清岳こう『マグニチュード9・0』(2)(思潮社、2011年08月25日発行)
「闇の中で」という作品にも引きつけられた。
この詩には、清岳が清岳自身で確かめたものではないことが書かれている。「太平洋沖百三十キロの海底」、震源の「知識」。
清岳は、やっと「できごと」それ自体が語る声ではなく、人間が人間自身の力(知識)でつかみとったことがら(事実)を語ることば、それを論理的に説明することばと向き合えるところまで到達したのだと言える。
清岳に感心するのは、その「知」を知識のまま、安定させる(?)のではなく、あくまでも清岳の「肉体」に結びつけてつかみとることである。
震源の声さえも、清岳の「肉体」をくぐらせて、まるで震源が清岳の肉体にすがって、自己証明(アイデンティティ)を確立しているような感じだ。
清岳は海底と、震源とつながる。
そんなものとつながるのではなく、切り離すことが「安心・安全」というものかもしれないが、そんなことはできない。つながってしまうのだ。
にれやねむや電柱や街灯とつながってしまったように、そして山を越え沼へ向かう白鳥とつながってしまったように、清岳は海底の震源とつながり、その百三十キロを「肉体」として生きるのだ。
「知る」。百三十キロ先の海底が震源であるというのは清岳以外の人間が教えてくれた「知識」であるが、それを知った瞬間から、それは清岳の肉体となって、清岳を拡大してしまうのだ。
この「拡大」は始まったばかり。
この「拡大」を清岳は「漂流」と呼んでいる。
たしかに「知」と向き合って、「知」をとりこまないといけない。そうしないと生きていけない。
「自己」というものを「いま/ここ」に置いたまま、「知」のあるところなら、どこへでも「自己拡大」していくというのは、むずかしいかもしれない。「肉体」の大きさは限られている。「肉体」の大きさをまもったまま生きるなら、その「肉体」の動きは、どうしたって「漂流」のようになるだろう。
清岳は「肉体」の限界も知っているのだ。わかっているのだ。おぼえているのだ。
車のなかで、おしっこが我慢できなくなる。車をおりて林のなかでおしっこをすればいい。けれど、そんなことをしていたら、いま走っている車の列からはみ出し、もどれなくなる。だから、清岳は車の中にあったバスタオルを利用して、そこにおしっこをしみこませるのだが……。
この「おしっこ」という詩を書いたとき、清岳は「震源が百三十キロの海底」とは知らない。知らないけれど、「肉体」は感じている。「肉体」そのものが「震源」とつながっていて、そのために震えるのだ。反応するのだ。
「知識」はその意識できない連絡を「百三十キロ」と数字にすることで切り離すが、それは「見かけ」のことに過ぎない。
「命」はつながったままである。
にれもねむも電柱も街灯も生きていたように、この地球も、そして太平洋プレートもまた生きている。「命」そのものである。これは、こういう言い方は不謹慎になるのかもしれないけれど、おしっこを洩らしてしまうというどうすることもできない「無力」の実感によってさらに強くなっいてるように思う。
おしっこがとまらないと書く「肉体」に触れたからこそ、私は「命が太平洋沖百三十キロの海底につながっていたと知る」という行がわかった。「おしっこ」の詩を読んでいなければ、「命」の1行は、最後の「知る」ということばそのままに、「知識」がつくりあげたものだと思って読んだかもしれない。
清岳の書いていることは「知識」ではない。
清岳の書いていることは、清岳が書いているのではなく、「いま/ここ」にあるものが、できごとが、清岳の肉体を信じて、そこで「声」になっているのだ。
「闇の中で」という作品にも引きつけられた。
重装備のまま寝ていると
背中からむずむずとさすられ
布団ごと潮にさらわれる
懐中電灯・運動靴を枕に寝ていると
背中の方から持ち上げられ
布団ごと波にたたきつけられる
夜ごと日ごと
安眠をゆさぶりゆすられ
命が太平洋沖百三十キロの海底につながっていたと知る
私の漂流は始まったばかり
この詩には、清岳が清岳自身で確かめたものではないことが書かれている。「太平洋沖百三十キロの海底」、震源の「知識」。
清岳は、やっと「できごと」それ自体が語る声ではなく、人間が人間自身の力(知識)でつかみとったことがら(事実)を語ることば、それを論理的に説明することばと向き合えるところまで到達したのだと言える。
清岳に感心するのは、その「知」を知識のまま、安定させる(?)のではなく、あくまでも清岳の「肉体」に結びつけてつかみとることである。
震源の声さえも、清岳の「肉体」をくぐらせて、まるで震源が清岳の肉体にすがって、自己証明(アイデンティティ)を確立しているような感じだ。
命が太平洋沖百三十キロの海底につながっていたと知る
清岳は海底と、震源とつながる。
そんなものとつながるのではなく、切り離すことが「安心・安全」というものかもしれないが、そんなことはできない。つながってしまうのだ。
にれやねむや電柱や街灯とつながってしまったように、そして山を越え沼へ向かう白鳥とつながってしまったように、清岳は海底の震源とつながり、その百三十キロを「肉体」として生きるのだ。
「知る」。百三十キロ先の海底が震源であるというのは清岳以外の人間が教えてくれた「知識」であるが、それを知った瞬間から、それは清岳の肉体となって、清岳を拡大してしまうのだ。
この「拡大」は始まったばかり。
この「拡大」を清岳は「漂流」と呼んでいる。
たしかに「知」と向き合って、「知」をとりこまないといけない。そうしないと生きていけない。
「自己」というものを「いま/ここ」に置いたまま、「知」のあるところなら、どこへでも「自己拡大」していくというのは、むずかしいかもしれない。「肉体」の大きさは限られている。「肉体」の大きさをまもったまま生きるなら、その「肉体」の動きは、どうしたって「漂流」のようになるだろう。
清岳は「肉体」の限界も知っているのだ。わかっているのだ。おぼえているのだ。
車のなかで、おしっこが我慢できなくなる。車をおりて林のなかでおしっこをすればいい。けれど、そんなことをしていたら、いま走っている車の列からはみ出し、もどれなくなる。だから、清岳は車の中にあったバスタオルを利用して、そこにおしっこをしみこませるのだが……。
すっきりした後も ちびりちびりと漏れる 十分たっても二十分たっても 下着の中にしきこんだタオルに ちびりちびりとしたたる おしっこ問題は完全解決 円満解決したというのに 愛車プロミネントはけっこうがんばっているというのに 心より 頭より 体が恐怖にたえられないらしい こんなにも肝っ玉が小さかったのか 私 笑っちゃうよ
(「おしっこ」)
この「おしっこ」という詩を書いたとき、清岳は「震源が百三十キロの海底」とは知らない。知らないけれど、「肉体」は感じている。「肉体」そのものが「震源」とつながっていて、そのために震えるのだ。反応するのだ。
「知識」はその意識できない連絡を「百三十キロ」と数字にすることで切り離すが、それは「見かけ」のことに過ぎない。
「命」はつながったままである。
にれもねむも電柱も街灯も生きていたように、この地球も、そして太平洋プレートもまた生きている。「命」そのものである。これは、こういう言い方は不謹慎になるのかもしれないけれど、おしっこを洩らしてしまうというどうすることもできない「無力」の実感によってさらに強くなっいてるように思う。
おしっこがとまらないと書く「肉体」に触れたからこそ、私は「命が太平洋沖百三十キロの海底につながっていたと知る」という行がわかった。「おしっこ」の詩を読んでいなければ、「命」の1行は、最後の「知る」ということばそのままに、「知識」がつくりあげたものだと思って読んだかもしれない。
清岳の書いていることは「知識」ではない。
清岳の書いていることは、清岳が書いているのではなく、「いま/ここ」にあるものが、できごとが、清岳の肉体を信じて、そこで「声」になっているのだ。
風ふけば風―清岳こう詩集 | |
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