粕谷栄市『遠い 川』(15)(思潮社、2010年10月30日発行)
「死んだ女房」は、それまでの粕谷の詩とは同じように、ゆっくりはじまる。繰り返し、同じことが語られる。
ここまでは、ごくふつうの展開である。だが、次に思いがけないことが起きる。
この展開は、「怪談」や「怪奇小説」なら、ありきたりかもしれない。そして、この作品の前に「幽霊」を読まなかったら、この部分はなんとなく読み過ごしたかもしれない。「痩せた女」のことを知らないと書いているが、まあ、これは「死んだ女房」の幽霊のようなものだな、と思ったかもしれない。
まあ、「幽霊」を読んだあとでも、この部分まで読んだときは、この女は「幽霊」だな、と印象を持ってしまうのだけれど……。
この変化(展開)の直前の「誰だったろう。死んだ女房の知り合いだったか。」がとても気になるのである。このことばを書いたために「女」がやってきたのではないか--そう気がついたのである。
「誰だったろう。死んだ女房の知り合いだったか。」--これは何だろう。他の部分と、どう違うのか。このことばは、「おれ」が見たこと、したことの「描写」ではない。これは、おれの「考え」である。男は「考えている」。女とは誰なのか。「心当たりはなかった」ので、「心」で何かを思うのではなく、「頭」で考えたのだ。考えることが、男と女の関係をかえてしまったのだ。
これは、何だろうか。男が見たものだろうか。男がみたことの「描写」だろうか。書き出しの一段落と同じ「文体」でできているのだろうか。女が「おれに気づかなかった。」とはどういうことだろう。蕪を洗っているときは、女は、おれに気づいていたのだろうか。だいたい、女が男に気づいているか気づいていないか、男が判断できることだろうか。何か、とても変である。
あ、これは、男が見たものの(見たことのの)描写ではないのだ。ここに書かれているのは、すべて「考え」なのだ。「誰だったろう。」以後は、男の「考え」である。
病気で寝たきりになったら、ある日見かけた女がやってきて「世話」をしてくれる。そんなことを「考えた」。「心」で思ったのではなく、「頭」で考えた。その女は、足袋を繕いながら、男には気づかない--というふうに、男は、女の「生き方」を考えた。
そして、そんなふうに「考えた」こと、「頭」で考えたことを何というか。
「幻」である。
「幻だったかも知れない」と粕谷は書いているが。「頭」で考えたことは「幻」である。そして、その「幻」は考えるだけではなく、それに対して「かも知れない」と疑うとき、「幻」ではなく、たしかなものになる。
考え、その考えを疑うとき、考えるということが、思想になる。思想になったあと、ことばはもう一度大きく変化する。
「本当は、おれは、どこかで、あの痩せた女と一生を共にしていたのかも知れない。」は、「かも知れない」が象徴的だが、これも「考え」(思想)そのものである。一生は一度だから、誰と巡り合い、誰と暮らすかは、「ひとつ」しかない。「ひとつ」しかないということは、しかし、その「ひとつ」以外のこともあることを教えてくれる。--ということを、ひとは、考えることができるのだ。
不可能を考える。考えることができる。その不思議さ。なぜ、人間は不可能なことを考えることができるのだろう。
考えは、考えたことを疑うとき、明確な思想になる。そして、思想になってしまうと、それはもう「頭」の枠を叩きこわしてあふれ、もう一度「思い」のなかで「和解」する。ことばは「かも知れない」を振り切って、一種の「おろかしい」思いの断定になる。「おろかしい」と書いてしまったが、何といえばいいのか……笑い話のような感じの、すべてを許してしまう何かにかわっていく。
「おれは、死んだ女房のところへゆくのだ。」この確信。このあたたかさ。「死ぬ」というのは哀しいことなのかもしれないけれど、こういう死なら、これはいいものだなあ、と感じさせる。
死を、こんなにあたかかい感じにしてしまえることば--粕谷は、なんだか、とてもすごい「思想」にたどりついている。
「死んだ女房」は、それまでの粕谷の詩とは同じように、ゆっくりはじまる。繰り返し、同じことが語られる。
その日、どういうわけか、何度も、同じ女に会った。
淋しそうな顔立ちのきれいな痩せた女で、小笊をかかえ
て、ぼんやり、佇んでいる。
自分のように、車を曳いて、干魚を売る商いをしてい
ると、いろいろなことがある。女は、掘割の柳の陰にい
たり、横町の煙草屋の角にいたりした。おれが稲荷の社
で弁当を食っているときも、遠くで、おれを見ていた。
車を曳いてゆくと、いなくなっている。結局、それだ
けのことだった。その日、家で、銭を数えながら、その
女のことを思い出したが、全く、心当たりはなかった。
誰だったろう。死んだ女房の知り合いだったか。それ
にしても、その後、その女を見ることはなかったのだ。
ここまでは、ごくふつうの展開である。だが、次に思いがけないことが起きる。
次に、久しぶりに、その女を見たのは、おれが、病気
で寝ているときだった。夕暮れ、女は、おれの家にいて、
台所で、蕪を洗っていた。
この展開は、「怪談」や「怪奇小説」なら、ありきたりかもしれない。そして、この作品の前に「幽霊」を読まなかったら、この部分はなんとなく読み過ごしたかもしれない。「痩せた女」のことを知らないと書いているが、まあ、これは「死んだ女房」の幽霊のようなものだな、と思ったかもしれない。
まあ、「幽霊」を読んだあとでも、この部分まで読んだときは、この女は「幽霊」だな、と印象を持ってしまうのだけれど……。
この変化(展開)の直前の「誰だったろう。死んだ女房の知り合いだったか。」がとても気になるのである。このことばを書いたために「女」がやってきたのではないか--そう気がついたのである。
「誰だったろう。死んだ女房の知り合いだったか。」--これは何だろう。他の部分と、どう違うのか。このことばは、「おれ」が見たこと、したことの「描写」ではない。これは、おれの「考え」である。男は「考えている」。女とは誰なのか。「心当たりはなかった」ので、「心」で何かを思うのではなく、「頭」で考えたのだ。考えることが、男と女の関係をかえてしまったのだ。
おれは、布団から頭を上げて、それを見た。たしかに、
あの女だと分かったが、今度は、女は、居間で、足袋を
縫っていて、おれに気づかなかった。そのうちに、あた
りが暗くなって、何もかも見えなくなった。
これは、何だろうか。男が見たものだろうか。男がみたことの「描写」だろうか。書き出しの一段落と同じ「文体」でできているのだろうか。女が「おれに気づかなかった。」とはどういうことだろう。蕪を洗っているときは、女は、おれに気づいていたのだろうか。だいたい、女が男に気づいているか気づいていないか、男が判断できることだろうか。何か、とても変である。
おれは死病だと言われて、寝たきりだったのだ。高熱
が出て、何度も気が遠くなったから、それは、そのとき
だけの幻だったかもしれない。
あ、これは、男が見たものの(見たことのの)描写ではないのだ。ここに書かれているのは、すべて「考え」なのだ。「誰だったろう。」以後は、男の「考え」である。
病気で寝たきりになったら、ある日見かけた女がやってきて「世話」をしてくれる。そんなことを「考えた」。「心」で思ったのではなく、「頭」で考えた。その女は、足袋を繕いながら、男には気づかない--というふうに、男は、女の「生き方」を考えた。
そして、そんなふうに「考えた」こと、「頭」で考えたことを何というか。
「幻」である。
「幻だったかも知れない」と粕谷は書いているが。「頭」で考えたことは「幻」である。そして、その「幻」は考えるだけではなく、それに対して「かも知れない」と疑うとき、「幻」ではなく、たしかなものになる。
考え、その考えを疑うとき、考えるということが、思想になる。思想になったあと、ことばはもう一度大きく変化する。
人間は一回しか生きられない。この世の巡り合わせは、
さまざまだ。本当は、おれは、どこかで、あの痩せた女
と一生を共にしていたのかも知れない。ほんの一度だけ、
その暮らしの有りようを垣間見たのかもしれない。
「本当は、おれは、どこかで、あの痩せた女と一生を共にしていたのかも知れない。」は、「かも知れない」が象徴的だが、これも「考え」(思想)そのものである。一生は一度だから、誰と巡り合い、誰と暮らすかは、「ひとつ」しかない。「ひとつ」しかないということは、しかし、その「ひとつ」以外のこともあることを教えてくれる。--ということを、ひとは、考えることができるのだ。
不可能を考える。考えることができる。その不思議さ。なぜ、人間は不可能なことを考えることができるのだろう。
考えは、考えたことを疑うとき、明確な思想になる。そして、思想になってしまうと、それはもう「頭」の枠を叩きこわしてあふれ、もう一度「思い」のなかで「和解」する。ことばは「かも知れない」を振り切って、一種の「おろかしい」思いの断定になる。「おろかしい」と書いてしまったが、何といえばいいのか……笑い話のような感じの、すべてを許してしまう何かにかわっていく。
息を引き取る前に、何かが、おれにそれを知らせたの
だ。いずれにせよ、死んだ女房に話したら、気の強い女
のことだ。すぐ、ぶちのめされるようなはなしだ。
この世を去るめのときまで、そんな頬を張り倒される
ような、ばかな夢を見たりして、結局、おれは、死んだ
女房のところへゆくのだ。
「おれは、死んだ女房のところへゆくのだ。」この確信。このあたたかさ。「死ぬ」というのは哀しいことなのかもしれないけれど、こういう死なら、これはいいものだなあ、と感じさせる。
死を、こんなにあたかかい感じにしてしまえることば--粕谷は、なんだか、とてもすごい「思想」にたどりついている。
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