詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

入沢康夫「大叔父の家の思ひ出」

2010-12-29 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
入沢康夫「大叔父の家の思ひ出」(「現代詩手帖」2010年12月号)

 入沢康夫「大叔父の家の思ひ出」は、「偽記憶」シリーズの続編の一篇。「偽」という考えは、私にはとても魅力的に感じられる。私はよく「誤読」ということばをつかうが、その「誤」と「偽」は似ているようでかなり違う。「誤」はあくまで「間違い」である。けれど「偽る」は「間違い」ではない。「わざと」が、そこにある。作為がある。なぜ、「わざと」ニセモノをつくるのか。「偽」とは、いったい何なのか。

 納屋の軒端に、蜜蜂の巣箱が三つ並ん
でゐて、右はじの箱にだけ蜂がしきりに
出入りしてゐるのを、八歳の私は、何分
にも蜂の巣箱などといふものを初めて見
たことでもあつて、磨き込まれた縁側に
腰を掛けて、小半時もじつと見詰めて
--見詰めてといふよりも、見惚れてゐ
た。

 「見詰める」「見惚れる」というふたつの「見る」が登場する。そこに秘密があるかもしれない。「八歳」の子どもに対してこんなことを書くのは変かもしれないが、「見惚れる」というのは私であることを忘れることだ。「見詰める」とき、私は私のままである。けれど「見惚れる」になると、違う。私ではなくなる。私でなくなり、何になるか--それはわからないが、何か、私が私ではなくなることを私たちは願うところがある。本能的な欲望のようなものである。
 「見詰めてといふよりも、見惚れてゐた。」というのは、「八歳」のあるときの「記憶」を客観的に再現したものかもしれない。しかし、そうではなく、そこに「欲望」が含まれているというふうに読むこともできるだろう。
 私が気にしているのは「よりも」という比較である。
 「比較」というのは、実際には「現実」というか、「いま」「そのとき」にはできないことである。「見詰める」「見惚れる」というのは「いま」できる。けれど、その「いま」やっていることが「見詰める」なのか「見惚れる」のなかは「比較」できない。それは、別な時間から「いま」を振り返ったときに初めてできるものである。入沢は「記憶」と書いているが(タイトルは「思ひ出」であるが……)、その「とき」をふりかえる、「そのとき」の「いま」をふりかえることで、あれは「見詰める」か「見惚れる」かという「比較」ができる。
 そして、そのどちらかを「選ぶ」。そこに「わざと」がある。「わざと」ではなく、「正確に」という選び方もあるが、「わざと」違ったものを、「ニセモノ」を選ぶということもありうる。なぜか。
 「ニセモノ」は、「ほんもの」では体験できないことをさせてくれるからである。かなえられていない欲望を実現してくれるからである。実現されていない本能の可能性を「ニセモノ」のなかで解放するのだ。

 子どものころ、自分はほんとうはこの家の子どもではないのだという夢を見るものである。そんなことはありえないのだが、この家の子どもではないと考えたとき、底は知らない可能性がある。そういう可能性を夢見るのは人間の本能である。どんな可能性を夢見ていいかわからないから、この家の子どもではないと、とりあえず(?)自分を否定する形で夢を見るのだ。
 その「本能」を、そのまま書いていけば、それは完全な「夢」(間違った夢)になる。甘ったるい抒情になる。そこを「間違えず」に、「ニセモノ」にするために、入沢のことばは、ちょっと複雑に動く。

 夏の光の矢が降り注ぐ中で、蜜蜂の営
みはいかにも単調に続き、さすがにそろ
そろ見飽きた頃、異変が起つた。

 「見飽きた」が絶妙である。「見詰める」、「見惚れる」、そうして「見飽きる」というのは単なる「時間」の変化ではない。「見惚れる」から「見飽きる」は、いわば「夢」からさめるのである。現実にもどる。
 これは最初の段落で注目した「よりも」に似ている。「比較」する行為にいくらか似たところがある。「現実」「客観」というものによって「ニセモノ」のなかにしのびこんでくる「甘ったるさ」を排除するのである。ことばは「客観的」であればあるほど、ニセモノなのである。本能とは遠いところを動いているのである。
 装われた「客観」から「わざと」がはじまる。「わざと」というのは、あくまで「現実」に対する明確な認識があり、その認識を裏切って動くことなのである。

 入沢は、いや、それは「わざと」ではない。実際に「見飽きた」ころに起きたことなのだというかもしれないが、そうだとしても、ここでいったん「現実」にもどることが、次に起きることが「見惚れた」、つまり「私が私でなくなった」状態に起きたのではなく、「見惚れる」と「見飽きる」の境目に起きたことを明らかにする。
 入沢は「わざと」境目--境界をつくり、その「境界」で、ありえないことを存在させるのである。どんなありえないことでも、「境界」線上でなら起きうる。「境界線」というのは「もの(存在)」の力関係が揺れ動いている「場」だからである。「境界線」が「右、左を分けるのか、上下を分けるのか、あるいは此岸と彼岸をわけるのかわからないが、その境目にはふたつの力が押し寄せてくるのだから、そこでは何が起きてもいいいのだ。此岸のことが起きようが、彼岸のことが起きようが、そこには両方の論理が動いているので、どちらが間違っているとはいえないのである。

 蜂たちがいつせいに巣箱から飛び出し、
中空に群がつたまま渦を巻き、その渦が
しばらくは右に左にと揺れ動いたあと、
ほぼ一ヶ所に留まり、回転の速さは益々
はげしくなつて……

 この段落の文章は完結していない。途中で終わっている。これは、ここから「論理」が飛躍することを意味する。此岸か彼岸であるか、断定せず、「境界線」そのものになり、「境界線」を「線」ではなく、ひろがりのある「場」にしてしまう。
 それは飛躍であると同時に、潜入であるかもしれない。ある一点への潜入。そして、潜入することによって、その小さな「場」を自分の「肉体」のサイズに合わせて拡大していく--ということかもしれない。
 それは、新たな「見惚れる」ということにならないだろうか。
 「見惚れる」というのは、私が私でなくなることだが、それは私を対象のなかに放りこんでしまって、私が「対象」になるということでもある。
 そこで何が起きるか。何を起こしたいのか。

 そして、その渦の中心部に、差し渡し
一尺ばかりの空洞があってそこにまるで
ガラスの薄膜ででもできたかのやうな透
明な球体がしつかりと嵌まつて激しく光
り輝き、その眩しさ故に、しかとは見極
められなかったものの、女雛のやうなき
らびやかな衣装を着けた小さい小さい生
き物--小人か、それとも、ひよつとし
たら姫神?--の姿が見え隠れしてゐる
のだつた。

 ここに描かれているのは「女王蜂」と呼ばれるものをかもしれない。「女王蜂」ということばを「八歳」の入沢は知っていて、その知っていることを手がかりに「女王」というものを、ことばの力で見ようとしたのである。
 これは、とてもおもしろいことだと思う。
 「見惚れる」、「見惚れる」ことによって、私が私でなくなるというときにさえ、私たちは「知っている」ことを土台にする。
 ここでは、これまでに見てきた「客観」ということが別の形でおこなわれている。「現実」というか、たしかに存在しているものを手がかりにして、私たちはニセモノの世界へ入っていくのである。ニセモノをなんとか「ほんもの」にするために、現実に確実にあるものを出発点にするのである。
 「見詰める」(客観)、「見惚れる」(客観の喪失、主観への没入)、「見飽きる」(主観からの覚醒)を経てきて、「客観」を土台にして、もう一度「主観--本能」の方へ逆戻りしてみる。「本能」が「見惚れる」ではなく「見詰める」ことができるとしたら、いったい何を「見詰める」ことができるのか。--それを探る。
 あ、これは、もはや「記憶」ではないね。
 「記憶」を借りた人間の「可能性」の追及である。「ニセモノ」をかたることで、入沢は、ことばの「本能」の可能性を探っているのである。

 そして、ここにもうひとつ「見る」が出てくる。
 見極める。
 ただし、それは「見極められなかつた」という否定の形で出てくる。

 「見詰める」「見惚れる」「見飽きる」ということろから、一瞬の錯覚のようにして触れた「見惚れる」(見惚れた)世界へ逆戻りする。「見飽きる」というときの「客観」に逆らって、「本能」もまた「覚醒」するのである。「見飽きる」と感じたが、それはほんとうに見飽きたのか。まだまだ「見詰める」ことができなかったものがあるのではないのか。ほんとうは、「いま」「ここ」で起きていること以上のものを知りたくて「見詰め」たのではないかったのか。「見つめる」も「見惚れる」もほんとうは「完結」していないのではないのか。「見飽きる」が、かりそめの「完結」を引き起こすので、その運動に逆らうようにして、本能が目覚める。
 入沢のことばは、何か、そういう「往復運動」をしながら、書こうとして書けないもの、「書き切れなかったもの」(書き極められなかったもの)を暗示する。提示する。
 それこそ、たどりつけない「本物」なのだ。
 「本物」を暗示する--暗示という形で提示するために「ニセモノ」を入沢は書くのである。「偽・記憶」にしてしまうのである。


 「見詰める」「見惚れる」「見飽きる」「見極める」--この「見る」をめぐる運動のなかに「わざと」がある。入沢は、「わざと」そういう運動をさせながら、「ニセモノ」を作り上げる。そのとき「ニセモノ」は、ことばではたどりつけない「本物」になる。そして、もし「本物」があるのすれば、そのときの「本物」に「なる」の「なる」という運動のなかにだけある。 
 意識の変化、意識の運動が、「もの」をつくる。「もの」は最初からそこにあるのではなく、意識の運動とともにそこに「ある」。それは、意識の運動、ことばの運動によって「ほんもの」にもなれば「ニセモノ」になる。
 そこにあるのは、「なる」という運動だけである。たしかに存在するといえるのは「なる」という運動だけである。

 「偽」(ニセモノ)とは、まだ「見極められていない」本能の「本物」のことである。それが見極められないのは、それが「ある(存在)」ではなく、「なる(運動)」だからでもある。

 *

 入沢の、この「偽記憶」シリーズは「散文」の形を借りて(装って)書かれている。「散文」というのは「事実」を積み上げて書かれるものである。「客観」こそが「散文」のいのちである。
 「見詰める」「見惚れる」「見飽きる」「見極める」(見極められない)という動きのなかに、常に「客観」の揺れ戻しがある。「客観」を「わざと」組み込みながら、入沢は「主観(本能)」の運動そのものの軌跡へと入り込む。
 「わざと」「客観」を組み込むために、「散文」という形式が選ばれているのである。この「偽記憶」シリーズは、行わけの形式では絶対に書かれることはない。

        (入沢康夫「大叔父の家の思ひ出」の初出は「びーぐる」8、7月)
かりのそらね
入沢 康夫
思潮社

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