詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

江夏名枝『海は近い』(6)

2011-09-25 23:59:59 | 詩集
江夏名枝『海は近い』(6)(思潮社、2011年08月31日発行)

 「海は近い」の「6」の書き出し。

 はぐれやすい心をとめたピンを外す。はぐれやすくても、とどめておくことはできない。

 「はぐれやすくても」の「ても」は不思議なつかい方である。ふつうは、「はぐれやすいので、とどめておくことはできない。」あるいは「はぐれやすいから、とどめておくことはできない。」と「理由」を明示することばをつかうと思う。
 なぜ、「ても」なのか。はぐれやすい「なら」、ピンを外さず、とどめておけばいい。江夏は何を書きたいのか。
 江夏の書きたいことを理解するには、ことばを補う必要がある。

はぐれやすい「とわかってい」ても、とどめておくことはできない。

 「わかっていても」あるいは「知っていても」の「ても」だけが、「はぐれやすい」に結びついてことばを動かしている。
 作者は、作者本人にはわかっていること、知っていることを省略してしまいがちである。そして、その省略のために、その文章が読者にはわかりにくくなっていることがある。
 「わかっている」「知っている」ということばが省略されていると判断した上で(想定した上で)、最初の文章を読み直してみる。そうすると「はぐれやすい心をとめたピンを外す」の「心」がくっきりと見えてくる。
 「わかる」「知る」という「認識」の動く「肉体の場」はどこか。「頭」で「わかる」。「頭」で「知る」。
 「心」は「頭」とは別なものである。
 江夏は、「心」と「頭」を明確に区別して考えている。(感じている。)

 そこで、「1」に戻ってみる。

 波打ち際にたどりついて、ここに現れるのは、あらゆる心の複製である。

 江夏は「心の複製」と書いている。「頭の複製」ではなかった。あるいは「言葉の複製」でもなかった。
 「くちびるの声がくちびるを濡らし」という書き出しを思うと、「頭の複製」はともかくとして、「言葉の複製」ではなぜいけないのか、という疑問も起きるが。
 その疑問を手がかりにして考え直すと、「言葉」というのものが、江夏にとっては「頭」で処理するものではなく、「心」で処理するものだからということにならないか。「言葉」を江夏は「心」で動かす。「心」で「複製」する。
 つまり、「反復」する。--「複製」とは「反復」のことである。

 波打ち際にたどりついて、ここに現れるのは、あらゆる心の複製である。

 は、

 波打ち際にたどりついて、心はあらゆることを複製する。つまり、心はあらゆることを反復する。そして、反復するとき、ここに現れるのは、あらゆる心の複製である。

 さらに、書き出しに戻ってみる。

 くちびるを心が反復しくちびるというとき、その声は反復することでここにあらわれたくちびるの複製を濡らし、そのくちびるを反復し複製する心の、いま、ここに、同じように心が反復し複製した青の記憶があらわれ、それはいま、ここで、また反復され、複製され、鮮やかになる。

 ほんとうは、そういうことなのだと思う。
 私がことばを補足した文ではあまりにもことばが重複する。そして、その重複する部分というのは、江夏にはわかりきっている。だから、そのわかりきった部分を無意識的に省略して、江夏は、

 くちびるの声がくちびるを濡らし、青はまた鮮やかになる。

 という形にしてしまう。
 わかりきったことば、知っていることがらは、いつでも省略されてしまう。
 その省略された部分--私は、それを「肉体となっていることば」と呼ぶのだが、その「肉体」に触れると、その詩がおもしろくなる。
 「肉体」に触れると、その「肉体」が動くのがわかる。--これは、まあ、私の錯覚かもしれないが、その「肉体」の動きがわかって楽しくなる。
 そのときから、詩を読むことは、セックスと同じになる。
 「肉体」にさわる。「肉体」が動く。「肉体」はいやがって動いているかもしれないが、これを、まあ、私は「快楽」で動いていると錯覚する。

 詩に、戻る。

 受け止めるものが、すぐに燃えさかってしまう。歓喜と呼ばれるものですら消えてしまう……消えてしまうのではなく、わたしはまたそこから離れてゆく。

 「消えてしまう……消えてしまうのではなく」という言い直し、その反復の形に、江夏の「頭」と「心」の明確な区別を読みとることができる。
 歓喜すら消えてしまうと「心」は感じるが、「頭」はそれを消えてしまうのではなく、わたしはまたそこ(歓喜)から離れていく--と、言いなおす。反復する。複製する。
 あるいは、
 歓喜すら消えてしまうと「頭」は認識する(知る、わかる)が、「心」はそれを消えてしまうのではなく、わたしはまたそこ(歓喜)から離れていく--と、言いなおす。反復する。複製する。
 --ふたつの文を考えることができるが、「頭」ではなく「心」でことばを動かすのが江夏の方法だから、この場合は、後者が、江夏の感じていることに近いはずである。
 それを証明するように、いまの文章は次のようにつづいていく。

だから、わたしはいつもあなたに見つめられていなければ、と願っている。

 「だから」ということばは「頭」で動かす論理的な接続詞にも見えるが、最後の「願っている」の「主語」は「頭」ではなく「心」である。ひとは「頭」では願わない。「心」で願う。「心」から願う。
 「心」が「言葉」を「複製(反復)」する。そうして、「心」は増えていく。
 うーん、
 君恋ふる心はちぢにくだくれどひとつも失せぬ物にぞありける
 和泉式部を思い出してしまう。
 「心」は「複製」され、増幅し、「いま」「ここ」がどうにもならないくらい「濃密」になっていく。


海は近い
江夏 名枝
思潮社
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ポール・ハギス監督「スリーデイズ」(★★★)

2011-09-25 12:35:35 | 映画
監督 ポール・ハギス 出演 ラッセル・クロウ、エリザベス・バンクス

 前半と後半はまるで別の映画である。後半は面白い。だが前半が退屈すぎる。なぜ、退屈か。妻の殺人容疑、そして有罪の判決が「ことば」だけで語られるからだ。ときどきフラッシュバックで映像もあるにはあるが、それだけでは「ストーリー」である。人間がからんでこない。なんといっても、「無罪」であるエリザベス・バンクスの怒りが描かれないのが物足りない。エリザベス・バンクスの怒り、悲しみが映像化されて、その肉体化された「無罪」にラッセル・クロウがのめり込んでゆく――という形でないと、ラッセル・クロウのやっていることは「絵そらごと」になる。「愛しているから」というようなことは、ことばで話したって「うそ」になる。
 まあ、後半も、人間の感情がほんとうに動いて感じられるのは、エリザベス・バンクスが車から飛び降りようとし、ラッセル・クロウがそれを引きとめようとするシーン。それにつづく手と手のふれあいくらいだけれど。
 あとは、「有罪」判決を下した裁判に対する怒りも、警察に対する「うらみ」も感じられないし、エリザベス・バンクスにいたっては、刑務所から抜け出せてうれしいのかどうかもよくわからない。「無罪」にならなくても、いいのかな? 納得できるのかな?
 わからないなあ。つまり、うそっぽいなあ。
 でも、編集がうまい。
 シーンが次々に変わるのだけれど、残された時間がなくなるにつれ、「空間」の距離――ラッセル・クロウと追い掛ける警官の距離が短くなる、という構造が面白い。いや、空間がかならずしも縮むわけではないのだが、どんどん縮んですぐ背後に警官がいると感じさせる感じがいい。
 時間と空間の区別がつかなくなるのである。
 空間を時間が追い掛けてくるのか、時間を空間が追い掛けてくるのか。あるいは、こういう逃走劇というのは、逃げる人間の知能(主人公が短大の教授だからそう思うのか)を、警官の知能が追い掛けてくるのか、一種の「知恵比べ」みたいになり、その「知恵」のなかで、つまり「頭」のなかですべてが入り混じりながら接近するのか。
 逃走計画地図をわざと半分だけ発見させる逆トリックが、実に効果的。(原作もそうだったかな? 私はフランス映画を見逃しているかもしれない。思い出せない。)

 しかしなあ・・・。
 ラッセル・クロウは太りすぎだね。あんなに走りまわったら過呼吸で倒れそう。顔の吹き出物(?)も不健康の印みたい――と余分なことを思ってしまう。エリザベス・バンクスも、なんだか木偶の坊。ラッセル・クロウの父親が、やっぱり父親ならではの息子の理解の仕方をするのが、妙にしみじみとする。



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高塚謙太郎「屏風集」

2011-09-25 11:22:13 | 詩(雑誌・同人誌)
高塚謙太郎「屏風集」(「Aa」4、2011年09月発行)

 詩人はことばを何によって選択するのか。「意味」ではない。「意味」はことばのあとから遅れてやってくる。--というか、どうとでも言い訳がつく、と私は思っている。それは、どんな「意味」もつけくわえなくてもいいということと同じ意味になる。

 高塚謙太郎「屏風集」の「玉響(たまゆら)」の1連目。

似ているようすはいつも花びらの悪寒にゆれているように、身がまえて眠る。見えてくるものがある。

 何が何に似ている? と、考えはじめると、「意味」がわからなくなる。
 だから私はそういうことは考えない。「花びらの悪寒」ということばに惹かれる。そのとき「ゆれている」は「震えている」かもしれない。悪寒で震えるとき、震えをおさえようと、からだをぐっと丸める。その姿勢を「身がまえる」といえば、そういえる。
 そこから、この1連目を、何らかの理由で悪寒に震えながら、眠ろうとしている人間のことを書いているという具合に「意味」化していくことができる。
 そうすると、書き出しの似ているは、悪寒に震えながら、その震えを抱き込むようにして丸くなっているようすは、花びらか散る前に身がまえる姿に似ている--という「意味」になるかもしれない。といっても、それは形というよりは、「意識」の問題である。
 ほんとうに悪寒で震える人間のようすが、花びらが悪寒にゆれているようすに似ているかどうか、だれも知らない。だいたい、花びらに悪寒というものがあるか。そんなものは、ない。あるのは、ただ花びらに悪寒がある、そして花びらは悪寒にゆれると考える意識だけであり、そういうとき人間は、自分のことを「悪寒にゆれる花びら」と思い込んでいることになる。
 --と書いてしまうと、どうなるだろう。
 ことばが、一巡してしまう。「主語」と「述語」が、それぞれのことばを飛び越して違う「述語」、違う「主語」と結びついて、世界を「二重化」する。そして、その二重化は、閉ざされている。
 閉ざされている--というより、世界を閉ざしながら、ことばは、何かに向かって結晶化していこうとしているよう見える。

 2連目。

轍というこの慙愧にみちたのりしろに背をそわせて、沈むまでゆっくりと視力を高めていく。こころから車輪の裏側をおもい、乳房からここの反面をまわす。このいたいけなものほしさよ。

 悪寒にふるえて、身がまえて眠るとき、見えるものが「轍」である。そして、それは「轍」のままでありつづけることはない。「主語」は、「高められた視力」によって「別なもの」に見えはじめる。「轍」から「車輪」へと視力は移行し、その「車輪」は「丸い」形ゆえに「乳房」へと移行する。「轍」がいきなり「乳房」になるのではなく、「車輪」の形をくぐりぬけることで、世界を閉ざし、探しているものへと結晶化する。
 この移行を「心の反面をまわす」といってしまうのは、正直なのか、それともわざとなのか……。
 いずれにしろ「心」と「反面」による「二重化」と、「まわす」とことばで、高塚のことばは、やはり一巡する。その一巡は、もちろん「轍」「車輪」ということばが反映し、加速する。そのため、「このいたいけなものほしさよ。」というスピードを出しすぎてしまって、「余剰」をまき散らしてしまう。飛び跳ねた泥濘のようなものである。

 3連目。

過ぎるうちに遠ざかる、翩翻としながら葉が。その葉が少し前にあった花萼ののどに今でも細く管はのびているだろうか。


 「轍」「車輪」「乳房」と動くことばは、ことばを「過ぎるうちに遠ざかる」。何から? 冒頭の「花びらの悪寒」から。「身構えた眠(り)」から。つまり、「夢」から。
 そんなことを意識しながら、意識は(心は、という方が高塚のことばに近いか……)、「花」にもどってくる。しかし、ただ「花」にもどってきたのでは、世界はおもしろくない。一巡すれば、そこには一巡しただけの何ごとかが反映され、どんなに丸く循環しても最初とは違っている。ことばを書くということは、最初とは違う状態になるのということなのだから……。
 で、「花びら」ではなく「花萼」に。そして、そこから「のど」が突然出てくる。「花びら」「花萼」と花の肉体を下とくだる「視力」はそこに「茎」をみる。「管」を見る。それは人間でいえば「のど」になるだろう。
 いま、ここに書かれていることばは、「悪寒」でふるえる「肉体」の夢と、その「悪寒」のときに目覚める「のど」を書いていることになる。

 --という余分な「意味」は、最初に書いたように、私がかってにつけくわえたものである。高塚のことばのなかへ遅れてやってきた「意味」である。高塚が同じ「意味」を、これらのことばにつけくわえる--あるいはことばに誘われて「意味」を結晶化させようとしているのか、どうか。
 私は、そのことについては、あまり関心がない。
 いいかえると、私の読んだ「意味」が「誤読」であるか、「正解(?)」であるか、どうでもいい。私はだいたい「誤読」したくて読むのだから、「谷内の読みは間違っている」といわれても、ぜんぜん気にならない。
 (あるひとが、私の書いた文章を読み、「読み間違えています。でも、気を落とさないでください」と電話してきたことがあったが、私は、そうか、一般的には作者の書いていることを誤読すると気落ちしないといけないのか、と変なことに気がついて、おもわず笑いだしそうになった。--私は「大学受験」や「入社試験」の問題を解いているわけではないのだから、間違えたってぜんぜん気にしない。)

 脱線した。

 詩にもどると……。
 私は「玉響」では1連目と3連目が好きである。2連目は、ちょっと「うるさい」と感じてしまう。
 1連目、3連目が好きな理由は、そこに出てくる「音」が、なんとはなしに私の肉体には気持ちがいいからである。
 「よ」うす。「ゆ」れて。「よ」うに。その「や行」のゆらぎ。それから「身がまえて」の「が・ま」の組み合わせのなかにある響き。「や行」をゆらいだあとの「が・ま」のゆらぎ--これが、特にきもちがいい。どこか、肉体の奥の、聞こえない「音」を聞いたような気持ちにさせられるのである。
 花「び」ら、身「が」まえる、「が」ある--この濁音の呼応も、私の肉体にはしっかり響いてくる。
 3連目は、その濁音とバリエーション(過「ぎ」る、遠「ざ」かる)にくわえ、「が」が何度も繰り返されるのが、読んでいて楽しい。私は音読はしないけれど、肉体が声を出そうとして動くときの、その感じが、きもちがいい。
 「の」も何度も出てくる。それが「が」と離れながら響くとき、「身がまえて」の「が・ま」の音ととてもなじむのである。(「身がまえて」は「み・が・ま」の動きといった方がいいのかもしれない--と、ここまで書いてきて、急に思う。)
 
 「意味」はあとから、付け足す。まず、音に反応する。私は、そんなふうに高塚の詩を読むのだった。




さよならニッポン
高塚 謙太郎
思潮社
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