存在」とどのようにでも結びつくことができる。「私」は「私」であることもできるが、「彼」でもいい。「墓」でもいい。
では、こういうとき、「真実」というのはどのようなものになるのだろうか。「真実」というものはなくなってしまわないか。
なくならない。
「深い根拠」は、このことばのあとに書かれるが、その「根拠」に触れる前に、この段落でどうしても触れておきたいことばがある。「一切」。これは、「その前のことも、その後のことも、私は、知らない。」と同様に、私をびっくりさせた。
存在が「前後」を失い、なんだか、わけのわからないものになる。「世界」とは無関係なものになる。そのとき、「存在」は、いくつある? この作品ではたまたま「ひとりの男」「石の墓」が「存在」としてくっきり見えるものだが、よくよく見れば「鉄の柵」というものもある。「霧」があり、「光」もある。
そして、それ以上に、強く(なぜか、強く、と書いてしまういたいのだが)存在するのもがある。それは「もの」ではなく、石の墓を「抱く」(抱き起こす)という行為である。
「一切」には、行動も含まれているはずなのだ。そして、行動というのは「もの」と違って、必ず時間の前後を持っている。肉体が動くとき、そこには「時間」がいっしょに動いている。けれども、粕谷は、その前後がわからない。わからないまま、しかし、そこには「石の墓」を「抱き起こす」という「時間」がある。また、それを「見る」という「時間」もある。そして、矛盾したことを書いてしまうが、粕谷が「一切」と書くとき、その「時間」は「前後」を失っている。
失っていなければならない。--「根拠」という限りにおいては。
世界から切り離された世界。一瞬。そこに、いったいどんな根拠があるのか。しかし、そこには根拠はない。粕谷は「どうでもよいことだ。」と書いている。
「どうでもよいこと」。だが、この「どうでもよいこ」こそ、あらゆる根拠である。意味があるのは、粕谷が書いているように、ある瞬間に、ある情景が「鮮明な、そのすがた」であることなのだ。
私たちは、何もかもから切り離され、ただ鮮明にある何かと自分をつなげて、「いま」「ここ」「わたし」というものを存在させる。生起させる。それが、「いま」「ここ」に「生きている」ということなのだ。
この「いのち」の生起の記録として、詩があるのだ。
粕谷のこの詩集には「死」が頻繁に出てくるが、同時に「いのち」の生起としての事件も頻発する。「死んでゆく」のは、同時に、なにごとかを生起させつづける、なにごとかを産みつづけることである、死ぬこともまた産むことなのだ、と粕谷は知っているのだ。死は存在しながら、存在しないのだ。そこには「妖しいばかりに鮮明な、粕谷のことばだけがある。」と粕谷のことばを借りながら、私は、そう言いなおしたい。そして、また、言い直したい。
粕谷の記憶、粕谷のことばは粕谷だけのものである。だが、それを読んだとき、それは粕谷のことばでありながら、粕谷のことばではない。粕谷がどう考えていたかはどうでもいいことだ。粕谷の考えていたことは、どうとでも詮索できる。だが、どうでもいいことだ。私ととって意味があるのは、粕谷が印象的なことばを書いた。私の知らないことばを書いた。私はそれを読んでしまった。そして、そのことばからなにごとかを考えてしまった。何を考えたか思い起こすとき、ただ、そこに粕谷のことばが鮮明によみがえってくる、そこに新しく生きはじめるということだけだ、と。
「夢の墓」は、タイトルそのものがすでに二重の「意味」を持っている。夢で(眠りのなかで)見た墓、理想の(夢の)墓。そして二重でありながら、ひとつの「意味」であるとも言うことができる。夢で見た夢が夢の墓である。眠りの中で見た墓が理想の墓である。どっちだろう。
寒い霧の暁、ひとりの男が、石の墓を抱き起こしてい
るのを見た。何故か、私は、その墓地にいて、鉄の柵を
隔てて、そのすがたを見ることになった。どこからか、
僅かに光が洩れていて、一瞬、その彼が見えたのだ。
「何故か、」ということばが、この描写は夢であると告げているかもしれない。眠りのなかで見た「無意識」の世界。無意識だから、その理由を、意識として書くことができない。「何故か、」とわからないものとして書くしかないのだろう。
この「わからない」は、少しことばが動いたあと、次のことばに変わる。
重い石の墓を、彼は抱き起こしていた。その前のこと
も、その後のことも、私は、知らない。
私はびっくりしてしまった。あらゆるものに「持続」がある。時間の前後がある。それは私たちが意識的に理解していることなのか、それとも無意識的に納得していることなのかよくわからないが、あることがらには「前後」というものがあり、その「前後」には「接続」があり、一定の「持続」があると思っている。粕谷もそう思っているからこそ、あえて、「その前のことも、その後のことも、私は、知らない。」と書いているのだが、そこに私はびっくりしてしまった。
あ、そうなのだ。あらゆるものに「持続」があるけれど、そういう「持続」とは無関係に私たちは何かを見ることができる。あるものを、そのあるものの「世界」から切り離して、「世界」とは無関係なものとして見ることができる。
そのとき、その「あるもの」はどうなるのだろうか。
長く、病気をしていると、人間は、さまざまな夢を見
る。特に、衰弱しているときは、そうである。高熱が続
き、私は、半ば、死にかけていたのだ。
そんなとき、私は、何ものかに抱き起こされて、その
夢を見たのだった。それは、深く心にのこった。
寒い霧の暁、あるいは、私が、その男で、石の墓を抱
き起こしていたのかも知れない。いや、私自身が、石の
墓で、彼に抱き起こされていたのかも知れない。どちら
にしても、私には、一向に、おかしくなかった。
ある「存在」に「前後」がないとき、因果関係というか、時間が存在しないとき、ひとは、その「存在」とどのようにでも結びつくことができる。「私」は「私」であることもできるが、「彼」でもいい。「墓」でもいい。
どちらにしても、私には、一向に、おかしくなかった。
では、こういうとき、「真実」というのはどのようなものになるのだろうか。「真実」というものはなくなってしまわないか。
なくならない。
私は、半ば、死にかけていた。そのとき、私は、それ
を見たのだ。そこには、一切が、そうでなければならな
い、深い根拠のようなものがあった。
「深い根拠」は、このことばのあとに書かれるが、その「根拠」に触れる前に、この段落でどうしても触れておきたいことばがある。「一切」。これは、「その前のことも、その後のことも、私は、知らない。」と同様に、私をびっくりさせた。
存在が「前後」を失い、なんだか、わけのわからないものになる。「世界」とは無関係なものになる。そのとき、「存在」は、いくつある? この作品ではたまたま「ひとりの男」「石の墓」が「存在」としてくっきり見えるものだが、よくよく見れば「鉄の柵」というものもある。「霧」があり、「光」もある。
そして、それ以上に、強く(なぜか、強く、と書いてしまういたいのだが)存在するのもがある。それは「もの」ではなく、石の墓を「抱く」(抱き起こす)という行為である。
「一切」には、行動も含まれているはずなのだ。そして、行動というのは「もの」と違って、必ず時間の前後を持っている。肉体が動くとき、そこには「時間」がいっしょに動いている。けれども、粕谷は、その前後がわからない。わからないまま、しかし、そこには「石の墓」を「抱き起こす」という「時間」がある。また、それを「見る」という「時間」もある。そして、矛盾したことを書いてしまうが、粕谷が「一切」と書くとき、その「時間」は「前後」を失っている。
失っていなければならない。--「根拠」という限りにおいては。
世界から切り離された世界。一瞬。そこに、いったいどんな根拠があるのか。しかし、そこには根拠はない。粕谷は「どうでもよいことだ。」と書いている。
一人の人間の記憶は、彼だけのものである。彼は、さ
まざまな記憶を持ったまま、死んでゆく。この私の夢の
できごとの記憶も、そうなるだろう。
その男が、何ものだったか、どうして、私は、そんな
夢を見たのか。いろいろな詮索ができる。だが、どうで
もよいことだ。
寒い霧の暁、彼は、蒼白な面持ちで、石の墓を抱き起
こしていた。私にとって、意味のあるのは、いまも、妖
しいばかりに鮮明な、そのすがただけだからである。
「どうでもよいこと」。だが、この「どうでもよいこ」こそ、あらゆる根拠である。意味があるのは、粕谷が書いているように、ある瞬間に、ある情景が「鮮明な、そのすがた」であることなのだ。
私たちは、何もかもから切り離され、ただ鮮明にある何かと自分をつなげて、「いま」「ここ」「わたし」というものを存在させる。生起させる。それが、「いま」「ここ」に「生きている」ということなのだ。
この「いのち」の生起の記録として、詩があるのだ。
粕谷のこの詩集には「死」が頻繁に出てくるが、同時に「いのち」の生起としての事件も頻発する。「死んでゆく」のは、同時に、なにごとかを生起させつづける、なにごとかを産みつづけることである、死ぬこともまた産むことなのだ、と粕谷は知っているのだ。死は存在しながら、存在しないのだ。そこには「妖しいばかりに鮮明な、粕谷のことばだけがある。」と粕谷のことばを借りながら、私は、そう言いなおしたい。そして、また、言い直したい。
粕谷の記憶、粕谷のことばは粕谷だけのものである。だが、それを読んだとき、それは粕谷のことばでありながら、粕谷のことばではない。粕谷がどう考えていたかはどうでもいいことだ。粕谷の考えていたことは、どうとでも詮索できる。だが、どうでもいいことだ。私ととって意味があるのは、粕谷が印象的なことばを書いた。私の知らないことばを書いた。私はそれを読んでしまった。そして、そのことばからなにごとかを考えてしまった。何を考えたか思い起こすとき、ただ、そこに粕谷のことばが鮮明によみがえってくる、そこに新しく生きはじめるということだけだ、と。
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