詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岡井隆『詩歌の岸辺で』

2010-12-23 23:59:59 | 詩集
岡井隆『詩歌の岸辺で』(思潮社、2010年10月30日発行)

 岡井隆が詩歌について書いた批評、感想を集めたエッセイ集である。岡井の詩と同様、自由自在で、とても楽しい。こんなふうに批評、感想を書けたらいいなあ、と思う。
 私が特に気に入ったのは、西脇順三郎『旅人かへらず』の詩について書いた次の部分である。「四六」を取り上げている。

「くぬぎの葉をふむその音を」「明日のちぎりと」おもつて--とは、くぬぎの葉を踏むにつけても、それを機縁として、未来のいのちをおもひ、また「昔のこと」もおもふのであろう。この辺は詩のレトリックだから、あいまいでいいのである。
                                (51ページ)

 「あいまいでいいのである。」詩は、これにつきる。わかったようでわからない、わからないようでわかる。厳密にあれこれいってもはじまらない。だいたい、詩は(文学は)書いたひとがいるがいるにはいるが、それを読んでしまえば、それから先は読んだひとのもの。書いたひとが、いや、そうじゃないと言おうがどうしようが、そんなことは関係ない。読んだひとが、それをどう感じ、それから自分自身のことばをどう動かしていくかだけが大切なのだ。書いたひとだって、ほんとうはどう考えて(どう感じて)いるのか、正確にはわからないだろう。こんなことを書くと叱られるかもしれないが、人間はだれだって、ほんとうは何を感じているかわからないものだと思う。自分の気持ちなんか、正確にはわからない。

 「あいまい」ということば「中也についての断想」という文章の中にも出てくる。中也の詩ではなく、中也が16歳のとき読んだ高橋新吉の、あの「皿皿皿……」というような詩について触れた部分なのだが、

しかし、詩想(といふあいまいなことばを使ふ)が、ある型にはまつている感じもする。

 この「あいまい」ということばに触れて、先に引用した部分にある「あいまい」と重ね合わせ、あ、岡井隆は「あいまい」を「肉体」として知っているひとだと感じた。そして、岡井隆がますます好きになった。
 あらゆることは「あいまい」。だから、書くのである。はっきりしていたら、書く必要はない。「あいまい」であるからこそ、その先へ進んでみたくなるのだ。
 岡井はそういうことを言いたくて『詩歌の岸辺で』という本をまとめたわけではないだろうけれど、私が感じるのは、そういうことである。岡井は「あいまい」が好きなのだと思う。
 岡井のことばの運動のキーワードは「あいまい」である、といつか、書いてみたい。そういう欲望に襲われた。--これは、はっきりと何かがわかったのではな、あ、この「あいまい」ということばの先に岡井の「思想」があるな、と私がぼんやりと感じたというだけのことであるのだが……。
 岡井が「あいまい」というものを見据えている--そのことがわかったのが、この本を読んでの私の「収穫」である。

 こんな、中途半端な、感想でも何でもないような走り書きは「日記」だからできることなのだが、走り書きだからこそ、私は残しておきたいと思う。まだ何も書けないけれど、ここに私の書きたいことがあるのだ。



 で、(で、というのは変なのだけれど)。
 「詩歌の音律について」という文章も非常におもしろかった。(ページの下の方に「詩歌の音津について」という表記がある。100 ページの終わりから2行目の下の方にも「音津」という表記がある。誤植である。--なぜか、見えてしまった。)
 何がおもしろかったかというと……。

木曽さかのぼるふりこ電車にまどろまむときはなたれてゆくにあらねど

の原作(雑誌発表時の形)は、第三句が「眠らなむ」であつた。この「なむ」という終助詞の使用法が、古典文法と違つてゐたのを批判した人があつたので、わたしは「まどろまむ」と改作して歌集に入れたのであつた。ところで、「まどろまむ」と「眠らなむ(あるいは眠りなむ)」とは、詩のことばとして同価であろうか。なるほど、意味としては近似してゐる。(略--意味の違いがあることは……)その点をかりにいま軽く見すごすにしても、「マドロマム」と「ネムラマム」との音韻上の差異は、見逃すことはできない。
詩歌の音楽的要素を総括して「音律」とよぶとすれば、「音律」とは、単に音数律のことではない。一語一語の韻も含む。

 岡井ははっきりとは書いていないが「眠らなむ」でもよかったんじゃないか、と言っているのだと思う。
 そして、私は、「眠らなむ」の方がはるかにいいと思う。私は文法学者ではないから「文法」はまったくわからない。ただ読んだときの印象だけでいうのだけれど、「眠らなむ」は繰り返して言ってみたい音だが「まどろまむ」はちょっと違う。悪いわけではないが「眠らなむ」が好きだ。
 どうしてだろう。岡井の書いていることにそって考えてみた。
 「音数律」はわりと客観的に数えることができる。でも、「音韻」を一語一語でみきわめるというのはなかなかむずかしい。
 「まどろまむ」は「ま行」の響きがある。「ま」どろ「ま」「む」。「ねむらなむ」では「ま行」と「な行」の韻がある。「ね」むら「な」む。ね「む」らな「む」。「眠らなむ」の方が音の揺れが大きい。強弱(?)の感じが、私の「肉体」には気持ちがいい。(「まどろまむ」には「ど」と「ら」の響きあいもあるけれど。)
 この「肉体」の気持ちよさ、というのは、喉や舌や鼻腔、口蓋などの気持ちよさである。この気持ちよさは、しかし、どんなふうにして説明していいかわからない。
 「ねむらなむ」と「まどろまむ」の気持ちよさの違いは、「あいまい」である。音の数のようにははっきりとは言えない。説明できない。
 けれど、この「あいまい」が結局のところ、詩の好き嫌いを決めているのだと思う。どの詩が好き、どの詩が嫌い、というとき、私の場合、この説明できない「音韻律」にとても影響を受けている。支配されている。嫌いな音の響きというものが、私にはあって、そういうものに出合うと私は一種の拒絶反応を起こしてしまう。また逆に、音が好きだと、なぜその詩がいいのか説明できないけれど、ぐいっとひかれてしまう。

 私の、この「日記」は、まあ、「あいまい」なことしか書いていない。--でも、いいんだ。詩への感想なのだから「あいまいでいいのである」と岡井のことばを借りて、私は言ってしまうのである。


詩歌の岸辺で―新しい詩を読むために
岡井 隆
思潮社

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