詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

井坂洋子『嵐の前』(4)

2010-12-15 23:59:59 | 詩集
井坂洋子『嵐の前』(4)(思潮社、2010年10月25日発行)

 「テニスの日」という詩のなかに2か所、あ、井坂洋子だと感じる部分がある。直接的なのだ。

湯灌のため上体を起こしパジャマをぬがせる時、マリオネットのように
首をかしげ、ぎくしゃくと腕を交叉させた。(からっぽなんだ)と思っ
た。往診の若い先生が「お顔をつくります」と言い、口や鼻のなかに綿
を詰めた。近親の女たちが体を拭いている。私もそこに混じっていた。
だからよく見えなかったのか。死の小さな通り穴。どんなに小さな穴だ
ろう意識が通るのは。誰も道連れにしないための、声も洩れぬ、光も水
も瞬時にふさいでしまう穴。先生はそこにも綿を詰めたのだと思う。
「では最後にお着物を着せます」
血を溜めた者はいっせいに引き下がった。

 (からっぽなんだ)は、なかなか書けない。思っても、書こうとすると、何か躊躇してしまう。とくに相手が死者なら、そんなふうに意識は働きやすい。しかし、そんな抑制がたとえ働いて書かなかったとしても、そう思ったことは消えはしない。「マリオネット」という「比喩」だけではたどりつけないものがある。いや、「比喩」では隠されてしまうものがある、ということか。
 そうなのだ。「比喩」は隠してしまうのだ。だからこそ、そこから疑問も生まれてくる。死者の穴をふさぐ。死者が生きているものを道連れにするという「穴」をふさぐ。「ひと」と「ひと」をつなぐ「穴」。(なんだか、こんなふうにことばにすると、逸脱が激しくなりそうだが--余分なことを想像してしまいそうだが……。そういうことを井坂が書いている、というのが私の本位ではないのだが……。)そういう「穴」を、意識もまた通るだろうか。そんなふうに考えるとき、「穴」は「比喩」だね。そして、「比喩」が、いろいろ隠してしまう。たとえば私が丸かっこのなかにいれて書いたようなことなどをも。
 だから、井坂は「マリオネット」という「比喩」を「わざと」、(からっぽなんだ)とあばいてみせる。まあ、あばくという気持ちはないかもしれない。「正直」がそこにあるのかもしれない。こいういう気持ちの「正直」が、最後に思いがけないことばを引っ張りだす。

血を溜めた者はいっせいに引き下がった。

 「血を溜めた者」は「生きている人間」の「比喩」であるが、その述語の「引き下がった」は--あ、すごいなあ。(からっぽなんだ)と同じように、ことばスピードが速い。寄り道をしない。直接的である。「意味」的には、死体から「離れた」なのだが、「引き下がった」というとき、その「引き」に不思議な意思以上のものを私は感じてしまう。「下がる」(離れる)だけでは満足できず、「引き」と「下がる」を組み合わせて「引き下がる」と書いてしまう。「いっせいに」が、「下がる」だけでは満足できないこころをあらわしている。

 ところで、この詩は「テニスの日」という「死者」と向き合うにはあまり関係ないようなタイトルがついている。そして、死体の処理をすることばのあいだに、

フィールドニ 黄色イ
テニスノ球ガ飛ンデクル
霊力ガ及ブ範囲ヲ
フタツ擦リ合ワセタトコロニネットヲ張ッテ

 というような、いったい何の関係があるの?というようなことばが挟まっている。それは確かに「無関係」なのだ。しかし、その「無関係」は、「マリオネット」という「比喩」をつかいながら、(からっぽなんだ)とあばいてしまうことばの運動と、どこか通じるものがあるように思う。
 どんなときでも、その書かれたものが引き寄せるもの以外のものがあって、世界はなりなっている。「ひとつ」ではなく「ふたつ」(ふたつ以上)のもので、世界は成り立っている。その「ふたつ」はたとえば死者と生者。湯灌のとき、「ふたつ」は接点をもつ。実際に触れる。けれど、最後に着物を着せるとき、「引き下がる」。「離れる」。裸の死者よりも、着物を着た死者の方が「触りやすい」ものだと思うが--と書いてしまうと、また違ったことに逸脱していきそうだが……。
 逸脱させずに、井坂自身のことばに戻れば--「霊力ガ及ブ範囲ヲ/フタツ擦リ合ワセタトコロニネットヲ張ッテ」と「フタツ」ということばをつかっている。「ふたつ」は井坂にとって、とても重要なことなのだ。「死」という人間にとって決定的なことがらについて考えること(ことばを動かすこと)においても、「ふたつ」を明確にしなければならない。そのために、たとえば、ここでは「テニス」が選ばれているのだ。
 この「ふたつ」に対する意識こそが井坂の「文体」を鍛える力である。「ひとつ」にどっぷりと浸って(のみこまれて?)、そこから「わたし」を作り替えるということばの運動もあるけれど、井坂の場合は、「ひとつ」にどっぷり浸ってしまわない。そんなふうに「酔う」ということをしない。
 「ふたつ」が接触し「ひとつ」になろうとすると、それをぱっと「引き離す」。「ひとつ」になる世界から「引き下がる」のだ。
 そうすると、何が見えるか。「抒情」を超えるものが見える。

黄金ノ縁取リヲモツ夕ベノ雲
後光トイウ橋ニ
誰カイルト思ウノハ錯覚ダガ
スタンドノ客ノナカニ紛レ込ンデ
亡者ハ笑ッテイタ

 「抒情」は「錯覚」であり、「笑い(笑う--笑ッテイタ)」が「真実」である。




詩のレッスン―現代詩100人・21世紀への言葉の冒険
入沢 康夫,井坂 洋子,三木 卓,平出 隆
小学館

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誰も書かなかった西脇順三郎(160 )

2010-12-15 11:43:48 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(160 )

 『豊饒の女神』のつづき。
 私は「意味」ではなく、音に引きずられる癖がある。「女の野原」。

夢ははてしなくつづく
窓から首を出して考える男の
心のくらやみにはもう
すみれも涸れてパンジーも見えない
おぼえているのはてんてんまりない
ふくべとあんずとからす
げんごろうむしとふなだ

 引用部分の最後の2行を漢字混じりで書くと

瓢と杏と烏
ゲンゴロウ虫と鮒だ

 になるのだと思うが、私には「ふなだ」がどうしても「鮒だ」が結びつかない。「だ」が「である」という「断定」のことばとは思えない。
 「ふなだ」という虫(?)や植物があるとは思えないのだけれど、そういう私の知らないものがここに書かれていると思いたいのだ。西脇の詩にはたくさんの植物が出てくる。私は田舎育ちなので、そこに書かれている野の草花は見ていることが多い。そして見ていることは見ているけれど、どっちにしろ山の花、野の花と思って生きてきたので、名前はほとんど知らない。その名前は知らないけれど、どこかに咲いていたり、どこかで遊んでいる虫--それだと思いたいのだ。その知らない「名前」に触れたとき、あ、ことばはこんなところにもある、という驚きが生まれる。あ、こんな何でもない花にも「名前」をつけてきた人がいるんだという驚きが生まれ、なんだかなつかしい気持ちになる。その「気持ち」が優先して「ふなだ」という何かわけのわからないもの求めてしまうのだ。それは「ふなだ」が「鮒だ」とわかったあとでもそうなのだ。
 なぜ、こんなことが起きるか。ひとつには、先に書いたように、「名前」があるにもかかわらず、名前を知らずに見てきたはずのものがある、ということがある。その「もの」の名前の力と関係がある。「もの」に名前をつけるとき、そこには何かしらの「思い」がこめられている。その「思い」、長い時間をかけて引き継がれてきた「思い」が、そこに生きている。「意味」も「もの」もわからないのに、何かその「思い」だけが、そのことば、その音から噴出してくるように感じるのだ。
 音というのは不思議なものだと思う。声というのは不思議なものだと思う。それは「耳」で聴き取り、その「意味」を判断するのだけれど、私の場合、どうも「耳」だけでは「意味」を判断しないようなのである。自分のことなのに、ようなのである、というのも変だけれど、そのことばを自分で声にしたときに感じる肉体の喜び、喉や口蓋、舌、歯、鼻腔などの動きがどうも影響している。肉体に気持ちがいい音は、意味を超えて、好きになってしまう。その音を中心に書かれていることを判断してしまったりするのだ。

げんごろうむしとふなだ

 この1行は、「げんごろうむしとふな」だったら、私の場合、とてもつまらなく感じてしまう。「ふなだ」によって肉体が落ち着く。そしてそれは「鮒だ」ではだめなのだ。「鮒である」という「意味」になってしまってはだめなのだ。
 「やなだ」のまま、「やなだ」って何? そう思うこころ、肉体のなかに響く音を聞きながら、「ふなだ」という「もの」、私が見てきているはずなのに、その「名前」を知らないもの--それを音をたよりに探す。そのときの、不思議な感覚が、私は好きなのだ。その、知っているけれど知らないものを探すということと、詩が、とても強い関係にあると感じているのだ。

ふくべとあんずとからす

 この1行を例に、言いなおした方がわかりやすいかもしれない。
 「ふくべ」は「ひょうたん」だと思う。田舎にいたころ、どこかで、「ふくべ」という音を聞いた記憶がある。ひょうたんを植えていた家で聞いたのかもしれない。そんな役に立たないもの(食べられないからね)を植えているのは、物好きの爺さんである。そういうひとは、まあ、だらしなく着流していたりする。はだけた服から褌が見えていたりする。そこには「ふぐり」の感じが残っている。いや、あらわに見えている。私の肉体のなかで、「ふくべ」は「ふぐり」につながるのである。そして、それは「ふくべ」の丸い形や「ふぐり」の丸い形とも通い合う。「ふくべ」というのは誰が思いついたことばか知らないけれど、そこには「ふぐり」との共通点がある、と私は勝手に思うのである。そうやって、そこにひとつの「世界」ができる。
 そうすると、そのあとの「あんずとからす」がとても変な具合に変化する。「あんず」は「あんず」のままだが、「と、からす」と「とからす」という、どこにも存在しないものになる。そこには「とかす、とける」という音があって、それが、子どもごごろ(?)に、「ふぐり」とはか「セックス」とかを思い出させる。何も知らないくせに、田舎の子どもというのは、そういう連想だけはしっかりとしてしまうのだ。「ふくべと」の「べと」という音のつながりも、なぜか、とても好きだなあ。「べと」や「とからす」が影響して「ふなだ」もひとつの「音」の連続になるんだろうなあ。
 でも、なんだろうなあ、これは。こういうことって、ほかの人には起きないのだろうか。「音」にひっぱられて「意味」からかけはなれたところへ行ってしまうということは、ほかの人には起きないのだろうか。

 「げんごろうむしとふなだ」は「春」の印象が私にはあるのだが、西脇の詩はなぜか秋につながっていく。

秋はかすかに袖にふれる
友人が手紙と夏のおわりのばらを
送ってくれたこの朝
あの下手なつるの文字はみえないが
指先が女神のつゆにぬれる
香いは昔住んだ庭をおもわはる
この切られた女の野原

 この部分では、私は、

あの下手なつるの文字はみえないが
指先が女神のつゆにぬれる

 の2行が好きだ。「つる」「つゆ」「ぬれる」の音が楽しい。まあ、これを楽しいというのは、私がまたすけべな連想をするからなのだが。
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西脇順三郎詩集 (世界の詩 50)
西脇 順三郎
彌生書房
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