詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田村隆一試論(3-1)

2011-09-13 23:59:59 | 現代詩講座
田村隆一試論(3)(「現代詩講座」2011年09月12日)

 きょうは「帰途」を読みます。
 
帰途

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界を生きていたら
どんなによかったか

あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ

あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる苦痛
ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ち止まる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる

 いままで、感想、第一印象を最初に聞いていたのだけれど、今回は聞きません。感想はことばにしないで、胸にしまっておいてください。いくつか質問をしながら読んでいきます。

質問 どのことばが印象に残りましたか? 1行(文)ではなく、単語だけでこたえてください。
「言葉」「果実の核」「涙と血」「帰途」

 みなさんは、「名詞」を印象に残ったと言ったんですが、私は実は、名詞ではなく1行目の「おぼえる」ということばにとても興味を持ちました。「おぼえる」ということばのなかに田村の「思想」が籠もっていると思いました。
 前回、その前の回、河邉由紀恵の『桃の湯』まで遡ることができるけれど、「知る(知っている)」と「わかる(わかっている)」を区別しながら詩に近づいていきました。今回は、それに「おぼえる」をつけくわえたい。「知る」「わかる」「おぼえる」--このみっつの違いを区別してみると、この詩が鮮明に見えてくると思います。
 このことは、あとで説明します。みなさんの「第一印象(感想)」とおなじように、ぐっと、心のなかにしまいこんで、ゆっくり遠回りしながら詩に近づいてきたいと思います。

 いま、単語だけ、と限定して質問したのには理由があります。この詩につかわれていることばは、とても少ない。
 名詞でいうと「言葉」「世界」「意味」「復讐」「無関係」「血」「眼」「涙」「沈黙」「舌」「苦痛」「果実」「核」「夕暮れ」「夕焼け」「ひびき」「日本語」「外国語」、それに「あなた」「きみ」「ぼく」もありますね。
 形容詞(形容動詞)は「美しい」「静かな」「やさしい」。
 形容詞は「用言」なので、活用して、動詞と同じように動いているものもあります。「よかった」。これは「よい」が変化したものですね。
 動詞は「おぼえる」「なかった(ない)」「なる(ならない)」「生きる」「復讐する」「流す」「だ(である)」「流す」「おちてくる」「眺める」「立ち去る」「立ち止まる」「帰る(帰ってくる)。
 そして、この少ないが何度も何度もつかわれる。「言葉」という単語は書き出しにつかわれているだけではなく、5回も出てくる。4連目以外には必ず出てくる。
 「言葉」という表現ではないけれど、やはり「言葉」をあらわすものがある。

質問 「言葉」という表現をつかわずに、「言葉」をあらわした単語に、何がありますか。
「日本語」「外国語」

 そうですね。最終連の「日本語」「外国語」。これは「日本の言葉」「外国の言葉」ですね。田村は「言葉」という表現を言い換えています。
 私は何度か、ひとは大切なことは繰り返していうということ指摘してきました。この詩でも田村は何度も大切なこと(いいたいこと)を繰り返して言いなおしているのだと思います。
 「言葉」を「日本語」「外国語」というふうに言い換えているように。
 そういう部分をていねいに読んでいくと、田村の考えていることに少しずつ近づいていけると思います。
 もひとつ、「意味」も繰り返し出てくる。4回出てくる。「世界」も4回。「血」は3回。「涙」も3回。
 こんな短い詩のなかで「言葉」5回、「意味」が4回。「世界」が4回。これは、ちょっと「異常」なことだと思う。「言葉」と「意味」と「世界」について、田村が何かをいいたくて仕方がないということが、ここからわかると思う。

 これから、ほんとうにゆっくり詩を読んでいきます。
 1連目。

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界を生きていたら
どんなによかったか

 2行目の「言葉のない世界」。このあとに「を生きていたら/どんなによかったか」ということばが省略されています。田村は、そう言ってしまいたかったのだけれど、それではわかりにくいと思い、言いなおしています。「言葉のない世界を生きていたら/どんなによかったか」を、「意味が意味にならない世界を生きていたら/どんなによかったか」と言いなおしています。
 「言葉のない世界」と「意味が意味にならない世界」は田村にとって「同じ」ことですね。
 言いなおすときに「言葉」が「意味」ということばにかわっている。
 「言葉」を「意味」という表現に変えたために、そのあとにつづく表現が少し違ってくる。
 言葉の「ない」世界が、意味が意味に「ならない」世界に変わっている。
 ここがとても重要です。
 言葉が「ない」ということと、意味が意味に「ならない」ということが同じである。ひとつのことを言うとき「主語」というか、テーマが変わると、それと一緒に動く「動詞(述語)」も変わる。
 変わるけれども、それは同じこと。

 ちょっとややこしくなってきましたね。
 すこしもどって考え直してみます。

 この1連目を読んでいると、「言葉」と「意味」が何かとても近い関係にあることがわかる。近いけれども、どこか違っていることがわかる。
 ふつう、私たちが「ことば」と言ったり「意味」と言ったりするとき、どんなふうにそれを考えているだろうか。

 「言葉」には「意味」がありますね。
 「意味」の定義はむずかしいけれど、わからない言葉に出会ったとき、「その意味は?」と聞きますね。そのとき「意味」というのは、その言葉をいいなおしたものですね。知っている言葉、わかっている言葉で言いなおす。「意味」というのは「知っていること」「わかっていること」ですね。「知っていること」「わかっていること」が「意味」であり、「わからないこと」は「意味ではない」。だから「わからない」とき、「それはどういう意味?」と聞きますね。
 「知っている言葉」でも、自分の知らないようなつかい方をされると、やっぱり「どういう意味?」と聞きますね。
 逆に「意味」(いいたこと)があって、どう言っていいかわからないとき「なんというんだっけ?」とか聞きますね。「言葉」をたずねる。そういうこともある。
 このとき「意味」は「いいたいこと」ですね。

 言葉のなかには「意味を知っていること」「意味がわかっていること」と「意味の知らない言葉」「意味のわからない言葉」がをる。、そのうち「わかりすぎていること」というのは、言いなおすのがとてもむずかしい。河邉由紀恵の『桃の湯』のなかに出てくる「ふわーっ」とか「ざらっ」とか「ねっとり」とか……。みんな、わかっていますね。わかっているから、説明する必要がない。
 「言葉に意味がある」というのも、みんなわかっている。だから、「言葉」と「意味」の関係を、たとえば小学生に説明するとしたら、とてもむずかしい。どう説明していいかわからない。わかっているから、わからない--ということがあると思います。
 ちょっと遠回りしすぎたけれど。
 私たちは、いま、言葉と意味について考えている。

 「言葉に意味がある」--と私は簡単に言ってしまったけれど、ここにもとても重要な問題がある。「……に……がある」という言い方は、机の上にコップがある。あるいはコップのなかに水がある、というようなつかい方をする。「……に」は「場所」をあらわし、そこに「……」がある。
 そうすると「言葉に意味がある」というのは、その「に」と一緒にある場所を示すことばをつかって言うとどうなるだろう。
 言葉の上に意味がある。
 言葉の下に意味がある。
 言葉の横に意味がある。
 言葉の中に意味がある。
 言葉の外に意味がある。
 言葉に意味があるというのは、どうも「言葉の中に意味がある」というのがいちばん落ち着くように思える。「言葉の奥に意味がある」「言葉の内に意味がある」というのは、これに近いですね。「言葉の外に意味がある」というのは「言外に意味がある」とか、「行間に意味がある」ということに通じると思うけれど、それを考えると、「意味」は「言葉」の「なか」か「外」か、まあ、どちらかにあると考えるのが一般的だと思う。

 で、詩にもどります。
 田村は、「言葉のない世界を生きていたら/どんなによかったか」と書いている。でも、「意味のない世界を生きていたら/どんなによかったか」とは書いていない。
 「意味」の「ある」「ない」を問題にしていない。
 「意味」が「ある」ということが無条件に前提にされている。--これは、ちょっと先走りしすぎた解説なので、わきにおいておきます。

 「意味にならない」が大事。「なる」「ならない」について、田村は書きたいのだと思います。
 田村にとって、「意味」は最初からそこに「ある」(存在する)ものではなく、「なる」ものなんですね。「意味になる」とこによって、そこに「意味がある」という状態がうまれる。
 「なる」というのは、変化ですね。
 ○○さん、結婚してからいっそう美人になったねえ、というときの「なった」(なる)のは「変化」ですね。

 では、「意味」はどうやったら「意味」に「なる」のだろう。
 「意味」が「意味」になる、というのは、「意味」が「意味」として通じる、通用するということもしれないけれど、田村の書いていることは、それとは少し違う。
 あくまで「意味が意味になる(ならない)」。
 で、最初にいった「言葉」と「意味」という単語がこの詩には何度も繰り返され、その区別がちょっとつきにくいところもあるのだけれど、ここで強引に「言葉」という単語をつかって言いなおしてみると。
 「意味が意味にならない」というのは、「言葉が意味にならない」ということになる。
 「言葉」はふつう、「意味」に「なる」。いつでも、「意味」になってしまう。
 「比喩」のことを何回か話しましたが、たとえば「○○さんは花のようだ」といえば、その「花のようだ」という言葉(表現)は「美しい」という「意味」になる。言葉が「意味になる」というのはそういうことだと思う。「言葉が何かを伝える」ということが「意味になる」ということかもしれません。
 どんな言葉も意味になってしまう。
 最近、こんなことがありましたね。鉢呂経産相が「福島は死の街だ」と言った。鉢呂は「人が住んでいない」ということを言ったのかもしれないけれど、それは「福島には人が住めない」という「意味」になり、福島のひとを傷つけることになる。帰りたいと思っている人々を絶望させてしまう。望みを奪ってしまう。
 鉢呂は違った「意味」で言ったつもりでも、「意味」はいつでも言ったひとの思いとは関係なく変化してしまう。
 佐賀知事の発言もそうですね。「真意とは違う」というけれど、「意味」は言った人だけが決めるものではないのです。
 言った人にも「いいたいこと」があるのだろうけれど、「意味」は一人立ちして動いてしまうものですね。

 脱線しました。詩にもどります。
 こんなふうに考えてなおしてみましょう。
 「意味が意味にならない世界」--これを「言葉」という単語だけをつかい、「意味」という単語をつかわずに言いなおすとどういうことになるだろうか。
 「言葉が通じない世界」ということになるかもしれない。「声」は聴こえる。けれど、それが何を指しているかわからない。「意味」というのは「指し示す内容」のことかもしれませんね。言葉が通じなかったら、どうするか。言葉のかわりに、身振り手振りで「意味」を探るということもあるのだけれど--まあ、それは直接、誰かと出会ったときの場合ですね。ふつうは、ほっておきます。なかったことにします。たとえば「アラビア語」で書かれた本。そこには「言葉」がつまっている。「意味」もつまっている。でも、わからない。私にとってはアラビア語の本は「言葉が通じない世界」「意味が意味になってつたわってこない世界」です。そういうとき、そこにどんなことが書かれていても関係ない。知らない。大事な予言が書かれていたって知らない。あとの方に出でくることばを先取りしていうと「無関係」。無関係というのは、田村が書いているように「よい」ものです。たとえばアラビア語でテロの予告が書かれている。もし、アラビア語を知っていて読むことができれば、「意味」がわかれば、それをそのままにしておくことはできない。どこかに知らせなければいけない。書いてある内容を知られたとわかったらテロリストに殺されるかもしれない。「責任」というものが出てくる。これはたいへんです。--これは、極端な例を言ったのだけれど、「意味」を知るというのは「無責任」(無関係)ではいられなくなる、ということだと思います。
 ここから「意味」というのは「関係」というものにかかわっているということがなんとなく推測できると思います。言葉というのは、たとえば「水」を「水」と呼ぶとき、それが「水」であるとわかる人間と「関係」することでもあります。「水をください」という言葉、その「意味」が伝わるのは、そのものを「水」と呼ぶひとのあいだだけです。「水」を「水」と呼ぶとき、こんなことはいちいち考えてはいないのだけれど、誰かと「水」ということばをとおして「関係」ができる可能性があるということですね。「関係」を成立させるものとして「言葉」がある。「言葉」をつかって、人間は「意味(いいたいこと)」を伝えようとしている。
 これは、逆に見ていくと(逆説、というのは田村が好んでつかう手法です)、「言葉」を言うとき、そこには「意味」がある、ということですね。
 1連目を、その視点から読み直すと、

言葉に意味があることをおぼえてしまった
言葉で意味を伝えあう世界
言葉の意味が意味としてきちんと伝わり、そこに関係ができる

 という具合になるかもしれません。「関係ができる」というのは「世界」ができるということ。「関係」と「世界」は似通ったものです。
 さらに、これを、「ある」ではなく「なる」という表現をつかって言いなおしてみる。「意味がある」ではなく、「意味になる」という表現をつかってもう一度読み直してみる。言い換えてみる。そうすると、どうなるか。

言葉が意味になることをおぼえてしまった
言葉で意味を伝えあう世界
言葉の意味が、相手との関係によって別の意味になることがある

 そういうことになるかもしれません。
 こういうことを田村は「そうでなかったら/どんなによかったか」と逆説で書いている。この「逆説」の部分は重要なのだけれど、いまは、とりあえず、「逆説」の部分はおいておいて、言葉と意味と関係と世界ということばで田村があらわしているのも確認しておきます。

 言葉のなかに意味がある。
 言葉の中の意味は相手によって違った意味にもなる。
 言葉を言った人と、言葉を聞いた人の関係によって、同じ言葉でも違った意味になることがある。
 同じ言葉であっても、違う意味として伝わってしまう。
 そういう人と人との「関係」、言葉の意味に影響を与えてしまうの関係そのものが「世界」である。

 1連目では、そういうことが言われていると思います。


*

 田村隆一試論の3回目は長いので3分割してアップしています。
 下欄に3-2、3-3という形でアップしました。
 つづけて読んでください。




田村隆一全集 2 (田村隆一全集【全6巻】)
田村 隆一
河出書房新社
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田村隆一試論(3-2)

2011-09-13 23:58:59 | 現代詩講座
 「言葉には意味がある」、けれどその「意味」はいつも一定ではなく、相手との関係によって変わる、別の意味になることがある。それは同じ言葉をつかって別の意味を伝えることができるということかもしれない。
 さっき言った「比喩」、「○○さんは花のようだ」といえば「花」という言葉で「美しい」という意味を伝えることですね。

 で、2連目。

あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ

 「あなたが美しい言葉に復讐されても」。これは、かっこいい1行ですね。なんとなく、あ、ここに詩があると感じます。--でも、意味はよくわからない。わからないというと、ちょっと違うかなあ。河邉由紀江の『桃の湯』で「ふわーっ」という言葉を自分のことばで言いなおすとどうなるか、とういことを言ったけれど、それによく似ている。直感的にはわかるけれど、自分のことばでは言いなおそうとすると面倒くさい。きちんと言い表せないようなものがある。考えると、自分がじれったく感じる。そういう感じですね。
 この1行がかっこよく見えるのはなぜだろう?

質問 なぜ、かっこよくみえるのかな?
「復讐」という言葉が、ふつうのつかい方と違う。ふつうは、汚い言葉なら復讐されるがわかるけれど、「美しい言葉」との組み合わせがふつうと違う。

 そうですね。ふつうつかっていることばとは違うからですね。「復讐」が独特ですね。「復讐」は、またまたわきにおいておいて……。(こんなふうにしていったんわきおくと、何をわきに置いたのか忘れてしまってだんだん話がずれて言ってしまうことがあるんですが……。)
 まず、「美しいことば」。たとえば「オレンジの薔薇のなかに沈んでゆく午後の倦怠感」というような言葉(これは、ちょっとでまかせだから、美しくないかもしれないけれど)、それは「復讐」なんかしませんね。「復讐され」ということは起きないですね。
 田村が「美しい言葉」は書いているものが具体的には何を指すかはわからないけれど、美しい言葉は一般的に「復讐」などしない。ところが田村は「復讐される」と書いている。とてもかわっている。
 こういうとき、「美しい言葉」のなかで何が起きているのか。あるいは「復讐」という言葉のなかで何が起きているんだろう。

 いま、私は美しい言葉の「なか」でと言ったのだけれど、この「なか」で何か思い出しませんか? 「なか」ということばにこだわって考えたことがありましたね。なんでしたか?
 「言葉のなかには意味がある」。私たちは、そう考えました。
 そうすると、「美しい言葉のなかにある意味」が「復讐」したんですね。「意味」に復讐されたんですね。
 「美しい言葉の中の意味」が、「美しい」というだけの「意味」を超えて、別の「意味になった」。その別の意味になったものが復讐したんだと思います。「美しい」と信じていたのに、「美しい」だけではない何かが、復讐してきたんですね。
 もしかするとそれは「美しい」を超越した美しさかもしれない。想像できない美しさ。想像しなかった美しさ。
 想像を超えてしまっているので、そのとき起きたことがなにかわからず、わからないままに「復讐された」と感じたのかもしれませんね。

 1連目で、田村は「意味が意味にならない世界を生きていたら/どんなによかったか」と書いていたけれど、ここでは逆のことが起きている。「意味が意味になる世界」を「あなた」と「ぼく」が生きている。「美しい言葉」が「美しい言葉」のまま「ある」のではなく、「復讐」の言葉になる。「美しい意味」が「復讐」の「意味」に「なる」。
 3行目の「きみが静かな意味に血を流したところで」というのは、「あなたが美しい言葉に復讐されても」と同じようなことを言おうとして繰り返されたものですね。その2行は「ぼくとは無関係だ」「無関係だ」という述語で統一されていますから。
 この連は1連目のようなスタイルで書くと、

あなたが美しい言葉に復讐されても
きみが静かな意味に復讐されて
そいつは ぼくとは無関係だ

 ということになります。
 1連目では「言葉」と「意味」を強調たかったので、それを繰り返し、2連目では「無関係」を強調したいので「無関係」を繰り返していることになります。
 こんてふうに書き換えてみると、「美しい言葉」は「静かな意味」、「復讐される」は「血を流す」が同じことをいおうとしていることがわかります。
 いいたいことを、ひとは何度も繰り返し書くものです。うまく書けないというか、何かいい足りないと感じたら、何度でも繰り返す。だから繰り返し書かれていることがらをていねいに読んでいくと、そのひとのいいたいことがわかるようになります。
 で、この2行を重ね合わせると、美しい言葉のなかにある静かな意味に復讐されて血を流しても、ということになる。2連全体で田村がいいたいのは、「美しい言葉のなかにある静かな意味に復讐されて血を流しても」、それは「ぼくとは無関係だ(ぼくには責任がない)」ということになります。
 ここで「血を流す」という表現が出てくるけれど、これは実際の「血」ではないですね。「比喩」ですね。「傷つく」ということだと思います。「傷つく」といっても、これもまた「比喩」ですね。どんな言葉にも、肉体を傷つけ、血を流させるようなことはできない。

質問 では、血を流すのは、どこ? 人間のからだのなかの、何が血を流す?
「感情、かな」

 そうですね。「感情」が血を流すのだと思います。「からだ」との対比と、とりあえず、その「感情」を「こころ」と読んでみましょう。「こころ」が血を流す、仮定しましょう。
 で、少しもどります。
 「意味が意味になる」、あるいは「言葉が意味になる」。そういうことを考えたとき、その「意味」が「なる」場所は、どこ? 場所はどこ、というのは変な質問だけれど、どこで言葉は意味になるのだろう。ある言葉の意味が別の意味になるのだろう。
 「頭」のなか。あるいは「心」のなか。
 いま、私たちは、美しいことばに復讐されて血を流すのは「こころ」だと考えました。だから、言葉が、その意味が、別の意味になるのは「頭」のなかではなく「こころ」のなかで別の言葉になるんですね。そう考えることができると思います。
 ということは、田村がここで言っているのは、「美しい言葉のなかにある静かな意味が、別の意味になり、その意味が復讐してきて、あなたのこころが血を流しても、ぼくには無関係だ」ということになる。

 こころが血を流す--にもどります。

 質問 こころが血を流す--これは、どういうことだろう。どういう状態の「比喩」なのだろう。どういうときに、こんなことが起きるだろう。どういうとき、こころは血を流しますか?
 「衝撃をうけたとき」

 そうですね。私も、衝撃を受けたときだと思います。衝撃にはいろいろな種類があるけれど、哀しい時、苦しい時と考えると、血を流すがわかりやすいですね。
 涙が流れる、も哀しい時、苦しい時と考えるとわかりやすいですね。嬉し涙というのもあるけれど。
 反対にうれしいときにも「血」ではなく、また別なものが流れるかもしれない。
 でも、とりあえず、ここではこころが衝撃を受けた時、心がふるえる、おおきな範疇のことばで言うと、感動する。そういうときにこころが血を流すといっていると考えましょう。
 そして、そのこと、美しい言葉のなかにある静かな意味に感動しても、ぼくには無関係である--田村はそういいたいのだと思います。

 繰り返しになるけれど、このとき大事なのは、「復讐する」(こころに傷をつけるのは)「美しい言葉」「静かな意味」ということです。
 乱暴な言葉、死んでしまえとか、馬鹿野郎ではない。大嫌いでもない。乱暴な言葉、荒々しい意味がひとを(こころを)傷つけるというのはふつうのことですね。それでは詩にならない。
 美しい言葉、静かな意味が、復讐する--ということろに、詩がある。ふつうと違ったことを書いているところに詩があるということになります。詩とは、ふつうとは違ったこと--ふつうは見落としていること、その人だけが見つけた何かを書いている。そして、そのその人だけが見つけたものというのは、まだ、だれも言っていないので、どうしても不自然なことばになってしまう。この不自然さのなかに、かっこよさがある。不自然さをかっこよくすれば詩になるということですね。

 またまた繰り返しになるけれど、重要なことなので指摘しておきます。ひとはいいたいことをいうとき、なんどでも繰り返しになります。言いなおします。
 2連目の1行目「美しい言葉」を3行目で田村は「静かな意味」という表現に書き直している。「言葉」と「意味」は同じことを指している。「美しい」と「静か」も同じことを指しています。「言葉」と「意味」が同じであることを知って1連目の「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」を言いなおしてみると、

意味なんかおぼえるんじゃなかった

 になると思います。もっとていねいに言うなら

言葉に意味があるとういことをおぼえるんじゃなかった

 ということになります。
 そして、2連目の「あなたが美しい言葉に復讐されても」は、あなたが「美しい意味」に復讐されても、ということになります。「意味」というのは「言葉」のなかにあるもの、「復讐される」というのは「血を流す」「傷つく」だから、これはあなたが言葉のなかにある「美しい意味」に「傷ついても」ということになります。
 ある言葉、ある表現の、その表面的な「言葉」ではなく、言葉の奥にある「意味」を知って傷つく--これを別な表現で言うとどうなりますか?
 「衝撃」「感動」でしたね。
 衝撃、感動したというのは、言葉に関して言えば、言葉が胸につつき刺さる。胸にたとえばナイフが突き刺さると血が流れる。
 田村が「きみが静かな意味に血を流したところで」と書くときの「血」は比喩になります。感動したとしても、ということになると思います。

 3連目は、その「感動」を別な表現で繰り返しているだと思います。

あなたのやさしい眼のなかにある涙

 感動したとき、胸が「比喩」としての「血」を流すならば、目は、比喩ではなく、実際に「涙」をながします。「血」と「涙」は、ある意味で似通っています。
 でも、まあ、涙では「血」ということばを言いなおしたような感じにはなりにくい。ちょっと弱い。物足りない。感動して泣いちゃった、というのは軽い感じがしますね。
 だから田村は言いなおす。

きみの沈黙の舌からおちてくる苦痛

 この1行、かっこいいですねえ。「あなたのやさしい眼のなかにある涙」というのは「やさしい」と「涙」、「眼」と「涙」が類似語というと変だけれど、想像のつく結びつきなので、そんなにかっこいい1行とはいえないですね。田村以外でも書けそうですね。けれど、「きみの沈黙の舌からおちてくる苦痛」はかっこいい。
 かっこいい--というのは、ふつうではないことばのつかい方、でしたね。
 どこがふつうと違うか。「沈黙の舌」が違いますね。饒舌ということばはあるけれど、だまっているときは舌は動かないから、「沈黙の舌」というのは言われればわかるけれど、ふつうは思いつかない。さらに、その沈黙の舌から、「痛苦」が「おちてくる」がかわっている。饒舌、言葉から何かがおちてくる(鉢呂の失言を思い出してください)というのはあるけれど、沈黙から何かがおちてくるということは、ふつうは言わない。田村は、鉢呂が「失言」を落としたのに対して「痛苦」を落としたという。これもかわっています。かっこいいですね。痛苦は「おちない」。少なくとも、涙のように、誰かがみてわかる形、外部には落ちない。涙が「外」に落ちるのに対し、痛苦は内部に、だれも知らない「こころ」に落ちる。落ちるというより、内部に残りつづけるものです。
 こういう、考えてわかることがら、考えることで知ることができることを書いてあるから、かっこいいのかもしれませんね。ふつうは、考えないこと、言葉ではいえないことが書いてある--だから、かっこいい。
 「沈黙」というのは、感動しすぎて、言葉にならない。言いたいことがあるのだけれど、言葉にならない状態だと思います。言葉にならないというのは舌が動かないということでもある。舌を動かして言葉にしたいのに舌が動かない--その苦痛。苦しみ。そういうこともあるかもしれません。
 これは苦しみといっても、胸のなかでは、うれしいであるかもしれない。
 田村は、「逆説」をつかって、言いたいことを逆に隠す。そうすることで、その隠れているものの方へ読者が近づいてきて、そこで隠れているものを探し出す(探し出させる)というふうに言葉を動かしている。
 自分で発見した方が、強く印象に残るからですね。

 では、次の2行は何だろう。何の繰り返しだろう。

ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう

 これは、説明するのがとしてもむずかしいのだけれど、こういうとき、私は説明しません。ただ、自分の考えを言います。実際に詩を書いているときの「直感」としてわかっていることを言います。
 これは1連目の言い直しです。
 3連目の前半の2行は2連目の言い直し。そこで終わっているのだけれど、それだけでは言い足りないので、もう一度1連目にもどって言いなおそうとしている。

ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら

というのは、田村は「ぼくたち」とここでは複数で書いているのだけれど(それは、「あなた」を書いてしまったから複数になっているのだけれど)、面倒なので田村に限定して言いなおしてみると、

もしぼくが言葉に意味があることを知らなかったら、意味を言葉で語ることを知らなかったなら、

 ということになる。もし、ぼくが意味を言葉で語ることを知らなかったら、「ぼくはただあなたが感動して涙を流しているのを眺めても、ただ立ち去るだろう。」それを言葉にして書くことはないだろう。言葉に意味があること、意味を言葉で語ることを「おぼえてしまった」ので、ぼくは(田村は)3連目の2行を書いてしまった。眺めて立ち去るのではなく、言葉にしてしまった。(いま、「おぼえてしまったので」と言ったのだけれど、これは、またあとでゆっくり説明します。)
 そして、ここから「反転」します。
 3連目は4行で構成されていて、その4行という構造は前の1、2連目と同じなので、見落としてしまいそうだけれど、実は3連目の3行目と4行目のあいだには、とても大きな「間」がある。ここから詩は合わせ鏡のようにして前半へもどっていく。
 大きな断絶があるけれど、そこに「行あき」(連の区別)がない--というのは、その引き返しというか、言い直しの意識が田村には当然のことでありすぎて、空きを意識できていないからです。--これは、河邉由紀恵の『桃の湯』の字数がそろった行を重ねて、突然空白をはさんで別の連へつづいていく詩の形とは反対の形式だといえます。ただ、これはきょう話したいこととは別の問題なので、きょうは省略します。
 どんなふうに言葉が「反転」していくか、引き返していくか、それを読んでいきます。
 言葉に感動している「あなた」を書いてしまった。言葉にしてしまった。だが、それはほんとうに「意味のある言葉」だったのか。「あなたのやさしい眼のなかにある涙/きみの沈黙の舌からおちてくる苦痛」というのは、いかにも「現代詩」らしい言葉の動きなのだけれど……。
 田村は、「涙」という言葉に、まずもどって行きます。もどりながら、田村は自問する。自分自身に問いかけている。

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

 この1行は、この連でいちばん大事な問題点を含んでいます。
 「意味があるか」と田村は書いている。これは、いままでの「意味」という言葉がでてきたときとは違っていますね。1連目に「意味が意味にならない」ということばがある。意味は、「なる」ものである、というのがこれまで読んできたことがらです。
 でも、田村は、ここでは「ある」をつかっている。
 ここに、注目したいと思います。

 涙はなぜ流れる?
 「あなた」が美し言葉に復讐されて血を流した。「血」は「感動」の比喩でしたね。「涙」もまた感動の印です。
 感動というのは、言葉のなかにある「意味」に気がついて、こころがおこす現象だけれど、その「涙」のなかにほんとうに「意味」はあるのか。田村は問いかけている。
 これは、まるで「あなた」の「涙」に意味があるか、と問いかけているような感じがするけれど、そうではないのだと思います。自分に問いかけている。
 田村は「涙」ということばをつかってしまったが、そこに「果実の核ほどの意味があるか」。このとき「意味」は「意味」というより「実質」てきなもの、ですね。具体的な内容と言い換えることができるかな? ほんとうに感動に値することがあったのか、問いかけている。
 さらに「血」という言葉をつかったけれど、その「内容」はどうだったのか。その「血」という「比喩」に「夕焼けのひびき」があるか--これも「比喩」になると思うけれど、それがあるか。
 「比喩」、これは、つまり「言葉」ですね、その言葉のなかに「比喩」に匹敵するほどの「意味」はあるか。
 「比喩」は「意味」をつくりだすこと、「比喩」によって、言葉は別の意味に「なる」のだけれど、その「なった」はずの「意味」のなかに、ほんとうに「内容」は「ある」のか。
 田村は、とっても面倒くさいことを、自分自身に問いかけています。自分の書いてしまった「言葉」について問いかけて強います。

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田村隆一試論(3-3)

2011-09-13 23:57:59 | 現代詩講座
 そして、最終連。
 いろいろ問いかけて、最初と同じ1行にもどります。3連目のまん中から反転するというのは、このことでわかると思います。

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ち止まる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる

 最初の1行は、冒頭の1行と同じですね。1行目と2行目をちょっと短縮して、「言葉をおぼえたおかげで」という形で、3連目のつづきを話したいと思います。(括弧にくくった部分は最後に話します。)

言葉おぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ち止まる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる

 これは、言葉を書くこと、言葉で「意味」を書くことをおぼえたおかげで、ぼくはあなたが涙を流している様子をことばにしてしまう。そして「意味」を考えてしまう。「意味」をつけくわえてしまう。「涙」が「哀しみ」という「意味」になるということを知ってしまって、そのことを考える。あなたの「涙」、その「涙」のなかに「ある」意味を考える。考えていることを「立ち止まる」と言っているのです。
 これは3連目の「立ち去るだろう」の反対のことばですね。言葉を書くことを知らなかったら、言葉がなかったら立ち去っていた。けれど言葉があるので立ち去らずに立ち止まる。
 ただ立ち止まるだけではなく、それは「帰ってくる」ことでもある。
 「涙」のなかに「立ち止まり」、「血」のなかへ「帰ってくる」。2連目、3連目をちょっと振りかえってください。涙と血は「感動」につながる「同じもの」でしたね。
「血」はこころの奥で流すもの。涙は「眼」から流れる。「涙」よりも「血」の方が奥が深い。(奥が深い--という表現でいいかどうかわからないけれど、もっと深刻というか重大なものですね。)
 涙が表層であるとすれば、血は深層。
 涙を血という比喩で言い換えるとき、田村は、あなたの「内部」へ(意味の内部、感動の内部、かな?)へさらに奥深く入っていく。
 このことを田村は「帰ってくる」は書いている。「入っていく」「尋ねていく」ではなく「帰ってくる」。
 これは、どういう「意味」だろう。
 もともと田村は「あなたの涙、きみの血」のなかにいた、ということですね。
 でも、へんですね。そんなはずはない。「あなた」や「きみ」が「あなた」「きみ」であるのは「ぼく」とは別人だから「あなた」「きみ」ですね。
 だから、ここに書いてあることは、「比喩」なんです。
 「比喩」というのは言葉をつかって、「いま/ここ」にないことをあるようにみせかけるものです。この詩でつかわれている表現を利用していえば、「比喩」は「いま/ここ」にないものを借りて、「意味」をつくることですね。「いま/ここ」にあるものの「意味」を、「いま/ここ」にない「意味」にかえる。「いま/ここ」が別の意味に「なる」ということです。
 あなたの「涙」「血」を書くことで、「あなた」になる。
 「ぼく」が「あなた」になるのは、まあ、比喩のなかでは「可能」だけれど、現実には不可能ですね。
 この「不可能」のことを「愛」と呼ぶことができると思います。
 「愛に不可能はない」。

 で、最後に。ここからが、私が今回ほんとうにいいたいことです。
 「おぼえる」。この言葉について考えてみたい。
 「知っている」と「わかっている」の区別は、何度か言いましたね。まあ、私の「独断」なのかもしれないけれど「知っている」と「わかる」は違う。「射殺」は言葉として知っているが、ほんとうは「わかっていない」。
 では、「おぼえる」は、どうだろう。

 「知る」「わかる」「おぼえる」はどこが違うと思いますか?
 「知る」「わかる」のとき「射殺」を例にして話しました。「射殺」は言葉として知っている。でも「肉体」はそれを知らない。ピストルを撃ったときの反動。相手が血を流すのを見たときの衝撃。死んでいくのを見るときの気持ち。目も耳も肌も、何も知らない。「わかる」というのは「知識」ではなく、「肉体」でそれを受け止めることだと思う。肉体のあらゆる部分が「知っていること」が総合されて「わかる」と言えるのだと思う。
 「おぼえる」にはやはり「肉体」が関係していると思う。
 田村は、最後に「日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで」というとても変な1行を書いている。わざわざ「外国語」という表現をつかっている。「あなたの涙/血」を書くのに「外国語」をつかっていない。ここには外国語はひとことも書いていないのに「外国語」を「おぼえたおかげ」と書いている。
 変でしょ?
 「日本語」とわざわざ書いているのも変ですね。さっき省略したように「言葉をおぼえたおかげで」で十分「意味」は通じる。それなのに「日本語」「外国語」ということばをつかっている。
 変ですね。
 その変なところは、またまたわきにおいておいて。
 「外国語」。たとえば「英語」。「This is a pen.」知らない単語はないですよね。みんなわかりますよね。
 もう知っていること、わかっていることについてこういうことを聞くととても変なのだけれど、

質問 英語をおぼえるとき、どうしました?
「書いたり、声に出して読んだりしました」

 見て、読んで、書く。このとき、「見る」は目をつかう。「読む」ときは喉や口をつかう。そして、動かす。書くときは目で見ながら、手を動かす。そこに「肉体」の動きが入ってきます。「肉体」をつかっています。
 何かを「おぼえる」というのはもちろん「頭」もつかうけれど、基本的には「肉体」(体)をつかって、「肉体」に何かを定着させることですね。

受講生「肉体で、おぼえたことって、忘れないですね。自転車にのるとか、泳ぐとか、一度おぼえたことは忘れないですね」
受講生「忘れない、というより、忘れられない、かな」

 そうですね。ほんとうに、そう思います。
 先に、みなさんの方から「答え」というか、私がいいたいことを言われてしまったので、私の説明がしにくくなるのだけれど……。

 ここで、こういう例を挙げるのはちょっとまずいのかなあとも思うけれど。「おぼえる」には、酒をおぼえる、とかセックスの快楽をおぼえるというような使い方がある。もちろん、酒の味を知っている、セックスを知っているという言い方もあるけれど、「おぼえる」は、何かもっと実践的ですね。あるいは、どっぷりつかっているといえばいいのかな? おぼれてしまう。じっさいに、肉体を動かす。「知る」は頭でコントロールするけれど「おぼえる」は肉体が反応する。自然に動く。酒やセックスをおぼえ、それににおぼれるというのは、それが忘れられないということですね。

 で、脱線しすぎたので、ちょっともどります。

質問 外国語を知っている、わかる、おぼえる。--このとき、知っている、わかる、おぼえる、の違いはなんですか?
「おぼえたことはつかえる」

 そうですね。「おぼえた」外国語は、「つかえる」ということですね。
 さっき英語を例にしたけれど、フランス語、ドイツ語、アラビア語--それは、文字を見ればある程度「わかる」部分がありますね。見て「知っている」。だから「わかる」。まあ、それを「おぼえている」のでわかる、と言えるかもしれないけれど、知っている、わかるだけでは、つかえませんね。つかえる言葉が限られている。
 ズィス・イズ・ア・ペンくらいならいつでも言える(つかえる)かもしれないけれど、ややこしいこは言えない。たとえば、私がいま話していることを私は英語では言えない。おぼえていないからです。おぼえるというのはつかえるようになることなのです。
 自由に動かせるということです。
 自転車乗りや水泳をおぼえる--その結果、自由に自転車をこげる、運転できる、自転車がつかえる。水泳なら、手足がつかえる。泳げる。

 このことから類推(?)していくと……。

 田村の書いている1行。「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」は、「言葉なんかつかえるようになるんじゃなかった」ということになるのだと思います。言葉をつかえるようになった。それは言葉で「意味」をつくる(成立させる)ことができるようになる、ということになります。
 「あなたが美しい言葉に復讐されても」というのは、変なことばですね。そういう「つかい方」は、だれもしていない。だれもしていないけれど、田村はそういうつかいかたができる。それが「おぼえる」なのです。
 言葉をそれまでつかわれていたつかい方ではなく、田村自身のつかい方で動かし、しかも、それに深い「意味」をこめることができる。いままでの言葉のつかい方では言えなかったことを言える。それが「おぼえる」なのです。

 前回、田村隆一風の詩を書いてみましたね。まねしてみましたね。
 このまねしてみるというのは、「おぼえる」ことです。外国語をおぼえるとき、まねをする。まねのつみかさねです。まねの積み重ねで「肉体」のなかに何かが溜まる。そのたまったものがエネルギーになって、動く。その動きを肉体で制御できる。それが「おぼえた」ということになります。
 「言葉なんか知るんじゃなかった」(知らなければよかった)ではなく「おぼえるんじゃなかった」と田村が書いている--その1行がいちばん印象に残ると私が言ったのは、そういう理由です。
 私は、この詩の「おぼえる」のように、「肉体」のなかを通って出てくる言葉がとても好きで、そういう言葉を書いている詩人が好きだし、そういう詩が好きです。そして、こんなふうに「肉体」と結びついて自然に動く力をもった言葉を「肉体のことば」といったり、また「ことばの肉体」という言い方で、詩を読むときの基準にしています。

 最後の連には、もうひとつ、大事な要素があります。
 2連目と比較して、何かが違います。
 2連目は「あなた」が「復讐される」、「きみ」が「血を流す」。ところが、最終連は「ぼく」が「立ち止まる」、「ぼく」が「帰ってくる」。これが、大きく違います。
 2連目では「言葉のなかにある意味」によって、「あなた(きみ)」が復讐され、血を流す。無傷の状態が、傷を負った状態に「なる」ということが書かれていました。
 いま言った「傷を負った状態になる」の「なる」は、「意味が意味になる」というときの「なる」と同じで、変化です。
 このときの「主語」というか、「なる」の変化は「あなた」「きみ」に起きています。「あなた」「きみ」が、いわば主語です。
 ところが、最終連では、「ぼく」が「なる」のです。
立ち止まる状態に「なる」、あるいは「立ち止まる」という運動をする人間に「なる」。「帰ってくる」という状態に「なる」。帰ってくるという運動をする人間に「なる」。
 それは、言葉を書くということは(ことばをつかう)ということは、別の人間に「なる」ということにつながります。

 詩を書く前と、詩を書いたあとでは違う人間に「なる」。
 詩を読む前と、詩を読んだあとでも同じですね。読んだあとでは、違う人間に「なる」。
 この詩の中の表現をつかっていえば、田村の美しい言葉を読んでしまったあと、あなたは復讐されて、こころが血を流してしまった。傷ついた人間(ことは比喩ですが)に、「なる」。
 一方、何かを「おぼえて」、実際にそれをつかいこなす。そうすると、そのときから、そのひとは「別の人」にななっている。田村は、そういうことばを書くことによって「詩人」に「なる」。なっている。
 人間には肉体があるために、その「別の人になる」という感じがなかなかわからないのだけれど、「こころ」は変わっている。別の人になる、そういうことがありますね。
 で、この「別の人になる」ということを、この詩にあてはめると……。
 2連目で、田村は「ぼくとは無関係だ」「そいつも無関係だ」と「無関係」を強調していた。けれど最終連では「無関係」ということばをつかっていない。逆に、「きみの血のなかに」ということばをつかって、「きみ」の「なか」に入っていく。「関係」ができる。「きみ」と「ぼく」は「無関係」ではなく、「きみ」の「なか」に「ぼく」がいるという関係になる。
 ここにも大きな変化がある。「ぼく」は「きみ」になる。これは一体になるということ、愛するというこ意味にもなると思います。
 言葉のこと、あるいは詩を書くことをテーマにして田村はこの詩を書いていると思うけれど、どこかロマンチックな感じがするのは、そういうことかな、と思います。



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