井坂洋子『嵐の前』(4)(思潮社、2010年10月25日発行)
「テニスの日」という詩のなかに2か所、あ、井坂洋子だと感じる部分がある。直接的なのだ。
(からっぽなんだ)は、なかなか書けない。思っても、書こうとすると、何か躊躇してしまう。とくに相手が死者なら、そんなふうに意識は働きやすい。しかし、そんな抑制がたとえ働いて書かなかったとしても、そう思ったことは消えはしない。「マリオネット」という「比喩」だけではたどりつけないものがある。いや、「比喩」では隠されてしまうものがある、ということか。
そうなのだ。「比喩」は隠してしまうのだ。だからこそ、そこから疑問も生まれてくる。死者の穴をふさぐ。死者が生きているものを道連れにするという「穴」をふさぐ。「ひと」と「ひと」をつなぐ「穴」。(なんだか、こんなふうにことばにすると、逸脱が激しくなりそうだが--余分なことを想像してしまいそうだが……。そういうことを井坂が書いている、というのが私の本位ではないのだが……。)そういう「穴」を、意識もまた通るだろうか。そんなふうに考えるとき、「穴」は「比喩」だね。そして、「比喩」が、いろいろ隠してしまう。たとえば私が丸かっこのなかにいれて書いたようなことなどをも。
だから、井坂は「マリオネット」という「比喩」を「わざと」、(からっぽなんだ)とあばいてみせる。まあ、あばくという気持ちはないかもしれない。「正直」がそこにあるのかもしれない。こいういう気持ちの「正直」が、最後に思いがけないことばを引っ張りだす。
「血を溜めた者」は「生きている人間」の「比喩」であるが、その述語の「引き下がった」は--あ、すごいなあ。(からっぽなんだ)と同じように、ことばスピードが速い。寄り道をしない。直接的である。「意味」的には、死体から「離れた」なのだが、「引き下がった」というとき、その「引き」に不思議な意思以上のものを私は感じてしまう。「下がる」(離れる)だけでは満足できず、「引き」と「下がる」を組み合わせて「引き下がる」と書いてしまう。「いっせいに」が、「下がる」だけでは満足できないこころをあらわしている。
ところで、この詩は「テニスの日」という「死者」と向き合うにはあまり関係ないようなタイトルがついている。そして、死体の処理をすることばのあいだに、
というような、いったい何の関係があるの?というようなことばが挟まっている。それは確かに「無関係」なのだ。しかし、その「無関係」は、「マリオネット」という「比喩」をつかいながら、(からっぽなんだ)とあばいてしまうことばの運動と、どこか通じるものがあるように思う。
どんなときでも、その書かれたものが引き寄せるもの以外のものがあって、世界はなりなっている。「ひとつ」ではなく「ふたつ」(ふたつ以上)のもので、世界は成り立っている。その「ふたつ」はたとえば死者と生者。湯灌のとき、「ふたつ」は接点をもつ。実際に触れる。けれど、最後に着物を着せるとき、「引き下がる」。「離れる」。裸の死者よりも、着物を着た死者の方が「触りやすい」ものだと思うが--と書いてしまうと、また違ったことに逸脱していきそうだが……。
逸脱させずに、井坂自身のことばに戻れば--「霊力ガ及ブ範囲ヲ/フタツ擦リ合ワセタトコロニネットヲ張ッテ」と「フタツ」ということばをつかっている。「ふたつ」は井坂にとって、とても重要なことなのだ。「死」という人間にとって決定的なことがらについて考えること(ことばを動かすこと)においても、「ふたつ」を明確にしなければならない。そのために、たとえば、ここでは「テニス」が選ばれているのだ。
この「ふたつ」に対する意識こそが井坂の「文体」を鍛える力である。「ひとつ」にどっぷりと浸って(のみこまれて?)、そこから「わたし」を作り替えるということばの運動もあるけれど、井坂の場合は、「ひとつ」にどっぷり浸ってしまわない。そんなふうに「酔う」ということをしない。
「ふたつ」が接触し「ひとつ」になろうとすると、それをぱっと「引き離す」。「ひとつ」になる世界から「引き下がる」のだ。
そうすると、何が見えるか。「抒情」を超えるものが見える。
「抒情」は「錯覚」であり、「笑い(笑う--笑ッテイタ)」が「真実」である。
「テニスの日」という詩のなかに2か所、あ、井坂洋子だと感じる部分がある。直接的なのだ。
湯灌のため上体を起こしパジャマをぬがせる時、マリオネットのように
首をかしげ、ぎくしゃくと腕を交叉させた。(からっぽなんだ)と思っ
た。往診の若い先生が「お顔をつくります」と言い、口や鼻のなかに綿
を詰めた。近親の女たちが体を拭いている。私もそこに混じっていた。
だからよく見えなかったのか。死の小さな通り穴。どんなに小さな穴だ
ろう意識が通るのは。誰も道連れにしないための、声も洩れぬ、光も水
も瞬時にふさいでしまう穴。先生はそこにも綿を詰めたのだと思う。
「では最後にお着物を着せます」
血を溜めた者はいっせいに引き下がった。
(からっぽなんだ)は、なかなか書けない。思っても、書こうとすると、何か躊躇してしまう。とくに相手が死者なら、そんなふうに意識は働きやすい。しかし、そんな抑制がたとえ働いて書かなかったとしても、そう思ったことは消えはしない。「マリオネット」という「比喩」だけではたどりつけないものがある。いや、「比喩」では隠されてしまうものがある、ということか。
そうなのだ。「比喩」は隠してしまうのだ。だからこそ、そこから疑問も生まれてくる。死者の穴をふさぐ。死者が生きているものを道連れにするという「穴」をふさぐ。「ひと」と「ひと」をつなぐ「穴」。(なんだか、こんなふうにことばにすると、逸脱が激しくなりそうだが--余分なことを想像してしまいそうだが……。そういうことを井坂が書いている、というのが私の本位ではないのだが……。)そういう「穴」を、意識もまた通るだろうか。そんなふうに考えるとき、「穴」は「比喩」だね。そして、「比喩」が、いろいろ隠してしまう。たとえば私が丸かっこのなかにいれて書いたようなことなどをも。
だから、井坂は「マリオネット」という「比喩」を「わざと」、(からっぽなんだ)とあばいてみせる。まあ、あばくという気持ちはないかもしれない。「正直」がそこにあるのかもしれない。こいういう気持ちの「正直」が、最後に思いがけないことばを引っ張りだす。
血を溜めた者はいっせいに引き下がった。
「血を溜めた者」は「生きている人間」の「比喩」であるが、その述語の「引き下がった」は--あ、すごいなあ。(からっぽなんだ)と同じように、ことばスピードが速い。寄り道をしない。直接的である。「意味」的には、死体から「離れた」なのだが、「引き下がった」というとき、その「引き」に不思議な意思以上のものを私は感じてしまう。「下がる」(離れる)だけでは満足できず、「引き」と「下がる」を組み合わせて「引き下がる」と書いてしまう。「いっせいに」が、「下がる」だけでは満足できないこころをあらわしている。
ところで、この詩は「テニスの日」という「死者」と向き合うにはあまり関係ないようなタイトルがついている。そして、死体の処理をすることばのあいだに、
フィールドニ 黄色イ
テニスノ球ガ飛ンデクル
霊力ガ及ブ範囲ヲ
フタツ擦リ合ワセタトコロニネットヲ張ッテ
というような、いったい何の関係があるの?というようなことばが挟まっている。それは確かに「無関係」なのだ。しかし、その「無関係」は、「マリオネット」という「比喩」をつかいながら、(からっぽなんだ)とあばいてしまうことばの運動と、どこか通じるものがあるように思う。
どんなときでも、その書かれたものが引き寄せるもの以外のものがあって、世界はなりなっている。「ひとつ」ではなく「ふたつ」(ふたつ以上)のもので、世界は成り立っている。その「ふたつ」はたとえば死者と生者。湯灌のとき、「ふたつ」は接点をもつ。実際に触れる。けれど、最後に着物を着せるとき、「引き下がる」。「離れる」。裸の死者よりも、着物を着た死者の方が「触りやすい」ものだと思うが--と書いてしまうと、また違ったことに逸脱していきそうだが……。
逸脱させずに、井坂自身のことばに戻れば--「霊力ガ及ブ範囲ヲ/フタツ擦リ合ワセタトコロニネットヲ張ッテ」と「フタツ」ということばをつかっている。「ふたつ」は井坂にとって、とても重要なことなのだ。「死」という人間にとって決定的なことがらについて考えること(ことばを動かすこと)においても、「ふたつ」を明確にしなければならない。そのために、たとえば、ここでは「テニス」が選ばれているのだ。
この「ふたつ」に対する意識こそが井坂の「文体」を鍛える力である。「ひとつ」にどっぷりと浸って(のみこまれて?)、そこから「わたし」を作り替えるということばの運動もあるけれど、井坂の場合は、「ひとつ」にどっぷり浸ってしまわない。そんなふうに「酔う」ということをしない。
「ふたつ」が接触し「ひとつ」になろうとすると、それをぱっと「引き離す」。「ひとつ」になる世界から「引き下がる」のだ。
そうすると、何が見えるか。「抒情」を超えるものが見える。
黄金ノ縁取リヲモツ夕ベノ雲
後光トイウ橋ニ
誰カイルト思ウノハ錯覚ダガ
スタンドノ客ノナカニ紛レ込ンデ
亡者ハ笑ッテイタ
「抒情」は「錯覚」であり、「笑い(笑う--笑ッテイタ)」が「真実」である。
詩のレッスン―現代詩100人・21世紀への言葉の冒険 | |
入沢 康夫,井坂 洋子,三木 卓,平出 隆 | |
小学館 |