岩佐なを「記憶なんか」、小長谷清実「有耶無耶語の方へ」(「交野が原」71、2011年09月21日発行)
岩佐なをの詩をいつから好きになったのか、思い出せない。--以前はたしか大嫌い、気持ち悪いというだけのために感想を書いていたはずだ。「初心」を忘れてはいかん、ということもないのだろうけれど、これは変だなあ。と、思いながら……。
「記憶なんか」を読みはじめる。
以前は、「頭蓋でおおう過保護時代」という批評のことばと「擂り鉢」という暮らしのことばが同居する瞬間に、気持ち悪さを感じたのかもしれない。いまでも、そういう瞬間には、ちょっと私の体は違和感をおぼえてしまうのだが
へきた瞬間に、違和感が消えてしまう。
「カンジッ」と岩佐は書いているが、岩佐は「カンジ(感じ)」にことばがたどりつくように工夫しているのかなあ。「カンジ」を優先させて、それにことばを従属させているのかなあ。そのときの「カンジ(感じ)→支配(制御・統御)→ことば」の動きが、「意味」(頭脳)ではなく、「音」として「肉体」にそのまま響いてくる瞬間があって、それを気持ちよく感じるようになったのかなあ。
あ、抽象的すぎたね。
「ありゃりゃこりゃりゃ」ということばのなかにも「意味」はある。「うまくことば、論理にならない一瞬の衝撃、奇妙な感じ」とかなんとか言ってしまえばそうなってしまいそうな「意味」はある。でも、そういう面倒なことを岩佐は言わない。ただ「音」にしてしまう。この瞬間の、その「音」にまかせてしまう「肉体」の感じが、私には気持ちがいい。それは、いま書いたことと矛盾するのだが、「音」が「肉体」を呼び覚まし、肉体のなかに「意味」をつくる感じなのだ。
別な言い方をすると……。
ここに書いてあることは「絵」に描けるね。「眼」に見えるように、図解して理解することができる。このとき、私は「眼」の力で、ことばを制御している(岩佐の制御を追うように動いている)。「眼」は「頭」とつながって動いているが、ほかの「肉体」は動いていない。動かないことで「眼」と「頭」のつながりを支えている。あるいはこのとき、「頭」は「眼」以外の肉体が動かないように、なんらかの形で「制御」しているのかもしれない。
--この制御の感じ。
この制御の感じが、「ありゃりゃこりゃりゃ」ということばに出会った瞬間、ぱっと消える。「頭」では「理解」できない。その「理解できない」ものにむかって、肉体が瞬間的にひらかれる感じ。「頭」では理解できないが、「ありゃりゃこりゃりゃ」を肉体は知っている。「音」を知っている。その「音」が「肉体」のなかを通って出てくる瞬間を何度も目撃していて、そのときの「感じ」が肉体のなかにある記憶を揺さぶる。
そして、そのときの「ありゃりゃこりゃりゃ」という「音」は、実は「正確」ではない。言い換えると--というか、言いなおすと、「頭蓋」とか「過保護時代」とかいうことばが「音」そのものがだれの口からでたときも「同じ」であのようにして、「同じ(正確)」な「音」として出てくるわけではない。あるひとは「ありゃりゃ」だけかもしれない。別なひとは「ありゃこりゃまあ」かもしれない。つまり「同じ」ではないのだが、その「違い」を超えて「同じ」ものを「肉体」は感じる。
そして、「違い」を超えた「同じ」のなかに「意味」めいたものを感じる。
「意味」とは何かと何かが「同じ」と特定することだからね。
これを、「音」というもの、「声」になりうるもので、とらえてしまう。--この「肉体の思想/肉体の哲学」が、たぶん、私をひきつけるのだ。それを私は「気持ちがいい」と感じるのだ。
「カンジ」が「漢字(眼で見る文字、眼で見る意味)」によって制御されるとき、私の肉体はいやだなあ、不平の声をもらしてしまうが、これは「付け足し」。たまには「うっ、気持ち悪い」と書いておかないと、好きになったり嫌いになったりする楽しみもなくなるからね。
で。(というのも、変なのだけれど。)
岩佐のことばには眼で制御することばと、耳(声)で制御することばがいりまじる。眼の力が強くなると、私の場合、非常に「気持ち悪い」と感じてしまうのだ。
*
小長谷清実「有耶無耶語の方へ」は、やはり「音」(音楽)とことばの関係がとても気持ちがいい詩人である。ことば(文字)であるから、そこには「漢字」もまじるが、その処理の仕方がとても巧い。
小長谷のことば(音)は「か」の明るい響きが美しくて、「なんとかいう老人のなんとかいう自伝」という1行など、「読んだ瞬間、思わず喉や舌や口蓋が無意識的に動く。(声には出さないが、出さない形で肉体を動かしてしまう。)また「な」の繰り返しも「ん」の繰り返しも刺激的だし、「ん」のなかには「な」もあるなあ、「な」から「あ」の音を殺すと「ん」になるなあ、というようなことを書いてしまうとつまらないけれど--肉体が無意識的に遊んで、楽しむのである。
で、そうした「音」のなかに、たとえば「老人」「自伝」の「ん」と「眼」のぶつかりあいもあるのだが(ここは、私は、あまり好きではない--「音」と「眼」の衝突がない方が好きである)。
「有耶無耶語」がおもしろいねえ。「うやむや」には「有耶無耶」という「意味」があるのか。ワープロで変換されるので初めて気がついた。で、だからといって「有耶無耶」を「意味」を私は知っているわけではないのだが、この「音」への「眼」の裏切りが、私には楽しい。
「うやむや語」で書かれていたら--なら、きっと、この詩は「間延び」してしまう。「音」がぼやけてしまう。「漢字(眼で見ることば)」の刺激があって、それを意識しながら、「眼」ではなく「耳」の方に軸足(?)を移すようにしてことばを動かす。そのときの「音楽」のあらわれかたが、気持ちがいい。酔ってしまう。何度でも読み返してしまう。
あれっ、この最終連--私が書くことを「先取り」しているの? なぜ、私が「何を言っているのか、書いているのか」わからないようなことを感想として書くと知っていたの?
岩佐なをの詩をいつから好きになったのか、思い出せない。--以前はたしか大嫌い、気持ち悪いというだけのために感想を書いていたはずだ。「初心」を忘れてはいかん、ということもないのだろうけれど、これは変だなあ。と、思いながら……。
「記憶なんか」を読みはじめる。
頭の上で脳をころがしている
頭蓋でおおう過保護時代ではない
もはや頭は擂り鉢型で外にひらけ
その真ん中に脳がおさまり
顎を振ってゆらすと
細かい刺激をうけた
脳はまん丸になって<団子状>
擂り鉢のなかで回ってる
くるりんくりん回ってる
さてこれをポイッと
記憶再生ダストシュートに
四階から落とす<隆ちゃんちは最上階>
シュートは螺旋状にできていて
ありゃりゃこりゃりゃと
(あくまでそんなカンジッ)
以前は、「頭蓋でおおう過保護時代」という批評のことばと「擂り鉢」という暮らしのことばが同居する瞬間に、気持ち悪さを感じたのかもしれない。いまでも、そういう瞬間には、ちょっと私の体は違和感をおぼえてしまうのだが
ありゃりゃこりゃりゃと
(あくまでそんなカンジッ)
へきた瞬間に、違和感が消えてしまう。
「カンジッ」と岩佐は書いているが、岩佐は「カンジ(感じ)」にことばがたどりつくように工夫しているのかなあ。「カンジ」を優先させて、それにことばを従属させているのかなあ。そのときの「カンジ(感じ)→支配(制御・統御)→ことば」の動きが、「意味」(頭脳)ではなく、「音」として「肉体」にそのまま響いてくる瞬間があって、それを気持ちよく感じるようになったのかなあ。
あ、抽象的すぎたね。
「ありゃりゃこりゃりゃ」ということばのなかにも「意味」はある。「うまくことば、論理にならない一瞬の衝撃、奇妙な感じ」とかなんとか言ってしまえばそうなってしまいそうな「意味」はある。でも、そういう面倒なことを岩佐は言わない。ただ「音」にしてしまう。この瞬間の、その「音」にまかせてしまう「肉体」の感じが、私には気持ちがいい。それは、いま書いたことと矛盾するのだが、「音」が「肉体」を呼び覚まし、肉体のなかに「意味」をつくる感じなのだ。
別な言い方をすると……。
頭の上で脳をころがしている
頭蓋でおおう過保護時代ではない
もはや頭は擂り鉢型で外にひらけ
ここに書いてあることは「絵」に描けるね。「眼」に見えるように、図解して理解することができる。このとき、私は「眼」の力で、ことばを制御している(岩佐の制御を追うように動いている)。「眼」は「頭」とつながって動いているが、ほかの「肉体」は動いていない。動かないことで「眼」と「頭」のつながりを支えている。あるいはこのとき、「頭」は「眼」以外の肉体が動かないように、なんらかの形で「制御」しているのかもしれない。
--この制御の感じ。
この制御の感じが、「ありゃりゃこりゃりゃ」ということばに出会った瞬間、ぱっと消える。「頭」では「理解」できない。その「理解できない」ものにむかって、肉体が瞬間的にひらかれる感じ。「頭」では理解できないが、「ありゃりゃこりゃりゃ」を肉体は知っている。「音」を知っている。その「音」が「肉体」のなかを通って出てくる瞬間を何度も目撃していて、そのときの「感じ」が肉体のなかにある記憶を揺さぶる。
そして、そのときの「ありゃりゃこりゃりゃ」という「音」は、実は「正確」ではない。言い換えると--というか、言いなおすと、「頭蓋」とか「過保護時代」とかいうことばが「音」そのものがだれの口からでたときも「同じ」であのようにして、「同じ(正確)」な「音」として出てくるわけではない。あるひとは「ありゃりゃ」だけかもしれない。別なひとは「ありゃこりゃまあ」かもしれない。つまり「同じ」ではないのだが、その「違い」を超えて「同じ」ものを「肉体」は感じる。
そして、「違い」を超えた「同じ」のなかに「意味」めいたものを感じる。
「意味」とは何かと何かが「同じ」と特定することだからね。
これを、「音」というもの、「声」になりうるもので、とらえてしまう。--この「肉体の思想/肉体の哲学」が、たぶん、私をひきつけるのだ。それを私は「気持ちがいい」と感じるのだ。
昨日分の脳団子からは
さくら幼稚園に通っていた道すがらの
記憶が再生されて気持ちよかった
寄り道のため池の蛙の卵で
腕輪<綺麗紐>
ぬるぬるのいきもの
おもいおもわれ
なつかしきしやわせ。
毎日脳を丸め捨てて
記憶なんか取り戻す
部分的でもいいじゃない。
「カンジ」が「漢字(眼で見る文字、眼で見る意味)」によって制御されるとき、私の肉体はいやだなあ、不平の声をもらしてしまうが、これは「付け足し」。たまには「うっ、気持ち悪い」と書いておかないと、好きになったり嫌いになったりする楽しみもなくなるからね。
で。(というのも、変なのだけれど。)
岩佐のことばには眼で制御することばと、耳(声)で制御することばがいりまじる。眼の力が強くなると、私の場合、非常に「気持ち悪い」と感じてしまうのだ。
*
小長谷清実「有耶無耶語の方へ」は、やはり「音」(音楽)とことばの関係がとても気持ちがいい詩人である。ことば(文字)であるから、そこには「漢字」もまじるが、その処理の仕方がとても巧い。
多分 今日のお目当ては
なんとかいう老人のなんとかいう自伝
取り留めない日々と
慌ただしい日々がびっしりの有耶無耶語で書かれた書物とか
詩集のようなものだったか
小長谷のことば(音)は「か」の明るい響きが美しくて、「なんとかいう老人のなんとかいう自伝」という1行など、「読んだ瞬間、思わず喉や舌や口蓋が無意識的に動く。(声には出さないが、出さない形で肉体を動かしてしまう。)また「な」の繰り返しも「ん」の繰り返しも刺激的だし、「ん」のなかには「な」もあるなあ、「な」から「あ」の音を殺すと「ん」になるなあ、というようなことを書いてしまうとつまらないけれど--肉体が無意識的に遊んで、楽しむのである。
で、そうした「音」のなかに、たとえば「老人」「自伝」の「ん」と「眼」のぶつかりあいもあるのだが(ここは、私は、あまり好きではない--「音」と「眼」の衝突がない方が好きである)。
慌ただしい日々がびっしりの有耶無耶語で書かれた書物とか
「有耶無耶語」がおもしろいねえ。「うやむや」には「有耶無耶」という「意味」があるのか。ワープロで変換されるので初めて気がついた。で、だからといって「有耶無耶」を「意味」を私は知っているわけではないのだが、この「音」への「眼」の裏切りが、私には楽しい。
「うやむや語」で書かれていたら--なら、きっと、この詩は「間延び」してしまう。「音」がぼやけてしまう。「漢字(眼で見ることば)」の刺激があって、それを意識しながら、「眼」ではなく「耳」の方に軸足(?)を移すようにしてことばを動かす。そのときの「音楽」のあらわれかたが、気持ちがいい。酔ってしまう。何度でも読み返してしまう。
むんににゃあふんにゃあ
アワワワワ
なにいってんのやら書いてんのやら
あれっ、この最終連--私が書くことを「先取り」しているの? なぜ、私が「何を言っているのか、書いているのか」わからないようなことを感想として書くと知っていたの?
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