詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

粕谷栄市『遠い 川』(15)

2010-12-08 23:59:59 | 詩集
粕谷栄市『遠い 川』(15)(思潮社、2010年10月30日発行)

 「死んだ女房」は、それまでの粕谷の詩とは同じように、ゆっくりはじまる。繰り返し、同じことが語られる。

 その日、どういうわけか、何度も、同じ女に会った。
淋しそうな顔立ちのきれいな痩せた女で、小笊をかかえ
て、ぼんやり、佇んでいる。
 自分のように、車を曳いて、干魚を売る商いをしてい
ると、いろいろなことがある。女は、掘割の柳の陰にい
たり、横町の煙草屋の角にいたりした。おれが稲荷の社
で弁当を食っているときも、遠くで、おれを見ていた。
 車を曳いてゆくと、いなくなっている。結局、それだ
けのことだった。その日、家で、銭を数えながら、その
女のことを思い出したが、全く、心当たりはなかった。
 誰だったろう。死んだ女房の知り合いだったか。それ
にしても、その後、その女を見ることはなかったのだ。

 ここまでは、ごくふつうの展開である。だが、次に思いがけないことが起きる。

 次に、久しぶりに、その女を見たのは、おれが、病気
で寝ているときだった。夕暮れ、女は、おれの家にいて、
台所で、蕪を洗っていた。

 この展開は、「怪談」や「怪奇小説」なら、ありきたりかもしれない。そして、この作品の前に「幽霊」を読まなかったら、この部分はなんとなく読み過ごしたかもしれない。「痩せた女」のことを知らないと書いているが、まあ、これは「死んだ女房」の幽霊のようなものだな、と思ったかもしれない。
 まあ、「幽霊」を読んだあとでも、この部分まで読んだときは、この女は「幽霊」だな、と印象を持ってしまうのだけれど……。
 この変化(展開)の直前の「誰だったろう。死んだ女房の知り合いだったか。」がとても気になるのである。このことばを書いたために「女」がやってきたのではないか--そう気がついたのである。
 「誰だったろう。死んだ女房の知り合いだったか。」--これは何だろう。他の部分と、どう違うのか。このことばは、「おれ」が見たこと、したことの「描写」ではない。これは、おれの「考え」である。男は「考えている」。女とは誰なのか。「心当たりはなかった」ので、「心」で何かを思うのではなく、「頭」で考えたのだ。考えることが、男と女の関係をかえてしまったのだ。

 おれは、布団から頭を上げて、それを見た。たしかに、
あの女だと分かったが、今度は、女は、居間で、足袋を
縫っていて、おれに気づかなかった。そのうちに、あた
りが暗くなって、何もかも見えなくなった。

 これは、何だろうか。男が見たものだろうか。男がみたことの「描写」だろうか。書き出しの一段落と同じ「文体」でできているのだろうか。女が「おれに気づかなかった。」とはどういうことだろう。蕪を洗っているときは、女は、おれに気づいていたのだろうか。だいたい、女が男に気づいているか気づいていないか、男が判断できることだろうか。何か、とても変である。

 おれは死病だと言われて、寝たきりだったのだ。高熱
が出て、何度も気が遠くなったから、それは、そのとき
だけの幻だったかもしれない。

 あ、これは、男が見たものの(見たことのの)描写ではないのだ。ここに書かれているのは、すべて「考え」なのだ。「誰だったろう。」以後は、男の「考え」である。
 病気で寝たきりになったら、ある日見かけた女がやってきて「世話」をしてくれる。そんなことを「考えた」。「心」で思ったのではなく、「頭」で考えた。その女は、足袋を繕いながら、男には気づかない--というふうに、男は、女の「生き方」を考えた。
 そして、そんなふうに「考えた」こと、「頭」で考えたことを何というか。
 「幻」である。
 「幻だったかも知れない」と粕谷は書いているが。「頭」で考えたことは「幻」である。そして、その「幻」は考えるだけではなく、それに対して「かも知れない」と疑うとき、「幻」ではなく、たしかなものになる。
 考え、その考えを疑うとき、考えるということが、思想になる。思想になったあと、ことばはもう一度大きく変化する。

 人間は一回しか生きられない。この世の巡り合わせは、
さまざまだ。本当は、おれは、どこかで、あの痩せた女
と一生を共にしていたのかも知れない。ほんの一度だけ、
その暮らしの有りようを垣間見たのかもしれない。

 「本当は、おれは、どこかで、あの痩せた女と一生を共にしていたのかも知れない。」は、「かも知れない」が象徴的だが、これも「考え」(思想)そのものである。一生は一度だから、誰と巡り合い、誰と暮らすかは、「ひとつ」しかない。「ひとつ」しかないということは、しかし、その「ひとつ」以外のこともあることを教えてくれる。--ということを、ひとは、考えることができるのだ。
 不可能を考える。考えることができる。その不思議さ。なぜ、人間は不可能なことを考えることができるのだろう。

 考えは、考えたことを疑うとき、明確な思想になる。そして、思想になってしまうと、それはもう「頭」の枠を叩きこわしてあふれ、もう一度「思い」のなかで「和解」する。ことばは「かも知れない」を振り切って、一種の「おろかしい」思いの断定になる。「おろかしい」と書いてしまったが、何といえばいいのか……笑い話のような感じの、すべてを許してしまう何かにかわっていく。

 息を引き取る前に、何かが、おれにそれを知らせたの
だ。いずれにせよ、死んだ女房に話したら、気の強い女
のことだ。すぐ、ぶちのめされるようなはなしだ。
 この世を去るめのときまで、そんな頬を張り倒される
ような、ばかな夢を見たりして、結局、おれは、死んだ
女房のところへゆくのだ。

 「おれは、死んだ女房のところへゆくのだ。」この確信。このあたたかさ。「死ぬ」というのは哀しいことなのかもしれないけれど、こういう死なら、これはいいものだなあ、と感じさせる。
 死を、こんなにあたかかい感じにしてしまえることば--粕谷は、なんだか、とてもすごい「思想」にたどりついている。





鄙唄
粕谷 栄市
書肆山田

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誰も書かなかった西脇順三郎(158 )

2010-12-08 11:44:27 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『豊饒の女神』の巻頭の「どこかで」。

どこかでキツツキの音がする
灰色の淋しい光が斜めにさす
コンクリートのせまい街を行く
アンジェリコの天使のような粋な
野薔薇のように青ざめた若い女が
すれちがった--ゆくりなく
ベーラムがかすかにただよう
この果てしないうら悲しさ
「おどりのけいこに行つて来たのよ」

 「淋しい」と「うら悲しさ」と、どう違うのだろう。はっきりとはわからない。けれど、もし、「この果てしない淋しさ」だったら、この詩の印象は違ってくるだろうと思う。「うら悲しさ」、とくに「悲しさ」の「か行」のことばが、次の「おどりのけいこ」の「けいこ」ととてもいい感じで響きあう。「この果てしない淋しさ」だと「おどりのけいこ」とはうまく響き合わない。遠く離れてしまって、音楽が生まれてこない。
 この「か行」はどこからきているか。

すれちがった--ゆくりなく

 この1行の、とくに「ゆくりなく」の「く」からきている。「ゆくりなく」の「ゆくり」は「ゆかり」。「ゆかり」がない。「縁」がない。そこから「思いがけない」という意味が生まれているのだと思うが、「ゆくり」と「ゆかり」には音のすれ違いがある。「く」という音を意識しながら、どこかで「か」の音を聞いている。そのすれ違いの中に「か行」の意識が強くなる。
 「か」すかにただよう。(音楽なのに、かすかに、かおる、そのかおりのようなものもある。)「こ」のはてしないうら「か」なしさ。おどりの「け」い「こ」にいって「き」たのよ。
 「この果てしないうら悲しさ」はまた、このはて「し」ないうらかな「し」「さ」であり、その「さ行」の動きは、「さ」びしいを呼び覚ます。
 「この果てしないうら悲しさ」という1行には「かなしさ」と「さびしさ」が出会っているのだ。
 けれど、そういう「意味」を突き放して、

「おどりのけいこに行つて来たのよ」

 という1行でおわる。
 「おどりのけいこに行って来」て、それがどうした? どうもしない。一瞬の「すれ違い」のおもしろさがあるだけである。それは、「無意味」かもしれないが、その「無意味」が詩なのである。




詩集 (定本 西脇順三郎全集)
西脇 順三郎
筑摩書房

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