詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

李承淳『そのように静かに跨がっている』

2010-12-22 23:59:59 | 詩集
李承淳『そのように静かに跨がっている』(思潮社、2010年10月25日発行)

 李承淳『そのように静かに跨がっている』の帯に「詩人として、音楽家として日本と韓国の文化の架け橋となってきた著者が深い祈りをこめて紡ぎだす29篇」とある。あ、音楽家なのか。「略歴」には「幼いころからピアノを学び」とある。声ではなく、楽器の音楽に親しんできた、ということになるのだろうか。
 うーん。
 私にはどうすることもできない欠点がふたつある。ひとつはカタカナ難読症。もうひとつは音痴。音楽の音に対する音痴。どんな音を聞いても、それを理解できない。音を聞きながら楽譜を見て、はじめてその音が何であったかがわかる。これは、ほんとうに音を理解しているのか、それとも楽譜から音を認識しているふりをしているだけなのか、よくわからない。楽譜にしても、そこに書かれた音が「ド」とか「レ」とか、あるいは「は」とか「C」という具合にわかるだけで、その音を声に出せるわけではない。
 こんな音痴の私が感じることなのだから、間違った感想なのだろうけれど、あえて言ってしまえば、李承淳『そのように静かに跨がっている』の作品からは「音楽」がまったく聞こえてこない。--いや、正確に言えば、李承淳の音楽が、私には理解できない、ということになる。韓国語で読めば(私は読むこともできないし、聞いてもわからないが)、違った印象になるのかもしれないが、日本語からは音楽が聞こえない。
 「密閉された空間から魂を飛ばしてみると」。その冒頭。

ごっそり
生き身から抜け出た
羽が生えた魂を
開けた空の光の奥へ
遠く飛ばしてみると

閉ざされた己の空間が見えるだろうか

 読みながら、あ、私にはもうひとつ、どうすることもできない欠点があった、と思い出した。私は今でこそ本を読んでいるが、そして、何かわかったふりをして感想を書いたりしているが、私は文字を読んで理解する力というものが極端に欠けている。文字はどれだけ読んでも理解できない。でも、声をとおして聞くと、なんとなくわかるような感じがする。小学時代の思い出だが、私は教科書を読んでも何が書いてあるかわからない。先生が声にして説明してくれると、わかる。私は小学生時代、教科書を読んだ記憶がない。国語の時間に朗読させられたことがあるのは覚えているが、それ以外に教科書を開いた記憶がない。文字が苦手なのだ。文字と音が結びつかない。音がわからないと、そこに書かれている文字がわからない。聞いたことしか、私は理解できないのだ。音痴の癖して、とても変な人間なのだ。
 李の詩にもどると、私は、ほんとうにとまどってしまった。「ごっそり」は、まあ、わかる。しかし次の「生き身」がもうわからない。私もいまでは文字が読めるから、その文字から「意味」は理解できるが、その「意味」は私の肉体になじまない。どこか、私とは違ったところにあって、私をにらんでいる感じがする。こまったなあ。
 「生き身から抜け出た/羽が生えた魂を」。「から」はとてもよくわかるが、それ以外は困ってしまう。「……から抜け出た」は納得できるが「生き身から」がわからない。「抜け出た/羽が生えた魂」がまたわからない。ことばが進めば進むほどわからなくなる。いま、なんて書いてあった?
 それは、ちょうど、はじめて聞く「音楽」に似ている。音痴の私が聞く「音楽」に似ている。一つ一つの音があることはわかる。そして、その音が動いて、そこに新しい何かをつくりはじめていることがわかる。けれど、音と発せられた瞬間から消えていく。その、消えていく音に似ている。音が音楽になるためには、記憶のなかで、消えていった音が常に鳴り響いていないといけない。そうしないとメロディーもリズムも存在しない。ただ、ある音がそこに存在しただけ、ということになる。はじめて聴く音楽を私は何ひとつ再現できないが、同じように、李のことばは、何ひとつ再現できない。そのことに気がついた。

 李は、私の理解できないまったく新しい「音楽」を書いているのかもしれないが、その音楽は私にはほんとうに遠い音楽である。

--イデオロギーの網に囚われた身体
  もがきばたつきながら
  地球村のあちこちで
  欲望の沼に落ち 目がくらみ
  狂い暴れる為政者たちの
  幕を張った檻に塞がれ
  縛り付けられた見えない鎖に
  閉ざされている--

 これは先に引用した部分の「閉ざされた己の空間が見えるだろうか」を受けたことばだ吸うか。説明し直したことばだろうか。推測はできるが、わからない。納得できない。
 「抜け出た」「魂を」「飛ばしてみる」ということがわからなかったからかもしれない。「抜け出た」「魂」に「羽がはえ」ているなら、その魂は飛ばさなくたって飛べるんじゃないか、羽は飛ぶためにあるんじゃないか、だいたい「抜け出た」のなら、それは勝手にどこかへ行ってしまうものじゃないか、なぜ遠くへ飛ばすという「身体」の動きが必要なのだろうなどと思ってしまったことが影響しているかもしれない。
 もしかすると、魂から羽が「ごっそり」抜け落ちて、飛べなくなっているから飛ばした?
 私の「聞いたことのある音」は、「聞こえない音」の前で、そんなふうに反論してしまうのだ。

 もちろん、李の書いていることばの全部が「聞こえない」というわけでもない。「甦生」。このタイトルは、私には「聞こえない」が、そこに書かれていることばは聞こえる。

お母さんと呼ぶと
経帷子(きょうかたびら)で装った母の小さい顔が
黄泉路へ歩むようにたずねてくる

 特に「黄泉路へ歩むようにたずねてくる」が美しい。美しいというのはこういうときに適切な表現ではないかもしれないけれど、ぐぐぐーっと引きこまれていく。常識的には、黄泉路へ歩むというのは「去っていく」ということである。けれど、「去っていく」ではなく「たずねてくる」。そこには、「たずねてくる」としか言えない「矛盾」がある。「矛盾」が「音」を豊かにして、「黄泉路へ歩むように」をのみこんでいく。のみこまれながら、「黄泉路へ歩むように」が「メロディー」として私の肉体によみがえってくる。
 言い換えると。
 思わず「黄泉路をあゆむようにたずねてくる」と、その1行を、私の肉体が、喉が、舌が、耳が繰り返してしまうのである。ちょうど大好きな「音楽」が聞こえたとき、追いかけるようにして口ずさむのに似ている。
 こうなると、次が自然に「音」になる。それは李が書いていることばだけれど、そのことばを読む前に私の肉体が反応する。大好きな曲を聴きながら口ずさむと、曲より先にメロディーやリズムを発してしまうのに似ている。ほんとうはモーツァルトの曲なのに、モーツァルトより(誰かが演奏するその音より)先に、自分の声が出てしまうのに似ている。

心臓が止まって
とうに一日が過ぎたが
母のやつれた頬は
冷たくもならず
硬直もせず

 ここにも一種の「矛盾」がある。死んでしまって「やつれた頬」は、普通は「冷たくなり」、また「硬直する」。けれど、李のことばは「冷たくもならず/硬直もせず」と動いていく。ことばが「現象」を裏切って、李の「事実」の方へ動いていく。そのときの、ことばの強さ。そこに「音」がある。
 私は、こういう「音」なら、聞き取ることができる。






そのように静かに蹲っている
李 承淳
思潮社


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誰も書かなかった西脇順三郎(164 )

2010-12-22 11:23:34 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(164 )

 『豊饒の女神』のつづき。「あざみの衣」は、とても好きな詩である。どこが好きなのか--説明するのはむずかしい。

路傍に旅人の心を
悲します枯れた
あざみのうすむらさきの夢の
ようなものが言葉につづられる
あざみの花の色を
どこかの国の夕陽の空に
たとえたのはキイツという人の
思い出であつた

 2行目がとても不安定である。不安定--というのは、「悲します枯れた」ということばが「意味」をもたないからである。この1行だけでは何のことかわからない。わからないけれど、「悲します」は1行目につながっていることはわかる。「旅人のこころを/悲します」であることはわかる。そして、「枯れた」は次に登場する何かを修飾することばであることも想像できる。「意味」はわからないが、この1行のなかで、ことばが普通とは違うスピード(普通よりは早いスピード)で動いていることがわかる。「か」なします「か」れたという頭韻がスピードを加速させていることもわかる。--わたしは、きっとこのことばのスピード感が好きなのだ。
 そして、西脇のことばのスピードは、直線の高速道路を走るようなスピード感ではない。複雑な街角を曲がっていくときのスピード感である。急ブレーキと一気にエンジンを噴かせる燃料の爆発のようなものが同居している。ブレーキの音や道に落ちているものをはねとばすノイズのようなものも混じっている。しかし、それはすべて「軽快」である。そこが好きなのだ。
 よく読むと1行目から、とても変なのだ。

路傍に旅人の心を

 「路傍に」を受け止めることばが1行目にはない。1行目は1行として独立していない。詩の1行目が1行として独立していなければならないという理由などないけれど、たとえば1行目が「路傍に」だけであるとか、あるいは「旅人の心を」だけであると仮定してみると、西脇の書いている1行の特徴がよくわかる。
 「路傍に」あるいは「旅人の心を」は、それぞれ独立している。けれど「路傍に旅人の心を」は独立していない。なにかしら次の行をせかせるものがある。「路傍に」どうしたんだ、「旅人の心を」どうしたんだ(どうするんだ)とふたつの思いがことばを駆り立てる。「路傍に」か、「旅人の心を」が1行だったら、それはどちらかの思いがことばを駆り立てるだけだが、「路傍に旅人の心を」だと、ふたつの思いがことばを駆り立てる。
 駆り立てるものが「ひとつ」か「ふたつ」か。
 西脇のことばは「ふたつ」を駆り立て、そして、そのどちらに重点があるかを明らかにしない。「あいまい」である。これが、たぶん、おもしろさの「秘密」である。詩の「秘密」である。
 「散文」だと、こういう文章は嫌われる。ある事実を踏まえ、その先にことばを動かしていく。ふたまたの道を用意していては、ことばはどちらへ行っていいか迷ってしまう。読者はことばの動きを予測できない。したがって、読むスピードが落ちる。これは散文にとっては不幸である。迷いながら長い文章、積み上げられた文章を読むのはつらいからね。
 ところが詩ではこういう運動が逆の効果を産む。ふたまたの道によって、どっちへ行ったっていいじゃないか、という「自由」が生まれる。どうせ「長旅(長い文章)」ではない。ぶらぶらしていけばいい。そのときそのとき、道草をする楽しみを味わえばいい。
 「ふたまた」は、また方向性が見えないことをとらえて「不安定」と呼ぶこともできる。そして、そう考えるとき、2行目が、その構造がより鮮明に見えてくる。2行目「悲します枯れた」は「ふたまた」を加速させる「ふたまた」である。このときの「また」は「またがる」の「また」でもある。「ふたつ」を「また」いで、「ひとつ」にし、その「ひとつ」のなかへ加速して飛びこむのである。
 「ひとつ」って、どっち?
 わからないねえ。
 わからなくしているのだ。わからなくて、いいのだ、そんなことは。
「ふたつ」を「また」いで「ひとつ」にして、その「ひとつ」をさらに突き破っていく。そのスピードの中に詩がある。
 「わからない」ものをあれこれ分析して「意味」にしてしまったら、「ふたつ」を「ひとつ」にする強引な喜びが消えてしまう。

 たとえば川がある。あるいは深い深い溝がある。それを跳び越す--そういう危険なことをせずに橋を渡ればいいという考えもあるけれど、この「跳び越す」よろこび、ね、味わったことがあるでしょ? 何でもないことなのだけれど、「肉体」に自身があふれてくる。「できた」というよろこびがあふれてくる。
 これに似ているのだ。西脇のことばの運動の、不安定なよろこび、不安定なスピードの加速は。どうしようかな、跳べるかな、ちゃんと着地できるかなという不安と、「ほら、やれ、がんばれ」という悪友のはげましが交錯する中、ともかくやってしまうのだ。

 跳び越してしまって、後ろを振り返ると、不思議なものが見える。走ってきて、跳び越す瞬間に見えた何か--それは障害物だったのかな? それともジャンプ台だったのかな?
 たとえば、この詩では「ようなものが言葉につづられる」という1行。前の行からわたってきた「ようなもの」という行頭のまだるっこしさ。それは「障害物」? それとも「ジャンプ台」? 「キイツ」は? それは「障害物」なのか、それとも「ジャンプ台」なのか。
 わからないけれど、そのわからないものが全部「背景」になって輝いている。
 それは、どうやっ跳べたのかわからないけれど、跳び越してしまったときの「肉体」のなかにあふれてくるよろこびの輝きに似ている。




西脇順三郎詩集 (新潮文庫 に 3-1)
西脇 順三郎
新潮社

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辺見庸「善魔論」

2010-12-22 11:15:31 | 詩(雑誌・同人誌)
辺見庸「善魔論」(「現代詩手帖」2010年12月号)

 辺見庸「善魔論」の2連目がおもしろい。(1連目は、ちょっとベケットを思わせる「終わりがない」感じがただよう。ただし、「すべての事後に、神が死んだのではない。すべての事後の虚に、悪魔がついに死にたえたのだ。」というようなことば、特に「虚」ということばは、「意味」を語りすぎていておもしろくない。)

クレマチス。いまさら暗れまどうな。善というなら善、悪というなら悪なのである。それでよい。夕まし、浜辺でますます青む一輪の花。もう暗れまどうことはない。あれがクレマチスというならクレマチス。いや、テッセンというならテッセンでもよい。問題は、夕まぐれにほのかに揺れて、青をしたたらせるあの花のために、ただそれだけのために、他を殺せるか、自らを殺せるか、だ。
<・blockquote>
 善と悪の違いがクママチスとテッセンの違いほどのものなら、他を殺すことと自分を殺すこともまた善と悪の違いのように差異がない。「どのみち善魔にしきられる」(3連目)。人間に「悪」はおこないえない。「悪魔」ではなく「善魔」という「虚」が人間を支配している--というような「意味」は、私には関心がない。
 私は「クレマチス」と「暗れまどう」の音楽に感激したのだ。「クレマチス」のなかに「暗れまどう」がある。もちろん「クレマチス」を「暗れまどう」と読むのは「誤読」なのだが、そのなかに「真実」がある。「クレマチス」を「暗れまどう」と読みたい欲望の真実がある。それは、べつのことばで言い換えれば、それが「クレマチス」であるかどうかは問題ではなく、ここに書かれていることばを発している人間は「暗れまどい」たいということである。「暗れまどう」というようなことをしたいと思う人間は少ないかもしれないが、そういう否定的(?)な状況をたっぷりと身にまといたいという欲望が、人間の本能のなかにある。どこかにある。それを、このことばを発している人間はみつけたのだ。
 それは「善」をおこなう「魔」、人間を「善」へとかりたてる「魔」がいる--という空しい考えから、遠く離れたいという欲望かもしれない。--という「意味」は、また、ちょっと脇にしまいこんで……。
 「クレマチス」「暗れまどう」は「夕まし」という音楽をとおって、「夕まぐれ」という音楽になる。「ま」という音が響きあう。この「ま」を「魔」に結びつけると、またまた「意味」になってしまうから、「意味」を拒絶しながら、「クレマチス」「暗れまどう」「夕まし」「夕まぐれ」という音楽だけを楽しむ。そうすると「ま」のほかに「ら行」の音が響いているのがわかる。「ら行」と「だ行」はどこか近接したところがある。(クレマチスとテッセンの外形よりは、「ら行」「だ行」は近接している--と、私の肉体は思う。)もし暗れ「まどう」が暗れ「まよう」だったとしたら、この音楽はどこかで破綻する。「暗れまどう」だからこそ「夕まぐれ」へと変奏していくことができるのだ。
 その音楽と響きあう「ますます青む一輪の花」も美しいなあ。
 けれど「テッセン」という音は「意味」(形?)としては「クレマチス」と通い合うけれど、音楽としてはクラシックのなかに安っぽいJポップスがまじりこんだよりも気持ち悪い感じがする。「ほのかに揺れて、青をしたたらせるあの花のために」というのも、とても気持ちが悪い。
 あ、辺見庸にとっては、「クレマチス」「暗れまどう」「夕まし」「夕まぐれ」というのは音楽ではないのかな? 音楽であるとしても、辺見はことばを動かすとき、音楽を捨てて「意味」へ傾く人間なんだな。
 私は「意味」に傾くことばはとても苦手である。「誤読」すると、「そういう意味じゃない」と反論されるからね。反論されること自体は、あ、そうなのか--と新しい視点を提供されるようでうれしいけれど、それが「意味」にしばられた反論だとすると楽しみがなくなる。「意味」って、楽しくない。
                          (初出は、詩文集『生首』)


詩文集 生首
辺見 庸
毎日新聞社

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