江夏名枝『海は近い』(2)(思潮社、2011年08月31日発行)
「1」の部分で書き漏らしたことがある。
最後の行の「ここ」。「ここ」とは「どこ」か。
ことばをそのまま読めば「波打ち際」である。「辿りつい」た場所である。
だが、「波打ち際」が「心の複製」が「あらわれる」「場」ではない。「波打ち際」に「あらゆる」とわざわざ書かれている「心の複製」があらわれるわけではない。
では、どこか。
「くちびるの声がくちびるを濡らし」というときの「くちびる」と「くちびる」のあいだが「ここ」である。最初の「くちびる」の複製が、2度目の「くちびる」である。最初の「くちびる」を複製し、「複製のくちびる」が、「新しい主題」になる。その「移行の場」が「ここ」である。ことばの運動、意識のなかにだけ出現する「場」が「ここ」である。
最初の「青」があり、それが「また」ということばで複製され、「複製された青」のなかで、「青」が「鮮やかになる」。これは、最初の(本物の?)存在よりも、複製の方が(つまり、ことばによって言いなおされたものの方が)、より「鮮やかになる」ということである。
そういう運動が起きている「場」が「ここ」。
「もの(存在)」がことばによって「複製」され、その「複製」をさらにことばによって「複製」していくとき、その運動のなかから「複製」という概念が無効になる。増幅する「複製」のなかでは、どれがどの「複製」かわからない。1番目と2番目の「複製」には区別がない。そして、その「区別」がないことが、ことばの運動を純粋化する。「もの(存在)」とは無関係な「純粋運動」を浮かび上がらせる。この「純粋化」が「鮮やかになる」ということである。
それは「もの(存在)」と「複製」の「あいだ」から生まれ、さらに「複製」と「複製の複製」の「あいだ」へと動いていく。最初の「あいだ」と次の「あいだ」の区別も、また、なくなってしまう。
それが「ここ」と呼ばれている「場」である。
同じことばばかりを繰り返しているので、何が何かわからない--と、言われてしまいそうだが、そう言うしかないのである。
「ことば」は「デジタル」であるか「アナログ」であるか、よくわからないが、ある意味で「デジタル」である。つまり、「複製」によって「劣化」しない。
だから、ややこしいことがおきる。
冒頭の1行にもどってみるとよくわかる。
最初の「くちびる」と2回目の「くちびる」には、まったく違いが認められない。見かけは、完璧に同じである。その完璧に同じもの(デジタルの差異が存在しない状態)の一方が「ほんもの(の存在)」であり、他方が「ことば(という複製)」であるということを証明(?)するには、それを「分離」してはならない。あくまで、
という形で存在させなければならない。
そうやって「文章」にしたときに生まれる、最初の「くちびる」と次の「くちびる」の「あいだ」--それが「ここ」になるのだが、その「ここ」は、この文では「声」に乗っ取られ、「濡らし」という具合に動いていく。
「あいだ」のなかには、「くちびる」とは別の「もの(そして、ことば)」と「運動」がある。そして、そこに「もの」、そして「ことば」があるかぎり、そこではさらに「複製」がおこなわれることになる。
その結果「あらゆる」ということが起きてしまう。
このことは、詩の構造自体が、一種の「複製」になっていることからも、証明(?)できる。
2行目の「波打ち際に辿りついて」が、1行空きのあと「波打ち際に辿りついて」と複製される。
この詩の場合、ふたつの「波打ち際に辿りついて」の「あいだ」には、眼で見える「1行空き」という「あいだ」がある。その「あいだ」のなかで、あらゆることがおきる。
それが「ここ」なのだ。
私の「ここ」をめぐることばは、ちっとも先へ進まないが、これは仕方がない。私は江夏のことばを「複製」しながら書いているのだが、そのとき「江夏のことば」が一方にあり、もう一方に「私が複製したことば」があり、その「私が複製したことば」を「また」「私のことばが複製する」からだ。
--ここにあるのは、はしょって言ってしまうと、ことばを書くということがあるだけである。
ことばを書く--そこが、「ここ」。そして、「ここ」では「心の複製」が生まれつづけるということである。
(あすこそは、「2」の部分に進みたい。)
「1」の部分で書き漏らしたことがある。
くちびるの声がくちびるを濡らし、青はまた鮮やかになる。
波打ち際に辿りついて。
波打ち際に辿りついて、ここに現れるものは、あらゆる心の複製である。
最後の行の「ここ」。「ここ」とは「どこ」か。
ことばをそのまま読めば「波打ち際」である。「辿りつい」た場所である。
だが、「波打ち際」が「心の複製」が「あらわれる」「場」ではない。「波打ち際」に「あらゆる」とわざわざ書かれている「心の複製」があらわれるわけではない。
では、どこか。
「くちびるの声がくちびるを濡らし」というときの「くちびる」と「くちびる」のあいだが「ここ」である。最初の「くちびる」の複製が、2度目の「くちびる」である。最初の「くちびる」を複製し、「複製のくちびる」が、「新しい主題」になる。その「移行の場」が「ここ」である。ことばの運動、意識のなかにだけ出現する「場」が「ここ」である。
最初の「青」があり、それが「また」ということばで複製され、「複製された青」のなかで、「青」が「鮮やかになる」。これは、最初の(本物の?)存在よりも、複製の方が(つまり、ことばによって言いなおされたものの方が)、より「鮮やかになる」ということである。
そういう運動が起きている「場」が「ここ」。
「もの(存在)」がことばによって「複製」され、その「複製」をさらにことばによって「複製」していくとき、その運動のなかから「複製」という概念が無効になる。増幅する「複製」のなかでは、どれがどの「複製」かわからない。1番目と2番目の「複製」には区別がない。そして、その「区別」がないことが、ことばの運動を純粋化する。「もの(存在)」とは無関係な「純粋運動」を浮かび上がらせる。この「純粋化」が「鮮やかになる」ということである。
それは「もの(存在)」と「複製」の「あいだ」から生まれ、さらに「複製」と「複製の複製」の「あいだ」へと動いていく。最初の「あいだ」と次の「あいだ」の区別も、また、なくなってしまう。
それが「ここ」と呼ばれている「場」である。
同じことばばかりを繰り返しているので、何が何かわからない--と、言われてしまいそうだが、そう言うしかないのである。
「ことば」は「デジタル」であるか「アナログ」であるか、よくわからないが、ある意味で「デジタル」である。つまり、「複製」によって「劣化」しない。
だから、ややこしいことがおきる。
冒頭の1行にもどってみるとよくわかる。
くちびるの声がくちびるを濡らし、
最初の「くちびる」と2回目の「くちびる」には、まったく違いが認められない。見かけは、完璧に同じである。その完璧に同じもの(デジタルの差異が存在しない状態)の一方が「ほんもの(の存在)」であり、他方が「ことば(という複製)」であるということを証明(?)するには、それを「分離」してはならない。あくまで、
くちびるの声がくちびるを濡らし、
という形で存在させなければならない。
そうやって「文章」にしたときに生まれる、最初の「くちびる」と次の「くちびる」の「あいだ」--それが「ここ」になるのだが、その「ここ」は、この文では「声」に乗っ取られ、「濡らし」という具合に動いていく。
「あいだ」のなかには、「くちびる」とは別の「もの(そして、ことば)」と「運動」がある。そして、そこに「もの」、そして「ことば」があるかぎり、そこではさらに「複製」がおこなわれることになる。
その結果「あらゆる」ということが起きてしまう。
このことは、詩の構造自体が、一種の「複製」になっていることからも、証明(?)できる。
くちびるの声がくちびるを濡らし、青はまた鮮やかになる。
波打ち際に辿りついて。
波打ち際に辿りついて、ここに現れるものは、あらゆる心の複製である。
2行目の「波打ち際に辿りついて」が、1行空きのあと「波打ち際に辿りついて」と複製される。
この詩の場合、ふたつの「波打ち際に辿りついて」の「あいだ」には、眼で見える「1行空き」という「あいだ」がある。その「あいだ」のなかで、あらゆることがおきる。
それが「ここ」なのだ。
私の「ここ」をめぐることばは、ちっとも先へ進まないが、これは仕方がない。私は江夏のことばを「複製」しながら書いているのだが、そのとき「江夏のことば」が一方にあり、もう一方に「私が複製したことば」があり、その「私が複製したことば」を「また」「私のことばが複製する」からだ。
--ここにあるのは、はしょって言ってしまうと、ことばを書くということがあるだけである。
ことばを書く--そこが、「ここ」。そして、「ここ」では「心の複製」が生まれつづけるということである。
(あすこそは、「2」の部分に進みたい。)
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