江夏名枝『海は近い』(思潮社、2011年08月31日発行)
書き出しの1行から、あ、詩だ、と感じることばがある。最初のページをめくった瞬間から、あ、いい詩集だと感じる本がある。
江夏名枝『海は近い』は、そういう詩集である。
「海は近い」は長い詩である。その冒頭。「1」。
私は、実は、このページ、この3行(行空きを含めて4行というべきか)しか読んでいない。そして、感想を書きはじめている。
どのことばが、私を誘っているのか。
「くちびる」の繰り返しが、読んだ瞬間から、詩を感じさせるのである。最初の「くちびる」は、まあ、実際の「肉体」のくちびるだろう。その声が「くちびる」を濡らすというとき、2回目に書かれている「くちびる」はどこにあるのか。
「肉体」ではないところにある、と感じる。
では、どこ?
「くちびる」という「ことば」、あるいは「概念」といえばいいのか。あるものを名付ける行為のなかで動いている何かである。
こういうことは、書いていくのが、とても面倒である。
もっと先まで読み進んで、書きたいことがはっきりしてから書き直せば、もっとわかりやすく書けることなのかもしれない。けれど、整理してから書くのではなく、ことばに出会ったときの驚きのままに、江夏のことばについていってみたい--そういう気持ちに駆り立てられて、こうやって書いている。
冒頭の「くちびる」と2回目の「くちびる」は同じものではない。そこに、何か違いがある。その違いを、私は2回目の「くちびる」は「ことば」だと書いた。つまり、江夏の(と、とりあえず、書いておく)「肉体」ではなく、「肉体」ではないもの、と考えた(感じた)。
肉体の「くちびる」と、ことばの「くちびる」は、本来、「いっしょ」である。つまり肉体の「眼」を「くちびる」ということばで呼ぶということはしない。あくまで「くちびる」を「くちびる」と呼ぶ、という意味で、それは「イコール」でなくてはならないはずである。
けれど、江夏の詩を読むと、そこには「イコール」以外のものがある。
というか、「イコール」ではないということを考えないと、書き出しの1行はとても変である。変ではないとしたら、「へたくそ」である。「声がくちびるを濡らし」と書けばすむはずである。わざわざ繰り返す必要はない。
なぜ、繰り返したのか。
わからない。
わからないから、私は、わからないことについて考えてみる。
「声が」というのが「主語」になる。「くちびる」が「主語」だと思っていたら、そこに突然「声」という主語が割り込み、「くちびる」を補語にして、「濡らし」という「動詞」が「述語」になり、「声が-濡らした」という世界を作り上げる。
「くちびる」はあらわれながら、消えていく。あらわれたと思ったら、消えていく。その瞬間的な、生起の変化が、おっ、詩だ、と感じさせるのだ。
詩は、つかまえにくい。あらわれたと思ったら、消えている。ことばにしようとしたら消えてしまっていて、どこにもない--そういう感じととても似ている。
このことばのなかに、そういうものが象徴的に書かれている。
それにつづくことばも、またまた不思議で、そして美しい。
「青」って何? 「くちびる」の色? くちびるは、ふつうは「青」ではない。けれど、私には、なぜか「声」にぬれて(唾にぬれてではない)、青くなったくちびるが見える--ではなく、くちびるは見えず、ただ「青」という色が見える。
わからないまま、「青」に吸い込まれてしまう。それも「鮮やかにな」った「青」である。いや、「鮮やかになる」という、その「なる」の、不思議な運動である。
その「主語」は(主語というと、説明がめんどうくさくなるが、主語である)、「また」が指し示している何かである。「くちびる」が1行目の「仮の主語」であったように、別の主語があり、もうひとつ「また」で繰り返される主語がある。それが「鮮やかになる」という「述語」で閉じられる。「くちびる」という仮の主語が「声が-濡らす」と閉じられたように……。
そんな具合にして「また」に含まれている「主語」は、どこかへ何の抵抗もなく、つまりどんな痕跡というか、傷跡もなく消えていく。
(「あおはまたあざやかになる」という音のなかにある「あ」の音のゆらぎに誘われて、私は、ことばの「意味」も考えずに、ただ、ああ、これはいいなあ、いい音だなあと感じている。--書き忘れそうになるので、書いておく。)
このときは、もう「また」「くちびる」は、どこかへ消えている。
あ、これは、倒置法の文なのか。「くちびるの声がくちびるを濡らし、波打ち際にたどりついて、青はまた鮮やかになる」。「くちびるがの声がくちびるを濡らした。波打ち際にたどりついたら、海の青はまた鮮やかな青になる」ということなのか。
あ、意味はどうでもいいのだ。
ここでも私が感じるのは、あることばがあらわれ、あらわれたと思ったら、ふっと消えていくその運動のあり方に強く引きつけられるのである。
「青はまた鮮やかになる。」ということばは「波打ち際にたどりついて。」ということばが書かれた瞬間、どこかに消えてしまう。「海」、あるいは「海の青」ということばがその消えていったことばを追いかけるようにして動くけれど、まるで光か潮風のように、とらえどころがない。「ある」といえば「ある」が、それを「肉体」でつかまえることができない。
これは、いったい、何?
最初の2行を、江夏は、繰り返している。言いなおしている。
「ここに現れるもの」とは、1行目の、2度目の「くちびる」であり、「また鮮やかになる」の「また」に含まれている「仮の主語」である。あるいは、「仮の主語」というより、何かを名前で呼ぶという行為そのものかもしれない。
何か、ここに「もの(存在)」がある。それを名づける。名前で呼ぶ。名前で読んだ瞬間、そこには「もの」と「ことば」が同時に存在するのだが、それは何かの運動のなかに組み込むと、消えてしまう。何も残らない。
いや、そうではなく。
残っている。--たとえば、この詩を読みながら、私は、江夏の「ことば」を読んだということをおぼえている。
その「おぼえていること」、それを江夏は「心の複製である」と言っているのか。
あるいは、2度目の「くちびる」、2度目の何か(また、で繰り返された「主語」)を「心の複製である」と言っているのか。
わからないが--つまり、断定はできないが、私は、そう考えはじめている。
そして、「心の複製」を「心がつくりがした複製」というよりも、「心」そのものの「複製」ではないか、と感じはじめている。
--そんなことは、どこにも書いていない。
かもしれない。
でも、そう感じてしまうのだ。
「海は近い」というタイトルを手がかりに、そうして「波打ち際にたどりついて」ということばを手がかりに考えると、江夏は、海へ向かいながら(海へ向けて肉体を動かしていきながら)、そのとき感じた何かをことばにする--そうして、そのとき動いたことばを「心の複製」と感じているということなのか……。
「2」以下は、「心の複製」が繰り返される世界なのか、と私は想像するのである。
海は近い 江夏 名枝 思潮社
書き出しの1行から、あ、詩だ、と感じることばがある。最初のページをめくった瞬間から、あ、いい詩集だと感じる本がある。
江夏名枝『海は近い』は、そういう詩集である。
「海は近い」は長い詩である。その冒頭。「1」。
くちびるの声がくちびるを濡らし、青はまた鮮やかになる。
波打ち際に辿りついて。
波打ち際に辿りついて、ここに現れるものは、あらゆる心の複製である。
私は、実は、このページ、この3行(行空きを含めて4行というべきか)しか読んでいない。そして、感想を書きはじめている。
どのことばが、私を誘っているのか。
くちびるの声がくちびるを濡らし、青はまた鮮やかになる。
「くちびる」の繰り返しが、読んだ瞬間から、詩を感じさせるのである。最初の「くちびる」は、まあ、実際の「肉体」のくちびるだろう。その声が「くちびる」を濡らすというとき、2回目に書かれている「くちびる」はどこにあるのか。
「肉体」ではないところにある、と感じる。
では、どこ?
「くちびる」という「ことば」、あるいは「概念」といえばいいのか。あるものを名付ける行為のなかで動いている何かである。
こういうことは、書いていくのが、とても面倒である。
もっと先まで読み進んで、書きたいことがはっきりしてから書き直せば、もっとわかりやすく書けることなのかもしれない。けれど、整理してから書くのではなく、ことばに出会ったときの驚きのままに、江夏のことばについていってみたい--そういう気持ちに駆り立てられて、こうやって書いている。
冒頭の「くちびる」と2回目の「くちびる」は同じものではない。そこに、何か違いがある。その違いを、私は2回目の「くちびる」は「ことば」だと書いた。つまり、江夏の(と、とりあえず、書いておく)「肉体」ではなく、「肉体」ではないもの、と考えた(感じた)。
肉体の「くちびる」と、ことばの「くちびる」は、本来、「いっしょ」である。つまり肉体の「眼」を「くちびる」ということばで呼ぶということはしない。あくまで「くちびる」を「くちびる」と呼ぶ、という意味で、それは「イコール」でなくてはならないはずである。
けれど、江夏の詩を読むと、そこには「イコール」以外のものがある。
というか、「イコール」ではないということを考えないと、書き出しの1行はとても変である。変ではないとしたら、「へたくそ」である。「声がくちびるを濡らし」と書けばすむはずである。わざわざ繰り返す必要はない。
なぜ、繰り返したのか。
わからない。
わからないから、私は、わからないことについて考えてみる。
「声が」というのが「主語」になる。「くちびる」が「主語」だと思っていたら、そこに突然「声」という主語が割り込み、「くちびる」を補語にして、「濡らし」という「動詞」が「述語」になり、「声が-濡らした」という世界を作り上げる。
「くちびる」はあらわれながら、消えていく。あらわれたと思ったら、消えていく。その瞬間的な、生起の変化が、おっ、詩だ、と感じさせるのだ。
詩は、つかまえにくい。あらわれたと思ったら、消えている。ことばにしようとしたら消えてしまっていて、どこにもない--そういう感じととても似ている。
くちびるの声がくちびるを濡らし、
このことばのなかに、そういうものが象徴的に書かれている。
それにつづくことばも、またまた不思議で、そして美しい。
青はまた鮮やかになる。
「青」って何? 「くちびる」の色? くちびるは、ふつうは「青」ではない。けれど、私には、なぜか「声」にぬれて(唾にぬれてではない)、青くなったくちびるが見える--ではなく、くちびるは見えず、ただ「青」という色が見える。
わからないまま、「青」に吸い込まれてしまう。それも「鮮やかにな」った「青」である。いや、「鮮やかになる」という、その「なる」の、不思議な運動である。
その「主語」は(主語というと、説明がめんどうくさくなるが、主語である)、「また」が指し示している何かである。「くちびる」が1行目の「仮の主語」であったように、別の主語があり、もうひとつ「また」で繰り返される主語がある。それが「鮮やかになる」という「述語」で閉じられる。「くちびる」という仮の主語が「声が-濡らす」と閉じられたように……。
そんな具合にして「また」に含まれている「主語」は、どこかへ何の抵抗もなく、つまりどんな痕跡というか、傷跡もなく消えていく。
(「あおはまたあざやかになる」という音のなかにある「あ」の音のゆらぎに誘われて、私は、ことばの「意味」も考えずに、ただ、ああ、これはいいなあ、いい音だなあと感じている。--書き忘れそうになるので、書いておく。)
このときは、もう「また」「くちびる」は、どこかへ消えている。
波打ち際にたどりついて。
あ、これは、倒置法の文なのか。「くちびるの声がくちびるを濡らし、波打ち際にたどりついて、青はまた鮮やかになる」。「くちびるがの声がくちびるを濡らした。波打ち際にたどりついたら、海の青はまた鮮やかな青になる」ということなのか。
あ、意味はどうでもいいのだ。
ここでも私が感じるのは、あることばがあらわれ、あらわれたと思ったら、ふっと消えていくその運動のあり方に強く引きつけられるのである。
「青はまた鮮やかになる。」ということばは「波打ち際にたどりついて。」ということばが書かれた瞬間、どこかに消えてしまう。「海」、あるいは「海の青」ということばがその消えていったことばを追いかけるようにして動くけれど、まるで光か潮風のように、とらえどころがない。「ある」といえば「ある」が、それを「肉体」でつかまえることができない。
これは、いったい、何?
最初の2行を、江夏は、繰り返している。言いなおしている。
波打ち際に辿りついて、ここに現れるものは、あらゆる心の複製である。
「ここに現れるもの」とは、1行目の、2度目の「くちびる」であり、「また鮮やかになる」の「また」に含まれている「仮の主語」である。あるいは、「仮の主語」というより、何かを名前で呼ぶという行為そのものかもしれない。
何か、ここに「もの(存在)」がある。それを名づける。名前で呼ぶ。名前で読んだ瞬間、そこには「もの」と「ことば」が同時に存在するのだが、それは何かの運動のなかに組み込むと、消えてしまう。何も残らない。
いや、そうではなく。
残っている。--たとえば、この詩を読みながら、私は、江夏の「ことば」を読んだということをおぼえている。
その「おぼえていること」、それを江夏は「心の複製である」と言っているのか。
あるいは、2度目の「くちびる」、2度目の何か(また、で繰り返された「主語」)を「心の複製である」と言っているのか。
わからないが--つまり、断定はできないが、私は、そう考えはじめている。
そして、「心の複製」を「心がつくりがした複製」というよりも、「心」そのものの「複製」ではないか、と感じはじめている。
--そんなことは、どこにも書いていない。
かもしれない。
でも、そう感じてしまうのだ。
「海は近い」というタイトルを手がかりに、そうして「波打ち際にたどりついて」ということばを手がかりに考えると、江夏は、海へ向かいながら(海へ向けて肉体を動かしていきながら)、そのとき感じた何かをことばにする--そうして、そのとき動いたことばを「心の複製」と感じているということなのか……。
「2」以下は、「心の複製」が繰り返される世界なのか、と私は想像するのである。