李承淳『そのように静かに跨がっている』(思潮社、2010年10月25日発行)
李承淳『そのように静かに跨がっている』の帯に「詩人として、音楽家として日本と韓国の文化の架け橋となってきた著者が深い祈りをこめて紡ぎだす29篇」とある。あ、音楽家なのか。「略歴」には「幼いころからピアノを学び」とある。声ではなく、楽器の音楽に親しんできた、ということになるのだろうか。
うーん。
私にはどうすることもできない欠点がふたつある。ひとつはカタカナ難読症。もうひとつは音痴。音楽の音に対する音痴。どんな音を聞いても、それを理解できない。音を聞きながら楽譜を見て、はじめてその音が何であったかがわかる。これは、ほんとうに音を理解しているのか、それとも楽譜から音を認識しているふりをしているだけなのか、よくわからない。楽譜にしても、そこに書かれた音が「ド」とか「レ」とか、あるいは「は」とか「C」という具合にわかるだけで、その音を声に出せるわけではない。
こんな音痴の私が感じることなのだから、間違った感想なのだろうけれど、あえて言ってしまえば、李承淳『そのように静かに跨がっている』の作品からは「音楽」がまったく聞こえてこない。--いや、正確に言えば、李承淳の音楽が、私には理解できない、ということになる。韓国語で読めば(私は読むこともできないし、聞いてもわからないが)、違った印象になるのかもしれないが、日本語からは音楽が聞こえない。
「密閉された空間から魂を飛ばしてみると」。その冒頭。
読みながら、あ、私にはもうひとつ、どうすることもできない欠点があった、と思い出した。私は今でこそ本を読んでいるが、そして、何かわかったふりをして感想を書いたりしているが、私は文字を読んで理解する力というものが極端に欠けている。文字はどれだけ読んでも理解できない。でも、声をとおして聞くと、なんとなくわかるような感じがする。小学時代の思い出だが、私は教科書を読んでも何が書いてあるかわからない。先生が声にして説明してくれると、わかる。私は小学生時代、教科書を読んだ記憶がない。国語の時間に朗読させられたことがあるのは覚えているが、それ以外に教科書を開いた記憶がない。文字が苦手なのだ。文字と音が結びつかない。音がわからないと、そこに書かれている文字がわからない。聞いたことしか、私は理解できないのだ。音痴の癖して、とても変な人間なのだ。
李の詩にもどると、私は、ほんとうにとまどってしまった。「ごっそり」は、まあ、わかる。しかし次の「生き身」がもうわからない。私もいまでは文字が読めるから、その文字から「意味」は理解できるが、その「意味」は私の肉体になじまない。どこか、私とは違ったところにあって、私をにらんでいる感じがする。こまったなあ。
「生き身から抜け出た/羽が生えた魂を」。「から」はとてもよくわかるが、それ以外は困ってしまう。「……から抜け出た」は納得できるが「生き身から」がわからない。「抜け出た/羽が生えた魂」がまたわからない。ことばが進めば進むほどわからなくなる。いま、なんて書いてあった?
それは、ちょうど、はじめて聞く「音楽」に似ている。音痴の私が聞く「音楽」に似ている。一つ一つの音があることはわかる。そして、その音が動いて、そこに新しい何かをつくりはじめていることがわかる。けれど、音と発せられた瞬間から消えていく。その、消えていく音に似ている。音が音楽になるためには、記憶のなかで、消えていった音が常に鳴り響いていないといけない。そうしないとメロディーもリズムも存在しない。ただ、ある音がそこに存在しただけ、ということになる。はじめて聴く音楽を私は何ひとつ再現できないが、同じように、李のことばは、何ひとつ再現できない。そのことに気がついた。
李は、私の理解できないまったく新しい「音楽」を書いているのかもしれないが、その音楽は私にはほんとうに遠い音楽である。
これは先に引用した部分の「閉ざされた己の空間が見えるだろうか」を受けたことばだ吸うか。説明し直したことばだろうか。推測はできるが、わからない。納得できない。
「抜け出た」「魂を」「飛ばしてみる」ということがわからなかったからかもしれない。「抜け出た」「魂」に「羽がはえ」ているなら、その魂は飛ばさなくたって飛べるんじゃないか、羽は飛ぶためにあるんじゃないか、だいたい「抜け出た」のなら、それは勝手にどこかへ行ってしまうものじゃないか、なぜ遠くへ飛ばすという「身体」の動きが必要なのだろうなどと思ってしまったことが影響しているかもしれない。
もしかすると、魂から羽が「ごっそり」抜け落ちて、飛べなくなっているから飛ばした?
私の「聞いたことのある音」は、「聞こえない音」の前で、そんなふうに反論してしまうのだ。
もちろん、李の書いていることばの全部が「聞こえない」というわけでもない。「甦生」。このタイトルは、私には「聞こえない」が、そこに書かれていることばは聞こえる。
特に「黄泉路へ歩むようにたずねてくる」が美しい。美しいというのはこういうときに適切な表現ではないかもしれないけれど、ぐぐぐーっと引きこまれていく。常識的には、黄泉路へ歩むというのは「去っていく」ということである。けれど、「去っていく」ではなく「たずねてくる」。そこには、「たずねてくる」としか言えない「矛盾」がある。「矛盾」が「音」を豊かにして、「黄泉路へ歩むように」をのみこんでいく。のみこまれながら、「黄泉路へ歩むように」が「メロディー」として私の肉体によみがえってくる。
言い換えると。
思わず「黄泉路をあゆむようにたずねてくる」と、その1行を、私の肉体が、喉が、舌が、耳が繰り返してしまうのである。ちょうど大好きな「音楽」が聞こえたとき、追いかけるようにして口ずさむのに似ている。
こうなると、次が自然に「音」になる。それは李が書いていることばだけれど、そのことばを読む前に私の肉体が反応する。大好きな曲を聴きながら口ずさむと、曲より先にメロディーやリズムを発してしまうのに似ている。ほんとうはモーツァルトの曲なのに、モーツァルトより(誰かが演奏するその音より)先に、自分の声が出てしまうのに似ている。
ここにも一種の「矛盾」がある。死んでしまって「やつれた頬」は、普通は「冷たくなり」、また「硬直する」。けれど、李のことばは「冷たくもならず/硬直もせず」と動いていく。ことばが「現象」を裏切って、李の「事実」の方へ動いていく。そのときの、ことばの強さ。そこに「音」がある。
私は、こういう「音」なら、聞き取ることができる。
李承淳『そのように静かに跨がっている』の帯に「詩人として、音楽家として日本と韓国の文化の架け橋となってきた著者が深い祈りをこめて紡ぎだす29篇」とある。あ、音楽家なのか。「略歴」には「幼いころからピアノを学び」とある。声ではなく、楽器の音楽に親しんできた、ということになるのだろうか。
うーん。
私にはどうすることもできない欠点がふたつある。ひとつはカタカナ難読症。もうひとつは音痴。音楽の音に対する音痴。どんな音を聞いても、それを理解できない。音を聞きながら楽譜を見て、はじめてその音が何であったかがわかる。これは、ほんとうに音を理解しているのか、それとも楽譜から音を認識しているふりをしているだけなのか、よくわからない。楽譜にしても、そこに書かれた音が「ド」とか「レ」とか、あるいは「は」とか「C」という具合にわかるだけで、その音を声に出せるわけではない。
こんな音痴の私が感じることなのだから、間違った感想なのだろうけれど、あえて言ってしまえば、李承淳『そのように静かに跨がっている』の作品からは「音楽」がまったく聞こえてこない。--いや、正確に言えば、李承淳の音楽が、私には理解できない、ということになる。韓国語で読めば(私は読むこともできないし、聞いてもわからないが)、違った印象になるのかもしれないが、日本語からは音楽が聞こえない。
「密閉された空間から魂を飛ばしてみると」。その冒頭。
ごっそり
生き身から抜け出た
羽が生えた魂を
開けた空の光の奥へ
遠く飛ばしてみると
閉ざされた己の空間が見えるだろうか
読みながら、あ、私にはもうひとつ、どうすることもできない欠点があった、と思い出した。私は今でこそ本を読んでいるが、そして、何かわかったふりをして感想を書いたりしているが、私は文字を読んで理解する力というものが極端に欠けている。文字はどれだけ読んでも理解できない。でも、声をとおして聞くと、なんとなくわかるような感じがする。小学時代の思い出だが、私は教科書を読んでも何が書いてあるかわからない。先生が声にして説明してくれると、わかる。私は小学生時代、教科書を読んだ記憶がない。国語の時間に朗読させられたことがあるのは覚えているが、それ以外に教科書を開いた記憶がない。文字が苦手なのだ。文字と音が結びつかない。音がわからないと、そこに書かれている文字がわからない。聞いたことしか、私は理解できないのだ。音痴の癖して、とても変な人間なのだ。
李の詩にもどると、私は、ほんとうにとまどってしまった。「ごっそり」は、まあ、わかる。しかし次の「生き身」がもうわからない。私もいまでは文字が読めるから、その文字から「意味」は理解できるが、その「意味」は私の肉体になじまない。どこか、私とは違ったところにあって、私をにらんでいる感じがする。こまったなあ。
「生き身から抜け出た/羽が生えた魂を」。「から」はとてもよくわかるが、それ以外は困ってしまう。「……から抜け出た」は納得できるが「生き身から」がわからない。「抜け出た/羽が生えた魂」がまたわからない。ことばが進めば進むほどわからなくなる。いま、なんて書いてあった?
それは、ちょうど、はじめて聞く「音楽」に似ている。音痴の私が聞く「音楽」に似ている。一つ一つの音があることはわかる。そして、その音が動いて、そこに新しい何かをつくりはじめていることがわかる。けれど、音と発せられた瞬間から消えていく。その、消えていく音に似ている。音が音楽になるためには、記憶のなかで、消えていった音が常に鳴り響いていないといけない。そうしないとメロディーもリズムも存在しない。ただ、ある音がそこに存在しただけ、ということになる。はじめて聴く音楽を私は何ひとつ再現できないが、同じように、李のことばは、何ひとつ再現できない。そのことに気がついた。
李は、私の理解できないまったく新しい「音楽」を書いているのかもしれないが、その音楽は私にはほんとうに遠い音楽である。
--イデオロギーの網に囚われた身体
もがきばたつきながら
地球村のあちこちで
欲望の沼に落ち 目がくらみ
狂い暴れる為政者たちの
幕を張った檻に塞がれ
縛り付けられた見えない鎖に
閉ざされている--
これは先に引用した部分の「閉ざされた己の空間が見えるだろうか」を受けたことばだ吸うか。説明し直したことばだろうか。推測はできるが、わからない。納得できない。
「抜け出た」「魂を」「飛ばしてみる」ということがわからなかったからかもしれない。「抜け出た」「魂」に「羽がはえ」ているなら、その魂は飛ばさなくたって飛べるんじゃないか、羽は飛ぶためにあるんじゃないか、だいたい「抜け出た」のなら、それは勝手にどこかへ行ってしまうものじゃないか、なぜ遠くへ飛ばすという「身体」の動きが必要なのだろうなどと思ってしまったことが影響しているかもしれない。
もしかすると、魂から羽が「ごっそり」抜け落ちて、飛べなくなっているから飛ばした?
私の「聞いたことのある音」は、「聞こえない音」の前で、そんなふうに反論してしまうのだ。
もちろん、李の書いていることばの全部が「聞こえない」というわけでもない。「甦生」。このタイトルは、私には「聞こえない」が、そこに書かれていることばは聞こえる。
お母さんと呼ぶと
経帷子(きょうかたびら)で装った母の小さい顔が
黄泉路へ歩むようにたずねてくる
特に「黄泉路へ歩むようにたずねてくる」が美しい。美しいというのはこういうときに適切な表現ではないかもしれないけれど、ぐぐぐーっと引きこまれていく。常識的には、黄泉路へ歩むというのは「去っていく」ということである。けれど、「去っていく」ではなく「たずねてくる」。そこには、「たずねてくる」としか言えない「矛盾」がある。「矛盾」が「音」を豊かにして、「黄泉路へ歩むように」をのみこんでいく。のみこまれながら、「黄泉路へ歩むように」が「メロディー」として私の肉体によみがえってくる。
言い換えると。
思わず「黄泉路をあゆむようにたずねてくる」と、その1行を、私の肉体が、喉が、舌が、耳が繰り返してしまうのである。ちょうど大好きな「音楽」が聞こえたとき、追いかけるようにして口ずさむのに似ている。
こうなると、次が自然に「音」になる。それは李が書いていることばだけれど、そのことばを読む前に私の肉体が反応する。大好きな曲を聴きながら口ずさむと、曲より先にメロディーやリズムを発してしまうのに似ている。ほんとうはモーツァルトの曲なのに、モーツァルトより(誰かが演奏するその音より)先に、自分の声が出てしまうのに似ている。
心臓が止まって
とうに一日が過ぎたが
母のやつれた頬は
冷たくもならず
硬直もせず
ここにも一種の「矛盾」がある。死んでしまって「やつれた頬」は、普通は「冷たくなり」、また「硬直する」。けれど、李のことばは「冷たくもならず/硬直もせず」と動いていく。ことばが「現象」を裏切って、李の「事実」の方へ動いていく。そのときの、ことばの強さ。そこに「音」がある。
私は、こういう「音」なら、聞き取ることができる。
そのように静かに蹲っている | |
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