伊藤比呂美「新訳『般若心経』」(「現代詩手帖」2010年12月号)
伊藤比呂美「新訳『般若心経』」は、私は、活字で読む前に朗読を聞いた。朗読を聞いたときと、活字で読んだときでは違うものが「見える」。
私が朗読を聞いたとき、伊藤は「この詩はまだ未完成」と語っていた。未完成だけれど、ぜひ朗読したい、--そういう大切な詩なのだ。
私は伊藤の朗読を聞くのはそのときが最初だった。その後も、聞いたことはなく、伊藤の声を聞いたのは一度きりということになる。その、はじめて朗読を聞いて感じたのは、伊藤の声が透明であるということ、そして一色であるということだった。そのとき雑談する機会があった。
「美空ひばりみたいな声かと思ったら違っていたのでびっくりした」
「美空ひばりみたいに、どすのきいた声?」
「いや、そうじゃなくて、美空ひばりみたいに七色の声」
というようなやりとりをした。
そのことを思い出した。
なぜ、こんなことを書くかというと、「新訳『般若心経』」を読んで、あ、「一色の声だ」と再び思ったからである。伊藤と雑談したとき、そこまでは考えていなかったのだが、この詩を読んで、伊藤の声はほんとうに「一色」だと思った。
どういうことか、というと……。
この行の、分かち書きされたそれぞれのことば「深い」「ちえ」「よって」「ものを」「みつめる」「修行の」「なかで」が、伊藤にとって「等価」であるということだ。「深い」と「ちえ」を比較して、「ちえ」の方に価値があるとは伊藤は考えない。
ここに書かれていることの「本質」は「ちえ」にある。「深い」は「ちえ」を修飾する形容詞である。「ちえ」ということばは「深い」ということばよりも重要である--という具合に、伊藤は考えない。
それは「よって」についても、「なかで」についても同じである。
ことばは、それぞれ、「等価」である。
その、ことばの「等価性」(こんなことばがあるかな?)をはっきりさせるために、伊藤は分かち書きをし、ことばを「ひとつ」「ひとつ」独立した感じで表記しているのだ。
そしてこのときの「ひとつ」「ひとつ」ということ、それにどんな価値的差異もつけくわえないということが「一色の声」につながる。
ことばの対等性、等価性を具体化するには、「七色の声」ではだめなのだ。あくまで「一色」の声でなければならないのだ。
「一色の声」というのは、実は、とんでもない問題を引き起こす。誰にでも大切なことば、その人だけのことばがあるものだ。そういうことばを私は「キーワード」と呼ぶのだが、「声」を「一色」にするということは、「キーワード」をなくすことでもある。どのことばも対等なら、あることばに重点を置くことはできない。「キーワード」で何かを語る、個性を語ることは、「あやまち」を犯すことになる。
そう認識して、それでもなおかつ、このことが言いたい、と思ったとき、どうすればいいのか。伊藤の声は、たいへんな問題とぶつかっている。
伊藤がこの問題を解決するために(?)とった方法がカギかっこの導入である。このカギかっこは、活字で読むときは見える。(存在する。)しかし、朗読のときは、消える。存在しない。声にあっては存在しないのだけれど、その声を発する伊藤の「肉体」のなかには、ある印として残る。伊藤の「肉体」のなかに、印を残しただけで、そのカギかっこは誰にも気づかれずに消えてゆく。
それでいいのか。
それでいい、と伊藤は考えるのだ。
これは伊藤の書いているカギかっこの問題ではないが、カギかっこの答えでもある。カギかっこがあるはカギかっこがないに異ならない。カギかっこがないはカギかっこがあるに異ならない。「ある」も「ない」も、そのときそのときの「こと」なのだ。
「ことならない」は「異ならない」という「意味」だけれど、その「異ならない」は、「こと ならない」「こと なる には ならない」ということかもしれない。
あ、なんだか、面倒くさいことを書きはじめてしまったが……。
「異なる」のなかには「こと」がある。ある「こと」と別の「こと」、そこに区別があるとき、つまり「ひとつ」と「ひとつ」が別々のものであると認識できるとき「ことなる」ということになる。それは「ひとつ」が「ひとつ」の「こと」に「なる」、また別の「ひとつ」が「ひとつ」の「こと」に「なる」ということがあってはじめて成立する。
そのときの「なる」という動き。それは、しかし、まったく「異ならない」なにかなのだ。運動、エネルギーは、同じように働いている。
もし何かがあるとすれば、「なる」という運動だけなのである。
伊藤の言いたいことが「ある」。その「ある」何か、「ある」「こと」が、「深い」ということばに「なる」、「ちえに」ということばに「なる」、「よって」ということばに「なる」。「なる」ことによって「ある」のだけれど、それは「ある」と同時に「ない」。「ない」というのは「深い」や「ちえ(に)」や「よって」が、それ自体として存在するわけではないからだ。ほんとうに「ある」のは「ことば」ではないからだ。
ことばは「いま」「ここ」に仮にあらわれている「こと」にすぎない。
なんだかややこしい。書けば書くほどわけがわからなくなる「こと」を、伊藤は面倒くさいことに「一色の声」で語ろうとしている。
適当な例とはいえないだろうけれど、たとえば伊藤が「フランス現代思想」の「用語」をつかって、彼女の声を「複数」にすれば、伊藤はもっとわかりやすく「思想」を語ることができるかもしれない。
けれども、伊藤は、その方法を選ばない。
あくまで、伊藤の透明な「一色」の「声」で語ろうとしている。そのために、とりあえず、分かち書きとカギかっこを導入したのだ。
でも、これはつらい決断だねえ。
私は、いま、もう一度、伊藤の朗読を聞いてみたいと思っている。この詩を最初に聞いたときには、伊藤が「一色の声」であることを想像していなかった。「七色の声」を想像していたので「一色」に聞こえただけなのかもしれない、といまは感じている。もしかすると、私が「一色」としか聞き取れなかったものが、実は、もっと多彩な色だったかもしれない。多彩過ぎて、それが「一色」に見えたということかもしれない。
また、たえと「一色」であったとしても、その「一色」は、最初から最後まで連続した「ひとつ」の「いろ」ではなく、常に、いま、ここにあらわれては消えていく「運動としての声」だったと気がつくかもしれない。
私は朗読(詩)というものに賛成ではないが、伊藤の詩だけは朗読でなければならないのだと、いまは思う。
書きことばは伊藤にとっては「肉体」ではない。伊藤のことばはあくまで「肉体」からあらわれて消えていく、その瞬間瞬間の「声」なのだ。
伊藤比呂美「新訳『般若心経』」は、私は、活字で読む前に朗読を聞いた。朗読を聞いたときと、活字で読んだときでは違うものが「見える」。
自由自在に 世界を 観ながら 人々とともに
歩んでいこう 道をもとめていこうとする かんのんが
深い ちえに よって ものを みつめる 修行の なかで
ある 考えに たどりついた。
わたしが いる。 もろもろの ものが ある。
それを 感じ
それを みとめ
それについて 考え
そして みきわめることで
わたしたちは わたしたちなので ある。
しかし それは みな
「ない」のだと
はっきり わかって
一切の 苦しみや わざわいから
抜け出ることが できた。
ききなさい しゃーりぷとら。
「ある」は「ない」に ことならない。
「ない」は「ある」に ことならない。
私が朗読を聞いたとき、伊藤は「この詩はまだ未完成」と語っていた。未完成だけれど、ぜひ朗読したい、--そういう大切な詩なのだ。
私は伊藤の朗読を聞くのはそのときが最初だった。その後も、聞いたことはなく、伊藤の声を聞いたのは一度きりということになる。その、はじめて朗読を聞いて感じたのは、伊藤の声が透明であるということ、そして一色であるということだった。そのとき雑談する機会があった。
「美空ひばりみたいな声かと思ったら違っていたのでびっくりした」
「美空ひばりみたいに、どすのきいた声?」
「いや、そうじゃなくて、美空ひばりみたいに七色の声」
というようなやりとりをした。
そのことを思い出した。
なぜ、こんなことを書くかというと、「新訳『般若心経』」を読んで、あ、「一色の声だ」と再び思ったからである。伊藤と雑談したとき、そこまでは考えていなかったのだが、この詩を読んで、伊藤の声はほんとうに「一色」だと思った。
どういうことか、というと……。
深い ちえに よって ものを みつめる 修行の なかで
この行の、分かち書きされたそれぞれのことば「深い」「ちえ」「よって」「ものを」「みつめる」「修行の」「なかで」が、伊藤にとって「等価」であるということだ。「深い」と「ちえ」を比較して、「ちえ」の方に価値があるとは伊藤は考えない。
ここに書かれていることの「本質」は「ちえ」にある。「深い」は「ちえ」を修飾する形容詞である。「ちえ」ということばは「深い」ということばよりも重要である--という具合に、伊藤は考えない。
それは「よって」についても、「なかで」についても同じである。
ことばは、それぞれ、「等価」である。
その、ことばの「等価性」(こんなことばがあるかな?)をはっきりさせるために、伊藤は分かち書きをし、ことばを「ひとつ」「ひとつ」独立した感じで表記しているのだ。
そしてこのときの「ひとつ」「ひとつ」ということ、それにどんな価値的差異もつけくわえないということが「一色の声」につながる。
ことばの対等性、等価性を具体化するには、「七色の声」ではだめなのだ。あくまで「一色」の声でなければならないのだ。
「一色の声」というのは、実は、とんでもない問題を引き起こす。誰にでも大切なことば、その人だけのことばがあるものだ。そういうことばを私は「キーワード」と呼ぶのだが、「声」を「一色」にするということは、「キーワード」をなくすことでもある。どのことばも対等なら、あることばに重点を置くことはできない。「キーワード」で何かを語る、個性を語ることは、「あやまち」を犯すことになる。
そう認識して、それでもなおかつ、このことが言いたい、と思ったとき、どうすればいいのか。伊藤の声は、たいへんな問題とぶつかっている。
伊藤がこの問題を解決するために(?)とった方法がカギかっこの導入である。このカギかっこは、活字で読むときは見える。(存在する。)しかし、朗読のときは、消える。存在しない。声にあっては存在しないのだけれど、その声を発する伊藤の「肉体」のなかには、ある印として残る。伊藤の「肉体」のなかに、印を残しただけで、そのカギかっこは誰にも気づかれずに消えてゆく。
それでいいのか。
それでいい、と伊藤は考えるのだ。
「ある」は「ない」に ことならない。
「ない」は「ある」に ことならない。
これは伊藤の書いているカギかっこの問題ではないが、カギかっこの答えでもある。カギかっこがあるはカギかっこがないに異ならない。カギかっこがないはカギかっこがあるに異ならない。「ある」も「ない」も、そのときそのときの「こと」なのだ。
「ことならない」は「異ならない」という「意味」だけれど、その「異ならない」は、「こと ならない」「こと なる には ならない」ということかもしれない。
あ、なんだか、面倒くさいことを書きはじめてしまったが……。
「異なる」のなかには「こと」がある。ある「こと」と別の「こと」、そこに区別があるとき、つまり「ひとつ」と「ひとつ」が別々のものであると認識できるとき「ことなる」ということになる。それは「ひとつ」が「ひとつ」の「こと」に「なる」、また別の「ひとつ」が「ひとつ」の「こと」に「なる」ということがあってはじめて成立する。
そのときの「なる」という動き。それは、しかし、まったく「異ならない」なにかなのだ。運動、エネルギーは、同じように働いている。
もし何かがあるとすれば、「なる」という運動だけなのである。
伊藤の言いたいことが「ある」。その「ある」何か、「ある」「こと」が、「深い」ということばに「なる」、「ちえに」ということばに「なる」、「よって」ということばに「なる」。「なる」ことによって「ある」のだけれど、それは「ある」と同時に「ない」。「ない」というのは「深い」や「ちえ(に)」や「よって」が、それ自体として存在するわけではないからだ。ほんとうに「ある」のは「ことば」ではないからだ。
ことばは「いま」「ここ」に仮にあらわれている「こと」にすぎない。
なんだかややこしい。書けば書くほどわけがわからなくなる「こと」を、伊藤は面倒くさいことに「一色の声」で語ろうとしている。
適当な例とはいえないだろうけれど、たとえば伊藤が「フランス現代思想」の「用語」をつかって、彼女の声を「複数」にすれば、伊藤はもっとわかりやすく「思想」を語ることができるかもしれない。
けれども、伊藤は、その方法を選ばない。
あくまで、伊藤の透明な「一色」の「声」で語ろうとしている。そのために、とりあえず、分かち書きとカギかっこを導入したのだ。
でも、これはつらい決断だねえ。
私は、いま、もう一度、伊藤の朗読を聞いてみたいと思っている。この詩を最初に聞いたときには、伊藤が「一色の声」であることを想像していなかった。「七色の声」を想像していたので「一色」に聞こえただけなのかもしれない、といまは感じている。もしかすると、私が「一色」としか聞き取れなかったものが、実は、もっと多彩な色だったかもしれない。多彩過ぎて、それが「一色」に見えたということかもしれない。
また、たえと「一色」であったとしても、その「一色」は、最初から最後まで連続した「ひとつ」の「いろ」ではなく、常に、いま、ここにあらわれては消えていく「運動としての声」だったと気がつくかもしれない。
私は朗読(詩)というものに賛成ではないが、伊藤の詩だけは朗読でなければならないのだと、いまは思う。
書きことばは伊藤にとっては「肉体」ではない。伊藤のことばはあくまで「肉体」からあらわれて消えていく、その瞬間瞬間の「声」なのだ。
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