詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粕谷栄市『遠い 川』(16)

2010-12-09 23:59:59 | 詩集
粕谷栄市『遠い 川』(16)(思潮社、2010年10月30日発行)

 「へちま」という詩も「考える」とは何かということについて考えさせられる。

 しずかな夏の日のことだ。そこが、どこか分からない
うす暗がりに、青いおおきなへちまが、一本、ぶら下が
っていて、その下に、ひとりの男が坐っていた。
 それだけのことだ。うす暗がりに、青いおおきなへち
まが、一本、ぶら下がっていて、その下に、ひとりの男
が、しょんぼり、坐っていたのだ。
 いつまでも、それは変わらなかった。その日、その男
は、何もかも行き詰まっていた。何もかも行き詰まって、
自ら、首を吊って、死んでしまうことを考えていた。
 そうしていて、唐突に、それが見えることに、気がつ
いたのだ。うす暗がりに、青いへちまが、一本、ぶら下
がっていて、ひとりの男が、しょんぼり、坐っている。

 「それが見えること」の「それ」とは、そのことばの前と、後に出てくることがらである。「うす暗がりに、青いへちまが、一本、ぶら下がっていて、ひとりの男が、しょんぼり、坐っている。」--その様子、その全体の姿、世界が見える。
 死んでしまうことを「考えていた」ときに、それが見える。
 これは、とても奇妙なことである。その「見える」ものは「幻」ではない。いま、そこにそうしている男そのものである。
 「考える」と「自分(私)」が見えるのである。これは「考え」と「自分(私)」が「同じもの」であると、語っている。それは「考え」が「私」になったのか。あるいは「私」が「考え」になったのか。--わからないが、「考え」と「私」が「一体」になっているということ、区別がつかなくなっているということは、わかる。いや、「見える」のだから、そこに区別はあるのだが、区別は無意味になっている、ということがわかる、というべきなのかもしれない。
 でも、いつ、どこで、そういうことが起きるのか。「いつ」は「しずかな夏の日」。「どこ」か--「どこか分からないうす暗がり」。「どこ」がわからないのは、「考え」と「私」が「一体」になり、「考え」の「場」も「私」の「場」も消えてしまっているからだ。「どこ」がなくなっているのだ。「どこ」すらが「一体」になっているのだ。「場」が広がりながら同時に消滅している。

 ばかばかしいことだ。何もかも行き詰まるということ
は、そういうことなのだろう。つまり、その日、自分に
見えるのは、それだけになったのだ。

 場でありながら、場の消滅--そこには、場がない。「行き詰まる」のは、必然である。「ここ」も「どこ」がないのだから、どこにも行きようがない。
 ただ「いつ」=「しずかな夏の日」という「時間」だけがある。しかし、この「時間」もほんものの「時間」かどうかわからない。

 たぶん、何もかも厭になって、一日中、ふとんをかぶ
って、死ぬことを考えている男に、よくあることだ。

 「しずかな夏の日」は「しずかな夏の日」ではない。「その日」とは別の日である。「同じ日」かもしれないが、同じ日であっても、違う。「しずかな夏の日」の方は、一日の限定された時間である。「うす暗がり」ということばから、たとえば「夕方」という時間が考えられるが、それがいわば「一瞬」であるのにに対して、「考え」の方は「一日中」という「長い時間」が想定されている。
 ここでは「一瞬」と「一日中」が「一体」になっている。「考え」と「私」のように、「どこ」と「ここ」のように、「一体」になっている。

 で、「いま」はいつ? 「ここ」(どこ)はどこ? 「分からない」。
 「分からない」けれど、わかる。「いま」でありながら「いま」ではない。「ここ」(どこ)でありながら「ここ」「どこ」ではない。時間も場も「一体」になっている--それは「永遠」である。

 はるかな永遠のうす暗がりに、青いおおきなへちまが、
一本、ぶら下がっていて、その下に、自分そっくりの男
が、しょんぼり、坐っている。

 「はるかな永遠」は「いま」「ここ」、「私」の「考え」のなかにある。それは、「自分が生まれる前からあって、死んでからも、ずっと、そのまま、ある」のだ。
 この「考え」は、「ばかばかしい」ものかもしれない。
 でも……。

 ばかばかしいことだ。その男にも、やがて、それは、
よく分かったから、彼は、誰にも、そのことを言わなか
った。自分が、自ら、首を吊って死ぬことを止めてから
も、一生、口にすることもなかった
 ただ、その後、生きていて、ひどくつらいことがある
とき、ときどき、それを思いだした。

 あ、ここでも「思う」のだ。最後は「考える」のではなく、「思う」のなかで「和解」する。
 「永遠」は「考える」ものではなく、「思う」ものなのかもしれない。
 「思う」とき、どんなに「ばかばかしいこと(考え)」でも、それは人を「いま」「ここ」から、「永遠」へと人を案内してくれるのだ。「考え」は「考え」のままではだめなのだ。「思う」にまで、しっかりと抱きしめられなければならないものなのだ。


粕谷栄市詩集 (1976年) (現代詩文庫〈67〉)
粕谷 栄市
思潮社

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