粕谷栄市『遠い 川』(19)(思潮社、2010年10月30日発行)
「残月記」。この詩でも、粕谷は、ただただ同じことを繰り返している。どこまでいっても同じである。私の感想も、だから同じことの繰り返しになるのだが、繰り返しであるけれど、書きたくなるのである。
要約すると、老人である私は、老人の列に混じって、杖をついて歩いている--というだけになってしまう。天には三日月が出ている、とか、低く腰を曲げて、とか、補足することはあるけれど、そんなことは補足したってはじまらないようなことである。
この詩で重要なのは、「考えようとするのだが」ということばだ。
要約すれば30字足らずですんでしまうこと。けれど、それを「考えようとすれば」どうなるだろうか。考えようとすれば、それは、同じことばを繰り返すしかない。考えるということは、同じことばを、ひたすら繰り返すことなのだ。考えに新しいことばなどやってくることはない。いや、やってくるにはくるかもしれないが、それは忘れたころにやってくる。ただそれまで、ひとはひたすら同じことばを繰り返すだけなのだ。しかも、面倒くさいことに(?)、間違えずに考えようとすると、それはどうしたって同じことばの繰り返しになってしまう。新しいことばが正しいという保証はどこにもない。だから同じことばを繰り返すのだ。--もちろん、繰り返したことばそのものに間違いがないかというと、あるかもしれないのだが、同じことばを繰り返している限り、繰り返されることには間違いがないという、変な(?)「真実」が生まれてしまう。同じことばを間違えずに繰り返すことができた、という「真実」が生まれてしまう。
この新しく生まれてきた「真実」を修正するのはむずかしいなあ。
この部分は、いろいろに書き換えながら読みたくなる。
私は、ついさっき、新しく生まれてきた「真実」について書いたが、その新しく生まれてきた「真実」を、粕谷は「こと」と呼んでいる。「考えることといえば、そんなことだ。」ということばのなかで繰り返される「こと」。
繰り返していると、繰り返しが「こと」になる。「こと」というのは、間違いを含まない。そして間違いを含まないという点で「真実」なのだ。
そして、繰り返しによってうまれた「こと」は修正ができない。
老人になれば、ひとは腰を曲げてて、杖をついて歩く--その「こと」。それは、永遠にかわらない「こと」だが、それは最初から「真実」だったのではなく、多くの老人によって繰り返され、「こと」になったのだ。いや、老人になったら腰をまげ杖をついて歩くのは絶対的な「真実」だから、それを老人が繰り返しているだけ--ということもできるのだが、「こと」と「真実」のどちらが先かは、ニワトリと卵のどちらが先かというのに似ていて、意味がない。そこには繰り返しと、繰り返される「こと」が「真実」であるということ以外の何もない。
こういう「こと」のまえで、人間は何もできない。
あ、この「思い」ということば。「思い」は繰り返さない。一回限り。粕谷にとって、考えもしなかったことというのは存在しないだろう。ところが「思いもしなかったこと」というのは、たぶん、無数にあるのだ。
考えは繰り返され、考えた「こと」は、知識(知る)になる。いや、知る「こと」を繰り返せば、そしてその知った「こと」は積み重なって「真実」になる。
「思い」はそうではなくて、いつでも「間違い」なのかもしれない。「思いもしなかった」ということは、それまで「思っていたこと」は、その瞬間から「間違い」になる。
考える。繰り返し、考える。そして、どうなるのだろうか。
考えは虚無に消えていく。これは考えは虚無にしかたどりつけないということである。そして、それに粕谷は「気がついている」。
人間の精神(心?)の動きにはいくつもの種類がある。「思い」があり、「考え」があり、そして「気」がある。
うまくいえないが--つまり直感としてしかいえないのだが、粕谷は、「気」の領域に到達している。「思い」「考え」「気」というものがあるとすれば、その最高位(?)にあるものを「気」と「気がついている」。
この詩集は、そういう詩集である。この詩集を統括しているは「気」なのだ。粕谷は「気」に到達しているのだ。
人間をつくっているのは「気」である。「気」には間違いとか、正しいとかはない。それは一定ではないということで一定している。一定ではないがゆえに、一定でありうる。たぶん、そういう点で、「思い」や「考え」とは違うのだ。
「気」は「思い」や「考え」より、はるかに「あいまい」である。--ここで、私は、また岡井隆のことばを勝手に拡大解釈して借りるのだ。
「気」は「あいまい」であるがゆえに、絶対的なのだ。
私は、いま、粕谷のこの詩集について何か書かなければならないことがあるとすれば、この「気」についてだと気がついたのだが、それはまだ「気」なので書けない--とだけ、書いておくことにする。
「残月記」。この詩でも、粕谷は、ただただ同じことを繰り返している。どこまでいっても同じである。私の感想も、だから同じことの繰り返しになるのだが、繰り返しであるけれど、書きたくなるのである。
遠い天に、小さな三日月の出ている砂丘ばかりのとこ
ろだ。杖をついて、一人の老人が歩いている。
そのあとを、同じく、杖をついて、別の老人が、歩い
ている。そのあとにも、低く腰を曲げて、杖をついて、
歩いている老人がいる。それだけではない。そのあとに
も、さらに、そのあとにも、低く腰を曲げて、杖をつい
て歩く老人が、どこまでもどこまでも、続いている。
遠い天に、小さな三日月の出ている砂丘ばかりのとこ
ろだ。そこを、蟻のように、一列となって、同じような
老人たちが、杖をついて歩いているのだ。
気がつくと、自分も、その一人だ。自分の前を行く老
人の背中を見て、同じく、杖をついて歩いている。
いつから、どうして、自分がそうしているのか、考え
ようとするのだが、歩くほか、何もできない。とにかく、
一歩ずつ、前の老人のあとを、歩いている。
要約すると、老人である私は、老人の列に混じって、杖をついて歩いている--というだけになってしまう。天には三日月が出ている、とか、低く腰を曲げて、とか、補足することはあるけれど、そんなことは補足したってはじまらないようなことである。
この詩で重要なのは、「考えようとするのだが」ということばだ。
要約すれば30字足らずですんでしまうこと。けれど、それを「考えようとすれば」どうなるだろうか。考えようとすれば、それは、同じことばを繰り返すしかない。考えるということは、同じことばを、ひたすら繰り返すことなのだ。考えに新しいことばなどやってくることはない。いや、やってくるにはくるかもしれないが、それは忘れたころにやってくる。ただそれまで、ひとはひたすら同じことばを繰り返すだけなのだ。しかも、面倒くさいことに(?)、間違えずに考えようとすると、それはどうしたって同じことばの繰り返しになってしまう。新しいことばが正しいという保証はどこにもない。だから同じことばを繰り返すのだ。--もちろん、繰り返したことばそのものに間違いがないかというと、あるかもしれないのだが、同じことばを繰り返している限り、繰り返されることには間違いがないという、変な(?)「真実」が生まれてしまう。同じことばを間違えずに繰り返すことができた、という「真実」が生まれてしまう。
この新しく生まれてきた「真実」を修正するのはむずかしいなあ。
永い人生を過ごして、老人が、杖をついて歩くことは、
知っていたが、自分が、ここで、そうしなければならな
いとは、思いもしなかった。一歩ずつ、杖をついて歩い
ていて、考えることといえば、そんなことだ。
この部分は、いろいろに書き換えながら読みたくなる。
私は、ついさっき、新しく生まれてきた「真実」について書いたが、その新しく生まれてきた「真実」を、粕谷は「こと」と呼んでいる。「考えることといえば、そんなことだ。」ということばのなかで繰り返される「こと」。
繰り返していると、繰り返しが「こと」になる。「こと」というのは、間違いを含まない。そして間違いを含まないという点で「真実」なのだ。
そして、繰り返しによってうまれた「こと」は修正ができない。
老人になれば、ひとは腰を曲げてて、杖をついて歩く--その「こと」。それは、永遠にかわらない「こと」だが、それは最初から「真実」だったのではなく、多くの老人によって繰り返され、「こと」になったのだ。いや、老人になったら腰をまげ杖をついて歩くのは絶対的な「真実」だから、それを老人が繰り返しているだけ--ということもできるのだが、「こと」と「真実」のどちらが先かは、ニワトリと卵のどちらが先かというのに似ていて、意味がない。そこには繰り返しと、繰り返される「こと」が「真実」であるということ以外の何もない。
こういう「こと」のまえで、人間は何もできない。
知ってはいたが、自分が、ここで、そうしなければならなかったとは、思いもしなかった。
あ、この「思い」ということば。「思い」は繰り返さない。一回限り。粕谷にとって、考えもしなかったことというのは存在しないだろう。ところが「思いもしなかったこと」というのは、たぶん、無数にあるのだ。
考えは繰り返され、考えた「こと」は、知識(知る)になる。いや、知る「こと」を繰り返せば、そしてその知った「こと」は積み重なって「真実」になる。
「思い」はそうではなくて、いつでも「間違い」なのかもしれない。「思いもしなかった」ということは、それまで「思っていたこと」は、その瞬間から「間違い」になる。
考えることといえば、そんなことだ。
考える。繰り返し、考える。そして、どうなるのだろうか。
そして、既に、気がついているのだ。何ものかに導か
れて、このまま、自分は歩き続ける。やがて、ありもし
ない永遠の虚無のなかに消えていくのだと。
考えは虚無に消えていく。これは考えは虚無にしかたどりつけないということである。そして、それに粕谷は「気がついている」。
人間の精神(心?)の動きにはいくつもの種類がある。「思い」があり、「考え」があり、そして「気」がある。
うまくいえないが--つまり直感としてしかいえないのだが、粕谷は、「気」の領域に到達している。「思い」「考え」「気」というものがあるとすれば、その最高位(?)にあるものを「気」と「気がついている」。
この詩集は、そういう詩集である。この詩集を統括しているは「気」なのだ。粕谷は「気」に到達しているのだ。
人間をつくっているのは「気」である。「気」には間違いとか、正しいとかはない。それは一定ではないということで一定している。一定ではないがゆえに、一定でありうる。たぶん、そういう点で、「思い」や「考え」とは違うのだ。
「気」は「思い」や「考え」より、はるかに「あいまい」である。--ここで、私は、また岡井隆のことばを勝手に拡大解釈して借りるのだ。
「気」は「あいまい」であるがゆえに、絶対的なのだ。
私は、いま、粕谷のこの詩集について何か書かなければならないことがあるとすれば、この「気」についてだと気がついたのだが、それはまだ「気」なので書けない--とだけ、書いておくことにする。
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