詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

伊藤比呂美「新訳『般若心経』」

2010-12-17 23:59:59 | 詩集
伊藤比呂美「新訳『般若心経』」(「現代詩手帖」2010年12月号)

 伊藤比呂美「新訳『般若心経』」は、私は、活字で読む前に朗読を聞いた。朗読を聞いたときと、活字で読んだときでは違うものが「見える」。

自由自在に 世界を 観ながら 人々とともに
歩んでいこう 道をもとめていこうとする かんのんが
深い ちえに よって ものを みつめる 修行の なかで
ある 考えに たどりついた。
わたしが いる。 もろもろの ものが ある。
それを 感じ
それを みとめ
それについて 考え
そして みきわめることで
わたしたちは わたしたちなので ある。
しかし それは みな
「ない」のだと
はっきり わかって
一切の 苦しみや わざわいから
抜け出ることが できた。

ききなさい しゃーりぷとら。

「ある」は「ない」に ことならない。
「ない」は「ある」に ことならない。

 私が朗読を聞いたとき、伊藤は「この詩はまだ未完成」と語っていた。未完成だけれど、ぜひ朗読したい、--そういう大切な詩なのだ。
 私は伊藤の朗読を聞くのはそのときが最初だった。その後も、聞いたことはなく、伊藤の声を聞いたのは一度きりということになる。その、はじめて朗読を聞いて感じたのは、伊藤の声が透明であるということ、そして一色であるということだった。そのとき雑談する機会があった。
 「美空ひばりみたいな声かと思ったら違っていたのでびっくりした」
 「美空ひばりみたいに、どすのきいた声?」
 「いや、そうじゃなくて、美空ひばりみたいに七色の声」
 というようなやりとりをした。
 そのことを思い出した。
 なぜ、こんなことを書くかというと、「新訳『般若心経』」を読んで、あ、「一色の声だ」と再び思ったからである。伊藤と雑談したとき、そこまでは考えていなかったのだが、この詩を読んで、伊藤の声はほんとうに「一色」だと思った。
 どういうことか、というと……。

深い ちえに よって ものを みつめる 修行の なかで

 この行の、分かち書きされたそれぞれのことば「深い」「ちえ」「よって」「ものを」「みつめる」「修行の」「なかで」が、伊藤にとって「等価」であるということだ。「深い」と「ちえ」を比較して、「ちえ」の方に価値があるとは伊藤は考えない。
 ここに書かれていることの「本質」は「ちえ」にある。「深い」は「ちえ」を修飾する形容詞である。「ちえ」ということばは「深い」ということばよりも重要である--という具合に、伊藤は考えない。
 それは「よって」についても、「なかで」についても同じである。
 ことばは、それぞれ、「等価」である。
 その、ことばの「等価性」(こんなことばがあるかな?)をはっきりさせるために、伊藤は分かち書きをし、ことばを「ひとつ」「ひとつ」独立した感じで表記しているのだ。
 そしてこのときの「ひとつ」「ひとつ」ということ、それにどんな価値的差異もつけくわえないということが「一色の声」につながる。
 ことばの対等性、等価性を具体化するには、「七色の声」ではだめなのだ。あくまで「一色」の声でなければならないのだ。

 「一色の声」というのは、実は、とんでもない問題を引き起こす。誰にでも大切なことば、その人だけのことばがあるものだ。そういうことばを私は「キーワード」と呼ぶのだが、「声」を「一色」にするということは、「キーワード」をなくすことでもある。どのことばも対等なら、あることばに重点を置くことはできない。「キーワード」で何かを語る、個性を語ることは、「あやまち」を犯すことになる。

 そう認識して、それでもなおかつ、このことが言いたい、と思ったとき、どうすればいいのか。伊藤の声は、たいへんな問題とぶつかっている。

 伊藤がこの問題を解決するために(?)とった方法がカギかっこの導入である。このカギかっこは、活字で読むときは見える。(存在する。)しかし、朗読のときは、消える。存在しない。声にあっては存在しないのだけれど、その声を発する伊藤の「肉体」のなかには、ある印として残る。伊藤の「肉体」のなかに、印を残しただけで、そのカギかっこは誰にも気づかれずに消えてゆく。
 それでいいのか。
 それでいい、と伊藤は考えるのだ。

「ある」は「ない」に ことならない。
「ない」は「ある」に ことならない。

 これは伊藤の書いているカギかっこの問題ではないが、カギかっこの答えでもある。カギかっこがあるはカギかっこがないに異ならない。カギかっこがないはカギかっこがあるに異ならない。「ある」も「ない」も、そのときそのときの「こと」なのだ。
 「ことならない」は「異ならない」という「意味」だけれど、その「異ならない」は、「こと ならない」「こと なる には ならない」ということかもしれない。
 あ、なんだか、面倒くさいことを書きはじめてしまったが……。
 「異なる」のなかには「こと」がある。ある「こと」と別の「こと」、そこに区別があるとき、つまり「ひとつ」と「ひとつ」が別々のものであると認識できるとき「ことなる」ということになる。それは「ひとつ」が「ひとつ」の「こと」に「なる」、また別の「ひとつ」が「ひとつ」の「こと」に「なる」ということがあってはじめて成立する。
 そのときの「なる」という動き。それは、しかし、まったく「異ならない」なにかなのだ。運動、エネルギーは、同じように働いている。
 もし何かがあるとすれば、「なる」という運動だけなのである。
 
 伊藤の言いたいことが「ある」。その「ある」何か、「ある」「こと」が、「深い」ということばに「なる」、「ちえに」ということばに「なる」、「よって」ということばに「なる」。「なる」ことによって「ある」のだけれど、それは「ある」と同時に「ない」。「ない」というのは「深い」や「ちえ(に)」や「よって」が、それ自体として存在するわけではないからだ。ほんとうに「ある」のは「ことば」ではないからだ。
 ことばは「いま」「ここ」に仮にあらわれている「こと」にすぎない。

 なんだかややこしい。書けば書くほどわけがわからなくなる「こと」を、伊藤は面倒くさいことに「一色の声」で語ろうとしている。
 適当な例とはいえないだろうけれど、たとえば伊藤が「フランス現代思想」の「用語」をつかって、彼女の声を「複数」にすれば、伊藤はもっとわかりやすく「思想」を語ることができるかもしれない。
 けれども、伊藤は、その方法を選ばない。
 あくまで、伊藤の透明な「一色」の「声」で語ろうとしている。そのために、とりあえず、分かち書きとカギかっこを導入したのだ。

 でも、これはつらい決断だねえ。

 私は、いま、もう一度、伊藤の朗読を聞いてみたいと思っている。この詩を最初に聞いたときには、伊藤が「一色の声」であることを想像していなかった。「七色の声」を想像していたので「一色」に聞こえただけなのかもしれない、といまは感じている。もしかすると、私が「一色」としか聞き取れなかったものが、実は、もっと多彩な色だったかもしれない。多彩過ぎて、それが「一色」に見えたということかもしれない。
 また、たえと「一色」であったとしても、その「一色」は、最初から最後まで連続した「ひとつ」の「いろ」ではなく、常に、いま、ここにあらわれては消えていく「運動としての声」だったと気がつくかもしれない。

 私は朗読(詩)というものに賛成ではないが、伊藤の詩だけは朗読でなければならないのだと、いまは思う。
 書きことばは伊藤にとっては「肉体」ではない。伊藤のことばはあくまで「肉体」からあらわれて消えていく、その瞬間瞬間の「声」なのだ。




読み解き「般若心経」
伊藤 比呂美
朝日新聞出版

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誰も書かなかった西脇順三郎(161 )

2010-12-17 10:54:15 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(161 )

 『豊饒の女神』のつづき。
 「二月」。

こん夜は節分である
だんなの豆まきの日であつた
だが論文をかかなければならない
なにも書くことがない
冬は梅の中にふるえている
なさけない女のような日だ
ああ灰色のペルシャ猫の
なくなつた言葉を祭る日だ

 この書き出しのリズムがとても気持ちがいい。イメージの展開も楽しい。あることを書いて、そにれ関係するのか、関係しないのか、関係するといえば関係するし、関係ないといえば関係ない、そういうイメージを展開する遊びのような気持ちが楽しい。そして、気持ちが楽しいと書いたとたんに、「気持ちが楽しい」というのは変なことばだと思いながら、私は、これは何かに似ているなあ、と感じる。
 あ、連歌だ。

こん夜は節分である
だんなの豆まきの日であつた

 これは、発句。あいさつだね。書いたのは、豆まきに招かれた客である。「だんなが豆まきをするというので、およばれにやってきました。お招きしてくださり、ありがとうございました」。
 この2行に対して、主人が答える。

だが論文をかかなければならない
なにも書くことがない

 あ、そうか、豆まきの日だったか。だが、論文を書かなければならない。豆まきをしている暇はない。なにも書くことがないから、書くことをつくりださなければならない。
 これは季節を分ける「節分」を、まあ、むりやりの「記述」のようなものと解釈して、何かを書くことは、何かを分節することだ、などとしゃれているかもしれない。

 節分であることと、だんなが豆まきをすることと、論文をかかなけれはならないということのあいだには何の関係もないが、それを「つなげる」者の意識のなかには「つながり」がある。そして、それを「つなげて」読むものの意識のなかにも「つながり」が生まれてくる。
 詩は、そういう「むりやり」の意識、「つながり」遊びの意識のなかにあるのかもしれない。
 この冒頭の4行は、連歌にしては突然過ぎる展開かもしれないけれど、「現代詩」なのだからこれくらいの飛躍はあっていいだろう。

冬は梅の中にふるえている
なさけない女のような日だ

 この2行は連歌では「反則」かもしれない。最初の2行、いや、それ以前にもどってしまうからね。しかし、やはり「現代詩」なのだから、連歌そのものでなくてもいい。ただ、前に書いたことと、「つながり」ながら「はなれる」。その接続と分離を繰り返して、ことばをどこかへ動かしていけばいいのだ。
 あ、そんな動かし方があったのか、そんな取り合わせがあったのか、と思い、それを楽しめばいいのだ。
 前の4行が「男(だんな)」の世界だったので、ここでは主役を「女」へと動かしているのだ。

 一方、連歌は、前へ前へと進むが、西脇のことばは、そういう方向には頓着せず、過去の(前の)ことばの世界を引っかき回すようなところがあると思う。「節分」なのに、「冬」へもどる。「節分」のなかにある「春」ではなく、西脇は「冬」をひっぱりだしてきて、それが「ふるえている」と書く。
 このとき、梅が冬のなかでふるえているなら、それは節分の印象に非常にぴったりした感じがする。あるいは「春は」梅の中にふるえている、硬い梅のつぼみをえがいていることになるかもしれないが、西脇は「冬は」梅の中にふるえていると書く。
 一瞬、えっ、何? と感じる。その、「わからなさ」がおもしろい。
 「連歌」自体、ある「世界」に別の「世界」をぶつけて遊ぶものだが、そういう衝突の瞬間はいったい何が起きたかわからない。一瞬の空白があって、そのあと衝突によって「新しい世界」が動きはじめる。
 新しい世界が動きはじめるためには、空白--驚きが必要なのだ。

 この「空白」--意識の空白を利用して、西脇のことばは加速する。

ああ灰色のペルシャ猫の
なくなつた言葉を祭る日だ

 「節分」はどこかへ完全に消えてしまった。けれど、どこかで「論文をかかなければならない」「なにも書くことがない」を引きずっている。かきまわしている。「なくなつた言葉」ということばが。
 いや「節分」は消えていない。「祭る日」ということばのなかに生きている、ということもできる。
 --なんだって言える。これが、たぶん一番楽しいことばの楽しみ方なのだと思う。
 私流に言いなおせば「誤読」を楽しむ、ということだが。


西脇順三郎詩画集「〓」 (1972年)
西脇 順三郎
詩学社


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